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東京・横須賀編
第三十一話 師匠から一勝を勝ち取りました
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「篠塚さん、どうかしたんですか?」
「ん? ああ、すまない、なんでもない」
ここしばらく篠塚さんはお稽古に集中していないことが多くなった。ううん、それだけじゃなくて週末に私が横須賀の自宅に遊びに来ている時もどこか上の空な時間が増えた。まあだからと言ってエッチの回数が減ったとかそっちの点はいつも通りで何も変わっていなかったから、体調が悪いとかそういうことじゃないんだと思う。……多分。
「油断してたら私に投げ飛ばされちゃいますよ?」
「……」
ほら、また頭がお留守になっている。もしかしたら今日こそ白星を勝ち取るチャンスかも?
そう考えた私は教えられたとおりに篠塚さんの前に立つと、一歩踏み込んでから大きな体に体当たりをして右足を篠塚さんの右足に引っ掛けるとそのまま押し倒した。あ、いい感じ!!
「?!」
倒れる瞬間に我に返った篠塚さんは瞬時に受け身の態勢をとった。頭がお留守になっていても咄嗟に受け身が出来るのはさすがだとしか言いようがない。だけど私も大柄な篠塚さんを押し倒そうと全体重をかけていたから、倒れないように踏ん張ることは出来なかったみたいでそのまま私を上にしたまま引っ繰り返ってしまった。
「やったー!! 投げ飛ばすまではいかなくても篠塚さんのこと倒せましたよ!」
篠塚さんの上に座ったままバンザイをしてみせる。
「男を押し倒すとはなかなか大胆だな、門真さん」
「なに言ってるんですか、油断大敵ですよ、フフーン」
「なにがフフーンなんだよ」
私が得意げに笑ったのを見て呆れた顔をしてるけど一勝は一勝だ。とにかく陸警隊の篠塚さんを倒せた私、凄い! 偉い! さっそく明日は堅田部長と高島さんに報告しなきゃ!!
「やれやれ。まさか今のが自分の実力だと思ってるんじゃないだろうな?」
「もちろん篠塚さんが油断してたから倒せたってことはちゃんと分かってますよ。でも一勝は一勝でしょ? 痴漢だって油断することあるだろうし」
「俺と痴漢を一緒にするなよ」
篠塚さんはやれやれと言った感じで目を閉じて笑った。ほら、また頭の中が何処かにお出掛けしちゃってる。
「でも篠塚さんがこの手のことで油断するなんて。お正月からこっち変ですよ? ずっと上の空って感じだし」
「そうだったか?」
片目を開けてこっちを見る。
「はい。最初は具合でも悪いのかなって思ってたけどそれは違うみたいだしどうしたのかなってずっと思ってました」
「どうして体調不良じゃないって思ったんだ?」
「え? それはほら、そのう……エッチは相変わらずだし」
私がボソボソと呟くように返事をすると篠塚さんが可笑しそうに笑った。
笑いごとじゃないんだけどな。金曜日の夜に篠塚さんちに遊びに来るようになってから土曜日はお昼までグッタリして動けないってことが圧倒的に多くなったんだもの。お稽古を続けてきたお蔭で体力だって筋力だっ以前よりもずっとついたはずなのにそれっておかしくない?
