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 店にやってきた畑野浦さんは、妙に可愛らしいかばんを小脇に抱えていた。一緒に来るのかと思っていた鈴木さんの姿はない。

「あれ、鈴木さんも一緒かと思ってたんですけど、畑野浦さんだけなんですね」

 不思議に思って聞くと、汗を拭きふき畑野浦さんが答える。

「ああ、彼も一度あいさつに行かねば、と言っていたんだけどね。ちょっとわたしが頼みごとをしたから遅れてくるか、明日になっちゃうかもしれないな」

 頼みごととはなんだろう、そう思ったのが顔に出ていたのだろうか。

 ふふふ、と嬉しげに笑った畑野浦さんは、和音が座るテーブル席に近寄って抱えていたかばんをテーブルの上に置いた。

「わたしもね、ちょっと準備してきたんだよ。必要だろうと思ってね」

 そう言いながらかばんを開けた畑野浦さんは、中から細々とした品物を出して並べ始めた。茶髪のカツラ、網みたいなもの、口紅に丸や四角の化粧道具と思われるものが多数。
 そして最後に写真を数枚、その横に置いた。

「こちらの写真の方は……?」

 グラスを持ってカウンターを出てきたマスターが、写真を覗き込んで首をかしげる。
 グラスの中身は今日の分のアイスコーヒーだろう。

 これまで俺は、アイスコーヒーというのは熱いコーヒーに氷を入れて冷ましたものだと思っていたのだけれど、この店で出されるアイスコーヒーは違った。

 コーヒーの粉を入れた布に冷たい水を入れて、ゆっくりぽたぽたと垂れてきたコーヒーを水出しアイスコーヒーと呼んでいる。

 作るのに手間も時間もかかるため、夏季限定なうえに数量も限定だ。
 一日かけて抽出されたコーヒーの味が気になっていたのだけれど、この時期しか飲めないとあって常連さんに人気で、毎日売り切れてしまう。

 それがついに飲めるとなれば、思わぬ幸運にちょっと畑野浦さんに感謝したくなる。
 伝えれば得意げに笑うだろうから、言わないけれど。

「この子はね、鈴木さんの娘さん。彩香(あやか)ちゃん。和音ちゃんに変身をお願いする子の写真を借りてきたの」

 そう言って、畑野浦さんは得意げな顔をする。褒めなくてもこの表情なのだから、何も言わなくて正解だ。

「それから、髪型が違うからカツラがいるでしょ。お化粧が好きな子らしいから、お化粧道具も買ってきたよ。お店の人に選んでもらったから、だいたい揃ってると思うけど」

 足りなかったら買ってくるから言ってね、と言いながら椅子に座る畑野浦さん。
 マスターはグラスを配り終えてからカウンター席に浅く腰をおろしており、和音はずっと座ったまま静かにしている。

 誰も見ていないようなので、写真を手にとって眺めてみた。

 茶髪。長い髪を耳の後ろあたりで二つに結んでいる。顔は、たれ目ぎみで可愛らしいのだけれど、ちょっと化粧が濃すぎるような気がする。
 目元を強調するまつげと目じりの黒い縁取りのためだろうか。
 頑張って化粧しているのはわかるが、もう少し薄めにしたほうがもっと可愛いのではないかと思う。

「木浦さんとはずいぶんタイプが違う感じの子ですね」

 写真を持って和音と見比べてみれば、正反対と言えそうなくらいには似ていない。

 鈴木さんの娘、彩香が今どきのおしゃれ好きな女の子ならば、和音は清楚な大和撫子といった感じだろうか。俺の個人的な好みが多大に影響した評価ではあるが。

「いくら女の人は化粧で化けるって言っても、これはちょっと難しいんじゃ……」

 成りかわりが失敗する可能性に不安になって写真をテーブルに戻しながら言えば、どこを見るでもなく座っていた和音が俺の手元にふらりと視線をやる。

「……たぶん、大丈夫」

 ぽつりと言葉が落とされる。

「そうなんだ、すごいなあ。木浦さんって、化粧得意なタイプ?」

 意外だなあ、と思いながら感心していると、二拍ほど遅れてマスターが動揺した声をあげる。

「か、和音ちゃんが自主的に喋った……」

 振り返れば、マスターが驚きの表情で和音を見つめている。

「本当にこの件に乗り気なのだね……。あ、いや長谷くんを疑ってたわけではないのですが。ただ、久しく自分から話す和音ちゃんを見ていないから驚いてしまって」

 慌てて付け足すマスターに、俺こそ珍しいものを見たと笑ってしまう。

「いや、俺も一回目に喋ってくれたときは驚きましたし、そんな慌ててるマスターが見られるなんて今日は珍しいことが多い日ですね」

 俺の言葉にマスターが照れたように笑い、畑野浦さんがにこにこと頷く。

「マスターはいつも落ち着いていて、喫茶店のマスター、って感じだもんね。長いことお店に通ってるけど、わたしもそんなに慌ててるところは初めて見たなあ」

 二人から笑って言われたマスターは、苦笑いして首をふる。

「畑野浦さんまで、やめてください。ぼくのことはいいですから、長谷くんも座って、水出しコーヒーがぬるくなる前に飲んでやってください。珍しいと言うほどではありませんが、いつでもお出しできる物でもありませんから」

