15 / 66
【3】 オラオラ系なパン職人 優大君 オレンジの連鎖が始まる
③ オレンジにはオレンジを!
しおりを挟む翌日も爽やかな晴天。青い空に白い雲、緑の丘にサフォークの羊。その麓に広がる森林と開けた土地には『スミレ・ガーデン』。小さなバラのつぼみが見えてきた。
もうすぐ一斉に、そして順々に咲き始めるとローズの優雅な香りが風に漂うようになる。今年も楽しみで仕方がない。咲いたら奥様と約束したとおりに、父のSNSに投稿してもらおう。
今日は盛夏に咲く花たちの成長具合を確認して庭を歩く。歩きながら、まだ庭のデザインを改良できないかも考える。出来たら、あそこに座れるベンチをもうひとつ欲しいな。いまは舞が仕事で休憩できるためのベンチが納屋の側にひとつしかない。それとは別にあの位置に置けば、牧草的に広がる花畑の向こうに緑の丘の重なりが見えて、のんびり過ごしている白い羊が点々と見えて、丘の上にはひつじ館、そして、青い空と白い雲。ここならリージャン・ロード・クライマーの群生も一緒に視界に入る。そう、まさに絵本の世界。きっと夜には満天の星も見られるはず。それは閉店後もこの場所に住んでいる舞と父だけの楽しみ方だけれど。
「そこのバラにつぼみがつき始めましたね」
虹色をまとった黒髪をなびかせるカラク様が現れた。
いつも気配なしに舞の後ろにいる。でも舞は笑顔で振り返る。エプロンのポケットに忍ばせていたものを舞は彼に差し出す。
「おいしかったので。一緒に食べましょう」
彼が微笑む。幸せそうに。たまに見せる憂う眼差しが気になるけれど、彼が舞を訪ねてくる限りはこうして過ごしていこう。誰だか知らないけれど。どうして現れたのか知らないけれど。なにをしてやれるかわからないけれど。私の花を楽しんでくれて、父のお茶を好んでくれて、優大の焼き菓子も楽しみにしている彼と一緒に……、こうして。
納屋にあるベンチに座って、舞はそれを頬張る。舞が頬張ると、彼の手にも同じ菓子がある。彼も一口頬張った。
「うん! いいですね!」
「オレンジティーと合わせるために作ったとパン職人の彼が言っていました」
「そうなのですか。それならそうしたい。舞、食べるのをやめて、お父さんのところに行きましょう!」
とても張り切った姿を見せたので、舞は呆気にとられつつも、頬張るのをやめてラップに包み直す。いつもどおり、午前の休憩時間を狙ってこの人が来たのだからと、舞も畑仕事をやめてカフェに戻った。
だが父は、今日もオレンジティーと言い出した娘に対し怪訝そうな渋い顔になった。
「舞、昨日の優大君とお父さんの打ち合わせ内容を知っているはずだよ」
「うん。わかってる。オレンジティーにオレンジ風味のガトーショコラの組み合わせはやめておけ、でしょ」
「だったらどうして」
「でも。組み合わせって。お客様が選ぶものじゃないの。……えっと、生意気いうかもしれないけれど。オレンジティーにオレンジ風味のお菓子を合わせる人だっていっっぱいいるよ」
「それは構わないんだよ。ただお父さんが喫茶の仕事を全うしてきたからこそ、娘に美味しく食べて欲しいおすすめをしているのに、何故に変えようとしているのかということなんだよ」
私じゃないんだよ。私だったらノンフレーバーの紅茶で食べたいよ。カフェまで一緒についてきて、ワックス・サシェを飾ったいつもの窓席に、のんきに座っているカラク様を舞は見る。父と娘がなにやら言い合っていても、我関せず。早くお茶がほしいはずなのに、いつもの優美な笑みのまま、ゆったり待っているだけ。
「それで。お茶はなににするんだ。またオレンジティーでいいんだな」
「ううん。セイロンのストレート。ホットで」
もう自分が飲みたいものを頼んだ。これにはカフェラテだの、毎日オレンジティーオレンジティーとやってくる黒髪の兄さんのことなど知らない。私のお茶の時間だから好きにさせてもらう。それでも父が煎れてくれるお茶は格別なので、そこは甘えてしまう。そして父もなんとなく不機嫌な顔のまま、娘のためにバリスタスタイルで茶器を準備してきちんと煎れてくれる。
