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ふたりの在り方
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――むしろ肩を寄せ合う口実になる、なんて。蓮に聞かれたら「頭のなか花畑なの?」とでも言われそうだな。
くくっと笑った俺に、ひなたが「なになにー? ユウくんごきげんさん!」と笑ったとき。
「ユウ! ひなた!」
悲鳴めいた声が、幸せな時間に終わりを告げる。
振り向けば、肩で息をするハルさんがいた。
「あんたたちっ! どこに、行ってたの……!」
ぜえぜえと息切れしながらもうなるハルさんに、俺は鞄の底にあるだろうスマホの存在を思い出す。
昼食時にメールを送ったきり、電源を切って忘れてしまっていたものだ。
――いいや、忘れていようと努めてそうしていただけ。
汗をかくほど探し回らせたハルさんへ、罪悪感がむくむくと湧いてくる。
「ちょっと待ってて」
息を整える間も惜しい、とばかりにポケットをさぐったハルさんが取り出したのは、スマホ。
「あ、後藤くん? いた。ふたりとも。うん。後藤くんが言ったとおり、家のそば。歩いて帰ってきた。うん。ありがとうね。今度お礼させて。うん」
ピ、と通話を切ったハルさんは、休む間も無くスマホを操作する。
スマホで何やらやり取りをしていたハルさんは、不意にかかってきた電話に出ると「兄さん、家で待ってる。うん。気を付けて」と短いやりとりを終えて、スマホをポケットに戻し、がっくりと肩を落とした。
「はああぁぁぁぁぁぁ…………」
深い、深いため息が夜の通りに落ちる。
――何か声をかけるべきだろうか。
ちらりと頭をもたげた罪悪感を、認める前に打ち消した。
――いやでも、俺たちはもう中学生なんだ。昼にはきちんと連絡を入れたし、陽が落ちてから帰ってきたって言っても、まだ夜の七時前なんだから。そりゃ、電源を落としてたのは良くなかったかもしれないけどさ。
悪かったところもあるかもしれないけれど、咎められるほどのことをしたわけじゃない。
むくむくと湧く反発心と、ちらちら過ぎる罪悪感とで、そわそわする気持ちを持て余しひなたを横目に見れば、ひなたもまた複雑な顔でハルさんを見ていた。
――やっぱり何か言うべきかな。
罪悪感が勢力を増して、反発心が落ち着き始めたころ。ハルさんは顔を上げて、俺とひなたをキッと見据えた。
つかつかと足音をたてて近づいてくるハルさんの顔が怖い。
怒られる覚悟を決めて、ひなたを背にかばい足を踏ん張った、のに。
「無事でよかった……!」
ぎゅう、と強い力で抱きしめられた。
俺とひなたをまとめて腕のなかに閉じ込めたハルさんの、声が俺の耳元で震えている。
「何回メールしても返事がないし、電話しても電源が入っていないって。まさかあんたたち二人とも、もうこの世にいないんじゃないかって思って、どうしたらいいか、わかんなかったんだからぁ……!」
ぐすぐすと湿った声は、感情に塗れた本気の想い。
心配をかけたんだ。
ようやくそのことに思い至った俺は、痛いくらいに絡ませられた腕をそのままに、ひなたの手をにぎってつぶやく。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい、ハルさん」
ひなたも俺の後ろで言えば、ハルさんは「本当だよ!」と濡れた声のままで怒ってみせる。
「電源入れて、今すぐ。見てるから。ほら早く」
「え、うん。わかった。入れる、入れます」
唐突に急かされて、慌てて鞄を探ろうとするけど、でも、できない。
「あの、ハルさん」
「早く」
「えっと、ハルさん?」
早く早くと急かすわりに、ハルさんの腕は俺とひなたを捕まえたまま。ぎゅうぎゅうに抱きしめられているせいで、身動きもとれないんですけど。
「もう勝手に連絡を絶たない?」
ぎゅう、と押し付けられたハルさんの顔は見えない。けれど弱弱しい懇願の声が込められた感情をすべて伝えていた。
「うん。次からはちゃんと先に伝える」
「絶対?」
「絶対」
「ほんとのほんとに?」
「ほんとのほんとに」
子どもみたいになってるハルさんに、俺は笑いそうになりながら、必死で真面目な声を作って返事する。ついうっかり笑ったりしたら、きっとハルさんは怒るだろう。
「……だったら、許す。今回だけ」
ぎゅうう。ひときわ腕に力を込めて、それからハルさんはようやく俺たちを解放してくれた。
パッと離れてそっぽを向いてしまったから、本当に泣いていたのか、泣きそうになっていただけだったのかは、わからない。
けど、俺たちから顔をそらして目元をごしごしこすっていたから、たぶん泣いていたんだろう。
――泣くほど心配させてごめんなさい。
胸のうちでつぶやいた俺と、俺の隣でおろおろしているひなたの背中を押してハルさんは顔をあげた。
「さあ! 帰ろう。帰って話を聞かせてもらうよ」
「聞いてくれるの!?」
勝気に笑ってみせるハルさんに、ひなたがそわそわをしはじめる。
「ああ、聞くよ。あんたたちがどこで何をしてきたのか、ぜーんぶまるっと聞かせてもらう。だからほら、家に入るよ」
「うん!」
ハルさんに言われて足を速めたひなたは、そわそわと落ち着かない。
今度は心配のそわそわじゃなくて、話しはじめるタイミングをうかがう期待に満ちたそわそわだ。
「あのね、あのね!」
玄関をくぐるなり、ひなたはうれしそうに話し出そうとしたひなたの前に、ハルさんが指を立てた。
