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【後日談2】トロワ・メートル

7.お婿さんに、おまかせ

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 静かな湖畔の夜が、ゆったりと過ぎていく。

 柔らかな照明の中、バースデーケーキが運ばれ、小さなキャンドルに幸せの火が灯る。
『お母さん、おめでとう』、『お祖母ちゃん、おめでとう』。ひときわ賑わうテーブルへと、他のテーブルのゲストも快く拍手を送ってくれる。そんな優しい夜。

 どのお客様も『おいしかったです。ご馳走様でした』と笑顔でお帰りになった。
 岩崎様も『ほんとうに来てよかったです。ハコちゃん、ダラシーノさん、また動画で会いましょう』と別れを惜しむようにして、お帰りになった。

 玄関の外に出て、最後のお客様、ツアーで来られたお友達同士で来てくださった方々をタクシーに乗るのをお見送りする。
 湖畔の夜道へとタクシーのテールランプが遠ざかっていく。その間も、蒼と並んで共に、車の走行音が聞こえなくなるまで頭を下げる。
 湖の水辺のせせらぎだけが残った。

「はい。お疲れ様でした。十和田さん」
「お疲れ様でした。給仕長」

 すべてのお客様がお帰りになる。本日の『フレンチ十和田』のドアが静かに閉まる。
 エントランスのカウンターの照明も半分に落とし、蒼が玄関に施錠をする。
 それまでは、蒼もまだ給仕長のまま。お客様がいなくなっても心構えはまだ篠田給仕長だった。

 いつもならここで『やっほ、終わったぞー、へーい』とか言いながら、首元のボウタイを外してぐるぐる回して、いつもの『ビールがうまい~』が始まるのに、今日はまだ真面目な顔をしたままだった。

 というより、ふざけることが『まだ』できないのだ。


 施錠を終えて、二人一緒にホールへ戻ったところで、厨房から父が出てきた。
 白いコックコート姿のまま、蒼に声をかけてくる。

「甲斐様、うちで待ってくれているから。深雪が相手をしている。秀星の仏壇に手を合わせて、しばらくじっとしていたってさ」

 食事を終えた後、『十和田シェフがお会いしたいと言っているので、十和田シェフの自宅でお待ちいただけますか』と蒼が伺うと、あちらもそのつもりだったのか、『是非。お邪魔いたします』との返答だった。蒼から連絡を受けた母が店まで迎えに来てくれ、自宅へと案内してくれた。

 そこで父・政則と葉子、蒼の仕事が終わるまで待っていてくれたのだ。

「スーの石田が今夜はぜんぶやってくれるというからさ。俺たちは今夜はもうあがろう」
「わかりました」

 厨房もホールでも、他のスタッフにも、『甲斐様は、矢嶋シャンテの元メートル・ドテルだった』という情報が周知され、どうしてここまで訪ねてきたのかなど、誰もが聞かずともわかってくれている。

 葉子も蒼も父も、仕事着のまま、十和田の家へと急いだ。



◇・◇・◇



 実家のリビングのソファーで、母の深雪と甲斐氏が紅茶を挟んで談笑していた。

「お疲れ様でした」

 コックコート姿の父が到着したのを知って、甲斐氏がソファーから立ち上がり、こちらへと労いのお辞儀をしてくれる。

「シェフをしている十和田政則と申します。本日はご来店、ありがとうございました」
「こちらこそ、突然の訪問、連絡もなしに失礼いたしました。しかも快く受け入れてくださいまして、お料理も大変素晴らしいものでした。秀星が気に入って、こちらで働きたいと決めたことも納得のお味とセンス、そして店の雰囲気でした」
「ありがとうございます。ですが、店の雰囲気はいまは篠田に一任しておりますので、彼のおかげなのです。きっと甲斐様から受け継いできたものなのでしょうね。彼が来てくれねば、私も娘もいつどこで気力を失っていたかわかりません」

 父にもそんな辛い時期があったのだと、葉子は改めて知り、少し前の辛い毎日を思い出してしまった。
 ほんとうに、そう。蒼が大沼に来てくれていなかったらと思うと、ぞっとする。
 結婚したい相手が来てくれたとかではない。この店をなんとか維持しようと、ぎりぎりのところで耐えていた日々と、途方もない不安を抱えていた日々を葉子も思い返すからだ。

 蒼のおかげ。父も葉子もそう思っているのに、甲斐氏がそれを聞いた途端にくすっと笑った顔を隠すように伏せた。それでも堪えきれなかったのか、笑みが止まぬ顔を上げる。

「ほんとうに、口だけの小僧だったんですよ。それがいやー、それなりになったもんだなと、ここまで躾けてくれた秀星を、さきほど位牌を前に褒めていたところです」

 それを聞いた父も『ぷっ』と笑いが込み上げてしまったようだった。

「ちょっと、シェフも甲斐さんも、失礼じゃないっすか。俺、ちゃんとできていましたよねっ」

 いつもの『蒼くん、おかんむり』の状態に、また陥れられているので、葉子も笑いが込み上げてきた。

「ま、合格だなあ。とりあえず」
「とりあえずって、もう~。そりゃ、現役だったころの甲斐給仕長を超えたなんて、これっぽっちも思ってないですよー」
「あたりまえだ。秀星だって越えていないわ」
「ひっど、そりゃそうですけど!!!」
「うん。俺も、甲斐様とおなじで秀星は越えていないと思う」
「パパまで! ひっど!!」

