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本編
第二話 先生のお知り合い 1
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幸太郎先生の私設秘書になって一ヶ月。
秘書と言っても、今のところやることと言ったら、以前の職場と似たような事務関係の仕事が多い。地元の後援会の人達との話し合いの他には、会計士の先生と出納帳簿におかしなところはないか、記入漏れがないかなどの確認だったり。その点は、民間企業よりも数段神経質な感じはする。ま、税金を使ってるんだから当然と言えば当然よね。
そして一番年下ということもあって、雑用なども私の仕事。皆さんにお茶出したり、お使いを頼まれて近くの商店街に行ったり。法律がより密接に絡んでくるだけで、事務所内に限っては、それほど民間企業とかけ離れている仕事があるってわけじゃないみたい。
「あ、そうだ。お茶っ葉が切れそうなんで買ってきますね。なにか他にいるものあります?」
そう声をかけると、商店街にある和菓子屋さんの葛饅頭が食べたいとか、いやそれよりその向こう隣にあるケーキ屋のモンブランだとか、いやいやそこは通り向こうのドラ焼きでしょうとか。みんな、食べるものばっかりじゃん!! 領収書が食べ物屋さんばっかりで、重光議員の事務所の人は飢えているのか?って思われても知りませんよ?
「だって事務用品は通販で買うし、そのへんでしか御近所で買うものってないでしょ?」
そう言ったのは、経理担当の美月さん。美月さんは、おじさんが国会議員をしている頃からここで働いている最古参のスタッフさん。なにか分からないことがあった時は、美月さんにたずねれば大体のことは解決するという重光事務所の生き字引様だ。生き字引だなんて年寄り臭くて嫌だって、本人は言ってるけどね。
「そりゃそうですけど。食べるもの以外に、なにか思い浮かびませんかー?」
「「「うかびませーん」」」
はあ……しかたないなあ。事務所の外に出ると、商店街のほうへと歩いていく。実のところ、お茶だって通販のほうが安いんだよね。だから経費節減という観点からすれば、これってけっこうな無駄遣い。だけど地元のお店の物を買うことも大事だし、その時に色々とお話を聞いておくのもちゃんとしたお仕事だっていうのが、前任者のミヤビさんからのアドバイスだった。出過ぎたことはしちゃ駄目だけど、常にアンテナは張っておきなさいってことらしい。
「おや、いらっしゃい、いつものお茶で良いのかな」
事務所で使うお茶はここ、桜木茶舗さんで購入することになっている。個人商店で、古くからこの商店街にお店をかまえていて、たしか今の御主人で六代目とか。なぜか、通り向こうにある篠宮酒店さんの御主人の次に情報通な人なのだ。
「はい、お願いします」
「ところで仕事は慣れたかい?」
「まあまあです。まだ下っ端なので、大事な仕事を任されることも無いですし」
「そのほうが気楽で良いでしょ? 政治家先生の世界なんて、分からないことだらけだし」
たしかに、知らないほうが幸せだよっていうことありそうだよね。幸いなことに、まだそんな緊急事態に遭遇したことないけどさ。もちろん、これからもそんなことには遭遇したくない。
お財布からお金を出そうとしたところで、ポケットに入れてきた携帯がプルプルと震えた。メールじゃなくて電話みたいだ。慌ててポケットから出すと相手は杉下さん。え、まさかの緊急事態?
「もしもし、お待たせしました」
「すみません。久遠さん、いまどこにいますか?」
「今ですか? 商店街の桜木茶舗さんに来てますけど」
「喪服、ありますか?」
「喪服、ですか? 自宅にあると思いますけど……どなたかご不幸でも?」
お茶を受け取って、代金を払いながら首をかしげた。
「先生のお知り合いなんですが、そのかたの奥様がお亡くなりになりまして。お身内がおられないと言うことなので、葬儀のお手伝いに行っていただけないかと」
「わかりました。一度、事務所に戻ってから、喪服を取りに戻ります。場所は……」
「事務所で待っていてください、そちらに向かっているので」
「急いで戻ります」
幸太郎先生は本会議中。その途中で杉下さんが戻ってくるなんて、よほど大事なお知り合いらしい。……まさか想いを寄せてる人妻? いやいや、そんな不謹慎なことを考えている場合じゃないよ。急いで戻らなくちゃ。葛饅頭もモンブランも無し!