「話の前に、言うことは?」
真剣な顔をしたハルさんに見つめられて、ひなたはまぶたをぱちぱちさせる。
なんだろう、なんだっけ。そんな心の動きが見て取れるような表情が、パッと明るくなったのは、答えを見つけたからだろう。
「……ただいま、ハルさん!」
「ん、よくできました! おかえりなさい、ひなた。はい、優も」
元気の良いひなたの返事に満足気にうなずいて、ハルさんは俺を見る。
あいさつなんていつも何気なくしていることを、改まってするのはなんとなく気恥しい。
けど、ハルさんは黙って待ってるし、ひなたは今日の出来事を早く話したいとうずうずしているから。
「ただいま、ハルさん。遅くなってごめんなさい」
「ん、許す。おかえり」
頭に置かれたハルさんの手が、俺の髪の毛をくしゃりとまぜる。
同じように頭をなでられたひなたは、靴を脱いで廊下にあがると、後ろ歩きでハルさんを見上げながらうれしそうに話しだす。
「あのね、あのね、今日はね、友だちと遊園地に行ってたの! それからみんなでご飯にも行ったよ!」
あれこれと話したいことが渋滞しているんだろう、時系列がバラバラなひなたの言葉を俺は、ひなたとハルさんに挟まれて廊下を歩きながら補足する。
「ご飯は昼。あのときはハルさんにメール送ったよね」
「ああ、友だちとご飯に行ってきます、ってやつね。見たよ。それで油断して、仕事にひと段落ついた三時ごろに電話したら、電源切れててめちゃめちゃ焦ったんだから」
おかげでまた後藤くんに借りができちゃったし、とつぶやくハルさんに、申し訳なさが再燃する。
三人で並んで居間に入るなり、ハルさんは「ひー、疲れた疲れた。三十路を走らせるんじゃないよ」とソファに倒れこむ。
ひなたがハルさんのそばに座るのを見届けながら、俺はハルさんの前で頭をさげる。
「遊びに行こうって決まったとき、反対されたらいやだから、良くないってわかってたけど電源切りました。ごめんなさい」
「確かにね。いきなり『ひなたを遊園地デビューさせる』って言われたらびっくりして、今日はご飯行くだけでいいんじゃない、って言っちゃってたかもだけど」
ハルさんはもう怒っていないらしく、ひらひらと手を振って俺に頭をあげさせ、座るように促した。
そうして俺が座る間、考えてから続ける。
「でも、きちんと話してくれたほうがうれしかった。時間を決めておけば、迎えにも行けただろうし」
「うん。そうしてればよかった。一緒に行った女子を送るのに、蓮が付き添って行ってくれたから」
申し訳なさと後悔とを込めて白状すれば、ハルさんが目をぱちぱちさせた。
「蓮くん、遊園地なんて行くの? じゃなかった。そういうとこ良い子よね、あの子。普段は斜に構えてるとこあるのに。でも、女の子となに話すのかしら。ふつうに興味あるわ」
「ふはっ」
思わず笑ってしまった俺は悪くないだろう。
何度か会ったことがある程度のハルさんに、ここまで言われる蓮の態度が良くないんだ。
「レンレンと千明っちなら仲良しだから、大丈夫だよ!」
ひなたがにこにこ言うけど、あのふたりを仲良しでくくるのは何かが間違っている気がしてならない。
「仲良しというか、小野も変わってるからな……」
ついつぶやけば、ハルさんは面白そうな顔で笑う。
「小野ちあきちゃん、っていう子なんだ? その子も蓮くんみたいなタイプ? いやでもああいうタイプは自分から行かないから、仲良くなるのに時間かかるでしょ。しかも相手が同性じゃないと、余計に距離をおきそうなんだけど」
ハルさんの蓮への理解度があまりにも高くて、また笑いそうになる。
「小野は蓮とはまた別の変わったやつだよ。教室ではだいたい本を読んでるけど、興味のあることにはぐいぐい食いつくな」
「それでね、それでね。千明っちは色んなこといっぱい知ってるし、難しいこともいっぱいしゃべるよ!」
ひなたが勢い込んで続けると、ハルさんはくすくす笑う。
「その子もまた、個性豊かなわけね。いいね、会ってみたいな。今度、家に遊びに来ないか誘っておいてよ。私の仕事が休みのときにさ」
ぱああ、と表情を明るくしたひなたは、勢いよくハルさんへ向けて身を乗り出した。あんまり勢いが良いものだから、俺まで引っ張られてしまう。
「いいの!? お家にお友だち呼んでも!」
「もちろん。むしろダメな理由がある? 蓮くんだって来たことあるんだから、よっぽどひとの家を荒らすだとか、私の部屋に勝手に入るような子じゃないなら、好きに呼びなよ。ここは私の家だけど、優とひなたの家でもあるんだからさ」
ハルさんはやさし過ぎやしないだろうか。
いつも頼れるかっこいい大人なのに加えて、優しさまで持ち合わせているなんてずるいと思う。
俺が悔しさを覚えたハルさんの頼り甲斐のある言葉で、ひなたの笑顔も満開だ。
「うん! 言ってみる!」
元気いっぱいの声に今の空気がほわりとやわらいだとき。
ピンポーン。
玄関チャイムの音が無機質に響いて、来訪者を告げた。
***
ハルさんが「飲み物用意するわ」と言ってキッチンに立つ。
居間の床に置いたクッションに俺とひなたが並んで座り、向かい側のソファには俺の父さんと母さんが並んで座った。
「兄さん、義姉さんも。のど乾いたでしょ」
お盆を片手に戻ってきたハルさんは、父さんと母さんの前に湯気の立つ湯呑を置く。
「ああ、悪いな」
「ありがとう、ハルちゃん。ユウたちがずっとお世話になってて」
「ううん。私もこの家ひとりじゃ持て余すし」
母さんの言葉にさらっと返したハルさんは、俺たちの前にも同じように湯呑を並べて、キッチンに下がった。