 またいつもどおりに、蒼がそこにいるだけで賑やかになってきたので、葉子と母も一緒に笑い出していた。

「よろしかったら、男性の方々で、もう少しお酒でもいかがですか」

 母の勧めに、父も「ぜひ、そうしましょう」と甲斐氏をなんとか、その気にさせようとしていた。

「あ、俺、なんか酒のアテつくります!」

 まだ給仕長の制服のままなのに、蒼が手を挙げて、実家のキッチンへと颯爽と向かっていく。
 その素早さに葉子はあっけにとられながらも、私も手伝う――とあとをついていく。
 だが、母も慌てて、先へ行く蒼を追ってくる。

「蒼君、いいわよ。私がするから。お師匠さんなんでしょう。男同士、三人で飲みなさいよ。今夜、うちに泊まっていけばいいじゃない」
「大丈夫ですよ、深雪さん。それに、下っ端の俺がやらないと『気が利かない』とあとで俺が怒られちゃうんです。それから、師匠がお酒を飲むなら、俺が運転をして函館の宿まで送りたいんで……」
「そう? でも下っ端って、そんな立派な給仕長なのに……」
「いーえいえいえ、お師匠さんと先輩に比べたらまだまだ! だから深雪さんは、パパと一緒にお相手していてください。甲斐さんが聞きたいのは、大沼にいた秀星さんのことだと思うから、いっぱい教えてあげてください。あ、いつもの如く、冷蔵庫、勝手に開けて勝手に使っちゃいますね」
「んじゃあ、蒼君、いつもごめんね」

 実家にくるたびに、蒼がキッチンに立って料理をするようになったので、母もすっかり信頼をしている。しかもその料理や酒の肴が上手いので、父までもが『蒼君、なんか作ってくれよ』なんて言い出すようになっていた。
 だから、十和田家の冷蔵庫を勝手に開けて使う権限までいつのまにか、蒼は取得している。

「蒼くん、手伝うよ」
「葉子ちゃんも、甲斐さんとお話ししておいで」
「ううん。まずはお父さんから聞いたほうがいいよね。私はレストランの給仕で話題にできたから、また後で」

 そのとおりなのか、もう父と甲斐氏はリビングのテーブルを挟んで、互いの自己紹介に秀星のことや、写真集のことについての話題に盛り上がっていたようだった。

 黒いジャケットを脱いで、制服の白いシャツの上からエプロンをした蒼が冷蔵庫を物色。
 父が好んでいるチーズに、父が自宅用に作り置きしているマリネなどを蒼がみつけて、ちょっとした酒の肴をつくりはじめる。
 葉子もウィスキーを飲んでもらう準備をする。

「関西から来た人って、酒の肴のこと『アテ』っていうんだね」
「あ、そうだね。甲斐さんが目の前にいたから、ひさしぶりに言っちゃったな。パパさんは肴っていうよな」
「お酒、ハイボールとか水割りでいいかな。どれがいい? いただいた二階堂をすぐに開けちゃったほうがいいかな」

 実家のキッチンにも『政則コレクション』があり、葉子はその棚の前で蒼に聞く。

「せっかくだからニッカウィスキーがいいだろ。ブラックでいいんじゃないかな。二階堂は今夜一晩、あそこに置いて、秀星さんに飲んでもらおう。大人しい顔して、先輩、けっこう呑んべえだったからさ」

 そんな秀星さんも見てみたかったなと、葉子はふっと微笑んでいた。
 あんなにワインを知っている人だったから、それはもう飲んでいたのだろう。彼のアパートを父と母と整理しにいった時にも、蒼同様にちょっとしたサイドボードにお酒が収められていたのを葉子は思い出す。

「じゃあ、ニッカウィスキーで。氷と炭酸水と……、レモンも準備するね」
「いいね。おお、ホタテもあるな。醤油とゴマ油で和えるかな」
「おいしそう。私も飲みたくなっちゃうな」
「葉子ちゃんは飲んでいいよ。俺はウーロン茶でいいから」

 いつものごとく、テキパキと調理を進めている蒼を見て、葉子は思う。
 すっかり十和田家のキッチンに馴染んじゃっているな……と。

「私も飲まないよ。帰ったら一緒に、またね」

 それだけでまな板に向かい包丁で薬味を刻んでいる蒼が肩越しに振り返って、食器棚のまえにいる葉子に微笑んでくれる。

「そうだな。ふたりでゆっくりしような。今夜はちょっと遅くなるかもしれないけど」
「大丈夫だよ」

 なんて。キッチンでふたりだけでいるのをいいことに、見つめ合って準備を進めていた。
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