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【後日談2】トロワ・メートル
34.アルパチさんが来る時は……
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北海道の早い夕暮れ、白い雪を被り結氷した湖面と冠雪をしている駒ヶ岳が茜に染まっていた。
「ああ、何度来てもいいですね。二ヶ月に一度、視察といいながら、私がちょっと心を休めるためにも来ているようなものです」
社長がうっとりと大窓に映る大沼国定公園の景観を堪能している間に、葉子は厨房へとホットワインの準備に向かう。
『次に矢嶋社長が来た時に試してもらいましょうね』――。甲斐チーフと一緒に、ホットワインのレシピに取り組んだ。厨房で葉子自ら、そのホットワインを準備する。
レース模様がある銀色のホルダーにはめ込んだガラスコップに入れてホールまで。ホールには照明がつき始めたが、矢嶋社長はまだ大窓の向こうに見える夕暮れを見つめていた。
「ヴァンショーです」
「ああ、ありがとう。いい香りだ。おいしそうですね。材料はなんでしょう」
「ホットワインには柑橘類の果汁を使われることが多いのですが、七飯町産の林檎をつけ込んでいます。あとはシナモンとクローブ、そしてハチミツです」
「なるほど。特産を活かしたわけですね。七飯町は西洋の林檎が初めて栽培された土地なのですよね」
社長がそこで、銀の取っ手を握ってグラスを口元まで。一口味わっている様子を、葉子も固唾を飲んで待つ。
「うん、美味いです。試しに出してみましょう。女性客に喜ばれると思います。雪の中、こちらにやっと辿り着いてホッとする一杯になるでしょう。それにクリスマスらしさが増すと思います」
社長の許可が出て、葉子もホッとする。これでアペリティフのメニューに加えることが出来そうだった。
「神戸でも出してみようかな。支店の大沼で出している北海道メニューとして。うん、やってみよう」
ほら。なんでもすぐにお商売にしちゃうんだと、葉子はついクスリと微笑んでしまっていた。
そんな葉子を矢嶋社長がテーブル席から見つめていることに気がつき、姿勢を改める。
「ここでひと息つきましたら、給仕長室に、篠田とお父様に揃って来るように伝えていただけますか」
「はい、かしこまりました」
途端に、矢嶋社長の表情から穏やかさが消えた。ヴァンショーをおいしそうに味わっていても、もう、なにかを決断されているかのような……。
いつも葉子には優しくおおらかなおじ様だけれど、こんなときは、雇い先の社長として遠く感じる。
言われた通りに厨房にいる父と、給仕長室で事務仕事をしていた蒼に伝える。
十五分ほど、ヴァンショーですっかり温まったよと葉子に笑顔を見せてくれた社長は、また険しい眼になって、給仕長室へと入っていった。
蒼はもともとそこにいたので、後から父が入室して、その扉が固く閉ざされた。
神楽君も様子がおかしいことに気がついたのか、葉子の元へやってきた。
「なんだろう。先月来たばかりだったのに。この店になにかあったのかな」
「そんな感じではなかったよ。こちらも順調だと笑顔で言っていたもの」
若いふたりで首を傾げていた。
「そろそろお客様が来店されますよ」
お喋りをしている若い二人に、甲斐チーフが気を引き締めるよう声をかけてきた。
二人揃って、少し焦ってその場を離れる。それぞれの持ち場に戻った。
心なしか甲斐チーフも表情が硬く見える? 矢嶋社長が来たから?
その日のディナーも、いつも視察に来るとき同様に、矢嶋社長がチェックするための食事をした。
ディナータイム終了。フレンチ十和田、本日閉店を迎える。
片付けを始めようとした時に、蒼が葉子を給仕長室へと呼んだ。
妙な胸騒ぎを覚えながら、葉子は蒼に連れられて、給仕長室に入った。
「なんでしょう。給仕長」
「あ、いいよ。夫と妻に戻って」
仕事の声から、夫の声に変わっていることを知り、葉子も緊張している表情を少しだけ緩めた。
「矢嶋社長となにか話していたんだよね」
「うん。やり手の社長さんだから、動くと迅速で、こっちも従うしかなくてね」
従うしかなくて? 動くと迅速で? もう動いちゃっているということ? なにかが変わるんだという恐れが、一気に葉子に襲ってきた。
蒼も浮かぬ顔をしている。葉子にそれを言いにくそうだった。
「なに、蒼君……。もしかして、蒼君……、神戸に戻されちゃうの!?」
一年前もこんなことあったよね!? と、葉子はあの時の寂しさを急激に思い出す。
「いやいや、俺はしばらくはここに固定が決まってるから。ここテスト経営しているでしょ。いろいろ試す場所として、矢嶋さんも重視しているし、俺も任されているから。ここけっこう儲けを出しているんだよ。観光を侮ってはいけないと、矢嶋さんが力を注いでいるから、それは大丈夫。ここ大事な拠点だから」
「じゃあ、なに??」
夫がまだここに居られるとわかってホッとした反面。だったら今度はなにが起きているのかと、心が急くまま葉子は蒼に詰め寄った。
「甲斐さんだけど。矢嶋社長が預かるってさ」
「……預かる?」
「神戸で雇うってこと」
「え……?」
聞こえなかったことにしたかった。
なのに、葉子がしっかり理解するようにとばかりに、蒼が再度言い直した。