シンクにもたれかかってひとり、グラスに注いだ水道水をあおっている。
さっきまでの暖かな雰囲気はすっかりと冷めて、重苦しい居心地の悪さがじわじわと俺たちを包み込んでいるようだった。
ひなたは表情ばかりいつものように笑ってみせようとしているのか、笑みを浮かべているものの、いつもと違って気持ちの入っていない笑いはへらりと薄く、から回っているように見えてならない。
こんなとき、気の利いた言葉を言って安心させてやれればいいのに、俺にはまだハルさんのような頼り甲斐も、小野のような口のうまさもありはしない。
ただ、繋いだ手を離さないよう、握った手を強く包み込むことしかできなかった。
湯呑の熱を両手で囲い込んで、父さんと母さんはしばらく黙り込む。しばらくして。
「はあ……」
父さんがこぼしたため息をきっかけに、俺は冷え固まりそうな空気を崩そうと口を開く。
「ひなたの母さんは、平気なの。ふたりとも家を出てきちゃって」
いつ空想に落ちて消えてしまうともわからない娘の存在に心が耐えきれなくなったひなたの母親は、異様な執着心と周囲への過ぎた警戒心に苛まれている。
父親はひなたとひよりのことを気にしながらも、妻の行き過ぎた終着に付き合い切れないと、いつからか帰宅することはなくなった。
――生活費とかもろもろ、振り込まれてはいるらしいから、どこかで暮らしてはいるんだろうけど。
ひなたの母親を俺が最後に見たのは小六の冬。
ひなたを連れ出すときに、荷物を運び出す途中で窓の向こうにちらりと見えた。
幼児が遊ぶような赤ちゃんの人形を大事そうに抱きかかえ、微笑む姿はいっそ神々しいほどの母性に満ち溢れていたことを覚えている。
穏やかな顔をしていた彼女だが、ふとしたタイミングでひなたの不在に気が着くと、半狂乱になって駆け出そうとするから目が離せないと聞いた記憶があったけれど。
「前より落ち着いてきたから、大丈夫よ。ご近所の方も気にかけておいてくれるそうだから。それよりも今は優。あんたたちのことよ」
髪をかきあげた母さんが、真っすぐに俺を見つめてくる。
「まあ、そうだな。ひなたちゃんのお母さんのことは大人に任せておいて……って、それがいけなかったんだよなあ。ひよりちゃんも、親戚の家で暮らしたいっていうから、あれこれ聞かずに送り出したら、まさか同じ学校に入るとは」
ぼりぼりと頭をかいた父さんは、俺とひなたとを見つめて「うん」と頷いた。
「ひなたちゃんのことも、優とひなたちゃんに任せてちゃいけなかったんだ。すまんかった」
深く下げられた父さんの頭。
滅多に見ない父さんの頭頂部が目の前にあることに動揺しながら、俺は慌てて腰を浮かした。
「そんな、俺がひなたのことを守るって決めたんだ! 父さんに謝ってもらうようなことじゃない」
「いいや、お前たちはまだ子どもなんだ。たとえ自分でそう決めたとしても、俺たちはお前のこともひなたちゃんのこともまとめて守れるよう、もっと考えなきゃいけなかった。それが親の責任ってもんだ」
声を荒らげるでもなく、俺たちを諫めるでもない。むしろ自分自身に言い聞かせるように静かに話す父さんの声は、俺が反論する余地を許さないものだった。
――いっそ怒鳴りつけてくれたほうが、こっちも怒鳴り返せたのに。勝手に遊び歩いたことも、連絡絶って探し回らせたこともお咎めなしなんて。そんな子ども扱いするなんて。
わかっていた。
文句を言えるほど俺は大人じゃない。大人なら、きっともっとスマートにいろんなことをこなして、心配も迷惑もかけないんだろう。
――だからって、親に全部責任取らせて平気でいられるほど、そんなに子どもじゃないのに。
歯噛みする俺の想いをわかっているのかいないのか。ひなたが「あは」と笑う。
「ひなた、お家に帰る? あ、でもお家にはママがいるよね。じゃあどうしよ、パパにお願いしたら住む場所借りてくれるかな。でもあたし、パパの連絡先知らないんだよね」
ぺらぺらと喋る声の軽さに反して、すべてを手放そうとするひなたの覚悟が重かった。
――いやだ。
繋いだ手に込められた力が弱まっていることはわかっていた。だけどこの手を離したくなくて、俺は握った手に力を込める。
――ひなたが手を離そうとしたって、俺は離さないからな。
込めた気持ちが届くように、怒りにも似た思いを抱きながら見つめれば、ひなたは困ったように笑う。
「ひなたちゃん、そんな急にすべてを変えようっていう話じゃないんだ。ただ、いまのままじゃ何かが起きたとき、君にも優にも負担が大きすぎると思ってね」
「そうよ。なし崩し的に今の生活に持ち込んでしまったけど、私たちもようやくあなたたちに向き合う時間ができてきたから。きちんと話し合って、あなたたちにとって一番良い形を探るべきだって思っただけなの」
父さんと母さんが穏やかに、話し合いへと導こうとしてる。けどひなたは頑なに笑みを崩さない。
「いっぱい迷惑かけちゃってごめんなさい。ひなた、もっと大人だったら良かった、の……に……」
ずぶ、とひなたの足が床に沈み込む。
ぎくりと息を呑んだ父さんと母さんを視界の端に収めながら、俺はひなたのもう一方の手を取る。
「ひなた」
呼びかけに、もう返事はない。
覗き込んだひなたの瞳はうつろで、すでに現実を見てはいないんだろう。
青い光を映しこんだひなたは、何を見ているんだろう。
繋いだ手を離さないまま、ひなたの瞳ごしの空想世界に見とれていた。
「優ッ!」
ふと、叫び声に目を向ければ父さんと母さんが俺たちに手を伸ばしている。
