空想落下症

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昼下がり、家にふたり

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 どうにかこうにか帰りついた家のなか。
 ひなたとふたり、ソファに座ってぼうっとしていると、玄関チャイムが俺たちを呼んだ。

「これ、明日の持ち物リスト。それからこっちが連絡事項。あの先生、ふたりぶん寄越そうとしてたから一枚で足ります、って断ってきた。僕のぶんも入れたら三人分も持って帰らなきゃいけないなんて、冗談じゃ無いよ」

 昼をいくらか過ぎたころ、家のソファにひなたと並んで座っていると、蓮がやってきた。
 玄関チャイムは鳴らさずに『ついたあけて』とメールを寄越し、開けた玄関扉から入るなり担任への文句を言うのは蓮だ。

 けれど単に愚痴を言いたいだけだったのか、あるいはぐったりする俺たちの様子が気になったのか。蓮は俺たちを交互に見て眉を寄せた。

「なんでそんなに疲れてるの」
「あー……そう見えるか」
「見えないのに言うわけないじゃん。なに、また踏み外しまくったの」
「うっ」

 ずばずばと当てる蓮に、ひなたがうめいてそうっと視線をそらしていく。
 そう、蓮の言うとおり、学校からの帰り道でひなたは空想の世界へ、何度となく足を踏み外した。
 学校から家までの徒歩二十分ほどのあいだに、なんど踏み外したのか。数えていられない程度には、ずぶずぶと沈もうとしていた。

 ――半端な時間で、見てる人がいなかったのがせめてもの救いかな。

 空想と現実とを行き来するには、並大抵じゃない想像力が必要らしいと、かつて医者が話していた。
 だから家に帰りつくころにはひなたはぐったりと疲れてしまっていたし、ひなたが空想に沈みかけるたび、意識を引き上げたものだから、俺もなんだか疲れてしまっていた。

 ――まあ、そればかりじゃないんだが。

 言う必要のないことだ、と胸に押し込めて蓮を連れて居間に戻る。

「悪かったな。学校帰りにそのまま来てくれたのか」

 制服姿のまま、居間のソファにちょこんと座る蓮にお茶を出した。
 家の中では両手が空いているから、物を運ぶのに不都合がない。代わりに、ひなたは俺の腕に手を絡めていっしょにいる。

 さっきまでは、家の中でも何度か空想の世界に沈みかけていたけれど、蓮がやってきたことで気持ちが落ち着いたのか。ソファに預けたひなたの体が現実と空想の境を見失い、沈み込む様子はない。

「レンレン、来てくれてありがとー! ひなたうれしいな!」

 にぱ、と笑ってみせたひなたに蓮がため息をひとつ。

「別に無理やり笑わなくて良い。僕は君がどんな顔をしていようとかまわない」

 突き放すような蓮の言葉に、ひなたの顔がくしゃりと歪む。

 ――ああ。蓮はひなたの症状を知って離れて行かないだけじゃなくて、ほんとうに得難い友人だ。

「ほら、蓮もああいってくれてるから。ひなたは無理して笑わなくて良いんだよ。俺たちはどんなひなただって大好きなんだから」

 何度となく伝えた思いをとなりに座るひなたの体を抱きしめてささやけば、ひなたは体を丸めて「うーっ」とうなる。
 顔を隠してはいるが、きっと泣いてはいないだろう。この家でいっしょに暮らし始めた一年前から、ひなたは一度も涙を見せていない。
 いいや、それより前。空想落下症が明らかになったあの日から、起きている間のほとんど全ての時間、笑顔を貼り付けて過ごしていると言っても良い。

「ひなた……」

 理由を聞いても話してはくれないから、俺にできるのは、抱きしめて離さずにいることだけ。

「渡すものは渡したよね。あと、伝言」

 感情を押し殺そうとするひなたといっしょに沈んでいけたら。そんなことを思っていると、蓮がふと話し始めた。
 いつもどおりの口調で、いつもと変わらない不機嫌に見える表情で続ける。

