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【4】名もなき朝の私《さよなら、先生》

16.エゴの犠牲者

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 お母様は、自宅のリビングへと案内された。
 ランチ開始前の時間だったので、蒼も呼ばれ、リビングのソファーに父と母も揃っていた。お母様のご指名は、父と母と篠田だったので葉子は何故か外された。

 聞かれたら困ることなのかもしれない。
 それでも母が、そこで聞きたいなら聞いておきなさいと、なんだか怒りながら言ってくれ、葉子はリビングと繋がっているキッチンのドアのそばにひっそりと控えて聞かせてもらえることになった。


「お嬢様がきちんとお月謝を支払って通ってくださっていたのに、教える仕事をするべき講師の娘が、その義務を全うしていなかったと知りました。申し訳ありませんでした」

 お母様が白い封筒を目の前にいる両親へと差し出した。

「いま娘は入院をしております」

 その話に葉子はショックを受ける。自分は声が出なくなったが、先生にも精神的ダメージがあったということなのだろうか……。
 そんな報告に対し、父と母は眉をひそめ納得していない様子を漂わせている。蒼も目つきが尋常ではなかった。そんなの知らんわ――とでも言い出しそうな顔をしている。

「その、入院されたというのは、うちの篠田のせいだとおっしゃるわけですか」

 父からつっけんどんに言い返していた。
 お母様が申し訳なさそうに顔を上げる。

「いいえ。違います。ですから今回はご説明に来たしだいです。今回だけではないのです。篠田さんだったからというわけではありません。娘はもともと惚れっぽいといいますか、恋する気質が強いので、東京での生活もおなじようなことの繰り返しでした。そこでプロの世界から身を引いて函館に戻ってきたのです。家に籠もって、限られた生徒さんとレッスンをするだけでよかったのです。ここ五年は安定した生活を送っていました。後から知ったことですが。たまたま、葉子さんのそばにいた篠田さんという男性と接触したことで、元の気質が強く出てしまったようです。申し訳ありませんでした」

 その後の話を聞くと、葉子のレッスンだけ崩壊していたことは、娘が入院してから知ったことや、出かける回数が増えて案じていたとのことだった。娘が母親に伝えた理由は『生徒の葉子さんが働いているレストランだから応援したいの』と言っていたらしい。最初にご両親と一緒に食事をしていたため、お母様も知っているレストランだから問題はないだろうと思ってしまったとのことだった。

 幾分かして、娘が母親に泣きすがってきたという。
『どうしよう。葉子さんの声が出なくなっちゃったって言うの』
 仕事が忙しくなって葉子が教室を辞めたとお母様は聞かされていたが、安積先生から本当はなにが起きていて、娘がどのような行動をしていたかをその時に初めて聞かされたという。
 東京から函館に撤退してきた時も、ひとりの男性に思いを入れ込みすぎ、好意をくりかえしているうちに、あちらの男性の仕事に影響が出てきて訴えられそうになったとのこと……。その前にも似たようなことがあり、安積先生の仕事関係も上手く行かなくなるような出来事を積み重ねていたとのことだった。今回も、また似たようなことが起きていたとのことで、お母様の落胆する姿も尋常ではなかった。

「あの時も、函館に帰ってきたとはいえ、自宅に帰ってきたのは入院をしてから半年も経ってのことでした。それから、あの子はあまり外とは接触しないように、好きなことをして穏やかに過ごすようにコントロールしてきたのです。それでも少しでも自立できる仕事をということで、自宅での教室を始めました。もちろん女性限定です。そのなかで、葉子さんのことはとくに可愛がられていたので……、私も……、娘が……まさか……、葉子さんをこんなに傷つけていたなんて……本当に、申し訳ありませんでした……」

 安積のお母様が泣き崩れながら、頭を下げてくれている。
 葉子も涙が出てきた。だって。こうなるまでは、ほんとうにお姉様のように大好きな先生で、とても楽しみにしていたレッスン時間だったからだ。

 そこで父がため息をついて、短い黒髪をバリバリ掻いている。
 言いたいことは山ほどあるが、同じ娘を持つ親として、安積のお母様の気持ちもわかってしまうから、やるせなく感じているのだろう。