カラク様がいるテーブルに舞も座った。父が窓を開けたのか、まだ開店前の午前の風が入ってくる。昨日、舞がカラク様のものだと購入して飾ったワックス・サシェが揺れている。そのたびに、ほのかなハーブの香りも漂う。
「ああ、香りがします。舞が僕にと飾ってくれたサシェからですね」
ローズマリーの香りに、舞も少しだけ荒れた心の波が優しく凪いでいく。
「ほんとうだ。こんなに香りがするんですね」
綺麗な鼻筋、その鼻先をふっと壁にあるワックス・サシェへと向け、彼がまた麗しく目を伏せる。長い睫の毛先の虹色に、舞もみとれていた。人なのに、人じゃない気持ちになることが多い。毛の色もそうだけれど、顔立ちも平凡なものではなく端正そのもの。まるで海外の名作石膏のような、どこか尊い、敬いたくなるなにかを感じるのだ。『いつの時代の人かわからないけれど。良いお家柄のお育ちだったのかな』、ふと舞はそう思うことが多くなった。
父がノンフレーバーの紅茶を持ってきてくれる。
先ほどは不機嫌そうな顔つきだったが、もういつもの優しいパパの顔に戻っていた。
「すまない。舞。娘だからつい、お父さんはこれが正しいと思っていて間違いがないから、舞にも良い思いをさせてあげられると思ってしまったな」
舞もそっと笑みを浮かべ、首を振る。
「ううん。そうしてお父さんが、私を全力で守ってここまで育ててくれたんだよ」
「お詫びだよ。オレンジティーも煎れた。一度、優大君の提案も試してみよう」
ノンフレバーティーとフレーバーティーが並べられた。
「昨日の試作、お父さんも残りをもらっているから持ってくる」
そんな父娘のやりとりにも、カラク様はそっと微笑んで見ているだけだった。舞には見えているのに、こうして人と話している時には不思議と存在感がなくなる。
「オレンジの香りがあるないで、喧嘩しているのですか」
「私と父が、ではないです。パン職人の彼と父が、だったんです。でも彼が、オレンジティーに合わせて食べたくなったのはこれと思いついて試作してきたので」
一足先に舞は、ティーカップにノンフレーバーのセイロン茶を入れる。
「どれ。試してみましょうか」
カラク様と残りのガトーショコラを小さく抓んで一口頬張る。
「まずノンフレーバーから」
舞がティーカップを手に取ると、彼の手元にも同じカップが出現する。一緒に口元まで運びすする、ガトーショコラとノンフレバーティーのマリアージュを確かめてみる。
「ん? これは香りがないお茶だと舞は言いましたが、いつものオレンジの香り。オレンジティーを味わっているのと変わりませんよ」
「焼き菓子の中にオレンジピールが入っているからですよ。こうして、ピールを噛みしめたときに皮から鮮烈な香りが口の中に広がるんです。オレンジティーはお湯で香りがたつので、紅茶に移っているんですよね。でも香りのないお茶を口に含んでオレンジの香りがしているのは、菓子からのオレンジでカラク様の口の中で香りが立ったということになります」
「オレンジティーも試してみましょう」
カラク様がわくわくした顔をしていた。今日はいままでと違い、お茶が二種類あるから飲み比べができて楽しいようだった。今度は、優大が主張するオレンジ×オレンジの芳醇コースを試してみる。
ガトーショコラを頬張り――。
「ん!!」
舞は驚きで口元を覆って、目を見開く。正面にいるカラク様も既に同じ表情をみせていた。
いや、もう彼は『舞、舞、もう一度、もう一口、早く食べて、食べてください!』と、テーブルに身を乗り出して、舞に迫ってくる。
そこへ父が戻ってきた。ラップに包んでいる優大のオレンジ・ガトーショコラを片手に。
「お父さん! 早く食べて! オレンジティーと一緒に!」
「な、なんなんだ。舞。そんな急かさないでくれ」