事務所に戻ってから三十分ほどして、杉下さんが戻ってきた。先生のことは、第二秘書の倉島さんに任せてきたらしい。ちなみに議員会館には、政策秘書の竹野内《たけのうち》さんや他のスタッフさんも詰めているから問題ないと聞いて一安心。でも、杉下さんが動くってことは、やっぱり相当大事な人なんだよね?
「私だけで大丈夫でしょうか?」
「美月さんにもお願いしてますから、大丈夫ですよ。それに葬儀社の人もいますからね」
葛饅頭がキャンセルされてしまって、ちょっとガッカリしているスタッフのみなさんを置いて、私と美月さんは杉下さんが運転する車に乗り込んだ。そしてそれぞれの自宅に寄ってもらい、喪服一式を用意して葬儀場へと向かう。
その途中で、これからお手伝いするかたのことを簡単に聞かせてもらう。亡くなったかたの旦那さんは陸上自衛隊の人で、幸太郎先生が防衛副大臣をしている時にお知り合いになった人らしい。今は個人的にも親しくしている隊員さんなんだそうだ。最近になって、体調を崩した奥さんが入院することになったらしいんだけど、どうやら癌だったらしく、入院した時にはすでに手のほどこしようがなかったとか。
「先生も、本会議が終わり次第に顔を出すとのことですから。それまでは二人で臨機応変にお願いします」
「わかりました」
葬儀場につくと、私と美月さんは控え室で着替えさせてもらい、会場へと移動した。棺の横には、制服を着た旦那さんと思しき人が、こちらに背を向けて座っている。ガックリと肩を落とした様子がなんとも気の毒で、声をかけるのもはばかられる感じだ。御挨拶しておかなくちゃって思ったけれど、声がかけづらい。どうしよう……。
「私が話をしてくるので、来られたかたに出すお茶の用意などをお願いできますか。あちらに葬儀場のスタッフさんがいますから、不明なことがあればそちらに」
その言葉にホッとして、私達はお通夜の用意をするスタッフさん達のところへ向かった。お茶の用意をしながら、杉下さんが向かったほうに目を向けると、ちょうど背中を向けていた旦那さんに話しかけているところだった。杉下さんが相手の肩に手を置いてなにか話していて、旦那さんがチラリとこちらに目を向けた。目が合ってしまったので軽く会釈だけすると、そのまま手伝いにとりかかった。こういう時になんだけど、ちょっと目つきが怖かったよ……。
+++++
お通夜が始まると、自衛隊の関係者らしい人達がひっきりなしに弔問に訪れた。見た感じ幸太郎先生より若く見えるのに、もしかして、自衛隊の中では偉い人なのかな旦那さん。何人かの制服を着た人達が、旦那さんを囲んで話をしているし。
「ねえ美月さん、森永さんのところ御親族はいらっしゃらないんですかね。今のところ、それっぽい人が訪問された感じがないんですけれど」
「そうなのよね、私も変だなって思ってたんだけど。御両親もみえてないのよね……」
杉下さんも、森永さんには身内がいないと言っていたし、どうやらお子さんもいないみたいだ。人それぞれ事情があるとは思うんだけど、なんだか寂しいよね、家族が誰もお通夜にも来てくれないなんて。そしてお通夜の時間も終わりかけのころになって、ようやく幸太郎先生が到着した。こちらに視線を向けて軽くうなずくと、真っ直ぐ旦那さんが座っている場所へと向かう。
「先生がわざわざお通夜にまで顔を出すってことは、本当に親しいのね」
「美月さんは御存知なかったんですか?」
「ええ。若先生って、プライベートなことはあまり私達にはお話にならないのよ」
「へえ……」
つまりあの自衛官さんは、個人的なお知り合いってことなのか。しばらくして、幸太郎先生がこちらにやってきた。
「急なことなのにすまなかったね」
