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【4】名もなき朝の私《さよなら、先生》

2.人は見かけによらず

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「最近は、時間短縮、あるいは、『映える』ものが喜ばれる傾向にあり、できあがった料理をゲストの目の前で『デクパージュ』する――ということをやらないレストランも増えている」

 篠田の目の前には、鶏の丸焼き『ローストチキン』がある。
 父が本日のお料理として焼いたもので、厨房でより分けて皿に盛り付けて提供する予定だが、そこで篠田が『デクパージュの講義をする』と言い出した。
 父も了承済みで、普段ならスー・シェフが切り分けるところを、今日は篠田がナイフとフォークを持って、綺麗に切り分ける。
 お客様の白いお皿にも、父が副菜などを美しく置き終えた中心に、篠田がチキンを乗せていく。

「同様に、クレープフランベもメートル・ドテルの腕の見せ所。どちらも実施するお店にばらつきがありますよね、シェフ」
「うちでは特にな。その仕事にひとりが時間を取られたら回らない。大所帯のグランメゾンではやるだろうけどね。あといまはインスタ映えってやつかな。出てきたその瞬間で見栄えがいいことが、喜ばれる」
「――というように。レストランの方針や、その時の時流に合わせて、あったりなかったり、スピーディーさを求めるお客様が望まなかったりもある。けれど、給仕をするなら覚えておいてほしい技術でもあ~るかな」

 最後、ちょっとおちゃらけた言い方をするのも、篠田らしかった。
 でも、葉子は真剣にスマートフォンで彼の技術披露を撮影をして記録をしておく。

 彼のナイフ裁きは手慣れていて、どの位置にナイフを当てれば簡単に切れるかも、美しい切り口になるかも、理解しきっているようだった。
 その技は一流。父も満足げに微笑み、さすがだと頷いているほどだ。

「では。十和田さん。ゲストのテーブルへ」

 篠田とともに、葉子も白いお皿を手にホールへと出て行く。

「知床鶏のローストです。本日は丸鶏の状態から厨房で切り分けさせていただきました。添えてあるサワークリームは、シェフ特製、北海道産の生クリームとヨーグルトから作られた自家製となっております。ジャガイモもローストしておりまして……」

 お客様に篠田が料理の説明をする。
 その時の姿は、やはり後輩――、秀星を思わせた。

 その日も仕事が終わり、店は閉店。
 篠田と最後のお客様を見送り、ドアを施錠した途端だった。

「あ~、おーわった、終ーわった。今日もビールがおいしそうー」

 首から外したボウタイをくるくると回しながら『ダラシーノモード』に戻っちゃうと、葉子もがっかりする。
 秀星さんも私服の時は、ほのぼのお兄さんのようなおじさんで、どこも色気なんてなかったけれど、そばにいて、葉子に優しい声で話しかけてくれる落ち着きは仕事をしている時と変わらなかった。
 なのに。ダラシーノは、仕事が終わるとあのクールな佇まいをベリッと剥がしてどこかに放り投げたようにして、またチャラチャラしている。

 そう。あの人はあの人で、秀星さんは秀星さん。別人なのだから、おなじ影を探している自分がおかしいのだと、葉子はたまに我に返っている。

 篠田が来てから、葉子は奇妙な気持ちになっている。
 彼に対してではない。秀星に対してだった。
 ――篠田といると、余計に寂しくなるのだ。
 秀星がもういないことを突きつけられている気持ちになる。
 すごく、胸が苦しい。

 寝るときになって、一人で泣くこともよくあった。
 彼が亡くなって三周忌も終えて、二年経ったというのに、葉子の心を占めている。
 あの優しい笑顔に会いたい。あの優しい声でハコちゃんとまた呼んで欲しい。
 生きている時にはわからなかった気持ちだった。

 葉子はもう三十歳を迎えようとしていた。
 自分でもわかっている。出会った時は拙い子供のような女だったことだろう。
 歳月が経っていまならわかる。私は、あの人を好きなのだ。死んで――、死んだから? いなくなったから、わかったこと。
 だからって、女としてどうして欲しかったという欠片もない、男としてどうして欲しかったと想像するのもおこがましいほど、そういう恋情みたいなものでもない。
 ただ……。その人が、葉子のなかで欠けてはいけない人だったのだ。
 いきなり父や母を失ったような、そういう肉親を亡くした気持ちに近いのかもしれない。でもやっぱり違う……。

 会いたい、会いたい……。秀星さん、私に、もう一度微笑んで。
 もう一度『ハコちゃん』って呼んで……。
 あなたを忘れたくなくて、ずっと唄っているよ――。


 重苦しい胸を抱えて、今日も涙の就寝を迎えそうだとため息をつきながら、実家と繋がっている奥の通路へと向かう。
 その通路のとおりすがりに、小さな給仕長室がある。
 いつもそこから調子のよい鼻歌が聞こえてくることも多い。葉子が朝に唄った歌で気に入ったものがあると、一日中、鼻歌でふんふんしている。

 いまもその鼻歌が聞こえてきた。
 いつも元気で楽しそうな人。仕事が終わって、チャラチャラして凜々しいメートル・ドテルの風貌を脱ぎ捨てちゃう人。

 そんな歌声が聞こえてくる給仕長室をそっと覗く――。

 そこで葉子は声を掛けそうになって、ふっとドア付近の壁際に身を隠してしまった。

「今日も無事に終わりましたよ。先輩――」

 彼が秀星が遺したカメラをそっと指先で撫でていた。
 初めて、彼が年相応の深みある眼差しと、良い枯れぐあいの憂いを見せていたのだ。
 静かにそっとため息をおとし、仕事を終えた疲れた目元のまま、じっと窓の向こうの白樺木立を見つめている。
 木立の向こうには少しだけ透ける紺碧の中に、月の光が落ちている湖が見える。それをじっと静かに見つめているだけだった。

「ほんとに、いいところだね~先輩。俺も気に入っちゃったかな」

 ひっそりと語り合ったその後。篠田が目元を覆って、デスクに肘をついてそのまま動かなくなったのを葉子は見てしまう。

 泣いているとわかった。
 声を殺して。吐いた息が小さく震えている。

 同じなんだ。彼も。
 まだ秀星がそばにいて、そして、秀星がいない虚無感が消えずにいる。

 葉子と、父と母。十和田の家の者と同じように、彼もまだ止まらぬ悲しみをそばに日々を過ごしている。

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