俺はその腕からひなたを隠すように抱きしめて、引き寄せる。
――ひとりで沈ませてなんてやらないよ。
甘やかな幻想から引きずりもどして、耳元でささやくんだ。
「ひなた、行っちゃだめだ。まだ、だめだよ」
「あ……ユウ、くん……?」
ぱちり、瞬きをするひなたを抱えたまま、俺は父さんたちに笑いかける。
「ほら、大丈夫。ひなたは俺が守るから。ね?」
「優、お前……」
父さんが何か口ごもり、母さんはその隣で変な顔。眉間にしわを寄せたハルさんは、どうしたんだろう。
様子のおかしい大人たちに首をかしげながら、俺はまだぼんやりしているひなたを促して立ち上がる。
「ひなた、疲れてるみたいだから今日はもう寝るよ。続きはまた明日で良い?」
どうせひなたはしばらくの間、学校には行けない。当然、俺もそれに付きそうから実質休みのようなものだ。
俺の申し出に父さんと母さんは目くばせし合い、ハルさんは「兄さんたちの判断に任せるよ」と肩をすくめた。
「……そうだな。急いであれこれ決めると、また間違うかもしれない。ひと晩、待ってくれ。明日、全員でゆっくり話し合おう」
父さんの言葉に俺はうなずき、ひなたといっしょに居間をあとにした。
***
二階の部屋にたどり着いて、俺はベッドへと向かう。
電気をつけずにそれぞれのベッドへ寝そべった。
繋いだままの手が、ベッドとベッドの間にかけられた衝立がわりのカーテンにくすぐられた。
黙ってベッドに身を沈めていると、一階で何かを話している大人たちの声がかすかに聞こえてくる。
怒声はない。けれど感情を押し殺したような響きがぽつぽつと聞こえてくるのは、きっとそれぞれが自分の意見を口にしているのだろう。
――明るい話しじゃないんだろうなあ。
話している内容までは聞こえないけれど、それだけはわかっていた。
俺とひなたが一年と少しだけ過ごした「普通の日常」は、たぶん今日でおしまいだ。
「……ユウくん」
うす暗い部屋のなか、ひなたがささやくように俺の名前を呼ぶ。
「ん?」
顔を向けてもカーテンに遮られて、お互いの姿は見えない。
でも、繋いだ手にこもる力加減がわずかにかわったのを感じて、たぶんひなたはこっちを向いてるんだろうな、と思い描く。
「あのね、今日、楽しかったね」
――顔が見たい。
考えるよりも先にそう思うほど、ひなたの声はうれしげで。
「みんなでご飯食べるのも、並んでバスに乗るのもすごく楽しかったし、遊園地なんてね。あたし行けないと思ってたから」
「……行きたいって、思ってたんだな」
振り返ってみれば、ひなたの口からそんな願望を聞いたことはなかった。
目にするもの出会うもの、すべてに対して楽し気に振舞う彼女ではあったけれど、それはどれも「すてき」「かわいい」「好き」と言った彼女自身の感情を表す以上の意味を持つことはなくて。
――ずっと、思ってたんだな。思ってて、言えなかった。いや、言えない立場に追いやってたんだ。周りの、俺の態度が。
ぎり、と握りしめた繋いでいないほうの拳のなかで、爪が皮膚に突き刺さる痛みを感じた。
けれどそれがなんだっていうのか。ささやかな願いすら胸の奥に押し込めて過ごしていたひなたの苦しみは、どれほどだったろう。
――ごめん。
謝りたかった。でも謝ればひなたはきっと軽く「いいよ」と許してくれるから、謝るのは卑怯だと思った。
だから俺は謝りたい気持ちを押し殺して、明るい声で言うんだ。
「俺も楽しかった」
これは本心。
申し訳なさで張り裂けそうな心に、確かに存在する愛おしい感情。言葉だけで伝わるとは思えなくて、繋いだ手にそっと力を込める。
――伝わるといいな。俺も本当に楽しかったんだ。
小野のように豊富な語彙は無いけれど、精いっぱい伝えよう。
「ひなたの色んな顔が見られて楽しかった。俺の手を離して小野と行ってしまったのは驚いたし、ちょっと寂しかったけど」
「ユウくん……」
「でも、そのぶん少し離れたところから笑うひなたを見られた。誰かと楽しそうにしてるひなたを遠くから見るのはずいぶん久しぶりで、なんだろうな。こういうのも悪くないな、って」
これも本心。小野の手を取るひなたに愕然としたし、本当はまだちょっと拗ねてしまいたがっている自分がいるのも気が付いているけど。
「離れて見て、改めて思ったんだ。俺、ひなたが好きだよ」
「えっ」
ばさ、とひなたの動きに合わせて俺たちを隔てるカーテンが跳ね上げられた。
わざとめくったわけじゃない、不可抗力だ。けれど俺はめくれたカーテンを持ち上げて、ひなたのベッドへ身を乗り出す。
お互いのスペースには侵入しないこと。
両親やハルさんと決めたルールを破る行為。
でも構うものか。このままじゃ、俺とひなたは引き離されてしまうのだから。
「なあ、ひなた」
――今度はどうか、この手を取って。
祈りを込めて見つめたひなたの目は、揺れている。
うすぐらい部屋のなかでもよくわかる。
ひなたのなかで揺れる感情は、心残りと諦めと、そしてかすかな期待。
ひなたが捨てきれなかった、ほんのひと握りの感情を突いて引きずり出す俺は、きっと悪いやつなんだろう。
「逃げよう。俺と、ふたりで。どこまでも、いつまでもいっしょに」
上半身を起こし、ひなたの耳元にささやきかけた。
甘い誘いとともに左手を差し出せば、ひなたは瞳を揺らしながら俺の手のひらを見つめている。
迷い、ためらい、宙をさまよったひなたの右手が指を伸ばし、けれど己を戒めるように引っ込められた。
でももう遅い。
「行こう、ひなた」