「いえ。ところで、一緒に座ってあげてたほうが良いんじゃないですか?」
「ん?」
「森永さん。身内のかたが一人もいらっしゃらないようだし。先生は親族じゃないけど、親しいんですよね?」
「俺が議員でなければそうしてやりたいんだが。いろいろと問題になるから」
「面倒臭いですね、国会議員って……」
私の言葉に、しかたがないよって肩をすくめてみせる先生。
「またあちらに戻られるんですか?」
「うん……そうだな、夕飯食べてから戻ろうと思うんだ。夕飯は食べたかい?」
「いえ、こっちが一段落したらって」
「美月さんも?」
「多分そうだと思いますよ、さっきまで一緒にいましたから」
ここで待っていてくれと私に言い残すと、幸太郎先生は美月さんを捜しに行ってしまった。しばらくして戻って来た先生は、ちょっと困惑気味な顔をしている。そしてその手には、私が控え室に置いておいたバッグと、着替えの入った紙袋がぶら下がっていた。
「美月さんが、こっちはもう終わりそうだから、先に帰ってくれて良いよって、俺に荷物を押しつけてきたんだが」
「え、だけど美月さんを置いて帰れないでしょ? 私と美月さん、杉下さんの車に、一緒に乗せてもらって来たわけですし」
「ここには倉島の車で来て、駐車場で待機してくれているからそれは問題ない。美月さんは杉下が送ってくれる」
「なるほど」
考えてみれば、幸太郎先生がここまで電車を乗り継いでくるはずないものね。美月さんの帰りの足を心配しなくて良いとわかって安心する。
「森永さんに挨拶しなくても良いでしょうか?」
「うん。あいつには、落ち着いてからあらためて紹介するよ」
美月さんと杉下さんに先に帰ることをお詫びして、先生と二人で会場を出た。駐車場に行くと、倉島さんが運転する車がこちらに来て、目の前で止まる。助手席のドアを開けようとしたら、幸太郎先生はそれを制して、後ろのドアを開けてどうぞ?って言ってくれた。いやいや、それなにか間違ってます、先生。
「え? いや、それは申し訳なくて……」
「良いから良いから。早く乗らないと後ろがつかえる」
「でも」
「ほら、車が来た、さっさと乗って」
「……」
急かされるようにして後ろのシートに滑り込んだ。
「なんだか納得いかないんですけど」
「なにが?」
「んー……今の」
「女性のためにドアを開けるのって普通じゃないのかな。なあ倉島?」
「そうですね、普通だと思いますが?」
「ほらね」
「ほらねって……」
それは普通の女性の場合はってことよね。私は幸太郎先生の秘書なんですよ? なんかやっぱりなにか変だと思うんだけどな……。
秘書と言っても、今のところやることと言ったら、以前の職場と似たような事務関係の仕事が多い。地元の後援会の人達との話し合いの他には、会計士の先生と出納帳簿におかしなところはないか、記入漏れがないかなどの確認だったり。その点は、民間企業よりも数段神経質な感じはする。ま、税金を使ってるんだから当然と言えば当然よね。
そして一番年下ということもあって、雑用なども私の仕事。皆さんにお茶出したり、お使いを頼まれて近くの商店街に行ったり。法律がより密接に絡んでくるだけで、事務所内に限っては、それほど民間企業とかけ離れている仕事があるってわけじゃないみたい。
「あ、そうだ。お茶っ葉が切れそうなんで買ってきますね。なにか他にいるものあります?」
そう声をかけると、商店街にある和菓子屋さんの葛饅頭が食べたいとか、いやそれよりその向こう隣にあるケーキ屋のモンブランだとか、いやいやそこは通り向こうのドラ焼きでしょうとか。みんな、食べるものばっかりじゃん!! 領収書が食べ物屋さんばっかりで、重光議員の事務所の人は飢えているのか?って思われても知りませんよ?