「いえ……。うちの娘の声がでなくなったのは、なにもそちらの先生のことだけではないと思っています。とにかく、娘にも短い期間に様々なことが起きましたので。特に、うちの子も音楽の夢を諦めて東京から帰って来たくちですが、なにをしていいかわからずにいる娘に、いまの仕事を出来るように教え込み導いてくれた兄貴のような男が死んだのが、そもそもの心のダメージだったんだと思っています。ここまで三年、気強く頑張っていたほうだと思います」
「娘からも聞いております。いまネットで、そのお兄様のような方が生前に撮られていたというお写真が人気だそうですね」
「五月に写真集が出る予定です」
「お父様が、その権利をわざわざ取られたと聞いております。亡くなられた男性は、もう縁者もいらっしゃらなかったから、そのお写真を守るためにそうされたのですよね。ご家族同然だったことが伝わります。そのような男性ならば、葉子さんにとってはお兄様同然ですものね。そのお兄様のお写真についても、うちの娘は酷いことを伝えたようでした」

 そこは父と母は知らなかったので『そうだったのか』という顔を二人で揃えていた。蒼は知っているので、口惜しそうに黙っているだけ……。

「もちろん、このたびのご迷惑は、私の娘が急に心を乱したことが原因でございます。ただ、娘は、篠田さんが娘とそれほどお歳も変わらず同じく独身で、葉子さんとはお歳も離れているので、自分のほうがお似合いだと思っていたようです。これまた、こちらのことでわざわざお伝えするのはお恥ずかしい話になりますが、東京で若いときに付き合っていた男性と結婚の話も出たことがあるのですが、その……、娘よりもずっと若い女性に心変わりして破談になったこともありまして……。娘は葉子さんにその若い女性を重ねてしまったのかもしれません。家に閉じこもっていた娘から見れば、動画とやらで人々の注目を浴びてたくさんの応援をもらって、そばには篠田さんのような頼りがいある男性がいて、毎日お仕事で一緒。いつも楽しそうに函館にやってくる。わかってはいるけれど、徐々に心の平穏が保てなくなっていたのだと思います――」

 安積先生には安積先生の、もっとずっと辛い過去があった。
 心のバランスを崩して、プロを諦め地元に帰ってきて、なんとか一生懸命にバランスを取り戻して暮らしていただけ。
 そこに平穏を揺るがす波紋を作ったのは、エゴを押し通して突き進むハコだったのだ。
 秀星のエゴの凄まじさに触れて、感化された葉子が生み出したエゴ。エゴは、利己主義。自分さえよければいいと突き進むこと。その切っ先にひっかかってしまった人はもれなく傷ついていく。そういう危険も孕んでいたのだと初めて葉子は知る。葉子も先生を傷つけていたのだ。平穏に過ごして穏やかに暮らしていた先生の領域を荒らしたのだ。

 そう知ったらもう。先生のことを憎めないし責められない。
 それに、先生のことほんとうに好きだったから。
 いまはまだ、元通りにはなれないけれど、いつかまた先生の演奏だけでも元通りになってほしい。

「わかりました。娘に伝えます。お互いに、子供が大きくなっても気苦労は絶えませんね」

 父の言葉に、また安積のお母様が泣き始めてしまった。

「先日ですか。篠田さんが大きな声で歌われていた動画を娘が見ていました。久しぶりに、楽しそうに笑っていました。葉子さんが唄えと指示していたそうですね。ギターの音がいい音で合格だと言っていました。葉子さんにお伝えください――」

 それを聞いて、もう……。
 葉子は溢れてくる涙を拭きながら、そっと離れて二階の自室にむかった。

 雪の中、安積先生のお母様がタクシーに乗り込んで帰っていくのが見えた。




 でも。葉子は振り返らない。
 『エゴイスト』の原稿を見直し、葉子は編集部へと送信を終える。
 
 秀星の写真集の表紙も決まった。
 あの吹雪開けの写真だった。
 人々はその美しさに惹かれるだろうし、命を落とした瞬間の写真が表紙と知って衝撃も受けるだろう。

 出版社の発売の宣伝が始まるのは三月に入ってから。予約が開始される。

 その時にもまた、様々な声が飛び交うだろう。
 心を静かにして。心の湖面を平らにして。葉子は待つ。
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