上 下
32 / 103
【4】名もなき朝の私《さよなら、先生》

12.愛しているなら……

しおりを挟む
 驚いた母がすぐに函館の病院に連れて行ってくれた。
 声が出ないのは『心因性のもの』という診断だった。
 つまり葉子の精神的ストレスから来たものということだった。

 レストランの仕事を休むことになってしまった。

 白樺の木立が見える二階の自室で、葉子はパソコンから『ハコチャンネル』にアクセスした。
 ほぼ毎日やっていた配信が途切れた。理由もなにも声明していない。
 だから最後にアップした唄動画のところでコメントが集中している。

*どうしたんだろう。今日で十日目だよね
*ハコちゃんがこんなに休みなんて初めてじゃん
*SNSの北星さんの写真アップも止まってる……。この時期だからインフルエンザにかかったとか、なにかあったのかな……
*ダラシーノはどうしたんだよ。あいつまでなにかあるってわけないだろ
*どっちかになにかあって配信どころじゃないのかも
*レストランは? 知ってる人もいるんでしょ
*ハコちゃんのためにはっきりは明かせないけれど、たぶんここだろうというレストランは通常営業中みたいだった
*ええ……、どうしちゃったんだろう……
*じっと待ってみようよ。ハコちゃんが北星さんの写真をほったらかしたりすると思えない。だってあの子、こんなふうに知られる一年前からひとりで唄っていたんだよ。お父さんが特別縁故者になるまで。そのあとも大事に更新していたじゃん。
*北星の写真、遺されていた分、全部更新を終えたんじゃね?
*十日ぐらいなら待ってみようよ。二年も続けていたんだから。ハコちゃんなら辞めるときは辞めると伝えにきてくれるよ、信じてる。


 そんな憶測の連続で、視聴者の声がずっと下まで続いていた。


 一日中、部屋にいると余計にストレスが溜まりそうで、葉子はギターを担いで湖畔へ向かう。

 最近は訪れる機会が減ってしまった秀星の撮影ポイントに到着。
 雪が積もっていて、湖面は真っ白で、駒ヶ岳も寒々と木枯らしの中にそびえ立っている。

 なにもかも。ここから始まったんだっけ。
 まさかその先に、こんなことが待っているとは思わなかった。

 ギターだけ構える。イントロの音をかき鳴らす。
 スーハー、スーハー……ハッハッ……。
 唄うが声がでなかった。涙がどっと流れ出す。大声で泣きたい!

「はぁああッ、は……っ あああ~あぁ……っ」

 泣き声もかすれた息の声しかでない。
 涙だけが流れて、葉子は雪の上に崩れおちる。

秀星さん。秀星さん。なんでいなくなっちゃったの!!
ハコを捨てて行っちゃったの! 捨てたんでしょ。ハコのところに帰ろうって思ってくれなかったんでしょう!! ひどいよ。ずっと秀星さんといたかったよ!!

 彼が雪を被って息絶えていたそこで、葉子もうつ伏せになって泣き続けた。

 どれぐらい? 涙が涸れた時になって、葉子の荒かった息づかいも、心に渦巻いていた波も静かになってくる――。

でも。わかるよ。秀星さん。
まわりがなんと言おうが、どうにも止まらない欲望ってあるよね。

 彼を心で責めたてたおかげで、その後にはすっと落ち着いた気持ちになれる。

 彼が望んだ最後の欲望。それを満たして逝ったのだ。
 彼を愛しているなら。彼が満足して旅立ったことを受け入れて、よかったねと笑って見送るべきだ。

 葉子は立ち上がる。駒ヶ岳が姿を消した。向こうはもう横殴りの雪が降り始めていた。もうすぐここにもあの吹雪がやってくる。
 風が吹き始めた冬の散策道へと葉子はギターを担いで戻る。

 元のなにもない葉子に戻っただけだ。
 最後の仕事は、秀星の写真集を無事に世に出すこと。
 それで、すべての活動を終わりにしよう。




 レストランと実家に戻った時には、横殴りの吹雪が到着していた。
 実家の玄関に立つと、レストランの勝手口から『葉子ちゃん!!』と切羽詰まる蒼の声が聞こえてきた。

「どこに行っていたんだ。お母さんが探していた」
『湖畔に』

 声がでないから、蒼にすぐに伝えられない。

「こっちおいで」

 メートル・ドテル姿の蒼が怖い顏になっている。
 レストランの仕事を休んでいるので、彼と一緒にいる時間も減っていたからだろう。いまここで葉子を捕まえようとしている。

「あたたかいココアを入れてあげるからおいで」

 今度の蒼の声は優しかった。
 それに負けて、葉子は私服でギターを担いだまま、開店前のレストランへと足を向けた。
 給仕長室へと促され、葉子はそこにただ力なく座る。

「秀星さんに会いに行っていただろ」

 彼にはなんでも見透かされている。抵抗も言い訳もする気力もなく、葉子は素直に頷いた。

「ココア、作ってくるな。まだ開店前だから大丈夫。動くなよ、帰るなよ、帰ったら、自宅の二階まで襲撃するからな」

 襲撃! ダラシーノなら本当にやりそうで、葉子はびっくりして目を丸くした。
 いつものきりっとした身のこなしで、蒼が厨房へと出て行った。

 その間。葉子はひさしぶりに秀星のノートパソコンの電源を入れる。
 葉子の自宅自室のパソコンにも同じデータをコピーしているが、いつもここから北星秀の写真をSNSにアップしていた日々を思い出す。