「『交友を深めるのは後日、お待ちしています』だって、あのジャージ眼鏡」
「ジャージ眼鏡って」

 その呼び名で思い浮かぶ相手は、ひとりだけ。

「千明っち……?」

 ぐしぐしと目元をこすりながら、ひなたが顔を上げる。

「さあ、そんな名前だったかもしれないね。それより、あの女子はなに」

 不機嫌顔をさらにぐっとしかめさせて、蓮が声を低くする。
 あの女子、というのは間違いなくひよりのことだろう。
 抱きしめる形から手にしがみつく形へと変えていたひなたの体が、びくりと震えた。誤魔化すように、にへらと浮かべられた笑顔が悲しい。

 ――言うべきか、適当に誤魔化すべきか。

 悩んだのはほんの一瞬。そのあいだに、蓮と過ごしてきた日々の記憶が脳裏をよぎる。
 出会いは小学校四年から。
 親の都合で引っ越してきた彼は、飾らない物言いと変わりにくい表情のせいで誤解されやすいタイプ。そして、俺とひなたの歪なあり方を目にして、眉を寄せながらも非難をしたことは一度もない相手だ。

 ――ひなたの味方は多いほうが良い。それが蓮なら、ひなたにとって悪いことなんて何もないだろう。

 俺は打算にまみれた思考で、蓮をさらに俺たちの側へと引きずりこもうと決めた。

「……あの子は、矢野ひよりはひなたの妹だよ」
「ふうん。似てないね」
「えっ」

 驚きの声をあげたのはひなただ。
 俺も蓮の言葉に首をかしげた。

「そう、か? 顔の輪郭とか、鼻とか口のつくりは似てると思ったけど」
「雰囲気だけでしょ。それに、君はあんな顔しないし」

 さらりと言って蓮はお茶を飲む。
 となりに座るひなたがきょとんと瞬くのを横目に、俺はやっぱり蓮にひなたのことを話して良かったと感じていた。

「そうか、そうだな。ひなたはあんな顔しないもんな」

 一言で表すならば、鬼の形相。
 今朝、教室に乗り込んできたひよりがひなたに向けていたのは、そういうものだった。

 ――ひより、家族を奪ったって言ってたな。あんなに明るく笑っていたあの子をそうさせたのは、俺たちなんだ。でも、これが俺たちの選んだ道だから……。

 苦い気持ちを飲み込んで、伸ばした手でくしゃとひなたの髪をなでる。

「ひなたはひなた、ひよりはひよりだな、うん」
「ん……」

 手のひらの下で複雑な顔をしながらも表情を緩めるひなたを失いたく無いと、動いたのは俺だから。

「なに当たり前のこと言ってるの。それより僕、君たちのために家に帰らずここに来たからお腹すいたんだけど」

 まったく蓮ときたら無表情で言葉選びがへたなだけでなく、図々しい。けれどその図々しさが、いまはありがたい。
 そう思いながら俺はひなたの手を引いて立ち上がった。

「大したものは出せないぞ。ひなた、手伝ってくれるか」
 
 ※※※

 すこし遅い昼食をすませ蓮を見送ると、気が抜けた。
 蓮のいる間、ひなたにいつもの破天荒なまでの明るさは見られなかったものの、それでも無理をして気を張っていたのだろう。
 ぐったりとソファに身体をあずけるひなたと並んで座り、ふたりでぼんやりと天井を眺める。
 本当は将来に備えて資格取得の勉強をしなくちゃいけないのに、どうにも体が動かない。

 ――ひより……うちの制服着てたな。こっちの中学に通ってるってことはあいつも家を出たのか。どこで暮らしているんだろう。

 何もしないでいるとつい考え込んでしまう。
 ひなたを実家から連れ出したことで、壊れてしまったのだろう矢野家のこと。俺がひなたを選んだことで壊れてしまった、ひよりとの関係。

 ――なんで欲しいものぜんぶ、抱えられないんだろうな。

 途方に暮れて見上げた天井は、変に明るい。
 けれど見つめているうちに、窓から入り込む明るさがじわじわと弱まり、いつしか部屋の隅に暗がりが生まれていた。
 それはまるで、俺のなかに渦巻いていた罪悪感のようにゆっくりと、けれど着実に広がっていく。

