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第2章 真実
第10話〜逃避〜(小田桐視点)
しおりを挟む「聖夜さん、本当にいいんですか? 実は……部屋の中が薄暗くてすぐにわからなかったんですけど、確かあの男、相当手癖が悪いって有名な男ですよ」
「……」
――何故それを先に言わない?
まぁ、知っていた所で結果は同じだとは思うが、せめてもの情けで扉くらいは閉めずに帰ると言うのに。
「ああ。ほっときゃいい」
「でも」
「しつこい。俺がいいって言ってるんだ。……さっさと行くぞ」
踵を返し、出口へと向かう俺の後を梨乃は一緒について来るも、心配そうにして何度も後ろを振り返っていた。
基本、少々痛い目を見させるくらいが丁度いいって考えの梨乃だが、珍しくそんな事を言うとなればもしかすると、いやもしかしなくてもこれは相当ヤバいのかも知れない。
自分の尻拭いを人にさせようとする央にキレてつい置いて来てしまったが、そんな話を聞かされた俺は後ろ髪が引かれる思いだった。
「で、では、こちらにサインを」
支配人が慌てて持ってきた伝票にサインをする。本革で出来た伝票ホルダーを支配人の胸元に押し付けると、再び出口のある方に身体を向けた。
一歩踏み出した足はまるで鉛がついているかのように酷く重い。最近知ったとはいえ、俺の血をわけたたった一人の娘が今まさに得体も知れない変な男に食い物にされるのだと思うと、俺の判断は本当にこれで良かったのかと不安に駆られた。
だが、今更後戻りなど出来ない。グッと歯を食いしばり、何てことないのだと平静を装いながら歩き始めた。
「……?」
心なしか店内の喧騒とは少し違ったざわつきを感じる。
「聖夜さん、あれ」
梨乃の言葉に導かれ後ろを振り返ってみると、そこには、ちゃんと良く見えていないのか、しかめっ面でキョロキョロと店内を見回す央の姿があった。俺の姿をその目に捕えた途端ホッとした表情を浮かべている。あの男にでもやられたのか、引き裂かれたドレスの胸元を手繰り寄せ、履いていたヒールを途中で脱ぎ捨てると裸足で俺の元へと駆け寄って来た。
「は? お前、一体どうし――」
「行きましょう! 長居は無用です!」
俺の腕を掴み、ぐいぐいと引っ張り続ける。多少ではあっても酒が入った今の状態で走る気にはなれなかった俺は、まずは何があったか説明しろと央が掴んでいる手を振り解こうとした。
「おい! ちょっと待てって」
「聖夜さん、ここは彼女の言うとおりにした方が」
「は? お前まで……。――?」
梨乃が面白そうに笑いながら指差した方を見ると、央が居たVIPルームに何人かのスタッフが慌てて入って行くのが見える。部屋の中には、丸くうずくまったままで微動だにしないあの男がいた。
「は、早く! でないと私、捕まっちゃう」
こんな大人しそうな奴が一体何をしでかしたのかと、走るどころか棒立ちになる。最終的に梨乃にせっつかれた俺は、三人で走って店を出た。
◇◆◇
俺たちは急いで車に飛び乗ると、すぐさま車を走らせた。ルームミラー越しに見た央は、落ち着かない様子でやたら周囲を気にしていた。
ただでさえ薄い布地のドレスだというのに、裂けてしまっているせいで余計に肌を露出させている。俺はジャケットを脱ぐと、抱き締める様にして両腕を摩る央にそれを手渡した。央はジャケットに視線を落とした後、大きな丸い目で俺の顔をただじっと見つめている。とりあえず受け取ったものの、これをどうすれば良いのかわからないといった顔をしていた。
「それでも着ておけ」
「――あっ、はい。……有難うございます」
やっとわかったのか、央は俺のジャケットに袖を通すと両手で前身ごろを手繰り寄せた。
「お前、一体あの岡本ってやつに何をしたんだ?」
後部座席にいる央に声を掛けると、ビクッと肩を上げた。男に襲われたのが余程怖かったのだろう、自身の腕を抱きしめる様にして交わっている手は、よく見ると小刻みに震えていた。