 写真だけでも……。いや、唄の配信はどうしたと聞かれる……。
 そう思うと、訳をいうのもどう伝えたらいいかわからず、違う理由でも作るかと思ったが、どこまで誤魔化せるか、嘘を配信する恐ろしさもあって前に進めずにいる。

 それでも、秀星が遺した写真をしばらく眺めていた。
 この季節の同じ日付の、今日だったらなにを選んだだろうと、葉子はひさしぶりに見つめている。
 なんでだろう。心が落ち着いてくる。秀星の優しい目線が伝わってくる。やっぱり、私は彼の感性が好き。そう、写真集まで辿り着けたんだ。もう、いいよね……。また涙が出てくる。

 そこに蒼がココアを持ってきてくれた。
 いつもそうしていたように、自分のデスクを占領している葉子の手元に置いてくれる。そして彼は小さな丸椅子に座り、すぐそばにいてくれた。

「コメント、ひっきりなしに集まっているね。みんな、心配している」

 葉子も頷く。

「秀星さんのところに行っていた? 湖畔の、いつものさ……」

 彼が寂しそうに眼差しを伏せ、そっと葉子から視線をそらした。
 でも、葉子も否定せずに素直に頷く。

「いま、葉子ちゃんが抱いて欲しいのは、慰めてほしいのは、まだ秀星さんなんだな……」

 彼が前髪をかきあげ、致し方なさそうに大きなため息をついてうつむいた。

ごめんね。アオイさん。

 声がでない。彼もうつむいているから、葉子の口元を見てくれない。
 酷くもどかしい。

「俺じゃ、駄目だったんだなあ……」

違う。違う。違う。
 葉子は一生懸命に頭を振る。なんとか伝えたくて、うつむいている彼へと手を伸ばす。葉子が手を伸ばして触れてきたので、やっと蒼が顔を上げてくれる。

 口をぱくぱく動かす。一生懸命になると少しだけ声が漏れ出る。
 でも自分が発するコントロールできる音声ではなくて、口を動かそうとしているから声帯がただ自動的に動いているから自然と出てくるだけの音声。『あっ、あ、ああ』とかすれて出てくるだけだった。

 はあはあと息があがって、葉子も諦める。
 そんな葉子を見て、また蒼が泣きそうな顔になっている。

「葉子ちゃん。スマホ、持ってる?」

 言われて、コートのポケットに入れていたスマートフォンを取り出して、蒼に見せた。

「いつも俺とメッセージで連絡を取り合っているところに打ち込んで」

 あ、なるほど――。
 葉子はアプリ画面を開いて、やっと数日ぶりに蒼と会話をする。

『神戸に帰っちゃうの?』

 蒼のスマートフォンから通知着信音が聞こえる。
 葉子のメッセージを確認した彼の返答は――。
しおりを挟む
感想 106

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢

岡暁舟
恋愛
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢マリアは、それでも婚約者を憎むことはなかった。なぜか? 「すまない、マリア。ソフィアを正式な妻として迎え入れることにしたんだ」 「どうぞどうぞ。私は何も気にしませんから……」 マリアは妹のソフィアを祝福した。だが当然、不気味な未来の陰が少しずつ歩み寄っていた。

「殿下、人違いです」どうぞヒロインのところへ行って下さい

みおな
恋愛
 私が転生したのは、乙女ゲームを元にした人気のライトノベルの世界でした。  しかも、定番の悪役令嬢。 いえ、別にざまあされるヒロインにはなりたくないですし、婚約者のいる相手にすり寄るビッチなヒロインにもなりたくないです。  ですから婚約者の王子様。 私はいつでも婚約破棄を受け入れますので、どうぞヒロインのところに行って下さい。

So long! さようなら!  

設樂理沙
ライト文芸
思春期に入ってから、付き合う男子が途切れた事がなく異性に対して 気負いがなく、ニュートラルでいられる女性です。 そして、美人じゃないけれど仕草や性格がものすごくチャーミング おまけに聡明さも兼ね備えています。 なのに・・なのに・・夫は不倫し、しかも本気なんだとか、のたまって 遥の元からいなくなってしまいます。 理不尽な事をされながらも、人生を丁寧に誠実に歩む遥の事を 応援しつつ読んでいただければ、幸いです。 *・:+.。oOo+.:・*.oOo。+.:・。*・:+.。oOo+.:・*.o ❦イラストはイラストAC様内ILLUSTRATION STORE様フリー素材

君と奏でるトロイメライ

あさの紅茶
ライト文芸
山名春花 ヤマナハルカ(25) × 桐谷静 キリタニセイ(25) ピアニストを目指していた高校時代 お互いの恋心を隠したまま別々の進路へ それは別れを意味するものだと思っていたのに 七年後の再会は全然キラキラしたものではなく何だかぎこちない…… だけどそれは一筋の光にも見えた 「あのときの続きを言わせて」 「うん?」 ********** このお話は他のサイトにも掲載しています

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

さよならまでの7日間、ただ君を見ていた

東 里胡
ライト文芸
旧題:君といた夏 第6回ほっこり・じんわり大賞 大賞受賞作品です。皆様、本当にありがとうございました! 斉藤結夏、高校三年生は、お寺の子。 真夏の昼下がり、渋谷の路地裏でナナシのイケメン幽霊に憑りつかれた。 記憶を無くしたイケメン幽霊は、結夏を運命の人だと言う。 彼の未練を探し、成仏させるために奔走する七日間。 幽霊とは思えないほど明るい彼の未練とは一体何?

処理中です...