「神戸で仕事をさせたいんだってさ。大沼からいなくなるということだよ」
それでも、葉子はまだ理解できなかった。
「ああ、何度来てもいいですね。二ヶ月に一度、視察といいながら、私がちょっと心を休めるためにも来ているようなものです」
社長がうっとりと大窓に映る大沼国定公園の景観を堪能している間に、葉子は厨房へとホットワインの準備に向かう。
『次に矢嶋社長が来た時に試してもらいましょうね』――。甲斐チーフと一緒に、ホットワインのレシピに取り組んだ。厨房で葉子自ら、そのホットワインを準備する。
レース模様がある銀色のホルダーにはめ込んだガラスコップに入れてホールまで。ホールには照明がつき始めたが、矢嶋社長はまだ大窓の向こうに見える夕暮れを見つめていた。
「ヴァンショーです」
「ああ、ありがとう。いい香りだ。おいしそうですね。材料はなんでしょう」
「ホットワインには柑橘類の果汁を使われることが多いのですが、七飯町産の林檎をつけ込んでいます。あとはシナモンとクローブ、そしてハチミツです」
「なるほど。特産を活かしたわけですね。七飯町は西洋の林檎が初めて栽培された土地なのですよね」
社長がそこで、銀の取っ手を握ってグラスを口元まで。一口味わっている様子を、葉子も固唾を飲んで待つ。
「うん、美味いです。試しに出してみましょう。女性客に喜ばれると思います。雪の中、こちらにやっと辿り着いてホッとする一杯になるでしょう。それにクリスマスらしさが増すと思います」
社長の許可が出て、葉子もホッとする。これでアペリティフのメニューに加えることが出来そうだった。
「神戸でも出してみようかな。支店の大沼で出している北海道メニューとして。うん、やってみよう」
ほら。なんでもすぐにお商売にしちゃうんだと、葉子はついクスリと微笑んでしまっていた。
そんな葉子を矢嶋社長がテーブル席から見つめていることに気がつき、姿勢を改める。
「ここでひと息つきましたら、給仕長室に、篠田とお父様に揃って来るように伝えていただけますか」
「はい、かしこまりました」
途端に、矢嶋社長の表情から穏やかさが消えた。ヴァンショーをおいしそうに味わっていても、もう、なにかを決断されているかのような……。
いつも葉子には優しくおおらかなおじ様だけれど、こんなときは、雇い先の社長として遠く感じる。
言われた通りに厨房にいる父と、給仕長室で事務仕事をしていた蒼に伝える。
十五分ほど、ヴァンショーですっかり温まったよと葉子に笑顔を見せてくれた社長は、また険しい眼になって、給仕長室へと入っていった。
蒼はもともとそこにいたので、後から父が入室して、その扉が固く閉ざされた。
神楽君も様子がおかしいことに気がついたのか、葉子の元へやってきた。
「なんだろう。先月来たばかりだったのに。この店になにかあったのかな」
「そんな感じではなかったよ。こちらも順調だと笑顔で言っていたもの」
若いふたりで首を傾げていた。
「そろそろお客様が来店されますよ」
お喋りをしている若い二人に、甲斐チーフが気を引き締めるよう声をかけてきた。
二人揃って、少し焦ってその場を離れる。それぞれの持ち場に戻った。
心なしか甲斐チーフも表情が硬く見える? 矢嶋社長が来たから?
その日のディナーも、いつも視察に来るとき同様に、矢嶋社長がチェックするための食事をした。
ディナータイム終了。フレンチ十和田、本日閉店を迎える。
片付けを始めようとした時に、蒼が葉子を給仕長室へと呼んだ。
妙な胸騒ぎを覚えながら、葉子は蒼に連れられて、給仕長室に入った。
「なんでしょう。給仕長」
「あ、いいよ。夫と妻に戻って」
仕事の声から、夫の声に変わっていることを知り、葉子も緊張している表情を少しだけ緩めた。
「矢嶋社長となにか話していたんだよね」
「うん。やり手の社長さんだから、動くと迅速で、こっちも従うしかなくてね」
従うしかなくて? 動くと迅速で? もう動いちゃっているということ? なにかが変わるんだという恐れが、一気に葉子に襲ってきた。
蒼も浮かぬ顔をしている。葉子にそれを言いにくそうだった。
「なに、蒼君……。もしかして、蒼君……、神戸に戻されちゃうの!?」
一年前もこんなことあったよね!? と、葉子はあの時の寂しさを急激に思い出す。
「いやいや、俺はしばらくはここに固定が決まってるから。ここテスト経営しているでしょ。いろいろ試す場所として、矢嶋さんも重視しているし、俺も任されているから。ここけっこう儲けを出しているんだよ。観光を侮ってはいけないと、矢嶋さんが力を注いでいるから、それは大丈夫。ここ大事な拠点だから」
「じゃあ、なに??」
夫がまだここに居られるとわかってホッとした反面。だったら今度はなにが起きているのかと、心が急くまま葉子は蒼に詰め寄った。
「甲斐さんだけど。矢嶋社長が預かるってさ」
「……預かる?」
「神戸で雇うってこと」
「え……?」
聞こえなかったことにしたかった。
なのに、葉子がしっかり理解するようにとばかりに、蒼が再度言い直した。
「神戸で仕事をさせたいんだってさ。大沼からいなくなるということだよ」
それでも、葉子はまだ理解できなかった。
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