 マスターが言うと畑野浦さんもそうそう、と同意する。

「わたしがくるころには、だいたいいつも売り切れてるんだよね。毎年夏の間に一回飲めるかどうかだから、じゅうぶん珍しいよ」

 嬉々としてグラスを手にとる畑野浦さんに続いて、マスターに促されるまま和音の向かいの席に座り、念願の水出しアイスコーヒーに口をつける。

 グラスを傾けて、音もなく流れてきた液体を口に含む。
 アイスコーヒーだけれど、味や香りが薄まってしまうから氷は入れないのだと言っていた。

 もちろん、お客さまからの要望があればその限りではないらしいが。

 ひんやりとした、けれど冷たすぎない液体が流れてきた瞬間。優しく深い香りがすぅっと鼻を抜けていく。
 ホットコーヒーの昇り立つような香りとはまた違った、雨上がりの夜明けのような体に染み渡る香り。苦味もじんわりと染みるように広がっていく。
 呼吸に合わせて体の中を通り抜ける香りに、知らないうちに深く息を吸ってゆっくりと吐き出していた。

 残り香までうまい。

 俺と畑野浦さんが満足げに黙り込むと、落ち着きを取り戻したマスターがいつもの調子で微笑んで和音に声をかける。

「和音ちゃんも飲んでいてね。姉さんに電話をして、咲良ちゃんに連絡しておいてもらうから」

 マスターの言葉にかすかに頭を下げる和音を見ながら、俺は初めて聞く名前に首をかしげた。

「マスター、咲良さんって?」

「ああ、名前までは言ってませんでしたね。咲良ちゃんは和音ちゃんのお姉さんです。隣県の美容専門学校に通っているので、髪の毛をいじったり化粧をするのは得意みたいでね。和音ちゃんがここで働くことが決まったときに、似合う化粧の仕方を教えてあげたそうだよ」

 マスターの言葉に和音を見て、なるほど確かにこのナチュラルメイクは喫茶店の雰囲気も壊さないし、和音にも似合っていると思う。
 美容師のたまごが指導したなら、なるほど納得だ。

「今回のことも、写真を見せれば上手にしてくれるだろうから大丈夫、ということかな」

 和音に向けてマスターが問うように言えば、和音はまたかすかに頷く。
 その様子を見ていた畑野浦さんは、嬉しげに頷いて空のグラスをテーブルに置いた。

「じゃあ、見た目に関しては大丈夫そうだね。服と、それから娘さんが映ってるビデオも鈴木さんが実家から持ってきてくれる約束だから。明日はお店、休みだったよね? だったらの朝から作戦会議できるよね。明日の朝九時ごろにまた来るね」

 そう言って立ち上がった畑野浦さんは、そうそうとマスターに声をかけた。

「マスター、今日のぶんの焼き菓子って、ここにあるので全部? もうちょっとある? だったらあるぶん全部、持ち帰りしたいんだ。水出しコーヒーも、持って帰れるなら全部ください」

 本日の営業ができなくなってしまったことを気にしたのだろう畑野浦さんの申し出に、マスターは首を横に振る。

「そんなことをしていただかなくても、ぼくの身内に益のある話を持ってきていただいたのです。どうぞ、お気になさらないでください」

 マスターの返事に、畑野浦さんは困ったように笑って頭に手をやった。

「いやあ、売れ残りを出すのも確かに申し訳ないと思ってるんだけど、それよりもうちの病院の看護師さんたちが怖くてね。女性陣のご機嫌とりが、本当の理由なんだよ」

 彼は頭をかきかき、続ける。

「いつもは他のお客さんがいるから買い占めなんてできないでしょう、一度なにか差し入れしておけば、また休憩したくなったときに目こぼししてもらえるからさ」

 だからお願いします、と茶目っ気たっぷりにウインクされてしまえば、マスターも断れなくなったらしい。

 持ち帰り用の紙箱をいくつも組み立てて、シュークリーム、ケーキそれからテーブルロールやクロワッサンを詰めていく。
 飲み物のテイクアウトサービスはやっていないので、水出しコーヒーは冷蔵庫にしまっていたボトルごと渡すことになった。

 明日、またきた時に返却してもらうということで、特例だそうだ。

 たくさんの紙箱と一緒にタクシーに乗り込んだ畑野浦さんを見送って、店に戻る。

 気がつけば、いつの間にか時刻は夕方になっていた。
 今から店を開けても、それほどの来客は見込めないだろう。何より、売り物がコーヒー以外残っていないから、こんな時間からわざわざ店を開ける必要がない。

 さっき使ったグラスも、俺とマスターが箱詰め作業をしている間に暇そうだった和音に洗ってもらった。

 しばらく一緒に行動していて思ったのだが、どうにも彼女のまわりの人間は和音に対して遠慮が勝ちすぎる。
 長いこと彼女の状態に気がつかなかった負い目があるせいかもしれないが、どう動いていいかわからない人を黙って見つめていても何も解決しないのではないだろうか。

 そんなわけで、俺は遠慮なく声に出して和音に伝えることにした。

「今日はたくさん頑張ったね。明日はもっとやることいっぱいだろうけど、とりあえず今日はおつかれさま!」

 俺がにっと笑って言うと、彼女はほんの少し頭を横に傾けた。
 これはどう返していいかわからない、と言うことだろう。

 ふと思いついて、和音に近寄りそのほほをつまんでむにっと持ち上げた。

「こういうときはこうやって笑って、おつかれさま、って返しておけばいいんだよ」

 死んだ魚なような目に無理矢理あげた口角があまりにもちぐはぐだけれど、まあ追い追い表情がついてくることを期待しよう。

 マスターに明日の時間を確認して、その日は解散した。
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