「……どう説明したらよいものかな」
「ってことはやっぱり何か原因があるんですね?」
珍しく篠塚さんが何か迷っているような顔をした。
「どう切り出したらいいのかずっと迷っていたんだ」
「なにを?」
そのまま黙り込んでしまう。だけど頭の中であれこれと考えているらしいのは分かったから篠塚さんが話し出すのを待つことにする。だけど待っている間もずとこんな風に上に乗っているのも申し訳ないので降りようと体をずらしたところで腰を掴まれて動きを封じられてしまった。
「あの、ここは篠塚さんの職場なのでやめた方が……」
「なに考えてるんだ、そんなことするわけないだろ。そのままでいてくれってことだよ」
あ、そうなんだ。びっくりした。
「けどいつまでも篠塚さんのことを椅子代わりにするわけにもいかないでしょ?」
「もうさんざん抱き枕やベッド代わりにされてるんだ。いまさら椅子代わりが一つ加わったぐらい大したことないだろ?」
「べ、別に私は好きで篠塚さんのことを枕代わりやベッド代わりにしているわけじゃないんですけどね!」
そうなるのも大抵はエッチが凄すぎてそのまま電池が切れたみたいに眠ってしまうからだ。つまりは篠塚さんのせい。私の考えていることが分かったのか見上げている顔が一瞬だけ意地の悪い笑みを浮かべた。そしてその笑みを直ぐに引っ込めて黙り込んでしまう。
「……なあ、門真さん」
それからしばらくの沈黙の時間が流れて篠塚さんがやっと口を開いた。
「なんでしょう?」
「俺が江田島に行くって言ったらどうする?」
「エタジマ…………え?! 今、江田島って言いましたか、篠塚さん!!」
篠塚さんの上に乗ったままなのを忘れて思わず体を乗り出して顔を覗き込む。
「だからそう言ったろ。ていうかあまりモゾモゾ動くな、妙な気分になってくるから」
「降ろしてくれない篠塚さんが悪いんでしょ? って、それより江田島?! 江田島と言えば特別警備隊があるところですよね? もしかしてもしかするんですか?!」
「ああ、隊長から今度こそ推薦を受けろと言われた。それと昨日付で内示も正式に出た」
実際はそんな生易しいものじゃなくて偉い人に囲まれて脅されてだったらしいけど、それを私が知ることになるのはもう少し先のことだ。
「いよいよなんですね?! 凄いじゃないですか!」
「それで良いのか?」
「なにがです?」
意外な質問に首を傾げた。どうして私が良くないと思うと考えたんだろう?
「門真さんは東京、俺は広島、どう考えても毎週会える距離じゃなくなる」
「ああなるほど。だけど単身赴任で毎週こっちから地方に帰っている会社員さんって結構いますよね」
「てことは俺に通えと言ってるのか」
「まさか。そんなことが出来るような生易しいところじゃないのは私も分かってますから」
そこで少しだけ考えてみる。
「だけど私が毎週通うのにも無理がありそうですよね。だって新幹線の往復代だって馬鹿にならないし。自由席じゃなくてせめて指定席には座りたいですもん。東京と広島の往復って幾らぐらいかかるのかな。それを月に四回? 公務員とは言えまだ下っ端だからそれほどお給料をもらっているわけでもないですし、さすがに毎週は痛いかな。……なんです?」
篠塚さんのお腹の辺りがピクピクしだしたので彼が声を出さずに笑っているのが分かった。
「なんだ。どう切り出すか悩むほどのことでもなかったんだな」
「どういうこと?」
「遠距離になっちまうからこのまま付き合っていけるか心配じゃないのかって言いたかったのに、門真さんの問題はその先なんだから」
「新幹線代は馬鹿になりませんよ。けっこう切実な悩みだと思うけど」
うん、本当に。そりゃ単身赴任だけじゃなくてそこそこ遠方から新幹線で通勤している人がいるってのも聞いたことはあるけど、それは会社が交通費を負担してくれるから出来ることであって。
「まあ確かにな。だが俺と付き合い続けてはくれるってことだよな?」
「当り前ですよ。私にあーんなことやこーんなことをしておいてさっさと江田島に逃げ込もうだなんて許しませんから。そんなことしたら兄に頼んで広域指名手配してもらっちゃいますからね。それに!」
「それに?」
「まだ篠塚さんのこと投げ飛ばせてないです。このまま勝ち逃げも許しませんから」
とうとう篠塚さんは声を出して笑い出した。
「まったく門真さんにはかなわないな」
「絶対に勝ち逃げは許しません。まさかそのつもりだったんじゃないでしょうね?」
「自分のカノジョから真っ向勝負を挑まれているんだ。逃げるわけないだろ。だが俺があっちに行ったらあれこれ教えてくれる人間がいなくなるな。ダメだ、長浜も近江も無し、それは却下」
私の考えを読んだのか少しだけ怖い顔をして却下されてしまった。
「じゃあ篠塚さんがあっちに行っちゃったら誰を相手にお稽古したら良いんですか? それこそ毎週末に通わなきゃ上達しないじゃないですか……月一ぐらいなら何とか篠塚さんちに行けるかな、それ以外は筋トレをするとか……?」
