12 / 15
2
しおりを挟む
掃除洗濯、買い物にも行って、料理の下ごしらえも済ませた。
気合を入れて布団まで干したその夜、史郎はほこほこの布団のうえに正座してSNSを開く。史郎がばたばたしている間に新しいお祝いメッセージがいくつも届いていた。けれどそれらへの返信はあとにして、DMを開く。
いくつか来ている新しいDMには、しばしばSNSでやり取りする絵師の先輩からのものやまったく関係のなさそうな不審なアカウントからのものなどあるけれど、そのなかに『山田』からの新しいメッセージもあった。
ごくり、と唾を飲み込んだ史郎は、大きく深呼吸をしてからそのメッセージを開く。
『シロさんの絵の瞳の強さに惹かれたので、見るひとを射抜くような視線を描いてほしいのです。正面を向いている絵のラフを何枚か見せていただきたいのですが、いかがでしょう』
びきり、と固まった史郎の目は文章のなかの一点「正面を向いている絵」というところに釘付けだ。
正面絵。キャラクターが正面を向いている絵だ。そして依頼主の希望は「見るひとを射抜くような視線」。それはつまり、キャラクターの視線がこちらを向いているということである。
シンプルでわかりやすい指定だ。シンプルゆえに絵師の技術が試されるものでもあるけれど、問題はそこではない。
指定された絵は、史郎が長年描けないでいるものであった。
(こっちを向いてる瞳を描くってことは、キャラと目が合うってこと……)
史郎は構図をぼんやりと思い浮かべる。
画面のなか、こちらを向いて立つキャラクター。賞に応募した絵の雰囲気ならば、笑った顔でなくて良いはずだ。唇を引き結び決意を秘めた顔で見つめてくるキャラクター。想像のなかのキャラクターと史郎の視線が合った瞬間、キャラクターの瞳がじわりと濁る。
色とりどりの光を封じ込められたその瞳を濁らせるのは、侮蔑、嫌悪、憐憫、嘲り。
史郎にとって忌まわしく、けれど忘れられないそれらの感情が薄れたはずの過去の痛みを思いださせる。
(いやだ)
嫌な瞳だった。
(そんな目で見ないで)
史郎を傷つけようとする者が見せる瞳だ。
その瞳を何度も向けられて、そのたび傷つけられてきた史郎は、いつしかひとと目を合わせるのが怖くなった。
(また俺を馬鹿にするんだろ)
やさしい相手であっても、いつその目にさげすむ感情が乗るのかと思うと恐ろしくてたまらなくて。いつしか家族とさえ目を合わせるのが苦痛になった史郎は、うつむいたまま絵を描き続けることを覚えたのだった。
(描けない。俺には無理だ……)
逃げるように布団に潜り込んだ史郎は、頭から布団をかぶってスマホを遠ざける。画面を見つめているとそこに自分をさげすむ瞳が浮かびあがるようでたまらなかった。
(……寒いな)
太陽のぬくもりを受けた布団はふかふかと温かいはずなのに、それすら史郎には感じ取れなくなっていた。
※※※
どこか遠くで車のエンジン音がする。毎日同じ時間に聞こえるきしんだ自転車をこぐ音は、新聞配達員のものだろう。
夏の朝ははやいとはいえ、史郎が布団のすき間から見上げた空はまだ群青色をしていた。
(ああ、また陽がのぼるのか。ずっと暗がりならいいのに)
あと数時間もすれば射しこむであろう陽光におびえる史郎は、ひとの目を見るのが怖い。
いつからかは、はっきりとわからないけれど小学校を卒業するころにはすでにぼんやりと自覚していた。中学生になってもその想いはつもり、しだいに写真のなかのひとの視線にすら怯えるようになった。そして、いつからか大好きなはずの絵でさえも、目を直視することができなくなった。
