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【4】名もなき朝の私《さよなら、先生》
21.まっさらな、歩みを
しおりを挟む春の風が、葉子が着ている紺色コットンのロングワンピースの裾を吹き流していく。
ギターのバンドを肩に掛け、葉子は構える。
「そのサングラス、貸して」
「え、これ?」
運転用に蒼が持ち歩いているサングラスを借りて、葉子は自分の顔にかけた。
「ハコチャンネル用に、撮影、いいかな」
「なるほど。いちおう顔出ししていない状態ってことか」
「心配かけたから……」
「うん。いいと思うよ。ライブじゃないから、撮り直しもできるしね。やってみよう」
まだ診察をしてみないと完治とは言えないかもしれない。でも、声が出ているいまのうちに伝えておきたい。葉子の急く気持ちは蒼もわかってくれたようで、いつもの撮影用のハンディカメラを構えてくれた。
ライブ配信の準備はしていないから、録画だけしていく。
二度目の、カメラの前にハコの姿を映す。
レエスの刺繍がある紺色ワンピースの裾が、潮風にはためく中、葉子はギターを肩に掛けた姿で口を開く。
「ハコです。やっと声が出ました。皆様、ご心配をかけました。たくさんのコメントもありがとうございました」
蒼が真剣な顔で、サングラスをしている葉子にカメラを向けている。
「今日は、瀬戸内海のとある島に来ています。撮影はいつものカメラマン、ダラシーノさん。声が出ない私の外出をサポートしてくれています。先日、初めて……、北星がメートル・ドテルを務めていた神戸のレストランで食事をしてきました」
蒼が大沼で撮影をした時は、大沼の湖畔を抜けていく強い風の音が聞こえていた。
今日は瀬戸内の強い潮風が葉子に吹き付けている。
「そこで、北星の背中を見ました。行ってよかったです……。これから皆様に届ける遺作の写真から、皆様がどう感じられるかも自由です。でも、私は、あの人からもらった全てを握りしめて、生きていきます。遺作に込められたあの人の気持ちを責めた時もあったし、でも、そこで彼が私に遺した様々なもの、それのほうが勝っていた。私にはそれが『真実』。皆様の中の『真実』は、また違うものでもいいと思っています。また、唄います――。今日は、リクエストから知った曲を、私がこの島にきてからずっと聴いていた曲を唄います」
永井真理子 『ORANGE』
瀬戸内の潮風に、ほどいている黒髪がなびく。きらめく春の海へと波へと声を飛ばす、ギターをかき鳴らしながら。
ずっと会えない人を想う唄
出会えたことを愛に想う唄
ちょっとのきかっけで、あの人に包まれ、強く進もうとする……唄
新しく歩む、唄
ずっと発声をしていなかったから、声はかすれて出ない音もいっぱいあった。それでも唄った。蒼がアングルを変えながら、ほんとうのカメラマンとして動いてくれている。でも、彼が泣きながら、声が入らないように必死に堪えているのが見えて、葉子にも涙がうっすら浮かぶ。
でも。声を張る。
ハコちゃん。いい声が出ていたね。なにか唄ってよ!