更に篠塚さんの笑い声が大きくなる。
「申し訳ないが向こう二年は訓練課程に入るから夏季休暇冬期休暇は別として今みたいに門真さんに合わせて休みをとるのは難しいな」
「そうなんですか?」
「ああ。それにそこでモノにならなければ横須賀に帰されることになるがそんなの門真さんだって望んでないだろ?」
「もちろんですよ。行くからには立派な特別警備隊員になってほしいです。じゃあその訓練課程が終わるまでの二年は投げ飛ばすのも待ってあげますよ。万が一私が今みたいに倒した時に篠塚さんが怪我したら困りますから」
篠塚さんの手が頬に触れた。
「ってことはちゃんと待っていてくれるってことなんだな?」
「筋トレしながらですけどね」
篠塚さんがふと真剣な顔になった。
「なあ汐莉」
「?! な、なんですか、いきなり!!」
いきなりいつもの「門真さん」じゃなくて名前を呼ばれてドキッとしてしまう。もしかして篠塚さんが私の名前を口にしたのは初めてのことなんじゃないだろうか。
「行く前に正式に俺のものになってくれとまでは言わないから、その訓練課程を無事に修了できたら……」
「おーい、二人してお楽しみ中たいへん申し訳ないんだがここは硬派な陸警隊の男達が己の肉体を鍛え上げる場所なんだけどなあ」
コンコンと軽く出入口のドアを叩く音がして長浜さんの声がした。頬に触れていた篠塚さんの手がサッと離れる。そして長浜さんがニヤニヤしながら入ってくると篠塚さんは舌打ちをした。
「篠塚、お前は建前的には勤務中の筈だろうが。なに羨ましいことしてるんだ」
「長浜さん、こんにちは! 聞いて下さい、私、篠塚さんから白星をもぎ取ったんですよ!」
私がそう言うと長浜さんは目を丸くした。
「それって押し倒したの間違いじゃ?」
「押し倒したのは間違いないですけど当身技を使いましたから! 記念すべき一勝です!」
「ってことは真面目に篠塚のことをやっつけたってことか」
「はい! 投げ飛ばすまでには至りませんでしたけど白星は白星、わわわっ」
篠塚さんは腹立たし気に唸るといきなり私のことを抱え込んだまま立ち上がった。そして私を肩に担ぎ上げる。
「今日の稽古は終わりだ」
「また人を米俵みたいに! 私、俵じゃないですってば!」
「分かっているさ。こんなにやかましい俵なんて聞いたことが無い」
そのままノシノシと歩き出した。
「もしかして俺は邪魔しちまったか?」
長浜さんの足が見えたところで篠塚さんが一旦立ち止まる。
「お前が親友じゃなかったら今この場で息の根を止めてる」
「そりゃあ悪かった。じゃあ俺は退散するから心行くまで続きをどうぞ」
「いいや。お蔭でここが何処だったか思い出した。続きは別のところで改めてする。じゃあ俺はこのお嬢さんを送ってくるから」
今の状態は送っていくと言うよりも運んでいくと言った方が相応しいのでは?という私の呟きは完全に無視された。
部屋を出ようとした篠塚さんが立ち止まって振り返った。と言っても私は殆ど床と篠塚さんの足しか見えてないんだけど。
「……ところで何か火急の要件があったわけじゃないよな?」
「ああ。俺がたまたまここに来ただけだ。問題ない。じゃあ門真さん、気をつけて帰ってね」
「……この状態でどこをどう気をつければ?」
「そりゃそうだ。篠塚、安全運転でな」
そういう問題でもない気が~という呟きも完全に無視されてしまった。
「あ、そうだ、篠塚さん」
「なんだ?」
廊下を担がれながら移動している途中で思いついたので提案してみることにする。
「私のお稽古の相手、長浜さんと近江さんが駄目なら大津隊長さんなんてどうでしょう?」
「まったく懲りないな、門真さんは……」
呆れたように笑う篠塚さんに軽くお尻を叩かれてしまった。
「えー、なかなかナイスな提案だと思ったんだけどなあ……」
「俺のいない間、とんでもないことをしでかしそうで今から心配になってきた。もうこの際だ、俺についてくるか?」
「なに言ってるんですか。これから私は頑張って偉くなって篠塚さんに出世払いをしなきゃいけないっていうのに」
自分が言ったこと忘れちゃったんですか?と言ったらそう言えばそうだったなと頷く。
「先はまだまだ長いんだったな」
「そうですよ、先は物凄く長いんですからね」
その時の私はその出世払いのお支払い期間が想像以上に長くなるだなんて思いもしなかったんだけどね。
「ん? ああ、すまない、なんでもない」
ここしばらく篠塚さんはお稽古に集中していないことが多くなった。ううん、それだけじゃなくて週末に私が横須賀の自宅に遊びに来ている時もどこか上の空な時間が増えた。まあだからと言ってエッチの回数が減ったとかそっちの点はいつも通りで何も変わっていなかったから、体調が悪いとかそういうことじゃないんだと思う。……多分。
「油断してたら私に投げ飛ばされちゃいますよ?」
「……」
ほら、また頭がお留守になっている。もしかしたら今日こそ白星を勝ち取るチャンスかも?