 ――ああ、飲まれてしまいそうだ。

 冷ややかな暗さが部屋をすっかり覆いつくしてしまいそうなころ。

 がちゃり。居間の扉が開いて姿を見せたのは、おばのハルさん。父さんのひと回り年が離れた妹だ。
 短く刈った髪がよく似合う彼女は、見た目どおりの機敏な動きで部屋のなかを見回すと、形の良い眉を寄せながらするりと扉をくぐって入って来た。

「なあに、電気もつけないで。不純異性交遊するなら私の見てないところでしてちょうだいよ。兄さんに報告するの、めんどくさいんだから」

 俺たちの歪な関係をめんどくさい、の一言で片付けてしまうハルさんに苦笑しながら、俺はソファに預けていた身体を起こした。

「そんなんじゃないよ。それにしても今日は早いね」
「早上がりにしてもらったんだよ」

 電気をぱちり。すらりと長い脚で大股に部屋を横切り、ハルさんは俺たちの前にあるテーブルの上に白い箱を置いた。
 羽織っていたジャケットを背もたれに放ると、自身もどさりとソファに身を投げ出す。ハルさんがするとひどくしっくりくるしぐさだ。

「だってあんたたち、進級したんでしょ。そりゃ入学式じゃないから、親が来るほどの節目ってこっちゃないけど、ケーキ食べる口実くらいにはなるじゃない」

 そうは言うものの、ハルさん自身は甘い洋菓子を好まない。
 間違いなく、俺たちのために買って来てくれたのだとわかる。けれど、今はすなおに「ありがとう」と喜ぶのは難しい。

「あれ、もしかしてもうふたりで買い食いしちゃった?」

 甘いもの、と聞いて食いつかないひなたと反応のうすい俺に、ハルさんが首をかしげる。
 ひなたはハッとしたように顔をあげ、笑顔を見せた。

「ううん! とーってもうれしいよ。あたしケーキだあいすき! ハルさんありがと、愛してる!」
「…………」

 黙り込んだハルさんがソファに預けていた身体を起こし、ひなたの額をひとさし指でツンとつく。

「ひなた、何があったの。ユウでも良い。この家での保護者さまであるハルさんに話してみな」
 片足をあぐらの形に組んで、ハルさんは前のめりになった。俺に似ていると言われる一重の目が、まっすぐに俺たちを射抜く。
 視線でちらりと横を伺えば、同じようにこちらを見たひなたの視線とぶつかった。
 室内灯に照らされた明るい茶色の瞳のなかに、かすかな怯えのようなものを見てとって俺は腹をくくる。
 視線をハルさんに戻し、呼吸をひとつ。

「ひなたの妹が同じ学校に入学してきた」
「っ!」

 ハルさんが目を見開く。

「ひより、ひなたのことすごく怒ってた」

 ひなたがぼそぼそとつぶやくと、ハルさんは「あー」とうめいて胸ポケットから飛び出たキセル型の電子タバコに手を伸ばす。けれど、目の前に座る未成年×二に気付いたのだろう。
 苛立ちぎみに手を引っ込めて、短い髪をかき乱す。
 くしゃくしゃになった頭をそのままに、ハルさんはポケットのスマホを手に取ろうとして、やめた。

「……ふう」

 ソファに背中を押しつけて天を仰いだハルさんは、両手で顔を覆ったまま「ねえユウ」と声を出す。

「そういう家族同士のことに関する、あちらさんの、ひなたの生みの親との取り決めってあんた覚えてる?」

 スマホに伸ばした手は、俺の父さんに連絡を取ろうとしたのだろう。けれど思い直して俺に尋ねた。
 なぜそうしたのか。そのほうが手っ取り早いと思ったのか、あるいは俺をもう子どもではないひとりの大人として扱ってくれたからか。
 ハルさんの真意はわからないが、俺は答えないわけにいかない。

「ひかりの両親、矢野さんとの約束事は……なにも無いよ。病院の先生とうちの両親とで無理やりに引き離したようなものだから」

 話しながら、脳裏に蘇るのは半狂乱になってひなた探すひなたママと、そんなママを見ていられなくて家に帰ってこなくなったひなたパパの姿。
 娘を愛し、慈しもうとするあまり崩壊していく家庭を見つめているのは、幼い俺であっても苦しいものがあった。
 だから、中学への進学を機にあの家族をバラバラにしたのだ。
 俺が、ひなたを奪ったんだ。