迷う気持ちごと包み込んで、俺の手のなかに閉じ込めてしまう。
「楽しいこと、もっとたくさんしに行こう。ふたりでならきっと大丈夫だから」
くくっと笑った俺に、ひなたが「なになにー? ユウくんごきげんさん!」と笑ったとき。
「ユウ! ひなた!」
悲鳴めいた声が、幸せな時間に終わりを告げる。
振り向けば、肩で息をするハルさんがいた。
「あんたたちっ! どこに、行ってたの……!」
ぜえぜえと息切れしながらもうなるハルさんに、俺は鞄の底にあるだろうスマホの存在を思い出す。
昼食時にメールを送ったきり、電源を切って忘れてしまっていたものだ。
――いいや、忘れていようと努めてそうしていただけ。
汗をかくほど探し回らせたハルさんへ、罪悪感がむくむくと湧いてくる。
「ちょっと待ってて」
息を整える間も惜しい、とばかりにポケットをさぐったハルさんが取り出したのは、スマホ。
「あ、後藤くん? いた。ふたりとも。うん。後藤くんが言ったとおり、家のそば。歩いて帰ってきた。うん。ありがとうね。今度お礼させて。うん」
ピ、と通話を切ったハルさんは、休む間も無くスマホを操作する。
スマホで何やらやり取りをしていたハルさんは、不意にかかってきた電話に出ると「兄さん、家で待ってる。うん。気を付けて」と短いやりとりを終えて、スマホをポケットに戻し、がっくりと肩を落とした。
「はああぁぁぁぁぁぁ…………」
深い、深いため息が夜の通りに落ちる。
――何か声をかけるべきだろうか。
ちらりと頭をもたげた罪悪感を、認める前に打ち消した。
――いやでも、俺たちはもう中学生なんだ。昼にはきちんと連絡を入れたし、陽が落ちてから帰ってきたって言っても、まだ夜の七時前なんだから。そりゃ、電源を落としてたのは良くなかったかもしれないけどさ。
悪かったところもあるかもしれないけれど、咎められるほどのことをしたわけじゃない。
むくむくと湧く反発心と、ちらちら過ぎる罪悪感とで、そわそわする気持ちを持て余しひなたを横目に見れば、ひなたもまた複雑な顔でハルさんを見ていた。
――やっぱり何か言うべきかな。
罪悪感が勢力を増して、反発心が落ち着き始めたころ。ハルさんは顔を上げて、俺とひなたをキッと見据えた。
つかつかと足音をたてて近づいてくるハルさんの顔が怖い。
怒られる覚悟を決めて、ひなたを背にかばい足を踏ん張った、のに。
「無事でよかった……!」
ぎゅう、と強い力で抱きしめられた。
俺とひなたをまとめて腕のなかに閉じ込めたハルさんの、声が俺の耳元で震えている。
「何回メールしても返事がないし、電話しても電源が入っていないって。まさかあんたたち二人とも、もうこの世にいないんじゃないかって思って、どうしたらいいか、わかんなかったんだからぁ……!」
ぐすぐすと湿った声は、感情に塗れた本気の想い。
心配をかけたんだ。
ようやくそのことに思い至った俺は、痛いくらいに絡ませられた腕をそのままに、ひなたの手をにぎってつぶやく。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい、ハルさん」
ひなたも俺の後ろで言えば、ハルさんは「本当だよ!」と濡れた声のままで怒ってみせる。
「電源入れて、今すぐ。見てるから。ほら早く」
「え、うん。わかった。入れる、入れます」
唐突に急かされて、慌てて鞄を探ろうとするけど、でも、できない。
「あの、ハルさん」
「早く」
「えっと、ハルさん?」
早く早くと急かすわりに、ハルさんの腕は俺とひなたを捕まえたまま。ぎゅうぎゅうに抱きしめられているせいで、身動きもとれないんですけど。
「もう勝手に連絡を絶たない?」
ぎゅう、と押し付けられたハルさんの顔は見えない。けれど弱弱しい懇願の声が込められた感情をすべて伝えていた。
「うん。次からはちゃんと先に伝える」
「絶対?」
「絶対」
「ほんとのほんとに?」
「ほんとのほんとに」
子どもみたいになってるハルさんに、俺は笑いそうになりながら、必死で真面目な声を作って返事する。ついうっかり笑ったりしたら、きっとハルさんは怒るだろう。
「……だったら、許す。今回だけ」
ぎゅうう。ひときわ腕に力を込めて、それからハルさんはようやく俺たちを解放してくれた。
パッと離れてそっぽを向いてしまったから、本当に泣いていたのか、泣きそうになっていただけだったのかは、わからない。
けど、俺たちから顔をそらして目元をごしごしこすっていたから、たぶん泣いていたんだろう。
――泣くほど心配させてごめんなさい。
胸のうちでつぶやいた俺と、俺の隣でおろおろしているひなたの背中を押してハルさんは顔をあげた。
「さあ! 帰ろう。帰って話を聞かせてもらうよ」
「聞いてくれるの!?」
勝気に笑ってみせるハルさんに、ひなたがそわそわをしはじめる。
「ああ、聞くよ。あんたたちがどこで何をしてきたのか、ぜーんぶまるっと聞かせてもらう。だからほら、家に入るよ」
「うん!」
ハルさんに言われて足を速めたひなたは、そわそわと落ち着かない。
今度は心配のそわそわじゃなくて、話しはじめるタイミングをうかがう期待に満ちたそわそわだ。
「あのね、あのね!」
玄関をくぐるなり、ひなたはうれしそうに話し出そうとしたひなたの前に、ハルさんが指を立てた。
「話の前に、言うことは?」
真剣な顔をしたハルさんに見つめられて、ひなたはまぶたをぱちぱちさせる。
なんだろう、なんだっけ。そんな心の動きが見て取れるような表情が、パッと明るくなったのは、答えを見つけたからだろう。