そう考えた私は教えられたとおりに篠塚さんの前に立つと、一歩踏み込んでから大きな体に体当たりをして右足を篠塚さんの右足に引っ掛けるとそのまま押し倒した。あ、いい感じ!!
「?!」
倒れる瞬間に我に返った篠塚さんは瞬時に受け身の態勢をとった。頭がお留守になっていても咄嗟に受け身が出来るのはさすがだとしか言いようがない。だけど私も大柄な篠塚さんを押し倒そうと全体重をかけていたから、倒れないように踏ん張ることは出来なかったみたいでそのまま私を上にしたまま引っ繰り返ってしまった。
「やったー!! 投げ飛ばすまではいかなくても篠塚さんのこと倒せましたよ!」
篠塚さんの上に座ったままバンザイをしてみせる。
「男を押し倒すとはなかなか大胆だな、門真さん」
「なに言ってるんですか、油断大敵ですよ、フフーン」
「なにがフフーンなんだよ」
私が得意げに笑ったのを見て呆れた顔をしてるけど一勝は一勝だ。とにかく陸警隊の篠塚さんを倒せた私、凄い! 偉い! さっそく明日は堅田部長と高島さんに報告しなきゃ!!
「やれやれ。まさか今のが自分の実力だと思ってるんじゃないだろうな?」
「もちろん篠塚さんが油断してたから倒せたってことはちゃんと分かってますよ。でも一勝は一勝でしょ? 痴漢だって油断することあるだろうし」
「俺と痴漢を一緒にするなよ」
篠塚さんはやれやれと言った感じで目を閉じて笑った。ほら、また頭の中が何処かにお出掛けしちゃってる。
「でも篠塚さんがこの手のことで油断するなんて。お正月からこっち変ですよ? ずっと上の空って感じだし」
「そうだったか?」
片目を開けてこっちを見る。
「はい。最初は具合でも悪いのかなって思ってたけどそれは違うみたいだしどうしたのかなってずっと思ってました」
「どうして体調不良じゃないって思ったんだ?」
「え? それはほら、そのう……エッチは相変わらずだし」
私がボソボソと呟くように返事をすると篠塚さんが可笑しそうに笑った。
笑いごとじゃないんだけどな。金曜日の夜に篠塚さんちに遊びに来るようになってから土曜日はお昼までグッタリして動けないってことが圧倒的に多くなったんだもの。お稽古を続けてきたお蔭で体力だって筋力だっ以前よりもずっとついたはずなのにそれっておかしくない?