だから、人物と視線の合う構図は史郎が唯一描けないと断じている絵だった。
(見られないのに描けるわけがない)
布団のなか、一晩じゅう諦めばかりをくり返した史郎の胸がぎゅっと痛む。
描けるわけがないと自嘲したくせに、そのことに傷ついている自分が嫌になる。ずっとその繰り返しだ。
絵なんか描いて、と馬鹿にされて悔しくて悲しくて、けれど描くことをやめられない。
描いた絵を馬鹿にされてもやめられず、かばおうとしてくれたひとたちを巻き込んでしまってもまだやめられない。
そのたび史郎は自己嫌悪を重ねながら、見たくない視線から逃げながら絵を描き続けてきた。
けれど。
(……すこしだけ、描いてみようか)
いつもであれば逃げ出す史郎が寝不足の頭でそう思えたのは、できたばかりの友人たちや理解を示してくれる家族の応援、そしてコンテストで評価されたというちょっぴりの自信のおかげだった。
周囲が変わったいま、自分も変わっているかもしれないという期待が史郎の背を押す。
「描いてみよう」
気合をいれようとつぶやいた史郎は、もぞもぞと布団から這い出した。
寝転がったまま描けないこともないけれど、真面目に向き合いたいからと布団のうえに正座してスマホ画面を見つめる。
慣れた手が開いた白いキャンバス。
いつも描きながらイメージをつかむため何気なく動く史郎の手は、スマホの画面を指さしたまま固まっていた。
(広いな……)
見慣れたアプリのキャンバス画面が途方もなく広く感じる。手のひらにおさまるちいさな画面のどこに指を落としていいかわからない。さっき入れたはずの気合がはやくもしぼみはじめる。
反発しあう磁石のようにスマホ画面に近づけないまま、ふらふらとさ迷う自身の指に史郎はぎり、と歯を噛みしめた。
(正面絵、正面絵は描けるんだから)
うつむいた人物を正面から見た構図のイラストは描いたことがあった。そのときも依頼で『正面を向いてる絵を』と言われたのだけれど、視線を逸らしたもので依頼主がオーケーを出してくれたからどうにか描けたのだ。ヒヨは「苦手を避けるのもひとつのテクニックだよ!』と言ってくれたけれど、史郎の胸のなかであれは逃げだったとずっとくすぶっている。
(でも、もう逃げたくない)
そう思うけれど、史郎の手は震えて言うことを聞かない。頭では描きたいと思うのに身体は史郎を裏切って、震える指先は冷え切り史郎の『逃げたくない』という思いさえも凍えさせてしまいそうだ。
「ううううぅぅ~……」
情けなさに涙がにじむ。
描きたい気持ちはあふれるほどある。描けるだけの技術も磨いてきた。それなのに描くことを邪魔する自分の心が憎くて憎くて、史郎は胸元をかきむしる。
そのとき。
「うわっ」
握りしめていたスマホがブルブルと震えた。着信を知らせる音楽とともに画面に表示された文字は『猿渡』の二文字。
時刻は朝の六時。描けずにいるうちに時間が経っていたとはいえ、まだ早朝と言える時間だ。
緊急事態だろうかと慌てた史郎は、とっさに通話ボタンを押してしまう。
『もっ、もしもし上江!? あの、いま暇だったりしない、かな!?』
スマホから飛び出してきたのは当然、猿渡の声。力みすぎてところどころ上ずりながらも言いきった彼女は息をひそめて史郎の返事を待つ。
「え、いま……?」
史郎は思わずもう一度、時刻を確認した。何度見ても六時だ。窓の外、夏の空は明るく色づいてきてはいるけれど気軽に電話をかける時間ではない。にもかかわらず、猿渡は『いま暇?』と言っている。
(ええと、どういう意図の電話だ?)