まだのんびりしている父が、カラク様の隣の椅子になにも知らないで座った。ゆっくりと自分のカップにオレンジティーを注いで、ラップに包まれているガトーショコラを頬張り、同じようにお茶を。
父の顔色が変わった。味わって食べようとしていた頬が止まり、信じられないとばかりに手に持っているガトーショコラを見つめている。
カラク様もそんな父をじっと窺っていて、もう舞を急かさない。
父がもう一度、ショコラを頬張り、もう一度オレンジティー。今度はお茶とガトーショコラを交互に見つめて唸り始める。
カラク様が父の顔を覗き込み確かめると、舞へと目線を向けて笑顔を見せる。
「舞、美味しかったね。いままでのオレンジティーだけの時より、ずっとずっと美味しかった。凄いオレンジの香りがしましたよ」
父がいるのでどう答えて良いかわからないから、舞はそっとうなずきだけ返した。
やっと父が正気に戻ったのか、でも脱力したようにテーブルへとショコラを置いてうつむいている。
「お父さん?」
「舞、やはりお父さんは歳を取ったんだな」
「なんでそんなこと言うの」
バリスタエプロン姿の父がため息をついて、額を抱えまたうなだれている。
「長年の経験から、こんなパターンはダメだという持論に縛られていたということだよ」
「美味しかったの? この組み合わせ」
父はすぐには返答をしてくれなかった。まだ疑わしそうにして、優大のオレンジ・ガトーショコラを眺めている。
「しかしな。コストを度外視しているからだ。だからバランス以上の贅沢感が出ているんだ。やっぱりダメだ」
「美味しかったんじゃん。オレンジティーと合っていたよ。お互いのオレンジ上乗せ相乗効果で、すっごいオレンジの香りに包まれる感触だったよ」
それでも父は顔をしかめ、唸っている。
「そうなんだが。いやいや、オレンジピールの使いすぎだ。グランマルニエは大人にしか勧められない。運転する方にも勧められない。他の素材もきっと予算以上に計って作っているはずだ」
さらに白髪交じりの頭をくしゃくしゃと手で混ぜて、父はまだうんうん悶えている。
「あー、なんで試しちゃったかなー。あー、これ美味いじゃないかー。あー、売りたい!」
娘しかいないからなのか、いつも余裕の父がもだもだと迷っている姿を、あからさまに見せたから、舞もぎょっとする。
「売りたくなったの? これを」
ついには、腕を組んで父はうつむき、黙り込んでしまった。
その間も、カラク様は美味しそうにオレンジ・ガトーショコラを味わって満足げに、羊の丘を遠く見つめている。黙ってそっとしていると、父がさっと顔を上げた。
「売る」
えーー! 本気なの!? また舞は仰天する。
0
お気に入りに追加
90
あなたにおすすめの小説
〜鎌倉あやかし奇譚〜 龍神様の許嫁にされてしまいました
五徳ゆう
キャラ文芸
「俺の嫁になれ。そうすれば、お前を災いから守ってやろう」
あやかしに追い詰められ、龍神である「レン」に契約を迫られて
絶体絶命のピンチに陥った高校生の藤村みなみ。
あやかしが見えてしまう体質のみなみの周りには
「訳アリ」のあやかしが集うことになってしまって……!?
江ノ島の老舗旅館「たつみ屋」を舞台に、
あやかしが見えてしまう女子高生と俺様系イケメン龍神との
ちょっとほっこりするハートフルストーリー。
彼女のテレパシー 俺のジェラシー
新道 梨果子
青春
高校に入学したその日から、俺、神崎孝明は出席番号が前の川内遥が気になっている。
けれどロクに話し掛けることもできずに一年が過ぎ、二年生になってしまった。
偶然にもまた同じクラスになったのだが、やっぱり特に話をすることもなく日々は過ぎる。けれどある日、川内のほうから話し掛けてきた。
「実はね、私、園芸部なんじゃけど」
そうして、同じクラスの尾崎千夏、木下隼冬とともに園芸部に入部することになった。
一緒に行動しているうち、俺は川内と付き合うようになったが、彼女は植物と心を通わせられるようで?