「……どう説明したらよいものかな」
「ってことはやっぱり何か原因があるんですね?」
珍しく篠塚さんが何か迷っているような顔をした。
「どう切り出したらいいのかずっと迷っていたんだ」
「なにを?」
そのまま黙り込んでしまう。だけど頭の中であれこれと考えているらしいのは分かったから篠塚さんが話し出すのを待つことにする。だけど待っている間もずとこんな風に上に乗っているのも申し訳ないので降りようと体をずらしたところで腰を掴まれて動きを封じられてしまった。
「あの、ここは篠塚さんの職場なのでやめた方が……」
「なに考えてるんだ、そんなことするわけないだろ。そのままでいてくれってことだよ」
あ、そうなんだ。びっくりした。
「けどいつまでも篠塚さんのことを椅子代わりにするわけにもいかないでしょ?」
「もうさんざん抱き枕やベッド代わりにされてるんだ。いまさら椅子代わりが一つ加わったぐらい大したことないだろ?」
「べ、別に私は好きで篠塚さんのことを枕代わりやベッド代わりにしているわけじゃないんですけどね!」
そうなるのも大抵はエッチが凄すぎてそのまま電池が切れたみたいに眠ってしまうからだ。つまりは篠塚さんのせい。私の考えていることが分かったのか見上げている顔が一瞬だけ意地の悪い笑みを浮かべた。そしてその笑みを直ぐに引っ込めて黙り込んでしまう。
「……なあ、門真さん」
それからしばらくの沈黙の時間が流れて篠塚さんがやっと口を開いた。
「なんでしょう?」
「俺が江田島に行くって言ったらどうする?」
「エタジマ…………え?! 今、江田島って言いましたか、篠塚さん!!」
篠塚さんの上に乗ったままなのを忘れて思わず体を乗り出して顔を覗き込む。
「だからそう言ったろ。ていうかあまりモゾモゾ動くな、妙な気分になってくるから」
「降ろしてくれない篠塚さんが悪いんでしょ? って、それより江田島?! 江田島と言えば特別警備隊があるところですよね? もしかしてもしかするんですか?!」
「ああ、隊長から今度こそ推薦を受けろと言われた。それと昨日付で内示も正式に出た」
実際はそんな生易しいものじゃなくて偉い人に囲まれて脅されてだったらしいけど、それを私が知ることになるのはもう少し先のことだ。
「いよいよなんですね?! 凄いじゃないですか!」
「それで良いのか?」
「なにがです?」
意外な質問に首を傾げた。どうして私が良くないと思うと考えたんだろう?
「門真さんは東京、俺は広島、どう考えても毎週会える距離じゃなくなる」
「ああなるほど。だけど単身赴任で毎週こっちから地方に帰っている会社員さんって結構いますよね」
「てことは俺に通えと言ってるのか」
「まさか。そんなことが出来るような生易しいところじゃないのは私も分かってますから」
そこで少しだけ考えてみる。
「だけど私が毎週通うのにも無理がありそうですよね。だって新幹線の往復代だって馬鹿にならないし。自由席じゃなくてせめて指定席には座りたいですもん。東京と広島の往復って幾らぐらいかかるのかな。それを月に四回? 公務員とは言えまだ下っ端だからそれほどお給料をもらっているわけでもないですし、さすがに毎週は痛いかな。……なんです?」
篠塚さんのお腹の辺りがピクピクしだしたので彼が声を出さずに笑っているのが分かった。
「なんだ。どう切り出すか悩むほどのことでもなかったんだな」
「どういうこと?」
「遠距離になっちまうからこのまま付き合っていけるか心配じゃないのかって言いたかったのに、門真さんの問題はその先なんだから」
「新幹線代は馬鹿になりませんよ。けっこう切実な悩みだと思うけど」
うん、本当に。そりゃ単身赴任だけじゃなくてそこそこ遠方から新幹線で通勤している人がいるってのも聞いたことはあるけど、それは会社が交通費を負担してくれるから出来ることであって。
「まあ確かにな。だが俺と付き合い続けてはくれるってことだよな?」
「当り前ですよ。私にあーんなことやこーんなことをしておいてさっさと江田島に逃げ込もうだなんて許しませんから。そんなことしたら兄に頼んで広域指名手配してもらっちゃいますからね。それに!」
「それに?」
「まだ篠塚さんのこと投げ飛ばせてないです。このまま勝ち逃げも許しませんから」
とうとう篠塚さんは声を出して笑い出した。
「まったく門真さんにはかなわないな」
「絶対に勝ち逃げは許しません。まさかそのつもりだったんじゃないでしょうね?」
「自分のカノジョから真っ向勝負を挑まれているんだ。逃げるわけないだろ。だが俺があっちに行ったらあれこれ教えてくれる人間がいなくなるな。ダメだ、長浜も近江も無し、それは却下」
私の考えを読んだのか少しだけ怖い顔をして却下されてしまった。