緑がきらめく散策道から、あの人の笑顔が現れる。カメラを担いで、毎朝、現れた人。
わたしたちだけの、名もない朝だった。
撮影を終えて、蒼がカメラの電源を切る。
「いい唄声だった――」
彼が波打ち際で、潮騒の中、 ただ、ただ、抱きしめてくれる。
静かに包んでくれる彼のほうが泣いている。
『ぶぇぇ』って、泣かないんだ。そう、葉子からふざけたかったけど出来ないほどに、彼が、そこから一歩踏み出してこちらに来た葉子を捕まえてくれている。
「蒼くん。『歩いて帰ろう』。大沼に」
ゆっくり、すこしずつ。またこの心をあの湖畔に、あなたと帰ろう。
まっさらな歩みを、遠い瀬戸内の青い浜辺から。
❁ ❁ ❁
「おかえり」
大沼に帰り、すぐにレストランへとふたりで帰宅の挨拶へ向かった。
厨房で父が腕組み、特に蒼を睨み倒している。
ふたりがいない間は給仕のシフトに大穴が空くので、レストランを臨時休業にしてくれていた。
でも父は厨房でもくもくと試作品を作って過ごしていたようだった。
「シェフ。ただいま帰りました」
そう伝えた蒼が、隣にいる葉子をそっと前へと促した。
「お父さん、……ただいま。ご心配、かけました」
声が戻ったことは、あの後すぐに母に電話をして報告はしていた。
母も泣いて泣いて、『やっぱりねー! ここを離れて、蒼君と一緒にいたら治る気がしたのー!』なんて、思わぬことを叫んでいて、葉子のほうが仰天した。
父も知っているはず。でも、父と母からの連絡はその後もなかった。
葉子の生の声を、やっと父に聞かせることができる。
だが父はまだむすっとした顔で、帰って来た二人を見ている。
だよね。やっぱり、いい歳の娘が男とふたりきりで、瀬戸内の島で二泊もすれば、勘ぐらないほうがおかしい。
「蒼君、俺に報告することがあるだろ」
「はい。神戸の人事のことですが」
「そっちじゃない!!!」
「あ、」
父が目を剥いて叫んだ。蒼もはっと気がついたようだった。
「お嬢さんについてですが、真剣に将来のことを考えています。これからも葉子さんのそばにいたいので、おつきあいをお許しいただきたいです」
「浮気とかぜーーったいに許さないからな」
「浮気なんてしたことないですしっ」
「ポルシェ乗っていたんだから、そりゃあ、もうー」
「あー、やっぱりシェフは俺のことを『チャラ男』と思っていたんですね!」
葉子もそう思っていたなと、懐かしくなってきた。
ほんっとにチャラいって感じだったもん――と笑いたくなってくる。
「男の趣味としては良いと思う。でも、女に見せびらかす根性はゆるさんっ」
「ポルシェは、子供のころからの憧れでやっとこさ手に入れたものだったんですよ。それをっ、僕はっ、あなたとお嬢さんと、このレストランで頑張りたいことを選んで、北国の暮らしに馴染むために、手放したんですけどっ」
「最初、葉子をポルシェに乗せようとしつこかっただろ」
「うっわー、四月になっても乗るなとか言ったの、まさか、パパガードだったんすか!!」
えー! お父さん。娘がしつこく誘われているの、察知していたんだと、葉子は驚愕。しかも、父と蒼がまだまだ言い合いを止めない。
「違う!! ほんとに君があぶなっかしいからだ! なんだか、脇が甘いんだよ。ほんっとあれこれ無防備でハラハラする。男前って自覚がなくて、それで、それで、それで……、あんなこととか、こんなこと、数えたらきりがないっ」
「ええっ、そうなんすか! 俺、けっこう、完璧主義ですけど」
「どこがっ、どこが!? びっくりするわ。いまのその言葉、秀星に聞かせてやりたいわ。絶対に言ってくれるわ。『篠田君、脇、甘い! もうちょっと落ち着いて考えてから動いて』――ってさ。安積様のことだって、秀星なら『ただいまデクパージュは承っておりません』ってきりっと冷たくはね除けていたわっ」
「うわ~~、やめてください~。絶対、言われるって、なんか、わかるし~、先輩の怖い目、思い出しちゃう~。給仕長になれたのに、いまも情けなくなっちゃう~」
ぽんぽんと本音で言い合う二人に、葉子はハラハラ。
だが、そこで父が急に「あはははっ、やっぱ秀星が弱み!」とふんぞりかえって楽しそうに笑い出す。
「はあ、ほんとうに。君って憎めないな。いい奴だよ」
父も秀星と同じようなことを言ったので、葉子は驚く。
蒼という男は、そう、きっと可愛げがありすぎて、年上の男たちは憎めなくて、そして、きっと明るくさせてもらってきたのだろう。葉子もそう思う。いつのまにか、蒼に……。
それに父と蒼も、けっこう息が合った言い合いをしていた。
本音でぶつかれる。それはもう、相棒だからこそ。葉子は改めて思う。父は秀星とはまた違う絆を蒼と築いている――。
そこで父が一度黙って、呼吸を整えた。
「今日、早くに矢嶋社長から連絡があったよ」
蒼とふたり揃って、葉子は息を止める。
矢嶋社長は『決定は篠田が大沼に帰ってくるころ、十和田シェフに伝える』ということになっていた。
せっかく彼と結ばれても、彼は神戸に帰ってしまうのだろうか……。
蒼がそっと、葉子の手を握りしめたのがわかった。
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