「だって事務用品は通販で買うし、そのへんでしか御近所で買うものってないでしょ?」
そう言ったのは、経理担当の美月さん。美月さんは、おじさんが国会議員をしている頃からここで働いている最古参のスタッフさん。なにか分からないことがあった時は、美月さんにたずねれば大体のことは解決するという重光事務所の生き字引様だ。生き字引だなんて年寄り臭くて嫌だって、本人は言ってるけどね。
「そりゃそうですけど。食べるもの以外に、なにか思い浮かびませんかー?」
「「「うかびませーん」」」
はあ……しかたないなあ。事務所の外に出ると、商店街のほうへと歩いていく。実のところ、お茶だって通販のほうが安いんだよね。だから経費節減という観点からすれば、これってけっこうな無駄遣い。だけど地元のお店の物を買うことも大事だし、その時に色々とお話を聞いておくのもちゃんとしたお仕事だっていうのが、前任者のミヤビさんからのアドバイスだった。出過ぎたことはしちゃ駄目だけど、常にアンテナは張っておきなさいってことらしい。
「おや、いらっしゃい、いつものお茶で良いのかな」
事務所で使うお茶はここ、桜木茶舗さんで購入することになっている。個人商店で、古くからこの商店街にお店をかまえていて、たしか今の御主人で六代目とか。なぜか、通り向こうにある篠宮酒店さんの御主人の次に情報通な人なのだ。
「はい、お願いします」
「ところで仕事は慣れたかい?」
「まあまあです。まだ下っ端なので、大事な仕事を任されることも無いですし」
「そのほうが気楽で良いでしょ? 政治家先生の世界なんて、分からないことだらけだし」
たしかに、知らないほうが幸せだよっていうことありそうだよね。幸いなことに、まだそんな緊急事態に遭遇したことないけどさ。もちろん、これからもそんなことには遭遇したくない。
お財布からお金を出そうとしたところで、ポケットに入れてきた携帯がプルプルと震えた。メールじゃなくて電話みたいだ。慌ててポケットから出すと相手は杉下さん。え、まさかの緊急事態?
「もしもし、お待たせしました」
「すみません。久遠さん、いまどこにいますか?」
「今ですか? 商店街の桜木茶舗さんに来てますけど」
「喪服、ありますか?」
「喪服、ですか? 自宅にあると思いますけど……どなたかご不幸でも?」
お茶を受け取って、代金を払いながら首をかしげた。
「先生のお知り合いなんですが、そのかたの奥様がお亡くなりになりまして。お身内がおられないと言うことなので、葬儀のお手伝いに行っていただけないかと」
「わかりました。一度、事務所に戻ってから、喪服を取りに戻ります。場所は……」
「事務所で待っていてください、そちらに向かっているので」
「急いで戻ります」
幸太郎先生は本会議中。その途中で杉下さんが戻ってくるなんて、よほど大事なお知り合いらしい。……まさか想いを寄せてる人妻? いやいや、そんな不謹慎なことを考えている場合じゃないよ。急いで戻らなくちゃ。葛饅頭もモンブランも無し!
事務所に戻ってから三十分ほどして、杉下さんが戻ってきた。先生のことは、第二秘書の倉島さんに任せてきたらしい。ちなみに議員会館には、政策秘書の竹野内《たけのうち》さんや他のスタッフさんも詰めているから問題ないと聞いて一安心。でも、杉下さんが動くってことは、やっぱり相当大事な人なんだよね?
「私だけで大丈夫でしょうか?」
「美月さんにもお願いしてますから、大丈夫ですよ。それに葬儀社の人もいますからね」
葛饅頭がキャンセルされてしまって、ちょっとガッカリしているスタッフのみなさんを置いて、私と美月さんは杉下さんが運転する車に乗り込んだ。そしてそれぞれの自宅に寄ってもらい、喪服一式を用意して葬儀場へと向かう。
その途中で、これからお手伝いするかたのことを簡単に聞かせてもらう。亡くなったかたの旦那さんは陸上自衛隊の人で、幸太郎先生が防衛副大臣をしている時にお知り合いになった人らしい。今は個人的にも親しくしている隊員さんなんだそうだ。最近になって、体調を崩した奥さんが入院することになったらしいんだけど、どうやら癌だったらしく、入院した時にはすでに手のほどこしようがなかったとか。
「先生も、本会議が終わり次第に顔を出すとのことですから。それまでは二人で臨機応変にお願いします」
「わかりました」
葬儀場につくと、私と美月さんは控え室で着替えさせてもらい、会場へと移動した。棺の横には、制服を着た旦那さんと思しき人が、こちらに背を向けて座っている。ガックリと肩を落とした様子がなんとも気の毒で、声をかけるのもはばかられる感じだ。御挨拶しておかなくちゃって思ったけれど、声がかけづらい。どうしよう……。