「……ただいま、ハルさん!」
「ん、よくできました! おかえりなさい、ひなた。はい、優も」
元気の良いひなたの返事に満足気にうなずいて、ハルさんは俺を見る。
あいさつなんていつも何気なくしていることを、改まってするのはなんとなく気恥しい。
けど、ハルさんは黙って待ってるし、ひなたは今日の出来事を早く話したいとうずうずしているから。
「ただいま、ハルさん。遅くなってごめんなさい」
「ん、許す。おかえり」
頭に置かれたハルさんの手が、俺の髪の毛をくしゃりとまぜる。
同じように頭をなでられたひなたは、靴を脱いで廊下にあがると、後ろ歩きでハルさんを見上げながらうれしそうに話しだす。
「あのね、あのね、今日はね、友だちと遊園地に行ってたの! それからみんなでご飯にも行ったよ!」
あれこれと話したいことが渋滞しているんだろう、時系列がバラバラなひなたの言葉を俺は、ひなたとハルさんに挟まれて廊下を歩きながら補足する。
「ご飯は昼。あのときはハルさんにメール送ったよね」
「ああ、友だちとご飯に行ってきます、ってやつね。見たよ。それで油断して、仕事にひと段落ついた三時ごろに電話したら、電源切れててめちゃめちゃ焦ったんだから」
おかげでまた後藤くんに借りができちゃったし、とつぶやくハルさんに、申し訳なさが再燃する。
三人で並んで居間に入るなり、ハルさんは「ひー、疲れた疲れた。三十路を走らせるんじゃないよ」とソファに倒れこむ。
ひなたがハルさんのそばに座るのを見届けながら、俺はハルさんの前で頭をさげる。
「遊びに行こうって決まったとき、反対されたらいやだから、良くないってわかってたけど電源切りました。ごめんなさい」
「確かにね。いきなり『ひなたを遊園地デビューさせる』って言われたらびっくりして、今日はご飯行くだけでいいんじゃない、って言っちゃってたかもだけど」
ハルさんはもう怒っていないらしく、ひらひらと手を振って俺に頭をあげさせ、座るように促した。
そうして俺が座る間、考えてから続ける。
「でも、きちんと話してくれたほうがうれしかった。時間を決めておけば、迎えにも行けただろうし」
「うん。そうしてればよかった。一緒に行った女子を送るのに、蓮が付き添って行ってくれたから」
申し訳なさと後悔とを込めて白状すれば、ハルさんが目をぱちぱちさせた。
「蓮くん、遊園地なんて行くの? じゃなかった。そういうとこ良い子よね、あの子。普段は斜に構えてるとこあるのに。でも、女の子となに話すのかしら。ふつうに興味あるわ」
「ふはっ」
思わず笑ってしまった俺は悪くないだろう。
何度か会ったことがある程度のハルさんに、ここまで言われる蓮の態度が良くないんだ。
「レンレンと千明っちなら仲良しだから、大丈夫だよ!」
ひなたがにこにこ言うけど、あのふたりを仲良しでくくるのは何かが間違っている気がしてならない。
「仲良しというか、小野も変わってるからな……」
ついつぶやけば、ハルさんは面白そうな顔で笑う。
「小野ちあきちゃん、っていう子なんだ? その子も蓮くんみたいなタイプ? いやでもああいうタイプは自分から行かないから、仲良くなるのに時間かかるでしょ。しかも相手が同性じゃないと、余計に距離をおきそうなんだけど」
ハルさんの蓮への理解度があまりにも高くて、また笑いそうになる。
「小野は蓮とはまた別の変わったやつだよ。教室ではだいたい本を読んでるけど、興味のあることにはぐいぐい食いつくな」
「それでね、それでね。千明っちは色んなこといっぱい知ってるし、難しいこともいっぱいしゃべるよ!」
ひなたが勢い込んで続けると、ハルさんはくすくす笑う。
「その子もまた、個性豊かなわけね。いいね、会ってみたいな。今度、家に遊びに来ないか誘っておいてよ。私の仕事が休みのときにさ」
ぱああ、と表情を明るくしたひなたは、勢いよくハルさんへ向けて身を乗り出した。あんまり勢いが良いものだから、俺まで引っ張られてしまう。
「いいの!? お家にお友だち呼んでも!」
「もちろん。むしろダメな理由がある? 蓮くんだって来たことあるんだから、よっぽどひとの家を荒らすだとか、私の部屋に勝手に入るような子じゃないなら、好きに呼びなよ。ここは私の家だけど、優とひなたの家でもあるんだからさ」
ハルさんはやさし過ぎやしないだろうか。
いつも頼れるかっこいい大人なのに加えて、優しさまで持ち合わせているなんてずるいと思う。
俺が悔しさを覚えたハルさんの頼り甲斐のある言葉で、ひなたの笑顔も満開だ。
「うん! 言ってみる!」
元気いっぱいの声に今の空気がほわりとやわらいだとき。
ピンポーン。
玄関チャイムの音が無機質に響いて、来訪者を告げた。
***
ハルさんが「飲み物用意するわ」と言ってキッチンに立つ。
居間の床に置いたクッションに俺とひなたが並んで座り、向かい側のソファには俺の父さんと母さんが並んで座った。
「兄さん、義姉さんも。のど乾いたでしょ」
お盆を片手に戻ってきたハルさんは、父さんと母さんの前に湯気の立つ湯呑を置く。
「ああ、悪いな」
「ありがとう、ハルちゃん。ユウたちがずっとお世話になってて」
「ううん。私もこの家ひとりじゃ持て余すし」
母さんの言葉にさらっと返したハルさんは、俺たちの前にも同じように湯呑を並べて、キッチンに下がった。
シンクにもたれかかってひとり、グラスに注いだ水道水をあおっている。
さっきまでの暖かな雰囲気はすっかりと冷めて、重苦しい居心地の悪さがじわじわと俺たちを包み込んでいるようだった。
ひなたは表情ばかりいつものように笑ってみせようとしているのか、笑みを浮かべているものの、いつもと違って気持ちの入っていない笑いはへらりと薄く、から回っているように見えてならない。
こんなとき、気の利いた言葉を言って安心させてやれればいいのに、俺にはまだハルさんのような頼り甲斐も、小野のような口のうまさもありはしない。
ただ、繋いだ手を離さないよう、握った手を強く包み込むことしかできなかった。
湯呑の熱を両手で囲い込んで、父さんと母さんはしばらく黙り込む。しばらくして。
「はあ……」
父さんがこぼしたため息をきっかけに、俺は冷え固まりそうな空気を崩そうと口を開く。
「ひなたの母さんは、平気なの。ふたりとも家を出てきちゃって」
いつ空想に落ちて消えてしまうともわからない娘の存在に心が耐えきれなくなったひなたの母親は、異様な執着心と周囲への過ぎた警戒心に苛まれている。
父親はひなたとひよりのことを気にしながらも、妻の行き過ぎた終着に付き合い切れないと、いつからか帰宅することはなくなった。
――生活費とかもろもろ、振り込まれてはいるらしいから、どこかで暮らしてはいるんだろうけど。
ひなたの母親を俺が最後に見たのは小六の冬。
ひなたを連れ出すときに、荷物を運び出す途中で窓の向こうにちらりと見えた。
幼児が遊ぶような赤ちゃんの人形を大事そうに抱きかかえ、微笑む姿はいっそ神々しいほどの母性に満ち溢れていたことを覚えている。
穏やかな顔をしていた彼女だが、ふとしたタイミングでひなたの不在に気が着くと、半狂乱になって駆け出そうとするから目が離せないと聞いた記憶があったけれど。
「前より落ち着いてきたから、大丈夫よ。ご近所の方も気にかけておいてくれるそうだから。それよりも今は優。あんたたちのことよ」
髪をかきあげた母さんが、真っすぐに俺を見つめてくる。
「まあ、そうだな。ひなたちゃんのお母さんのことは大人に任せておいて……って、それがいけなかったんだよなあ。ひよりちゃんも、親戚の家で暮らしたいっていうから、あれこれ聞かずに送り出したら、まさか同じ学校に入るとは」
ぼりぼりと頭をかいた父さんは、俺とひなたとを見つめて「うん」と頷いた。
「ひなたちゃんのことも、優とひなたちゃんに任せてちゃいけなかったんだ。すまんかった」
深く下げられた父さんの頭。
滅多に見ない父さんの頭頂部が目の前にあることに動揺しながら、俺は慌てて腰を浮かした。
「そんな、俺がひなたのことを守るって決めたんだ! 父さんに謝ってもらうようなことじゃない」
「いいや、お前たちはまだ子どもなんだ。たとえ自分でそう決めたとしても、俺たちはお前のこともひなたちゃんのこともまとめて守れるよう、もっと考えなきゃいけなかった。それが親の責任ってもんだ」
声を荒らげるでもなく、俺たちを諫めるでもない。むしろ自分自身に言い聞かせるように静かに話す父さんの声は、俺が反論する余地を許さないものだった。
――いっそ怒鳴りつけてくれたほうが、こっちも怒鳴り返せたのに。勝手に遊び歩いたことも、連絡絶って探し回らせたこともお咎めなしなんて。そんな子ども扱いするなんて。
わかっていた。
文句を言えるほど俺は大人じゃない。大人なら、きっともっとスマートにいろんなことをこなして、心配も迷惑もかけないんだろう。
――だからって、親に全部責任取らせて平気でいられるほど、そんなに子どもじゃないのに。
歯噛みする俺の想いをわかっているのかいないのか。ひなたが「あは」と笑う。
「ひなた、お家に帰る? あ、でもお家にはママがいるよね。じゃあどうしよ、パパにお願いしたら住む場所借りてくれるかな。でもあたし、パパの連絡先知らないんだよね」
ぺらぺらと喋る声の軽さに反して、すべてを手放そうとするひなたの覚悟が重かった。
――いやだ。
繋いだ手に込められた力が弱まっていることはわかっていた。だけどこの手を離したくなくて、俺は握った手に力を込める。
――ひなたが手を離そうとしたって、俺は離さないからな。
込めた気持ちが届くように、怒りにも似た思いを抱きながら見つめれば、ひなたは困ったように笑う。
「ひなたちゃん、そんな急にすべてを変えようっていう話じゃないんだ。ただ、いまのままじゃ何かが起きたとき、君にも優にも負担が大きすぎると思ってね」
「そうよ。なし崩し的に今の生活に持ち込んでしまったけど、私たちもようやくあなたたちに向き合う時間ができてきたから。きちんと話し合って、あなたたちにとって一番良い形を探るべきだって思っただけなの」
父さんと母さんが穏やかに、話し合いへと導こうとしてる。けどひなたは頑なに笑みを崩さない。
「いっぱい迷惑かけちゃってごめんなさい。ひなた、もっと大人だったら良かった、の……に……」
ずぶ、とひなたの足が床に沈み込む。
ぎくりと息を呑んだ父さんと母さんを視界の端に収めながら、俺はひなたのもう一方の手を取る。
「ひなた」
呼びかけに、もう返事はない。
覗き込んだひなたの瞳はうつろで、すでに現実を見てはいないんだろう。
青い光を映しこんだひなたは、何を見ているんだろう。
繋いだ手を離さないまま、ひなたの瞳ごしの空想世界に見とれていた。
「優ッ!」
ふと、叫び声に目を向ければ父さんと母さんが俺たちに手を伸ばしている。
俺はその腕からひなたを隠すように抱きしめて、引き寄せる。
――ひとりで沈ませてなんてやらないよ。
甘やかな幻想から引きずりもどして、耳元でささやくんだ。
「ひなた、行っちゃだめだ。まだ、だめだよ」
「あ……ユウ、くん……?」
ぱちり、瞬きをするひなたを抱えたまま、俺は父さんたちに笑いかける。
「ほら、大丈夫。ひなたは俺が守るから。ね?」
「優、お前……」
父さんが何か口ごもり、母さんはその隣で変な顔。眉間にしわを寄せたハルさんは、どうしたんだろう。
様子のおかしい大人たちに首をかしげながら、俺はまだぼんやりしているひなたを促して立ち上がる。
「ひなた、疲れてるみたいだから今日はもう寝るよ。続きはまた明日で良い?」
どうせひなたはしばらくの間、学校には行けない。当然、俺もそれに付きそうから実質休みのようなものだ。
俺の申し出に父さんと母さんは目くばせし合い、ハルさんは「兄さんたちの判断に任せるよ」と肩をすくめた。
「……そうだな。急いであれこれ決めると、また間違うかもしれない。ひと晩、待ってくれ。明日、全員でゆっくり話し合おう」
父さんの言葉に俺はうなずき、ひなたといっしょに居間をあとにした。
***
二階の部屋にたどり着いて、俺はベッドへと向かう。
電気をつけずにそれぞれのベッドへ寝そべった。
繋いだままの手が、ベッドとベッドの間にかけられた衝立がわりのカーテンにくすぐられた。
黙ってベッドに身を沈めていると、一階で何かを話している大人たちの声がかすかに聞こえてくる。
怒声はない。けれど感情を押し殺したような響きがぽつぽつと聞こえてくるのは、きっとそれぞれが自分の意見を口にしているのだろう。
――明るい話しじゃないんだろうなあ。
話している内容までは聞こえないけれど、それだけはわかっていた。
俺とひなたが一年と少しだけ過ごした「普通の日常」は、たぶん今日でおしまいだ。
「……ユウくん」
うす暗い部屋のなか、ひなたがささやくように俺の名前を呼ぶ。
「ん?」
顔を向けてもカーテンに遮られて、お互いの姿は見えない。
でも、繋いだ手にこもる力加減がわずかにかわったのを感じて、たぶんひなたはこっちを向いてるんだろうな、と思い描く。
「あのね、今日、楽しかったね」
――顔が見たい。
考えるよりも先にそう思うほど、ひなたの声はうれしげで。
「みんなでご飯食べるのも、並んでバスに乗るのもすごく楽しかったし、遊園地なんてね。あたし行けないと思ってたから」
「……行きたいって、思ってたんだな」
振り返ってみれば、ひなたの口からそんな願望を聞いたことはなかった。
目にするもの出会うもの、すべてに対して楽し気に振舞う彼女ではあったけれど、それはどれも「すてき」「かわいい」「好き」と言った彼女自身の感情を表す以上の意味を持つことはなくて。
――ずっと、思ってたんだな。思ってて、言えなかった。いや、言えない立場に追いやってたんだ。周りの、俺の態度が。
ぎり、と握りしめた繋いでいないほうの拳のなかで、爪が皮膚に突き刺さる痛みを感じた。
けれどそれがなんだっていうのか。ささやかな願いすら胸の奥に押し込めて過ごしていたひなたの苦しみは、どれほどだったろう。
――ごめん。
謝りたかった。でも謝ればひなたはきっと軽く「いいよ」と許してくれるから、謝るのは卑怯だと思った。
だから俺は謝りたい気持ちを押し殺して、明るい声で言うんだ。
「俺も楽しかった」
これは本心。
申し訳なさで張り裂けそうな心に、確かに存在する愛おしい感情。言葉だけで伝わるとは思えなくて、繋いだ手にそっと力を込める。
――伝わるといいな。俺も本当に楽しかったんだ。
小野のように豊富な語彙は無いけれど、精いっぱい伝えよう。
「ひなたの色んな顔が見られて楽しかった。俺の手を離して小野と行ってしまったのは驚いたし、ちょっと寂しかったけど」
「ユウくん……」
「でも、そのぶん少し離れたところから笑うひなたを見られた。誰かと楽しそうにしてるひなたを遠くから見るのはずいぶん久しぶりで、なんだろうな。こういうのも悪くないな、って」
これも本心。小野の手を取るひなたに愕然としたし、本当はまだちょっと拗ねてしまいたがっている自分がいるのも気が付いているけど。
「離れて見て、改めて思ったんだ。俺、ひなたが好きだよ」
「えっ」
ばさ、とひなたの動きに合わせて俺たちを隔てるカーテンが跳ね上げられた。
わざとめくったわけじゃない、不可抗力だ。けれど俺はめくれたカーテンを持ち上げて、ひなたのベッドへ身を乗り出す。
お互いのスペースには侵入しないこと。
両親やハルさんと決めたルールを破る行為。
でも構うものか。このままじゃ、俺とひなたは引き離されてしまうのだから。
「なあ、ひなた」
――今度はどうか、この手を取って。
祈りを込めて見つめたひなたの目は、揺れている。
うすぐらい部屋のなかでもよくわかる。
ひなたのなかで揺れる感情は、心残りと諦めと、そしてかすかな期待。
ひなたが捨てきれなかった、ほんのひと握りの感情を突いて引きずり出す俺は、きっと悪いやつなんだろう。
「逃げよう。俺と、ふたりで。どこまでも、いつまでもいっしょに」
上半身を起こし、ひなたの耳元にささやきかけた。
甘い誘いとともに左手を差し出せば、ひなたは瞳を揺らしながら俺の手のひらを見つめている。
迷い、ためらい、宙をさまよったひなたの右手が指を伸ばし、けれど己を戒めるように引っ込められた。
でももう遅い。
「行こう、ひなた」
迷う気持ちごと包み込んで、俺の手のなかに閉じ込めてしまう。
「楽しいこと、もっとたくさんしに行こう。ふたりでならきっと大丈夫だから」
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