私の主治医さん - 二人と一匹物語 -

鏡野ゆう

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本編

第五話 一人と一匹の緊急避難

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 次の日の午後、さっそく近所の獣医さんに行った。本当は少しでも早く診てもらいたくて、午前の診察時間に間に合うようって思っていたんだけど、無念なことに寝坊してしまったのだ。

 キャラメルは、病院につれていかれることが分かったのか、バスケットの中から出るのを嫌がって、縁に爪を立ててしがみつき、なかなか離れようとしなかった。それでも先生が、手慣れた様子でなだめながら診察台に引っ張り出して、なんとか診察を受けさせることに成功した。

「元気な子だね。食欲も旺盛のようだし、あっと言う間に大きくなるよ」

 先生の話によると、なぜか茶トラは大きくなる子が多いんだそうだ。それと、心配していた寄生虫や耳ダニも、簡単な検査をした限りでは見つからなかった。もしかしたら川の水に浸かった時に、ぜんぶ流れちゃったのかも。

「ノミやダニがつかないようにする、スプレー式のお薬を出しておこうか。ちょっとお高いけど、猫ちゃんにとっては大事なことだからね」
「分かりました」

 お財布的にはちょっと痛かったけど、キャラメルの健康のためだから、もらっておくことにした。これからは、養う家族が一匹増えることになるんだから、今まで以上に頑張って稼がなきゃ。

 キャラメルをバスケットに入れ、先生にお礼を言いながら診察室を出ると、待合室に、カフェの御主人が座っているのを見つけた。横にはペット用のカートがあって、ミニチュアダックス君が、つぶらな瞳でこちらを見上げている。

「こんにちは」
「おや、昨日のお嬢さん。猫ちゃんの診察ですか?」
「はい。野良ちゃんなので、耳ダニや寄生虫がいないか検査してもらってました。今のところ何もついてないって、先生からのお墨つきをいただいたところです」
「それは良かった。猫ちゃんもラッキーだったね、優しい飼い主さんにめぐり逢えて」

 そう言った御主人が少しだけ、心配そうな顔をして私の顔を見つめた。

「大丈夫ですか?」
「はい?」
「顔色が悪いような気がしたものだから。もしかして風邪をひいてるんじゃないかって」
「大丈夫です。ここしばらく寝不足で」
「それはいけないね。これからは猫ちゃんもいることだし、健康には気をつけないと」
「そうですね。今まで以上に気をつけないと。これからは一人と一匹暮らしですから。じゃあ失礼します」

 お薬をもらってお支払いを済ませると、御主人に軽く会釈をして病院を出た。

「あ、そうだ。私の病院の方のお支払いも、しなきゃいけないんだっけ」

 急がなくても良いと言われてはいるものの、いつまでも放っておくのもどうかと思うし、未払いのままだと自分自身が落ち着かない。だけど、今日は何故か、駅向こうまで足を延ばすのが億劫に感じてしまって、どうしても行く気になれない。申し訳ないけど、もう少し待ってもらおう。


+++++


 携帯電話が鳴っている。キャラメルのミルクの時間に鳴るようにしていたアラームじゃないから、電話の着信に違いない。原稿を編集の犬飼いぬかいさんに送ったからその件かな……早く出なきゃ……でも体がだるくて、お布団から手を出すのもおっくうだよ……。

 なんとか音がする方に手をのばして、携帯電話を手にすると、ボタンを押して耳に当てる。

「もしもしー?」
『生きてるか?』
「……誰?」

 犬飼さんの声にしては野太い。って言うか、女性の犬飼さんなのに、電話から聴こえてくるのは、どう考えても男の人の声だ。

東出ひがしでだ』
「東出先生? こんばんは……どうしたんですか? あ、お支払いのことなら、もう少し待っててもらえますか?」
『そんなことはどうでも良い。マスターから聞いたぞ、体調が悪そうだったと。ちゃんと医者に行ったのか?』
「医者って……ところでどうして、先生が私の携帯電話の番号を知ってるんですか?」

 どこかで喋ったかな? ああ、最初に病院に連れて行ってもらった時に、連絡先で書いたかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えながら、暗い部屋の天井を見上げた。いま何時だろう?

『おい、聞いているのか?』
「聞こえてます。なんでお医者さん?」
『……俺が行くまで起きてろ』
「はい?」

 何で?と質問する前に電話は切れていた。首をかしげながら携帯電話を枕元に置くと、なんとか体を起こす。キャラメルは、私が作った寝床で丸くなって寝ている。時計を見れば、ミルクをあげてからさほど時間は経っていない。よっこらしょと掛け声をかけて立ち上がると、部屋の電気をつけた。なんだか頭がクラクラして体が重たい感じがするし、心なしか気持ち悪い……。

「寝不足かな……」

 そう言えば、キャラメルを連れて帰ってから、まともな睡眠時間がとれていないような気がする。頭が痛いのは、そのせいかも……そんなことを考えながら、トイレに行った。

「世の中のお母さんを尊敬しちゃうよ。数時間おきに、赤ちゃんにミルクをあげるなんて」

 私の場合は、人間の赤ちゃんじゃなくて、猫の赤ちゃんだけど。トイレに座ったまま、目を閉じてウトウトしていると、いきなり玄関のチャイムが鳴って飛び上がってしまった。さらに何度か鳴らされたので、慌ててトイレから出て玄関に向かう。