「その、こう、膝で思いっきり蹴り上げて――」
「……ああ、もういい。大体わかった」
何となく察しはついていたが、こいつがそれを本当にやってのけたのかがにわかに信じ難い。現に、こんなに震えているというのに。
念のため確認のつもりで聞いてみたものの、説明しながら膝を持ち上げる仕草をしたのを見て、聞いているこっちが縮み上がりそうになった。
居場所を誰にも教えず家出をし、あんな高級クラブで働いていただけでも驚きもんだというのに、ちょっと俺が煽っただけでそんな事までやってのけるとは。
「大した玉だな。末恐ろしい」
「??」
「ふふふ」
ドアに肘をつき顎を乗せながらため息交じりに呟く。運転席では梨乃の笑う声が聞こえ、フェンダーミラー越しに映っていた央は自分が見られているという事にも気づかず、わけがわからないと言った顔で首を捻っていた。
「ところで聖夜さん。このまま歩さんのご自宅まで向かいますか?」
「あー……、そうだな」
俺と一緒に逃げたという事は、央もきっとこのまま連れ戻されてもいいと思っているのだろう。俺はそんな風に思っていたが、どうも当の央はそうではないのか、フェンダーミラーに映るあいつは梨乃の言葉を聞いた瞬間、ギョッとした表情をしていた。
「そ、そそそそそれは困ります!」
後部座席を振り返ると、いつの間に移動したのか運転席と助手席の肩部分を掴み、前のめりに身体を倒している。どうしてだと嫌がる理由を問えば、餌を求める池の鯉の様にパクパクと口を開くだけで何も言おうともしない。
「……とりあえず、芳野の家まで――」
「だっ!? ……私降ります! 今すぐ降ろしてください! 今、歩ちゃんに会いたくない!」
焦った央は弾ける様にして元居た場所まで戻ると、走っている車のドアを力づくで開けようとした。当然、開くわけではないものの、力任せにガチャガチャとやってしまえば故障してもおかしくない。
「ちょっ、お前この車を壊す気か? これ、こいつのだぞ」
立てた親指を隣でハンドルを握る梨乃に向ける。当の本人はと言うと涼しげな顔で別段慌てた様子もなく、それどころか逆にニッコリと笑顔を見せた。
「いいんですよ。貴方の“お父様”に弁償して貰えば済む事ですから」
「お前な……」
弁償代がどうこうよりも、梨乃の言う“お父様”という言葉がむず痒くなった。
「だけどどうしてですか? 久々の親子対面、しかもちゃんと家族三人でですよ?」
「だから、……そう言う事言うなよ」
そんな風に言われると変に意識してしまう。今までずっと一人で生きて来たのに、急に家族とか言われるのはなんとも妙な気分だ。
そんな俺とは別の意味で、央は戸惑っている様子だった。
「だって、こんな恰好で歩ちゃんに会ったら何て言われるかわかんない」
「ああ、それもそうだな」
ばっちりメイクをしているだけでなく、あたかも襲われましたと言わんばかりに引き裂かれたこの派手なドレス。しかも足は裸足だ。そんな出で立ちの娘を見たら、芳野はきっと卒倒してしまうだろう。
「はは」
そんなあいつの姿を想像した俺は、自然と笑みが零れ落ちていた。
「んじゃま、とりあえず俺のマンションへ行ってくれ」
「わかりました」
この辺りの道は既に頭に入っているのか、梨乃は手慣れた様子でウィンカーを出した。
「……ところで、央さんは歩さんの事をお母さんって呼ばないんですね」
梨乃がルームミラー越しに央に問いかける。
「え? あ、はい」
芳野の元へ連れていかれると気が気でなかった央から、ふっと力が抜けた。
「――? ああ、それ俺も思った。なんでだ?」
俺も単なる興味本位で聞いただけだったが、央の口から語られたその理由がまさかこんなにも俺の胸を酷く締め付けることになるとは思ってもみなかった。
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