わからない。猿渡の、リアルを謳歌する現役女子高生の思考回路がまったく思い描けず史郎は混乱した。けれど、今はクラスメイトの相手をできる余裕がない、と本人に言える史郎ではない。
かと言って「うん暇。あそぶ?」とも言えず史郎はうなる。
「いや、なんか……しんどい」
寝不足と心労に「どうして俺は電話に出てしまったのか」という後悔が重なった結果、つい口を突いて出たのはいろいろな思いがこもったつぶやきだ。実際、身体はしんどかったのだが言ってから「しまった」と思った史郎だけれど、訂正を伝えるよりはやく猿渡が声を鋭くさせる。
『上江、なんかあったの!? えっと、わかった! いまいくから!」
「え」
史郎の声に答えた猿渡は、叫ぶように言って通話を切ってしまう。
止める間どころか返事をする間もない早業に史郎が驚いているあいだに、カンカンカンッとアパートの階段が甲高い音を立てはじめた。よく響く音は見る間に近づいたかと思うと、史郎の部屋のチャイムがふるぼけた音をたてる。
「え、え?」
早朝の訪問客に心当たりはない。けれどついさっき電話口で話した相手の顔が思い浮かんだ史郎は驚き、跳びあがるようにして玄関に向かった。こけそうになりながら辿りついた扉の鍵をはずし、押し開くと。
「上江! なにがあったの!?」
果たして、そこには私服姿の猿渡がいた。おしゃれなスウェットと言うべきか、スポーティな女性ものというべきか。肩口に切れ込みの入った半袖パーカーは白地に青い生地がつぎはぎのように合わせられて、夏らしく爽やかだ。パーカーのしたにちらりと見える短パンは裾が広く、すんなりと伸びる猿渡の脚をより華奢に見せている。ユニセックスなショルダーバッグを合わせているおかげでともすると少年にも見えそうだが、肩にかかるやわらかな髪と愛らしい顔の造形がほどよくかわいらしさを足している。
これが早朝でさえなかったなら、クラスメイトのかわいい女の子がたずねてきたというドキドキイベントにもなりうるが、残念ながら時刻は朝六時。明らかに非常識であった。
猿渡はそんなことにはお構いなしで、扉が開くなり室内に滑り込んで史郎に手を伸ばし、彼の全身をペタペタペタペタと触りだした。
「怪我はない、熱もなさそう。なんかあたしより細い気がするんですけど……でも上江のリラックス部屋着たまらんです。クラスの誰も知らない姿、ひとりじめぐふふ」
「えっ、ちょ」
はじめこそ真剣な顔をしていたものの、史郎に異常はなさそうだと見てとった猿渡の表情は一瞬険しさを増し、そしてゆるんでいく。史郎の肩や腕、腰に手を這わせながらトレードマークのアホ毛を揺らし、ついには下心丸出しの笑いをこぼしはじめた猿渡に、史郎は怯えて後ずさった。
「はっ! ご、ごめん! 生上江の貴重なリラックスモードが目の前にあると思ったらつい!」
(つい、ってなんだ……?)
猿渡が赤面する理由が史郎にはわからないけれど、突っ込んで聞きたいことでもなかったので誤魔化されておくことにした。
「あの、猿渡さん、どうして」
どうして電話をかけてきたのか。どうしてここにいるのか。というか今はまだ朝早い時間なのだけれど、という史郎の声にならない問いかけに猿渡はなぜか頬を染める。
「えっとぉ……あのね、思いもよらない場所でばったり会うとさ。相手に運命感じたり、しない?」
「運命……というよりは、因縁をつけられそうだとは思うかも」
史郎の脳裏に浮かぶのは、中学生時代にさんざんなことを言ってきたクラスメイトの顔だ。教室で会えばあいさつ代わりに罵られ、学校内でも偶然顔を合わせれば不愉快そうにあれこれと吐き捨ててきた。
そうやって史郎のなかでは偶然と因縁が結びついている。
「そっ、そんな!」
史郎の回答は猿渡に衝撃をもたらしたらしい。顔を青ざめさせた彼女は、にわかに慌て始めた。
「え、え、じゃあ、上江の家の近くであたしとばったり会って『ちょっと散歩してたんだ。もしかして上江も?』なんて言っても、ドキッとしないの!?」
「はあ、まあ。何でこんなとこにいるんだろう、って思うかと。あと、俺、学校と買い物以外で外に出ないんで」
引き気味に答える史郎に、猿渡はつかみかかる勢いで近寄る。