「はい……どちら様?」
「東出だ」
「東出先生?」

 ドアをそっと開けると、本当に先生が立っていた。

「あの……?」

 何の御用ですか?と尋ねる間も無く、いきなり玄関に踏み込んできたかと思ったら、大きな手が私のおでこに触れた。とたんに先生の顔が凶悪な感じになる。

「どうして医者に行かない? ああ、愚問だな、猫がいるからか」
「え? なんでお医者さんに行かなきゃいけないんですか?」

 私の質問に、先生はしばらく黙って私の顔を見ていたけど、やがて大きな溜め息をついた。

「それ以前の問題か……」
「???」
「親は?」
「おや?」
「実家はどこかと聞いている。近いのか?」
「えっと……実家は新潟にいがたです。直線距離にするとそこそこ近い、かな?」

 なんでそんなことを質問するんだろう?

「……」

 先生は、また大きな溜め息をついた。

「あのー……?」
「すまないが、ちょっと上がらせてもらうぞ」
「へ? あの、お茶ぐらいしか出せませんけどどうぞ?」

 よく分からないまま、東出先生に腕をとられて部屋に戻る。電気がついたのとドアチャイムの音で目が覚めてしまったのか、キャラメルが寝床からこっちを見上げて、ミャーミャーと鳴いていた。

「ここに座って」

 そう言って先生は私をベッドに座らせると、その横にキャラメルの寝床を持ってきた。

「ミルクは?」
「えっと冷蔵庫の中に……」

 そう答えると、先生は私を置いてキッチンへと行き、あっという間に、ミルク入りの哺乳瓶を持って戻ってきた。そして哺乳瓶を受け取ると、キャラメルが膝の上にそっと置かれた。

「よく聞いくれ」
「?」

 キャラメルにミルクを飲ませている私の前に、東出先生がしゃがみ込む。

「君は熱がある。それもかなり高い。本来なら、薬を飲んで大人しく寝ていろと言いたいところだが、猫がいるからそう簡単に放置もできん。しかも一人暮らしときたもんだ」
「私、熱があるんですか? ああ、だからこんなにだるいんだ」
「そこまでは理解したな?」
「はい」

 私の返事に、東出先生はよろしいとうなづいた。

「そこで俺はプランAを考えた。実家が近ければそこまで送っていく。そうすれば、君と猫の面倒は御両親がみてくれる。しかしそれは無理だ。君の実家は新潟で、俺は明日も仕事だから。そこでプランBだ」
「先生、車、あるんですか?」
「ある……って言いたいのはそこじゃない。プランBは、君を俺の家に連れて行くことだ」
「先生の家?」

 首をかしげると、ちょっとだけ難しい顔をする。

「あまりいい考えではないがな。少なくとも俺が自宅にいる間は、君と猫の面倒をみることができる。俺が不在な時は友人夫婦に頼むが、まあそこは君にはまだ関係の無いことだから、おって説明をする。どうだ?」
「えっと……言ってることは理解しましたけど……」
「けど?」
「……頭がボンヤリしていて、考えがまとまりません」

 色々と言いたいことがあるはずなのに、うまくまとまらなくて考えるのを諦めた。

「だろうな。熱が下がってからゆっくり考えてくれ。取り敢えず車を呼ぶから、グミだかキャンディーだかの必要なものだけ教えてくれ」
「キャラメルですよ、この子の名前」
「ああ、そうだった」

 先生は生返事をしながら、携帯でどこかに電話をしている。そしして、部屋の隅に置いてあった、使っていない猫砂とトイレを見下ろした。

「これではまだ?」
「まだ自分ではできないから、私がさせてます。そのトイレを使うようになるのは、もうちょっと先かな……」
「ならまだ持っていく必要は無いか」
「今は、ペットシートがあればなんとかなる程度なので、多分」
「そういうものか。俺は猫を飼ったことがないから良く分からないんだ。ああ、西入にしいりに聞けば良いのか、あいつの家には猫がいたな」
「にし……?」
「こっちの話だ。バスケットに入れてやれ」

 キャラメルをバスケットに入れている間に、先生はミルクと哺乳瓶をレジ袋に入れて、私のバッグの中に放り込んだ。

「ここの鍵は?」
「そこの机の上のトレーに」
「これだな。君は上着を着なさい。バッグと猫は俺が持つ」

 言われるがままにコートに袖を通すと、そのまま玄関へと連れて行かれる。

「本来なら抱いていってやりたいが、あいにくと片手がふさがっているから、頑張って自力で下まで降りてくれ」
「大丈夫ですよ、そのぐらい」

 先生は、指さしで部屋の電気が消えているのを確かめると、ドアを閉めて鍵をかけた。ふらつきながら階段を降りると、アパートの前に見たことのあるタクシーが止まっていた。車から降りてきたのは、病院からここまで送ってくれた、あのタクシーの運転手さんだった。

「忙しい時間に申し訳ない」
「いやいや。近くを通っていて良かったですよ。大丈夫ですか?」
「本人は大丈夫だと言っているが、怪しいものだ」

 そんな重症でもないのにと文句を言う私の言葉を、二人ともまったく聞いてくれない。病人にはもう少し優しくしてくれても良いのに……。

 そんなわけで、私とキャラメルはなぜか東出先生のお宅にお邪魔することになったんだけど、そのことがはっきりと理解できるようになったのは、それから三日ほど経ってからのことだった。
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