「ひなたの両親との決まりは何にもない。俺とひなたは父さんたちと約束してるだけだよ」

 ひとつ、お互いの手を離さずにいること。
 ひとつ、迷うことがあったら大人に相談すること。
 ひとつ、お互いだけでなく周りに目を向けるのを忘れないこと。

 ひなたを家族から引き離す時決めた時、俺がひなたと手を繋いでいくと宣言した時、俺たち家族三人とひなたとで集まって決めた約束ごとだ。
 核心に近すぎない相談できる相手も必要でしょ、とハルさんはその辺の事情をまったく聞いていない。

「ふうん、それで全部?」

 ハルさんにたずねられて、俺は観念する。

「あと、ひとつ。これは母さんからなんだけど……その、ひなたに性的な意味で手を出さないこと、ひなたも高校生になるまでは俺に手を出しちゃだめだ、って」

 恥ずかしくてひなたの顔もハルさんの顔も見られない。

 ――性的ってなんだよ、性的って。わざわざはっきり言わなくてもわかるだろ。手を出さない、だけでじゅうぶんわかるし、伝わるだろう!

 我が母ながらあまりに明け透けな物言いに、絶句したことを覚えている。
 つまり、俺とひなたのベッドを隔てるカーテンは、俺とひなたが一線を越えないよう見張ってる母さんなのである。
 話しをしたときのことを思い出してひなたも恥ずかしいのか、それとも俺の熱のせいなのか、つないだ手が熱い。
 あんまり熱くて恥ずかしくて、うつむいていると、ハルさんが「あ」と声をあげた。
 つられるように視線を追うと、ひなたの腰から下がソファをすり抜け、空想の世界へと沈んでいる。

 とろんとした瞳に映るのは、大胆に露出した肌を上気させた……。

「ひなた! ダメだ、ストップ!」

 慌てて細い体を抱きしめれば、耳元で「ふえ?」と間の抜けた声がする。
 危ない、ほんとに危ない。
 見るもの聞くもの、ひなたが想像を膨らませてしまうものすべてが空想症を引き起こすのだから、大変だ。

 ――ひなたの両親が何もかもから遠ざけようとしたのは、間違いじゃなかったのかも……。

 そう思いかけて、いいやと思い直す。
 俺があの人たちの行動を認めてしまったら、ひなたはもうどこへも行けない。ひたなの母親のように、ひなたを守るためと家の中に閉じ込めるのは間違いだと思ったからこそ、俺は今ここにいるのだから。

 ――俺はひなたの自由を奪わずに愛してみせる。

 決意を新たにしたところで、室内に沈黙が落ちていることに気がついた。
 ひなたは赤くなった頬を冷まそうと手のひらで顔をあおぐのに忙しい。俺は自分の思考に浸っていた。

 ――じゃあ、ハルさんが黙ってるのは……?

 もしかしてハルさんも気まずく思ってるんじゃないか。
 そうっと視線をあげると、ハルさんはソファにごろんと横になって「う――ん」とうなっていた。そこに恥じらいや戸惑いはかけらもない。

「あの、ハルさん?」
「ううーん。いやね、どう対応するかで困ってるわけよ」

 性的、のくだりにはかけらも触れず、ハルさんは首をひねる。気にしていたのはまったく別のことだった。

「お互い干渉しないって決めてあるなら、後から同じ学校に入学してきたあっちに、転校なりしてもらえばいいと思ったんだけどね。校区がかぶらないようにするために、あんたらは私の家に住んでるわけだから」

 ハルさんの家であり、父さんの実家であるこの家は、俺たちの生まれ育った町のとなりの県にある。
 隣県とはいっても線路でつながっており、電車での行き来も可能だ。
 だからこそ父さんと母さんも俺たちが親元を離れることを許してくれたのだけれど。

「そういう取り決めはしてないな。少なくとも、俺たちは知らないよ」
「そっかー」

 うーん、とソファに寝そべり伸びをしたハルさんは、横になったままひなたに視線を移す。

「じゃあ、ひなたはどうしたい? 希望があるなら私にできる限りのことをするよ」
「あたし……」

 ひなたの手がすがるように、俺の手を強くにぎる。

「あたしは……」
 
 ※※※

「ユウくーん!」

 元気な声が響いたのは翌日、朝六時のこと。
 昨日、早すぎると言ったことを覚えていたのか、あるいはひなたなりに悩んで眠れなかったのか。

 ――昨日、ハルさんに「どうしたいのか」と問われたひなたは結局、答えを口にしなかったしな。ひなたなりに悩んでいたのかもしれない。

 そのおかげかどうか、すこしは常識的な時間になった呼びかけに、俺は素直に目を開けた。
 ぶつかったのは、夜明けににじむ光を宿した瞳。静けさを閉じ込めた明るい茶の瞳のなかに、映っているのはただ俺だけ。
 きっと、ひなたが見つめる俺の瞳にもひなただけが映っているんだろう。

 めくったカーテン越しにこちらを見下ろしてくるひなたは、朝の淡い光に包まれて幻想的なまでにかわいらしい。
 思わず伸ばした俺の手のひらに、ひなたが懐くように頬を擦り寄せてきた。
 やわらかさと温もりに、愛おしさが湧き上がる。

「ひなた」

 ほほえんで名前を呼べば、ひなたもへにゃりと笑い返してくれた。

「ユウくん」

 丁寧に形をなぞるように俺の名を呼ぶひなたの声がひどく近い。
 どうしてだろう、と考えてひなたの顔がすぐそばにあることに気がついた。鼻と鼻が触れ合う寸前の距離。近すぎて、互いの姿しか見えない距離。
 俺とひなたの体重を受け止めたベッドがぎしりときしんだ。
 寝転んだ俺にひなたが覆い被さるようにして、乗り上げてくる。触れ合った箇所の体温が溶けあって、俺とひなたの境目が無くなるような心地だ。

 ――このまま、ふたりで落ちていけたら……。

 熱い吐息が唇をなでては、ゆっくりと距離を縮めていき。

「はいはい、そこまでだよー」

 突然の声にぎし、とふたりそろって動きを固めて、部屋の入り口に寄りかかったハルさんがいることに気が付いた。

「キスで止まれるんなら好きにすりゃいいけどね、どうにもそんな雰囲気に見えなかったからさ」
「あ、いや、そんなつもりじゃなくて……ハルさん、もう仕事に行くの?」

 慌ててひなたを抱えて起き上がると、ハルさんは前髪をきっちりと上げ、すでに仕事用の作業着に着替えている。
 いつもは俺たちと同じころに家を出るのに、珍しい。

「昨日、はやく帰ったぶん残してきた仕事があってね。早く行くけど、帰りはたぶん遅くなるから先に夕飯食べておいてよ」
「うん、わかった」
「はあい」

 俺とひなたがうなずいたのを確認して、ハルさんはさっさと部屋を出て行こうとする。その途中、ふと振り向いて。

「そうだ、もし何かあったら携帯電話にかけてくること。遠慮するなよ」

 今度は言うだけ言って、俺たちの反応も見ずに背を向ける。階段を駆け下りる軽快な音を残して、ハルさんは出かけていった。
 ベッドのうえに座った俺とひなたは、お互いの顔を見てなんとなく黙り込む。

「そろそろ、朝の支度をしようか」
「うん」

 笑い合って、俺たちは手をつないだ。
 そしていつもどおりの今日がはじまる、はずだったけれど。

 ***

 学校に近づくにつれ、俺とひなたに向けられる視線が増えていく。
 手をつないで歩く姿が物珍しく思われているのかとも思うが、どうにも違う。

 ――通勤途中の大人は気にしてない。近所の人たちの態度も変わらない。変わったのは……中学の制服を着てる人の視線、か?

 気づいてしまえば、今日はまだ誰からも話しかけられていなかった。蓮は単に通学時間が合わなかっただけだろうと思えるけれど、昨日話しかけてきた元クラスメイトの誰とも鉢合わせていないとは思えない。現に、校門のすぐそばで見知った顔に行き会った。
 一瞬、視線が合った気がしたけれど、相手は無言で通り過ぎていく。

「おはよう」

 気づかなかったのだろうか、と肩を叩けば、手を置いたそいつの肩が大げさに跳ねた。

「あ、うん、おはよ」

 うつむき気味にそう言うなり、小走りに立ち去っていく背中に、嫌な予感がした。

「ね、ユウくん。行こ?」

 ひなたのささやくような声と繋がった手が引っ張られる動きで、足が止まっていたことに気づく。
 立ち止まっていた俺たちを追い越していった奴らのなかにも、元クラスメイトがちらほら見える。けれどその誰もが話しかけてくることはなく、ときおりちらりと振り向いては黙って立ち去って行く。

 ――嫌な視線だ。

 となりを歩くひなたが気にしていないかと、心配になったとき。ひなたがつないでいる手にしがみついて、ぶら下がるようにしてのぞき込んでくる。

「ユウくん、今日はどんな一日になるかな! 楽しみだねっ」

 明るい笑顔に癒され、周囲の視線を気にする気持ちが薄れていく。

「ああ、そうだな」

 笑い返し、ふたりで生徒玄関へと歩く。

 ――好奇の視線なんて去年一年間、さんざん向けられてきたじゃないか。堂々と受け止めて気にしないようにしていれば、俺たちの在り方はふつうの光景になった。もう一度、そうなるまで過ごすだけ。

 そう自分に言い聞かせて気持ちを切り替える。俺にとって大切なのは、ひなたを見失わずにいることだけ。

 ――それ以外はどうだって良い。そう、どうだって良いんだ。

 決意を新たに向かった教室で、俺たちを迎えたのは沈黙だった。
 教室に入る前からにじんでいた不気味な静けさのなかへ、一歩足を踏み入れた途端に俺とひなたに教室じゅうの視線が向けられる。
 冷ややかな、どこか探るような視線に立ち止まりそうになるけれど、笑顔で進む。

「おはよう」
「おはよ!」

 俺とひなたがいたってふつうにあいさつをすれば、教室の大半が目を逸らし、数人がくすくすと嫌な笑いをもらす。
 ともすれば凍ってしまいそうな、教室の空気のなか。

「おはよう」

 いつも通り淡々と、とくべつこちらを気遣う視線もなくあいさつを返してきたのは蓮だった。

 ――ひとりでもいつも通りに接してくれる相手がいるっていうのは、ありがたいものだな。

 その変わらない態度に力をもらい、席へと向かうと。

「おはようございます、矢野さん。木許さん」

 いつも通りに接してくれるのはひとりではなかった。
 ひなたの隣に座る中野が、読んでいた本から顔をあげて告げてくる。
 大きくもないその声は静かな教室のなかに妙にはっきりと響き、奇妙な沈黙を歪ませたらしい。
 誰かがこそりと声を発したのを皮切りに、あちらこちらで声があがる。
 そのたび俺たちに向けられる視線は薄れていき呼吸がしやすくなった。

「……君たちの図太さには呆れるよ」
「蓮のおかげだよ、あと千明さんのね」

 席に着いた俺たちを振り返り、蓮が呆れを隠さずに言う。
 俺が素直に感謝を告げれば、蓮は「僕だったらそもそも教室に入れやしないのに」とぶつぶつ言うのをよそに、ひなたが中野に飛びついた。

「千明ちゃーん! ありがと、千明ちゃんはやっぱりあたしの親友だよ~!」

 どん、とぶつかった衝撃でズレた眼鏡を直して、千明は本を閉じた。

「あいさつを返した程度で親友と認識されるのはいかがなものかと思いますが、ひなたさんはこれまで自分の周囲に居ないタイプの方ですので、付き合いを深められれば良いですね」
「うん! 深めたい!」

 女子同士の笑顔の抱擁(片方は無表情かつジャージ着用のうえ性別不明ぎみだが)に心がなごむ。

 けれど穏やかな時間は長くは続かない。
 教室の前のほうがざわついた。今度はなんだと目を向けると、前の入り口にひよりの姿が見える。
 肩を怒らせたひよりは教室にずかずかと入ってきた。ざわめくクラスメイトたちには目もくれず、机の間を縫ってひなたの正面に立つ。

「ひ、よりちゃ……」

 バンッ!
 ひなたが名を呼ぼうとしたとたん、ひよりが両手を机に叩きつけた。固まったひなたの爪が、俺の手の甲に突き刺さる。

「どのツラ下げて名前を呼ぼうっての? あんたは」

 ――本当に、この子がひよりなのか?