「私が話をしてくるので、来られたかたに出すお茶の用意などをお願いできますか。あちらに葬儀場のスタッフさんがいますから、不明なことがあればそちらに」
その言葉にホッとして、私達はお通夜の用意をするスタッフさん達のところへ向かった。お茶の用意をしながら、杉下さんが向かったほうに目を向けると、ちょうど背中を向けていた旦那さんに話しかけているところだった。杉下さんが相手の肩に手を置いてなにか話していて、旦那さんがチラリとこちらに目を向けた。目が合ってしまったので軽く会釈だけすると、そのまま手伝いにとりかかった。こういう時になんだけど、ちょっと目つきが怖かったよ……。
+++++
お通夜が始まると、自衛隊の関係者らしい人達がひっきりなしに弔問に訪れた。見た感じ幸太郎先生より若く見えるのに、もしかして、自衛隊の中では偉い人なのかな旦那さん。何人かの制服を着た人達が、旦那さんを囲んで話をしているし。
「ねえ美月さん、森永さんのところ御親族はいらっしゃらないんですかね。今のところ、それっぽい人が訪問された感じがないんですけれど」
「そうなのよね、私も変だなって思ってたんだけど。御両親もみえてないのよね……」
杉下さんも、森永さんには身内がいないと言っていたし、どうやらお子さんもいないみたいだ。人それぞれ事情があるとは思うんだけど、なんだか寂しいよね、家族が誰もお通夜にも来てくれないなんて。そしてお通夜の時間も終わりかけのころになって、ようやく幸太郎先生が到着した。こちらに視線を向けて軽くうなずくと、真っ直ぐ旦那さんが座っている場所へと向かう。
「先生がわざわざお通夜にまで顔を出すってことは、本当に親しいのね」
「美月さんは御存知なかったんですか?」
「ええ。若先生って、プライベートなことはあまり私達にはお話にならないのよ」
「へえ……」
つまりあの自衛官さんは、個人的なお知り合いってことなのか。しばらくして、幸太郎先生がこちらにやってきた。
「急なことなのにすまなかったね」
「いえ。ところで、一緒に座ってあげてたほうが良いんじゃないですか?」
「ん?」
「森永さん。身内のかたが一人もいらっしゃらないようだし。先生は親族じゃないけど、親しいんですよね?」
「俺が議員でなければそうしてやりたいんだが。いろいろと問題になるから」
「面倒臭いですね、国会議員って……」
私の言葉に、しかたがないよって肩をすくめてみせる先生。
「またあちらに戻られるんですか?」
「うん……そうだな、夕飯食べてから戻ろうと思うんだ。夕飯は食べたかい?」
「いえ、こっちが一段落したらって」
「美月さんも?」
「多分そうだと思いますよ、さっきまで一緒にいましたから」
ここで待っていてくれと私に言い残すと、幸太郎先生は美月さんを捜しに行ってしまった。しばらくして戻って来た先生は、ちょっと困惑気味な顔をしている。そしてその手には、私が控え室に置いておいたバッグと、着替えの入った紙袋がぶら下がっていた。
「美月さんが、こっちはもう終わりそうだから、先に帰ってくれて良いよって、俺に荷物を押しつけてきたんだが」
「え、だけど美月さんを置いて帰れないでしょ? 私と美月さん、杉下さんの車に、一緒に乗せてもらって来たわけですし」
「ここには倉島の車で来て、駐車場で待機してくれているからそれは問題ない。美月さんは杉下が送ってくれる」
「なるほど」
考えてみれば、幸太郎先生がここまで電車を乗り継いでくるはずないものね。美月さんの帰りの足を心配しなくて良いとわかって安心する。
「森永さんに挨拶しなくても良いでしょうか?」
「うん。あいつには、落ち着いてからあらためて紹介するよ」
美月さんと杉下さんに先に帰ることをお詫びして、先生と二人で会場を出た。駐車場に行くと、倉島さんが運転する車がこちらに来て、目の前で止まる。助手席のドアを開けようとしたら、幸太郎先生はそれを制して、後ろのドアを開けてどうぞ?って言ってくれた。いやいや、それなにか間違ってます、先生。
「え? いや、それは申し訳なくて……」
「良いから良いから。早く乗らないと後ろがつかえる」
「でも」
「ほら、車が来た、さっさと乗って」
「……」
急かされるようにして後ろのシートに滑り込んだ。
「なんだか納得いかないんですけど」
「なにが?」
「んー……今の」
「女性のためにドアを開けるのって普通じゃないのかな。なあ倉島?」
「そうですね、普通だと思いますが?」
「ほらね」
「ほらねって……」
それは普通の女性の場合はってことよね。私は幸太郎先生の秘書なんですよ? なんかやっぱりなにか変だと思うんだけどな……。
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