「じゃあ篠塚さんがあっちに行っちゃったら誰を相手にお稽古したら良いんですか? それこそ毎週末に通わなきゃ上達しないじゃないですか……月一ぐらいなら何とか篠塚さんちに行けるかな、それ以外は筋トレをするとか……?」
更に篠塚さんの笑い声が大きくなる。
「申し訳ないが向こう二年は訓練課程に入るから夏季休暇冬期休暇は別として今みたいに門真さんに合わせて休みをとるのは難しいな」
「そうなんですか?」
「ああ。それにそこでモノにならなければ横須賀に帰されることになるがそんなの門真さんだって望んでないだろ?」
「もちろんですよ。行くからには立派な特別警備隊員になってほしいです。じゃあその訓練課程が終わるまでの二年は投げ飛ばすのも待ってあげますよ。万が一私が今みたいに倒した時に篠塚さんが怪我したら困りますから」
篠塚さんの手が頬に触れた。
「ってことはちゃんと待っていてくれるってことなんだな?」
「筋トレしながらですけどね」
篠塚さんがふと真剣な顔になった。
「なあ汐莉」
「?! な、なんですか、いきなり!!」
いきなりいつもの「門真さん」じゃなくて名前を呼ばれてドキッとしてしまう。もしかして篠塚さんが私の名前を口にしたのは初めてのことなんじゃないだろうか。
「行く前に正式に俺のものになってくれとまでは言わないから、その訓練課程を無事に修了できたら……」
「おーい、二人してお楽しみ中たいへん申し訳ないんだがここは硬派な陸警隊の男達が己の肉体を鍛え上げる場所なんだけどなあ」
コンコンと軽く出入口のドアを叩く音がして長浜さんの声がした。頬に触れていた篠塚さんの手がサッと離れる。そして長浜さんがニヤニヤしながら入ってくると篠塚さんは舌打ちをした。
「篠塚、お前は建前的には勤務中の筈だろうが。なに羨ましいことしてるんだ」
「長浜さん、こんにちは! 聞いて下さい、私、篠塚さんから白星をもぎ取ったんですよ!」
私がそう言うと長浜さんは目を丸くした。
「それって押し倒したの間違いじゃ?」
「押し倒したのは間違いないですけど当身技を使いましたから! 記念すべき一勝です!」
「ってことは真面目に篠塚のことをやっつけたってことか」
「はい! 投げ飛ばすまでには至りませんでしたけど白星は白星、わわわっ」
篠塚さんは腹立たし気に唸るといきなり私のことを抱え込んだまま立ち上がった。そして私を肩に担ぎ上げる。
「今日の稽古は終わりだ」
「また人を米俵みたいに! 私、俵じゃないですってば!」
「分かっているさ。こんなにやかましい俵なんて聞いたことが無い」
そのままノシノシと歩き出した。
「もしかして俺は邪魔しちまったか?」
長浜さんの足が見えたところで篠塚さんが一旦立ち止まる。
「お前が親友じゃなかったら今この場で息の根を止めてる」
「そりゃあ悪かった。じゃあ俺は退散するから心行くまで続きをどうぞ」
「いいや。お蔭でここが何処だったか思い出した。続きは別のところで改めてする。じゃあ俺はこのお嬢さんを送ってくるから」
今の状態は送っていくと言うよりも運んでいくと言った方が相応しいのでは?という私の呟きは完全に無視された。
部屋を出ようとした篠塚さんが立ち止まって振り返った。と言っても私は殆ど床と篠塚さんの足しか見えてないんだけど。
「……ところで何か火急の要件があったわけじゃないよな?」
「ああ。俺がたまたまここに来ただけだ。問題ない。じゃあ門真さん、気をつけて帰ってね」
「……この状態でどこをどう気をつければ?」
「そりゃそうだ。篠塚、安全運転でな」
そういう問題でもない気が~という呟きも完全に無視されてしまった。
「あ、そうだ、篠塚さん」
「なんだ?」
廊下を担がれながら移動している途中で思いついたので提案してみることにする。
「私のお稽古の相手、長浜さんと近江さんが駄目なら大津隊長さんなんてどうでしょう?」
「まったく懲りないな、門真さんは……」
呆れたように笑う篠塚さんに軽くお尻を叩かれてしまった。
「えー、なかなかナイスな提案だと思ったんだけどなあ……」
「俺のいない間、とんでもないことをしでかしそうで今から心配になってきた。もうこの際だ、俺についてくるか?」
「なに言ってるんですか。これから私は頑張って偉くなって篠塚さんに出世払いをしなきゃいけないっていうのに」
自分が言ったこと忘れちゃったんですか?と言ったらそう言えばそうだったなと頷く。
「先はまだまだ長いんだったな」
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その時の私はその出世払いのお支払い期間が想像以上に長くなるだなんて思いもしなかったんだけどね。
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