 ショックだった。
 降ってきた声のあまりの冷たさに、兄妹のように笑い合ったひよりが結びつかない。

 両親がひなたに付きっきりだった六年間の多くをひよりは俺の家で過ごしていた。
 俺の両親が帰ってくるまでの時間、ふたりでおやつを食べゲームをしたり、時には寂しいとすねるひよりをなだめて過ごしたものだ。
 甘えん坊で泣き虫で、一つしか違わないのにいくつも年下の妹のようなひよりが、信じられないほど冷たい声をだす。

「ねえ、なんとか言ったらどうなの」
「ひ、あの、ごめ……」

 ひより、と呼びかけたひなたは、名前を呼ぶなと怒られたことを思い出したのだろう。不恰好に言葉を途切れさせるひなたに、ひよりが大きなため息をついた。

「そうやってか弱いふりして、今度はユウくんを縛りつけるんだ? どうせ散々振り回してから捨てるんでしょ。パパとママをそうしたみたいに、めちゃくちゃにしてから一人だけ!」
「ねえ」

 ヒートアップしていくひよりの剣幕に飲まれ、誰もが黙って見守ることしかできないなか。
 蓮の静かな声がひやりと響いた。
 水をさされた形になったひよりが蓮をにらむけれど、彼は自然体で座ったまま。

「それで、君はどうしてほしいの」

 いつもどおり感情の読めない顔で、声の抑揚も乏しい。
 責めるでもなく、憤るでもなく、淡々と問う言葉にひよりはたじろいだようだった。

「ど、うって……」

 口ごもったひよりの視線がさまよう。蓮から離れた視線が俺を見つけ、すがるような色を宿したとき。
 バタバタと騒がしい足音とともに、大人たちが駆け込んできた。ひとりは担任教師の白川。もうひとりは若い女性だ。

「矢野さん! 他学年の階へ無闇と行かないって約束したじゃない!」

 平川先生のあとから入ってきて、ひよりに向き合ったのはひよりのクラスの担任教師だろうか。なだめるようにひよりの肩を抱いて、教室を出ていく。
 閉まる扉の向こうに消える前に、ひどく心細そうなひよりと目があった。
 脳裏に、親を求めて泣いてすがってきた幼いひよりの姿がよぎる。
助けてやりたい。無意識にそう思って、けれどその思いに蓋をする。

 ――俺の手はひなたを繋ぎ止めておくので精一杯なんだ。ごめんな、ひより。

 目を伏せて、ひよりに背中を向ける。腕のなかにはひなたを隠した。
 ひよりをなだめる女性の声が遠ざかっていく。それとは正反対に、教室のざわめきは増していた。

「ほらほらみんな、騒がなくていい。席について。ほら、そこ。廊下を覗かない」

 担任教師の白川が、ざわつく教室の注目を集めようと手を叩いた。だるそうな割に存外、通る声の合間に「小野、知らせに来てくれて助かった。もう席についていいぞ」と言うのを聞いてはじめて、小野がいなくなっていたことに気がついた。
 担任の背後からしれっと現れた小野は、ざわめく教室のなか誰の注目を集めることもなく席に戻り、落ち着いた様子で座る。
 落ち着かなげなひなた越しにその姿を見ていると、ふと小野が顔を上げた。

「事態の全容は見えませんが、当人同士で解決する問題とは思えなかったため監督者を呼びました」
「あ、ありがとう。助かった」

 耳慣れない物言いに、面食らいながらも素直に礼を言えば、眼鏡の向かうで小野がにや、と笑う。

「機動力が高い服を着てますからね、こういう時こそ動かねば」
「はは」

 ――冗談、なのか?

 判断が難しくて、誤魔化し笑う。

「あはは! 千明っちってばおもしろーい!」
 明るく笑うひなたの声はどこか空虚で。つないだ手の冷たさに気づきながら、俺は何も言えなかった。
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 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

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