「じゃあ、あたしはどこで上江とばったり出会って運命の恋に発展したらいいの! 家の周りをぐるぐる回ってもだめなら、スーパー!? それとも駅で待ってればいい? いっそ上江の部屋の前で……!?」
(こんな朝からぐるぐる回ってたのか)
彼女の話から推察するに、猿渡は「ばったり上江に会わないかな」という下心を満載して日曜日の朝六時からクラスメイトの家の近くをうろついていたらしい。完全に不審者のそれであり、うっかりすればストーカーの域である。
(まあ、でも悪気はなさそうだし……)
暴走する猿渡を眺めながら、史郎は彼女が不審者として通報されなくてよかったと思う。でも部屋の前で待たれるのはびっくりするから勘弁してほしい、という気持ちでくちを開く。
「あの、何かあったなら電話でもメールでも、出られるときは出ますから」
「そうだ! 何かあったんじゃないの、上江!」
早朝徘徊はやめたほうが、という気遣うことばを遮って史郎にかけられたのは心配する声。
「さっき電話で上江、しんどいって言ってたから。だから一大事だと思って慌てて家に来ちゃったんだけど。怪我もしてないし熱も無さそうなのに、どうしたの? たんすのかどに小指をぶつけた? でもこの部屋、たんす無いよね!」
どうしたの、大丈夫? と心配して大騒ぎする猿渡の姿に、史郎はなんだか気が抜けた。
その拍子にふと、猿渡になら相談してもいいんじゃないか、と気持ちが揺らぐ。
「ちょっと、絵の依頼のことで……」
言いかけて史郎はくちごもった。
(こんな相談して、迷惑じゃないか? 相手はヒヨじゃないんだ、依頼もらったのに描けなくて困ってた、なんて言われても「だからどうしたの」って思われるだけかもしれない。でも、ヒヨに相談したらきっとまた心配かけるし……)
長くともに暮らした家族は、史郎がひとと目を合わせられないことに気づいている。そのうえで気にかけてくれているのだから、これ以上の心配をかけたくないというのが史郎の心情だった。かといっていちクラスメイトでしかない猿渡相手に相談をするのもまたためらわれた。
不意に黙り込んだ史郎に、猿渡が「うん」とうなずく。
「絵の依頼! あたしに答えられることかな!? いやでも答えられなかったらユーリちゃんとか別の友だちとか、わかりそうなひとに聞いてみるし。話して! 聞くよ!」
真剣そのものの顔で待ち受ける猿渡の熱意がうれしかった。
(迷惑じゃないのか……? 俺なんかの相談を聞いてくれるんだ)
そう思うと気持ちがゆるんで、史郎はへらりと笑ってしまう。「あわわわわ! 上江の微笑みぃ!」と小声でもだえる猿渡に気づかないまま、うつむいた史郎がこぼす。
「正面を向いた絵を描いてほしいって依頼をもらったんだけど、俺、描けなくて……」
「んん? 上江が? 描けないの? はっ! じゃああたしがモデルになるとか!? やだ、あたしが上江のミューズになっちゃう!!」
「いや、あの、形が取れないとかじゃなくて、その」
勘違いして身もだえる猿渡を止めようと、焦った史郎はにごしたことばをくちにする。
「目を合わせるのが怖くて! 描けないんだ、イラストでも……」
「目……そういえばそうだね!」
ぱちん、と手を合わせて笑う猿渡の反応が予想外で、史郎は驚き動きを止めた。そんな史郎に気づかず、猿渡はうんうんと何度もうなずく。
「上江の視界になんとか入ろうとしたこともあったけど、なかなか顔あげないから難しかったよ。学校に来るのもいつもギリギリだから声かけられないし、休み時間はすぐスマホ画面見つめちゃうから話しかける隙はないし」
「えっと、お手数かけました……?」
猿渡の勢いに押された史郎は、首を傾げながらも彼女の苦労をねぎらった。猿渡もまんざらでもなさそうに「ありがとー」などと答えるため、部屋のなかにほのぼのした雰囲気が流れはじめる。
「って、ちがうちがう! そうじゃなくて、上江の困りごとをなんとかしなきゃ!」
ほわほわと笑ったかと思えば、急にきりりと表情を引き締めた猿渡はひとり騒がしい。そんな猿渡をちらりとうかがった史郎は、ちらちらと彼女の姿を視界に収めては何かを言おうとし、だまってしまう。
そんな史郎のそわそわと落ち着かない様子に猿渡が気づいた。
「上江、どうしたの。言ってよ。あたし、何でも聞くから! 聞くだけしかできないかもしれないけど、それでもいいならなんでも言って!」