四人の高校生の、青春と恋愛の物語。
※ 作中の高校にモデルはありますが、あくまでモデルなので相違点は多々あります。
JOLENEジョリーン・鬼屋は人を許さない 『こわい』です。気を緩めると巻き込まれます。
尾駮アスマ(オブチアスマ おぶちあすま)
キャラ文芸
ホラー・ミステリー+ファンタジー作品です。残酷描写ありです。苦手な方は御注意ください。
完全フィクション作品です。
実在する個人・団体等とは一切関係ありません。
あらすじ
趣味で怪談を集めていた主人公は、ある取材で怪しい物件での出来事を知る。
そして、その建物について探り始める。
ほんの些細な調査のはずが大事件へと繋がってしまう・・・
やがて街を揺るがすほどの事件に主人公は巻き込まれ
特命・国家公務員たちと運命の「祭り」へと進み悪魔たちと対決することになる。
もう逃げ道は無い・・・・
読みやすいように、わざと行間を開けて執筆しています。
もしよければお気に入り登録・イイネ・感想など、よろしくお願いいたします。
大変励みになります。
ありがとうございます。
〈完結〉続々・50女がママチャリで北海道を回ってきた・道南やめてオロロン逆襲のちにスポークが折れてじたばたした話。
江戸川ばた散歩
エッセイ・ノンフィクション
北海道を7月にママチャリで回ること三年目。
今回はそれまでのマルキンのママチャリでなく、ブリヂストン様のアルベルトロイヤルで荷物をしっかりしたバッグに入れて積んでみました。
するとどんなことが起こったか!
旅行中に書いたそのまんまの手記です。
ガラスペンを透かせば、君が
深水千世
ファンタジー
「おばあちゃんと住んでくれる?」
受験に失敗し、両親が離婚した渡瀬薫は、母親の一言で札幌から群馬県にやってきた。
彼女を待っていたのはガラス工房を営む親子に二匹の猫、そして初めて会う祖母だった。
風変わりな面々と暮らすうち、ガラス工房にはちょっと不思議な秘密があると知る。
やがて、ゆきばのない想いの行方を見届けるうち、薫に少しずつ変化がおとずれる。実は彼女自身にも人知れず抱える想いがあったのだった……。
書道家・紫倉悠山のあやかし筆
糸烏 四季乃
キャラ文芸
昔から、俺には不思議な光が見えていた。
それは石だったり人形だったりとその都度姿形がちがって、俺はそういう光を放つものを見つけるのがうまかった。
祖父の家にも光る“書”があるのだが、ある時からその”書”のせいで俺の家で不幸が起き始める。
このままでは家族の命も危険かもしれない。
そう思い始めた矢先、光を放つ美貌の書道家・紫倉悠山という若先生と出会い――?
人とあやかしの不思議な縁が紡ぐ、切なく優しい物語。
※【花の書】にて一旦完結といたします。他所での活動が落ち着き次第、再開予定。
溺愛彼氏は消防士!?
すずなり。
恋愛
彼氏から突然言われた言葉。
「別れよう。」
その言葉はちゃんと受け取ったけど、飲み込むことができない私は友達を呼び出してやけ酒を飲んだ。
飲み過ぎた帰り、イケメン消防士さんに助けられて・・・新しい恋が始まっていく。
「男ならキスの先をは期待させないとな。」
「俺とこの先・・・してみない?」
「もっと・・・甘い声を聞かせて・・?」
私の身は持つの!?
※お話は全て想像の世界になります。現実世界と何ら関係はありません。
※コメントや乾燥を受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
金沢ひがし茶屋街 雨天様のお茶屋敷
河野美姫
キャラ文芸
古都・金沢、加賀百万石の城下町のお茶屋街で巡り会う、不思議なご縁。
雨の神様がもてなす甘味処。
祖母を亡くしたばかりの大学生のひかりは、ひとりで金沢にある祖母の家を訪れ、祖母と何度も足を運んだひがし茶屋街で銀髪の青年と出会う。
彼は、このひがし茶屋街に棲む神様で、自身が守る屋敷にやって来た者たちの傷ついた心を癒やしているのだと言う。
心の拠り所を失くしたばかりのひかりは、意図せずにその屋敷で過ごすことになってしまいーー?
神様と双子の狐の神使、そしてひとりの女子大生が紡ぐ、ひと夏の優しい物語。
アルファポリス 2021/12/22~2022/1/21
※こちらの作品はノベマ!様・エブリスタ様でも公開中(完結済)です。
(2019年に書いた作品をブラッシュアップしています)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる