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困ったときのジャージ眼鏡
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ちくりちくりと刺さる視線と、耳を刺すひそひそ話。
いつもどおりの笑顔を保っていても、ひなたの笑い声に紛れてはくれないそれらが、ちいさな傷のように俺たちを苛む。
それでも蓮と小野が態度を変えずに接してくれたおかげで、どうにか一日の授業日程をクリアした。
「はあ、明日も体育だって。しかも一限目からとか、時間割組んだ人、頭おかしいんじゃないの?」
翌日の連絡事項が黒板に書きだされるのを板書しながら、蓮が悪態をつく。
ひとりごとだろうそれにくすりと笑って、左手で板書を進めていると、ふと誰かが俺とひなたの間に立った。
蓮じゃない。ややくたびれたスラックスの脚の持ち主は、担任教師の白川だ。
「すまん、木許、矢野。ちょっと着いてきてもらえるか?」
何気ない声で呼びかけたのは、担任なりの気遣いなのだろう。その証拠に、クラスメイトたちに背を向けて見えないであろう表情は、ひどく申し訳なさそうだ。
ぎゅ、とつないだ手に力がこもるのが伝わってきたけれど、教師の身体ごしにもクラス中の視線が集まっていることがわかって俺は頷いた。
「ああ。直接渡したいって言ってた書類の話ですね?」
――そんなものないけど。
俺の意図を正確に受け取ったのだろう、平川先生は「そうそう」と軽い調子で答えてから、くるりと教室のなかに向き直る。
ざわざわと俺たちのことを好き勝手に喋っていたクラスメイトたちが、平川先生の視線に気づいてぴたりと静まった。
全員の注目を集めてから、平川先生はへらりと笑う。
「はいはい、みんないつまでも教室で喋ってないで、部活がある人は部活に。帰る人はさくさく帰りなさい。学校の授業だけで一日が終わるなんて、もったいないだろ」
おどけた言葉にみんなが目を丸くし、一拍を挟んで。
「それ、教師が言う?」
蓮のすぱりとした突っ込みに、クラス中がどっと笑う。
「おお、神崎はなかなか手厳しいなあ」
「そんなことありません」
「いやいや、神崎にずばっと言われてしまったから、先生はもう行くよ。じゃあな、みんな気を付けて帰るんだぞ」
自然な流れで後ろの扉から教室を出る平川先生に続いて、俺とひなたも廊下へ出る。
そして、なんてことのないやりとりをしながらたどり着いた先は、進路相談室。放課後の学校のにぎやかさが一段減った職員室を横切り、さらに奥まった位置にある小部屋がそれだった。
平川先生に促されるまま俺とひなたが入室すると、部屋のなかにはすでに女性がひとり、椅子に座っている。ひよりの担任教師だ。
「こんにちは、一年三組担任の染谷です」
律儀に立ち上がり、一礼をした彼女にならって俺たちも「木許優です」「矢野ひなたです」と名乗る。
扉を閉めた平川先生が染谷先生と並んで座るので、俺たちもふたりと向かい合う形で、机をはさんで椅子に腰を下ろした。
平川先生がため息をつくようにこぼして身じろぐと、備え付けのパイプ椅子がぎしりと軋む。
「さて。まず聞くが、一年の矢野ひよりさんはあなたの妹で間違いないか?」
「……はい。ひよりちゃんはあたしの妹です」
うなずくひなたを確認して、平川先生は続けた。
「でも、生徒情報を見るとあなたと一年の矢野さん……ややこしいな。ひよりさんの住所は違っているね。そして保護者の欄にある名前も違う。あなたのほうは木許さんの、親族の方だね」
言いながら平川先生が手元の紙をぺらりとめくる。そこに、生徒の個人情報が書いてあるのだろう。
「俺のおばのハルさんです。ひなたは訳あって実の親の元では暮らせないので、俺の父親の実家に居候してるんです。俺の父親は実家を出ているから、今はその妹のハルさんが家の持ち主なので」
「うん。そこらへんは去年、入学前に木許さんのご両親とおばさんを交えて聞いたとおりだね。ひよりさんの保護者もあちらの親族の方だし、あなたたちが手をつないでいなければいけないという医師の診断書もあるから、あなたたちがこの学校に通うことについて、学校側としての問題はない。ただね」
ぽり、と平川先生が後頭部をかく。
どう言おうか、言葉に悩んでいる様子の平川先生から引き継いで、染谷先生が口を開いた。
「昨日と今朝と、ひよりさんとお話をしたの。そのときに、木許さんとひなたさんを別々のクラスにしないなら、何度だって二年の教室に乗り込んでいくと言われてしまって。どうして二人が同じ教室じゃいけないのか、と聞いても答えてはくれないものだから、あなたたちにも話を聞こうと思って呼んだのだけれど」
「すみません。ひなたはひよりとは幼稚園以来、ほとんど会って無いからわからないはずです。俺は小学生の間は遊んだり家に招いたりしてたけど、それでも、あんな風に人を怒鳴りつけたりするような子じゃなかった、としか……」
答える俺のとなりでひなたは顔を青くし、ちいさく震えている。
自分の足元を見つめる虚な瞳が、ふと色を変えた。
――まずい、足の先が空想に落ちてる!
「あの!」
ガタンッ! 勢いよく立ち上がったせいで椅子が大きな音を立て、先生たちが驚いたように俺を見上げる。
――ひなたの症状には気づいてない、いまのうちに。
空想を見ているのだろう、ぼんやりしているひなたの瞳をのぞきこみたい衝動を抑えて俺はひなたの手を引き、立ち上がらせた。
「ひよりとのこと、今日、話し合おうっておばに言われてるんです。だからそろそろ帰らないと……」
時間を気にするふりをして室内を見回すけれど、時計が見当たらない。それに気づいた平川先生が、自身の腕時計に目をやって「そうか」と頷く。
「わかった。そうしたら、明日にでもまた話しを聞かせてもらおうかな。家族で話して、その情報を先生たちにも共有させてほしい。あなたたちにとって一番良い形を探せるように」
「はい、もちろん。じゃあ、失礼します。行こう、ひなた」
大人受けのいい笑顔に素直な返事を添えて、俺たちは教室を出た。けれどそこはまだ職員室だ。
――はやく。
手を引かれるままに歩くひなたの足元が、水たまりのようにとぷとぷと揺らいでいる。
ちらちらと向けられる教師たちの視線に、顔がひきつってやしないかと不安になりながら、注意をされない限界ギリギリの速さで室内を通り抜けた。
職員室の扉を開け、一礼して退室する。笑顔を貼り付け扉を閉め切ったところで、背中にどっと冷や汗が噴き出した。
――切り抜けた……!
安心した瞬間、ゆるんだ手からひなたの指がすり抜ける。
「あっ」
落ちていく。学校の廊下を踏み抜いて、ひなたの体が空想の世界へと沈んでいく。
――行かないで。行くのなら、俺も……。
「矢野!」
鋭い声と同時、横から伸びた手がひなたの手首を捕まえる。そしてもうひとり、ジャージを着た腕がひなたを抱きあげた。
ふたりぶんの腕がひなたを捕まえ、現実へと引きずり戻した。
「レンレン、千明っち……」
ぼうぜんと見つめるひなたの瞳に映るのは、なんてことのない廊下の景色。
ハッとあたりに目をやるが、先ほどの異変に気がついた人はいなかったらしい。
誰もがそれぞれの目的をもって通り過ぎていく。
「もう、なにしてるの」
蓮に膝で小突かれて、ひなたの手が手のひらにおさまる。反射のように握り込んだところで、俺はようやくぞっとした。
「あ……」
ひなたの手を離してしまった。
もしかしたらあのまま、空想の世界へ落ちた彼女を見失っていたかもしれない。
最悪の事態を免れていたとしても、現実を踏み外したひなたの姿を誰かに見られていた可能性もある。
「蓮、千明さん……」
ありがとう。助かった。
そう言うつもりだった俺は、眼鏡の向こうでキラキラ輝く小野の目に気づいて、次の言葉が出てこない。
そんな俺と、まだぼんやりしているひなたの腕をつかんで小野が立ち上がる。
「お礼は詳細について語っていただきたい!」
いつになくハキハキと言って、彼女は歩き出す。無理に引っ張るような動きではないけれど、けっこう強引だ。
――こいつ案外、力が強いな?
華奢かどうかはダボついたジャージのせいでわからないが、いつ見ても本を読んでいる姿から貧弱なイメージを抱いていた自分に気がついた。
けれど改めるべきだろう。地味なインドア派に見えてもこいつは、同学年の男女を動かすパワーを持っている。
ずんずんと進む小野に迷いはない。あっという間に職員室は遠ざかり、そして生徒玄関も通り過ぎていく。
下校する生徒でにぎわう玄関を過ぎると、とたんに人の数が減った。
廊下の窓越しに見えるグラウンドではあちらこちらで運動部が声をあげているけれど、その声はどこか遠い。
校舎を通り抜けて、体育館に続く長い渡り廊下へ出ると、いよいよ誰もいなくなった。正面にある体育館からは威勢の良い掛け声がいくつも聞こえてくるから、人はいるのだろうけど。
体育館を横目に進む先にあるのは部活棟。学校の敷地で一番奥まったそこは、一年の春、学校案内で紹介されたきり縁のない場所だ。
――たしか、あそこにあるのは演劇部と写真部と、あと……?
「ねえ、どこに向かってるの?」
有無を言わさず連れて行かれる俺とひなたを小走りに追いかけながら、蓮が問いかける。ナイス質問だ。
プレハブ棟の階段に足をかけながら小野が振り向く。
「文芸部です」
***
文芸部は古びた部活棟の二階、一番奥まった部屋を部室としているらしかった。
入り口には歴史を感じると言えば聞こえはいいけど、古びすぎて何が書いてあるかも読み取れない看板がかけられている。
そして一歩、室内に入ってからが壮観だった。
「うわ……」
「すごーい」
「……床、抜けない?」
思わず声を上げてしまうほど俺たちを圧倒したのは、部屋の三方を埋め尽くす本の量。
床から天井までぴったり収まる本棚には、隙間なく本が詰められている。
部屋の中央には申し訳程度に机がひとつと、パイプ椅子がふたつ。
――ほんとに床が抜けそうだな。
警戒しながら一歩を踏み出してみると、床が軋んで背すじが震えた。
「大丈夫ですよ。落ちても下は水泳部の温水プールなので」
小野がさらりと言うけれど、何が大丈夫なのだろう。やっぱりこいつは、かなりの変人だ。
まだ陽も沈まないうちなのに室内が妙に暗いのは、あるはずの窓すらも本棚で塞がれているせいだけじゃない。
天井に一本きりの蛍光灯がうす汚れているのも原因だろうけど、棚に詰まった本の重苦しさが空気を暗くさせているような気もした。
人を圧倒するほどの本を詰め込んでいるというのに、それでもまだ足りないとばかり、扉の左右にも小型の本棚が据え付けられていっぱいいっぱいに本を抱えている。
「そこの椅子と、あと棚と棚の間にもパイプ椅子があるので。出してください」
扉を閉めた小野が言うのに促され、俺たちは視線をかわしあう。
職員室からここまで連れられるままやって来たのは、気が動転していたため。
小野の勢いに押されたともいう。
もうひとつ、ひなたをどこかで休ませたかったというのもあった。
ひよりとのこと、クラスでの探るような視線、教師との対面で疲れているだろうひなたは、明らかに元気がない。
今もまた、普段であればはじめての場所にはしゃぐだろう彼女は、俺の手を握って静かに黙り込んでいた。
どうする、と伺うような蓮の視線を受けて、俺は頷きを返す。
「……座ろう。もうここまで来たんだから」
できるだけ床に刺激を与えないよう、俺たちはそろりそろりと机の周りに足を進めた。
今度は軋むことは無かったけれど、ひそかに警戒しつつパイプ椅子を二脚、広げて四人で腰掛ける。
ただでさえ狭い部屋が本棚でひとまわり小さくなっているため、四人が座ると膝同士がぶつかりそうだ。
配置としては、机に向かう小野に対して俺、ひなた、そして蓮が相対している形になった。
俺とひなたは手をつないでいる関係上、隣り合うほかないのだけれど、蓮はこれで案外人見知りだから、付き合いの浅い小野のとなりに位置取るのは気まずかったのだろう。
座るが早いか肩にかけていた鞄からノートを取り出した小野が、机の上に広げてシャーペンを握った。
――なんか、刑事モノで見た取り調べみたいな……。
そう思ったからではないだろうけど、小野が「さて」と俺たちを見回す。
その仕草といい、妙に落ち着いた口調といい、まるで刑事のようだ。
「それでは、あなたがたの事情を説明していただけますか」
まるで、じゃない。刑事そのものな小野の言葉に、ひなたがびくりと肩を震わせる。
なだめるためにつないだ手に軽く力を込めながら、俺は思わず眉が寄るのを自覚した。
――人当たりの良いキャラを貫こうと思ってたんだが。
そうも言っていられない。守るべきもののためにはキャラなんて知ったことか。
「なんで話さなきゃいけない」
「強制はしていません。あくまでお願いをしています」
不機嫌を隠さず接しても、小野はどこ吹く風。こいつ、ほんとうにただの文芸部員だろうかと疑いたくなる図太さだ。
「お願いって、この状況で事情を聞かせろ、だなんて僕らを脅してるようなものじゃないか」
「この状況だからこそ、あなたがたの持つ情報を共有していただいたほうが、ひなたさんのためにも良いと判断したのですが」
蓮が反論するもさらりと返され「違いますか?」と続く言葉に俺たちは何も言えなくなる。
――たしかに、さっきひなたの足が沈むところを見られた事実は消せない。なら、事情を話してひなたの味方に引き込むほか無いのか……。
だが、彼女は信用できるのか。
判断できるほどの時間を共に過ごしていないことが、引っかかる。
洗いざらい話したところで、誰かに吹聴されないとも限らない。
――それならば、情報を与えるべきじゃ無いのでは。足が床に沈むのを見た、とだけ言われて信じる人がどれだけいるか……。
ごく、とつばを飲む音がいやに響く。
――どうすべきだ。父さんか母さん、それかハルさんに聞くべきか。
迷っている俺の手をひなたが軽く引っ張った。
「信じよ? だって千明っち、あたしの友だちになってくれるって言ったんだよ」
下から覗き込むように言うひなたの口調は軽いけれど、その目は懇願するように必死な色を宿している。
「…………でも」
友だちになる、と言っただけで信じていいのだろうか。相手がひなたのことをどう思っているか、はっきりしないというのに。
――実の親でさえひなたの症状に振り回され、離れて暮らすことになってしまったのに……。
悩み続ける俺を前に、小野がそわそわと視線をさまよわせる。
なんだか落ち着きがないなと目を向けると、興奮に頬を染めた小野がひなたを見つめて、そして勢いよく頭を下げた。
「一番の理由は、ネタとして最高に心惹かれたからです! もちろんわひなたさんの友人として知っておきたいという気持ちも待ち合わせているのですが、不謹慎ながらもやはり一番は不可思議現象にものすごくワクワクしている、その一点に尽きます! 申し訳ありませんっ」
「ネタ……?」
なんだそれはとつぶやいた俺の声を拾って、顔をあげた小野の目は輝いている。
キラキラなんてかわいいもんじゃなくて、ギラギラと。
獲物を見つけた獣のように。
「よくぞ聞いてくれました!」
――いや、聞いてないんだが。
などと止める間もなく、小野がかばんから取り出したのはノートの束。それだけでは足りないとばかりに、みっちりつまった本棚からあれもこれも取りだした紙が机のうえに山と積まれる。
――これ、なんだ?
蓮に視線で問えば、静かに首を横に振られてしまった。わかるわけないでしょ、と言いたいのだろう。
「私、小野千明は小説家になります」
夢だとか、目指している、ではなく『なります』ときた。
だが、茶化せるような雰囲気ではない。
すごいね、などと口先だけの言葉を発するには、小野の目があまりにも真剣すぎた。
ひなたは「そうなんだ!」と本気の称賛を送っているが、俺にはまねできない。
そして強い光を宿したまま小野は腕を広げ、ずらりと並ぶ本を示す。
「そのためには日夜、小説を書くだけではなく。名作と呼ばれる作品から出ては消えていく新作まで、数多の小説を読むだけでは足りません。読んだ本、見た映画のなかから興味関心を覚えた文章やセリフを書きだしてメモしておくだけでも、足りません」
「足りないの?」
こんなにたくさんあるのにと目を丸くするひなたは、本を持っていない。
小説も漫画も、ひなたを空想の世界に引きずり込んでしまうと信じた彼女の両親が遠ざけたためだ。
だから、いくら狭いとはいえひとつの部屋を埋め尽くすほどの本が並んでいてもまだ足りないと言う小野が、信じられないのだろう。
けれど小野は「足りません」と深く頷いて、積み重ねたノートの束たちを開いて行く。
どれも、小さな文字でびっしりと書かれたノートだ。
何気なく目をやれば『学校のプールに忍び込み全裸水泳、のちのノーパン制服授業、青春が過ぎる』『おっとり女子、間に合わないと知り堂々と遅刻、意外性』などと謎の走り書きばかり。
かと思えば、別のノートには読んだ本のタイトルだろうものと作者名が記され、その下にいくつかの文章やセリフが書きだされている。
これがさっき言っていた、興味関心を覚えたもののメモだろうか。
そんなふうに、擦り切れて黒ずんだノートの束は山のよう。
――これでもまだ足りないっていうのか。
いっそ不気味さすら感じている俺の目の前に、小野がぴっと指を立てた。
「小説を書くには、ネタが必要なんです。それもできればオリジナリティがあって、かつ人びとの興味関心を引けるネタが」
「それがつまり、ひなたのことだと?」
確認する声が思わず低くなる。
だってこいつはひなたをネタとして見ていると言っているようなもの。
ふつうの暮らしを懸命に守って生きている人間を食い物にしようという相手に、どうして好意的な振る舞いができるというのか。
俺の怒気を感じてひなたがそっとつないだ手を引く。
怒らないで、と伝えたがっているのだろう。
ひなたに伝わっているのなら、俺が怒っていることは小野にも伝わっているはずなのだが。
小野は「はい!」と迷いなく頷き目を輝かせている。
「クラスメイトの名前から日々のちいさな発見、あるいは自身の失敗談まで。ネタとして使えるものはなんでも使います。つまり、私の友だちになるいうことは私のネタにされるということと同義。ですので!」
机に手をつきぐいと身を乗り出した小野に、ひなたがのけぞる。
「嫌でしたら、逃げてください。ひなたさん」
ひなたはまあるく開いた目いっぱいに映る小野を見つめて、ぱちりぱちりと瞬きをした。
***
主要人物。出来事。発症時の状況。
机に並べられた三枚のルーズリーフの一番上のスペースに、それぞれの見出しが大きく書かれている。
その下に書かれていることはすべて、俺たちが話して聞かせた内容だ。
ネタにする、嫌なら逃げろと言われたひなたは迷うことなく「逃げないよ!」と答えた。
止めるべきか。
悩む俺の手をぎゅうと握りしめ、ひなたはまっすぐに小野を見つめていた。
その手の温かさが、まっすぐな視線の強さが、悩む俺の背中を押したのだ。
「……ふむ、ふむ」
書き上げた内容に目を通していた小野が「はい」と顔をあげた。いつもの無表情だが、どことなく満足気なのがなんとなくイラっとくる。
「というわけで、話をまとめてみました」
ぱらり、並べられた紙を俺たちはそれぞれ手に取って、読んでみる。
「あたしとユウくん。レンレンにひよりのことがいっぱい書いてあるけど、パパやママとか千明っちのことは書いてないね?」
ひなたの声にその手元の紙をのぞけば、なるほど『主要人物』と書かれた紙に書かれた名前は俺、ひなた、蓮、ひよりの他にもハルさんやひなたの両親、俺の両親に病院の医師などたくさん並んでいるけれど、並んでいるだけだ。
名前のうしろにあれこれと情報が書き足されているのは俺、ひなた、蓮とひよりの四人だけ。
そのほかの人物についても聞かれるままに答えたはずだが、名前しか記されていない。
「ああ、重要な人物だけ書いてあります。人物が多すぎても情報が混乱しますから、現在の話の中心にいるであろう四人だけに絞って書きました」
―――聞かれるままに話せるだけのありったけを全員分、話したはずだったんだが。あの時間は何だったんだ?
俺の秘かな苛立ちが伝わったわけでないだろうに、小野はくいっと眼鏡をあげて付け加える。
「ざっくり伺った段階で主要な四人は確定していたのですが、他の方々の立ち位置も把握しておきたかったので詳細に聞きました。まあ、趣味の範疇です」
あまりに堂々と認めるものだから、怒る気力も失せてしまう。
「じゃあこれは? こっちの出来事ってやつ」
蓮がぺらりとつまんで見せたルーズリーフには箇条書きで三つ。
・良好だった家族仲(隣人・木許家含む)
・発症(五歳)
・小学校、親による軟禁状態+世間との隔離→脱出し中学生(現在)
「これだけで良いわけ?」
「ああ、俺も気になってた。これだけでひなたの何がわかるっていうんだ」
頷きながらうっかり不平がこぼれるも、小野は我関せずとばかり、自前のノートに何かを書きつけるのに精を出している。
「ふむ、中二にしてすでに亭主面、と」
「おい、本当に何を書いてるんだ」
手を止めさせようと肩をつかんだところで、小野が顔をあげた。
「現状において大切なのはなんだと思います?」
「は」
唐突な問いに面食らう俺のとなりで、ひなたが「ええと」と考える。
「現状っていうのはあたしのこと?」
「ひなたさんと考えていただいても良いですし、ひなたさんのいるこの状況まるごとについてでも構いません」
「今のあたしに、大切なこと……ううーん、ひよりちゃんを怒らせないこと?」
ひなたがひねり出した答えに顔をしかめたのは蓮だ。
「あっちが勝手に怒ってるんだから、怒らせないために僕らが何かする必要はないでしょう。あの子が君のそばに来ないようにすべきじゃないかな」
二人の答えに小野は頷く。
「良い感じです。木許氏はなにか意見はありますか?」
「意見って、学級会じゃないんだぞ」
どこへ話を持っていきたいのか小野の行動が意味不明すぎて呆れて言ったのに「言い得て妙ですね」と称賛が返ってくる。
「学級会で良いんです。何か成し遂げたいことに向かって複数人で、出せるだけの意見を出す。三人寄れば文殊の知恵とも言いますから、現状打破とまでは行かなくとも取っ掛かりになる何かは見つかる可能性があります」
「取っ掛かり、ねえ」
確かに、このままひよりの口撃を受け続けるのはひなたの精神的によく無いだろう。
公然と手を繋いで過ごせるよう一年をかけて築き上げてきた俺たちの立ち位置はあっさりとヒビが入り、教室の空気はぎくしゃくとしている。
居心地の悪さは、今はまだ教室内だけでおさまっているけれど、ひよりをそのままにしておけば学校全体、さらにはハルさんの家の周囲でも居場所が無くなりかねない。
――俺たちがこの町に住みづらくなって、ハルさんと父さんが実家を手放さなきゃいけない、なんてことになるのは嫌だからな……。
覚悟を決めて、最後の一枚の紙を手に取った。ひなたが発症したとき、つまり空想の世界に踏み外したときの状況を事細かに書き記した紙である。
「つまり、この紙もその取っ掛かりのひとつになるんだな?」
「いいえ」
否定だ。
ここにきての否定に、俺はイラっとする。
そして蓮もまた同じ思いを抱いたのだろう。
ぐっとこらえた俺とは違って、蓮はいたって素直に「はああ?」と声をあげた。
「じゃあ何のために根掘り葉掘り聞いたのさ。このなかで一番、いろいろと書き込まれてるのその紙でしょ」
「趣味と実益を兼ねた紙、と申しましょうか。こちら、今は置いておいて」
つまみあげた紙をさっさとノートの間にはさんでしまうと、小野は新しいルーズリーフを一枚、机に置いた。
「本題はここからです」
言って、シャーペンを走らせた彼女が書いた文字は『これからのこと』。
「すでに起きたことは無かったことにはできません。ですから、これからのことを考えましょう。できる限り、ひなたさんにとって良い方向に進むように」
いつもどおりの笑顔を保っていても、ひなたの笑い声に紛れてはくれないそれらが、ちいさな傷のように俺たちを苛む。
それでも蓮と小野が態度を変えずに接してくれたおかげで、どうにか一日の授業日程をクリアした。
「はあ、明日も体育だって。しかも一限目からとか、時間割組んだ人、頭おかしいんじゃないの?」
翌日の連絡事項が黒板に書きだされるのを板書しながら、蓮が悪態をつく。
ひとりごとだろうそれにくすりと笑って、左手で板書を進めていると、ふと誰かが俺とひなたの間に立った。
蓮じゃない。ややくたびれたスラックスの脚の持ち主は、担任教師の白川だ。
「すまん、木許、矢野。ちょっと着いてきてもらえるか?」
何気ない声で呼びかけたのは、担任なりの気遣いなのだろう。その証拠に、クラスメイトたちに背を向けて見えないであろう表情は、ひどく申し訳なさそうだ。
ぎゅ、とつないだ手に力がこもるのが伝わってきたけれど、教師の身体ごしにもクラス中の視線が集まっていることがわかって俺は頷いた。
「ああ。直接渡したいって言ってた書類の話ですね?」
――そんなものないけど。
俺の意図を正確に受け取ったのだろう、平川先生は「そうそう」と軽い調子で答えてから、くるりと教室のなかに向き直る。
ざわざわと俺たちのことを好き勝手に喋っていたクラスメイトたちが、平川先生の視線に気づいてぴたりと静まった。
全員の注目を集めてから、平川先生はへらりと笑う。
「はいはい、みんないつまでも教室で喋ってないで、部活がある人は部活に。帰る人はさくさく帰りなさい。学校の授業だけで一日が終わるなんて、もったいないだろ」
おどけた言葉にみんなが目を丸くし、一拍を挟んで。
「それ、教師が言う?」
蓮のすぱりとした突っ込みに、クラス中がどっと笑う。
「おお、神崎はなかなか手厳しいなあ」
「そんなことありません」
「いやいや、神崎にずばっと言われてしまったから、先生はもう行くよ。じゃあな、みんな気を付けて帰るんだぞ」
自然な流れで後ろの扉から教室を出る平川先生に続いて、俺とひなたも廊下へ出る。
そして、なんてことのないやりとりをしながらたどり着いた先は、進路相談室。放課後の学校のにぎやかさが一段減った職員室を横切り、さらに奥まった位置にある小部屋がそれだった。
平川先生に促されるまま俺とひなたが入室すると、部屋のなかにはすでに女性がひとり、椅子に座っている。ひよりの担任教師だ。
「こんにちは、一年三組担任の染谷です」
律儀に立ち上がり、一礼をした彼女にならって俺たちも「木許優です」「矢野ひなたです」と名乗る。
扉を閉めた平川先生が染谷先生と並んで座るので、俺たちもふたりと向かい合う形で、机をはさんで椅子に腰を下ろした。
平川先生がため息をつくようにこぼして身じろぐと、備え付けのパイプ椅子がぎしりと軋む。
「さて。まず聞くが、一年の矢野ひよりさんはあなたの妹で間違いないか?」
「……はい。ひよりちゃんはあたしの妹です」
うなずくひなたを確認して、平川先生は続けた。
「でも、生徒情報を見るとあなたと一年の矢野さん……ややこしいな。ひよりさんの住所は違っているね。そして保護者の欄にある名前も違う。あなたのほうは木許さんの、親族の方だね」
言いながら平川先生が手元の紙をぺらりとめくる。そこに、生徒の個人情報が書いてあるのだろう。
「俺のおばのハルさんです。ひなたは訳あって実の親の元では暮らせないので、俺の父親の実家に居候してるんです。俺の父親は実家を出ているから、今はその妹のハルさんが家の持ち主なので」
「うん。そこらへんは去年、入学前に木許さんのご両親とおばさんを交えて聞いたとおりだね。ひよりさんの保護者もあちらの親族の方だし、あなたたちが手をつないでいなければいけないという医師の診断書もあるから、あなたたちがこの学校に通うことについて、学校側としての問題はない。ただね」
ぽり、と平川先生が後頭部をかく。
どう言おうか、言葉に悩んでいる様子の平川先生から引き継いで、染谷先生が口を開いた。
「昨日と今朝と、ひよりさんとお話をしたの。そのときに、木許さんとひなたさんを別々のクラスにしないなら、何度だって二年の教室に乗り込んでいくと言われてしまって。どうして二人が同じ教室じゃいけないのか、と聞いても答えてはくれないものだから、あなたたちにも話を聞こうと思って呼んだのだけれど」
「すみません。ひなたはひよりとは幼稚園以来、ほとんど会って無いからわからないはずです。俺は小学生の間は遊んだり家に招いたりしてたけど、それでも、あんな風に人を怒鳴りつけたりするような子じゃなかった、としか……」
答える俺のとなりでひなたは顔を青くし、ちいさく震えている。
自分の足元を見つめる虚な瞳が、ふと色を変えた。
――まずい、足の先が空想に落ちてる!
「あの!」
ガタンッ! 勢いよく立ち上がったせいで椅子が大きな音を立て、先生たちが驚いたように俺を見上げる。
――ひなたの症状には気づいてない、いまのうちに。
空想を見ているのだろう、ぼんやりしているひなたの瞳をのぞきこみたい衝動を抑えて俺はひなたの手を引き、立ち上がらせた。
「ひよりとのこと、今日、話し合おうっておばに言われてるんです。だからそろそろ帰らないと……」
時間を気にするふりをして室内を見回すけれど、時計が見当たらない。それに気づいた平川先生が、自身の腕時計に目をやって「そうか」と頷く。
「わかった。そうしたら、明日にでもまた話しを聞かせてもらおうかな。家族で話して、その情報を先生たちにも共有させてほしい。あなたたちにとって一番良い形を探せるように」
「はい、もちろん。じゃあ、失礼します。行こう、ひなた」
大人受けのいい笑顔に素直な返事を添えて、俺たちは教室を出た。けれどそこはまだ職員室だ。
――はやく。
手を引かれるままに歩くひなたの足元が、水たまりのようにとぷとぷと揺らいでいる。
ちらちらと向けられる教師たちの視線に、顔がひきつってやしないかと不安になりながら、注意をされない限界ギリギリの速さで室内を通り抜けた。
職員室の扉を開け、一礼して退室する。笑顔を貼り付け扉を閉め切ったところで、背中にどっと冷や汗が噴き出した。
――切り抜けた……!
安心した瞬間、ゆるんだ手からひなたの指がすり抜ける。
「あっ」
落ちていく。学校の廊下を踏み抜いて、ひなたの体が空想の世界へと沈んでいく。
――行かないで。行くのなら、俺も……。
「矢野!」
鋭い声と同時、横から伸びた手がひなたの手首を捕まえる。そしてもうひとり、ジャージを着た腕がひなたを抱きあげた。
ふたりぶんの腕がひなたを捕まえ、現実へと引きずり戻した。
「レンレン、千明っち……」
ぼうぜんと見つめるひなたの瞳に映るのは、なんてことのない廊下の景色。
ハッとあたりに目をやるが、先ほどの異変に気がついた人はいなかったらしい。
誰もがそれぞれの目的をもって通り過ぎていく。
「もう、なにしてるの」
蓮に膝で小突かれて、ひなたの手が手のひらにおさまる。反射のように握り込んだところで、俺はようやくぞっとした。
「あ……」
ひなたの手を離してしまった。
もしかしたらあのまま、空想の世界へ落ちた彼女を見失っていたかもしれない。
最悪の事態を免れていたとしても、現実を踏み外したひなたの姿を誰かに見られていた可能性もある。
「蓮、千明さん……」
ありがとう。助かった。
そう言うつもりだった俺は、眼鏡の向こうでキラキラ輝く小野の目に気づいて、次の言葉が出てこない。
そんな俺と、まだぼんやりしているひなたの腕をつかんで小野が立ち上がる。
「お礼は詳細について語っていただきたい!」
いつになくハキハキと言って、彼女は歩き出す。無理に引っ張るような動きではないけれど、けっこう強引だ。
――こいつ案外、力が強いな?
華奢かどうかはダボついたジャージのせいでわからないが、いつ見ても本を読んでいる姿から貧弱なイメージを抱いていた自分に気がついた。
けれど改めるべきだろう。地味なインドア派に見えてもこいつは、同学年の男女を動かすパワーを持っている。
ずんずんと進む小野に迷いはない。あっという間に職員室は遠ざかり、そして生徒玄関も通り過ぎていく。
下校する生徒でにぎわう玄関を過ぎると、とたんに人の数が減った。
廊下の窓越しに見えるグラウンドではあちらこちらで運動部が声をあげているけれど、その声はどこか遠い。
校舎を通り抜けて、体育館に続く長い渡り廊下へ出ると、いよいよ誰もいなくなった。正面にある体育館からは威勢の良い掛け声がいくつも聞こえてくるから、人はいるのだろうけど。
体育館を横目に進む先にあるのは部活棟。学校の敷地で一番奥まったそこは、一年の春、学校案内で紹介されたきり縁のない場所だ。
――たしか、あそこにあるのは演劇部と写真部と、あと……?
「ねえ、どこに向かってるの?」
有無を言わさず連れて行かれる俺とひなたを小走りに追いかけながら、蓮が問いかける。ナイス質問だ。
プレハブ棟の階段に足をかけながら小野が振り向く。
「文芸部です」
***
文芸部は古びた部活棟の二階、一番奥まった部屋を部室としているらしかった。
入り口には歴史を感じると言えば聞こえはいいけど、古びすぎて何が書いてあるかも読み取れない看板がかけられている。
そして一歩、室内に入ってからが壮観だった。
「うわ……」
「すごーい」
「……床、抜けない?」
思わず声を上げてしまうほど俺たちを圧倒したのは、部屋の三方を埋め尽くす本の量。
床から天井までぴったり収まる本棚には、隙間なく本が詰められている。
部屋の中央には申し訳程度に机がひとつと、パイプ椅子がふたつ。
――ほんとに床が抜けそうだな。
警戒しながら一歩を踏み出してみると、床が軋んで背すじが震えた。
「大丈夫ですよ。落ちても下は水泳部の温水プールなので」
小野がさらりと言うけれど、何が大丈夫なのだろう。やっぱりこいつは、かなりの変人だ。
まだ陽も沈まないうちなのに室内が妙に暗いのは、あるはずの窓すらも本棚で塞がれているせいだけじゃない。
天井に一本きりの蛍光灯がうす汚れているのも原因だろうけど、棚に詰まった本の重苦しさが空気を暗くさせているような気もした。
人を圧倒するほどの本を詰め込んでいるというのに、それでもまだ足りないとばかり、扉の左右にも小型の本棚が据え付けられていっぱいいっぱいに本を抱えている。
「そこの椅子と、あと棚と棚の間にもパイプ椅子があるので。出してください」
扉を閉めた小野が言うのに促され、俺たちは視線をかわしあう。
職員室からここまで連れられるままやって来たのは、気が動転していたため。
小野の勢いに押されたともいう。
もうひとつ、ひなたをどこかで休ませたかったというのもあった。
ひよりとのこと、クラスでの探るような視線、教師との対面で疲れているだろうひなたは、明らかに元気がない。
今もまた、普段であればはじめての場所にはしゃぐだろう彼女は、俺の手を握って静かに黙り込んでいた。
どうする、と伺うような蓮の視線を受けて、俺は頷きを返す。
「……座ろう。もうここまで来たんだから」
できるだけ床に刺激を与えないよう、俺たちはそろりそろりと机の周りに足を進めた。
今度は軋むことは無かったけれど、ひそかに警戒しつつパイプ椅子を二脚、広げて四人で腰掛ける。
ただでさえ狭い部屋が本棚でひとまわり小さくなっているため、四人が座ると膝同士がぶつかりそうだ。
配置としては、机に向かう小野に対して俺、ひなた、そして蓮が相対している形になった。
俺とひなたは手をつないでいる関係上、隣り合うほかないのだけれど、蓮はこれで案外人見知りだから、付き合いの浅い小野のとなりに位置取るのは気まずかったのだろう。
座るが早いか肩にかけていた鞄からノートを取り出した小野が、机の上に広げてシャーペンを握った。
――なんか、刑事モノで見た取り調べみたいな……。
そう思ったからではないだろうけど、小野が「さて」と俺たちを見回す。
その仕草といい、妙に落ち着いた口調といい、まるで刑事のようだ。
「それでは、あなたがたの事情を説明していただけますか」
まるで、じゃない。刑事そのものな小野の言葉に、ひなたがびくりと肩を震わせる。
なだめるためにつないだ手に軽く力を込めながら、俺は思わず眉が寄るのを自覚した。
――人当たりの良いキャラを貫こうと思ってたんだが。
そうも言っていられない。守るべきもののためにはキャラなんて知ったことか。
「なんで話さなきゃいけない」
「強制はしていません。あくまでお願いをしています」
不機嫌を隠さず接しても、小野はどこ吹く風。こいつ、ほんとうにただの文芸部員だろうかと疑いたくなる図太さだ。
「お願いって、この状況で事情を聞かせろ、だなんて僕らを脅してるようなものじゃないか」
「この状況だからこそ、あなたがたの持つ情報を共有していただいたほうが、ひなたさんのためにも良いと判断したのですが」
蓮が反論するもさらりと返され「違いますか?」と続く言葉に俺たちは何も言えなくなる。
――たしかに、さっきひなたの足が沈むところを見られた事実は消せない。なら、事情を話してひなたの味方に引き込むほか無いのか……。
だが、彼女は信用できるのか。
判断できるほどの時間を共に過ごしていないことが、引っかかる。
洗いざらい話したところで、誰かに吹聴されないとも限らない。
――それならば、情報を与えるべきじゃ無いのでは。足が床に沈むのを見た、とだけ言われて信じる人がどれだけいるか……。
ごく、とつばを飲む音がいやに響く。
――どうすべきだ。父さんか母さん、それかハルさんに聞くべきか。
迷っている俺の手をひなたが軽く引っ張った。
「信じよ? だって千明っち、あたしの友だちになってくれるって言ったんだよ」
下から覗き込むように言うひなたの口調は軽いけれど、その目は懇願するように必死な色を宿している。
「…………でも」
友だちになる、と言っただけで信じていいのだろうか。相手がひなたのことをどう思っているか、はっきりしないというのに。
――実の親でさえひなたの症状に振り回され、離れて暮らすことになってしまったのに……。
悩み続ける俺を前に、小野がそわそわと視線をさまよわせる。
なんだか落ち着きがないなと目を向けると、興奮に頬を染めた小野がひなたを見つめて、そして勢いよく頭を下げた。
「一番の理由は、ネタとして最高に心惹かれたからです! もちろんわひなたさんの友人として知っておきたいという気持ちも待ち合わせているのですが、不謹慎ながらもやはり一番は不可思議現象にものすごくワクワクしている、その一点に尽きます! 申し訳ありませんっ」
「ネタ……?」
なんだそれはとつぶやいた俺の声を拾って、顔をあげた小野の目は輝いている。
キラキラなんてかわいいもんじゃなくて、ギラギラと。
獲物を見つけた獣のように。
「よくぞ聞いてくれました!」
――いや、聞いてないんだが。
などと止める間もなく、小野がかばんから取り出したのはノートの束。それだけでは足りないとばかりに、みっちりつまった本棚からあれもこれも取りだした紙が机のうえに山と積まれる。
――これ、なんだ?
蓮に視線で問えば、静かに首を横に振られてしまった。わかるわけないでしょ、と言いたいのだろう。
「私、小野千明は小説家になります」
夢だとか、目指している、ではなく『なります』ときた。
だが、茶化せるような雰囲気ではない。
すごいね、などと口先だけの言葉を発するには、小野の目があまりにも真剣すぎた。
ひなたは「そうなんだ!」と本気の称賛を送っているが、俺にはまねできない。
そして強い光を宿したまま小野は腕を広げ、ずらりと並ぶ本を示す。
「そのためには日夜、小説を書くだけではなく。名作と呼ばれる作品から出ては消えていく新作まで、数多の小説を読むだけでは足りません。読んだ本、見た映画のなかから興味関心を覚えた文章やセリフを書きだしてメモしておくだけでも、足りません」
「足りないの?」
こんなにたくさんあるのにと目を丸くするひなたは、本を持っていない。
小説も漫画も、ひなたを空想の世界に引きずり込んでしまうと信じた彼女の両親が遠ざけたためだ。
だから、いくら狭いとはいえひとつの部屋を埋め尽くすほどの本が並んでいてもまだ足りないと言う小野が、信じられないのだろう。
けれど小野は「足りません」と深く頷いて、積み重ねたノートの束たちを開いて行く。
どれも、小さな文字でびっしりと書かれたノートだ。
何気なく目をやれば『学校のプールに忍び込み全裸水泳、のちのノーパン制服授業、青春が過ぎる』『おっとり女子、間に合わないと知り堂々と遅刻、意外性』などと謎の走り書きばかり。
かと思えば、別のノートには読んだ本のタイトルだろうものと作者名が記され、その下にいくつかの文章やセリフが書きだされている。
これがさっき言っていた、興味関心を覚えたもののメモだろうか。
そんなふうに、擦り切れて黒ずんだノートの束は山のよう。
――これでもまだ足りないっていうのか。
いっそ不気味さすら感じている俺の目の前に、小野がぴっと指を立てた。
「小説を書くには、ネタが必要なんです。それもできればオリジナリティがあって、かつ人びとの興味関心を引けるネタが」
「それがつまり、ひなたのことだと?」
確認する声が思わず低くなる。
だってこいつはひなたをネタとして見ていると言っているようなもの。
ふつうの暮らしを懸命に守って生きている人間を食い物にしようという相手に、どうして好意的な振る舞いができるというのか。
俺の怒気を感じてひなたがそっとつないだ手を引く。
怒らないで、と伝えたがっているのだろう。
ひなたに伝わっているのなら、俺が怒っていることは小野にも伝わっているはずなのだが。
小野は「はい!」と迷いなく頷き目を輝かせている。
「クラスメイトの名前から日々のちいさな発見、あるいは自身の失敗談まで。ネタとして使えるものはなんでも使います。つまり、私の友だちになるいうことは私のネタにされるということと同義。ですので!」
机に手をつきぐいと身を乗り出した小野に、ひなたがのけぞる。
「嫌でしたら、逃げてください。ひなたさん」
ひなたはまあるく開いた目いっぱいに映る小野を見つめて、ぱちりぱちりと瞬きをした。
***
主要人物。出来事。発症時の状況。
机に並べられた三枚のルーズリーフの一番上のスペースに、それぞれの見出しが大きく書かれている。
その下に書かれていることはすべて、俺たちが話して聞かせた内容だ。
ネタにする、嫌なら逃げろと言われたひなたは迷うことなく「逃げないよ!」と答えた。
止めるべきか。
悩む俺の手をぎゅうと握りしめ、ひなたはまっすぐに小野を見つめていた。
その手の温かさが、まっすぐな視線の強さが、悩む俺の背中を押したのだ。
「……ふむ、ふむ」
書き上げた内容に目を通していた小野が「はい」と顔をあげた。いつもの無表情だが、どことなく満足気なのがなんとなくイラっとくる。
「というわけで、話をまとめてみました」
ぱらり、並べられた紙を俺たちはそれぞれ手に取って、読んでみる。
「あたしとユウくん。レンレンにひよりのことがいっぱい書いてあるけど、パパやママとか千明っちのことは書いてないね?」
ひなたの声にその手元の紙をのぞけば、なるほど『主要人物』と書かれた紙に書かれた名前は俺、ひなた、蓮、ひよりの他にもハルさんやひなたの両親、俺の両親に病院の医師などたくさん並んでいるけれど、並んでいるだけだ。
名前のうしろにあれこれと情報が書き足されているのは俺、ひなた、蓮とひよりの四人だけ。
そのほかの人物についても聞かれるままに答えたはずだが、名前しか記されていない。
「ああ、重要な人物だけ書いてあります。人物が多すぎても情報が混乱しますから、現在の話の中心にいるであろう四人だけに絞って書きました」
―――聞かれるままに話せるだけのありったけを全員分、話したはずだったんだが。あの時間は何だったんだ?
俺の秘かな苛立ちが伝わったわけでないだろうに、小野はくいっと眼鏡をあげて付け加える。
「ざっくり伺った段階で主要な四人は確定していたのですが、他の方々の立ち位置も把握しておきたかったので詳細に聞きました。まあ、趣味の範疇です」
あまりに堂々と認めるものだから、怒る気力も失せてしまう。
「じゃあこれは? こっちの出来事ってやつ」
蓮がぺらりとつまんで見せたルーズリーフには箇条書きで三つ。
・良好だった家族仲(隣人・木許家含む)
・発症(五歳)
・小学校、親による軟禁状態+世間との隔離→脱出し中学生(現在)
「これだけで良いわけ?」
「ああ、俺も気になってた。これだけでひなたの何がわかるっていうんだ」
頷きながらうっかり不平がこぼれるも、小野は我関せずとばかり、自前のノートに何かを書きつけるのに精を出している。
「ふむ、中二にしてすでに亭主面、と」
「おい、本当に何を書いてるんだ」
手を止めさせようと肩をつかんだところで、小野が顔をあげた。
「現状において大切なのはなんだと思います?」
「は」
唐突な問いに面食らう俺のとなりで、ひなたが「ええと」と考える。
「現状っていうのはあたしのこと?」
「ひなたさんと考えていただいても良いですし、ひなたさんのいるこの状況まるごとについてでも構いません」
「今のあたしに、大切なこと……ううーん、ひよりちゃんを怒らせないこと?」
ひなたがひねり出した答えに顔をしかめたのは蓮だ。
「あっちが勝手に怒ってるんだから、怒らせないために僕らが何かする必要はないでしょう。あの子が君のそばに来ないようにすべきじゃないかな」
二人の答えに小野は頷く。
「良い感じです。木許氏はなにか意見はありますか?」
「意見って、学級会じゃないんだぞ」
どこへ話を持っていきたいのか小野の行動が意味不明すぎて呆れて言ったのに「言い得て妙ですね」と称賛が返ってくる。
「学級会で良いんです。何か成し遂げたいことに向かって複数人で、出せるだけの意見を出す。三人寄れば文殊の知恵とも言いますから、現状打破とまでは行かなくとも取っ掛かりになる何かは見つかる可能性があります」
「取っ掛かり、ねえ」
確かに、このままひよりの口撃を受け続けるのはひなたの精神的によく無いだろう。
公然と手を繋いで過ごせるよう一年をかけて築き上げてきた俺たちの立ち位置はあっさりとヒビが入り、教室の空気はぎくしゃくとしている。
居心地の悪さは、今はまだ教室内だけでおさまっているけれど、ひよりをそのままにしておけば学校全体、さらにはハルさんの家の周囲でも居場所が無くなりかねない。
――俺たちがこの町に住みづらくなって、ハルさんと父さんが実家を手放さなきゃいけない、なんてことになるのは嫌だからな……。
覚悟を決めて、最後の一枚の紙を手に取った。ひなたが発症したとき、つまり空想の世界に踏み外したときの状況を事細かに書き記した紙である。
「つまり、この紙もその取っ掛かりのひとつになるんだな?」
「いいえ」
否定だ。
ここにきての否定に、俺はイラっとする。
そして蓮もまた同じ思いを抱いたのだろう。
ぐっとこらえた俺とは違って、蓮はいたって素直に「はああ?」と声をあげた。
「じゃあ何のために根掘り葉掘り聞いたのさ。このなかで一番、いろいろと書き込まれてるのその紙でしょ」
「趣味と実益を兼ねた紙、と申しましょうか。こちら、今は置いておいて」
つまみあげた紙をさっさとノートの間にはさんでしまうと、小野は新しいルーズリーフを一枚、机に置いた。
「本題はここからです」
言って、シャーペンを走らせた彼女が書いた文字は『これからのこと』。
「すでに起きたことは無かったことにはできません。ですから、これからのことを考えましょう。できる限り、ひなたさんにとって良い方向に進むように」
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