こぶしを握って聞く気満々という態度の猿渡の熱意に押されて、史郎の重たい口が動く、
「あの、猿渡さんはなんで笑わないの……?」
「ほえっ!? わ、笑ってるよ! 教室でも上江の前でも幸せもりもりハッピーにこにこだよ、あたし!」
もしかして笑ってるってわからないくらいぶさいくな顔になってた!? と大騒ぎする猿渡に、史郎は緩く首をふる。
「そうじゃなくて、その、俺がひとと目を合わせられないって言っても馬鹿にしないんだな、って」
自嘲まじりのつぶやきに、猿渡はぴたりと動きを止めた。彼女の動きに合わせて忙しなく左右していたアホ毛が一拍遅れてゆらりと揺れる。
うつむく史郎の額のあたりをじっと見つめて猿渡はじわりと笑みをにじませた。
「馬鹿になんてしないよ」
やさしさのこもった静かな声に、史郎はぎゅっと拳をにぎる。
彼女を信じたい想いと、傷ついてきた心がもう信じるのをやめたいと願う想いがぶつかり合って彼の胸のうちで暴れまわる。
「……なんで」
「だってあたし、上江のこと好きだもん」
うなるようにこぼれた史郎のことばに、猿渡は間髪いれず答えを返した。
構えもせず、素の想いがこぼれたようなてらいのない響きが史郎の耳に届く。
「は……?」
猿渡が何を言っているのかわからなくて、史郎は思わず顔をあげた。
史郎の視線と猿渡の視線がはじめてまともに交わる。
遠目に見たり横目でちら見していたためかわいい系だとわかっていた史郎だが、改めて見る猿渡はぼんやりと認識していた以上にかわいい。そして何より、真っすぐに史郎を見つめてくる猿渡の目に惹きつけられた。
(瞳が、きらめいてる……)
夜空のように光を散りばめた黒い瞳に見入っていた史郎は、ハッとして視線を逸らす。
心臓が痛いくらいに脈打っていた。
(このドキドキはなんだ、ひとと目を合わせたから? それとも……)
史郎が自分のなかで答えを見つけ出すよりはやく、猿渡が声をはずませた。
「あたし上江のいいとこいっぱい知ってるからね。ちょっぴり苦手なことがあるくらい、むしろかわいいなって思ってキュンキュンしちゃう!」
「キュンキュン……」
頬をおさえてうれしげな猿渡の脳内でどんな空想が繰り広げられているのか、すこし怖い気もしながら気になってしまう史郎だった。
そんな史郎に構わず、猿渡は笑顔のまま続ける。
「上江はねー、まずやさしいでしょ。それから、よく周りのこと見てるよね。ほら、このあいだだって誰かが忘れてた雑巾、片付けてたしさ!」
言われて、そんなこともあったかもしれない、と史郎は思い出す。それは教室でイラストアプリを開いて猿渡に見られた日だった。絵を描いていることがラスメイトにばれるという最悪の日、不幸を打ち消すこともできないささやかすぎる善行だと思っていた行為を猿渡は見ていたのだと言う。
「それはたまたま」
「うん、たまたま目に入ったから、上江が片付けたんでしょ? 見ないふりもできたし、掃除当番に任せても良かったのに、たまたま目に入ってたまたま手が空いてたからやったんでしょ。それが自然にできるってのが、やさしいってことなんだよ。その自然なやさしさで上江はあたしのことも助けてくれたんだから」
「……俺が?」
猿渡を助けた、と言われても史郎には心当たりがなかった。
それどころか笹渡の顔をまともに認識するようになったのはここ数日のこと。そのなかで猿渡を助けたことなど記憶になく、むしろ史郎があれこれと世話をかけているような気しかしない。
なんのことだろう、とふしぎそうに首をひねる史郎を見つめて猿渡がやわらかく微笑む。
「入学してすぐのころだよ。身体測定のとき、上江は記録係してたでしょ」
愛おしさに満ちた表情はそのまま声にも感情をにじませた。やさしく慈しむような響きが史郎の記憶を揺り起こし、忘れていたはずの過去を思い出させる。
入学して間もなく行われた身体測定のとき、地方から引っ越してきたばかりの史郎はあちらこちらでグループを作るクラスメイトの輪から離れてぽつんと立っていた。そのせいか、通りかかった担任にクラス名簿とストップウォッチを渡されて記録係をする羽目になったのだ。ほかにも何人かが肩を叩かれ記録係を任されていたから、単純に偶然かもしれないが。
そのとき、史郎が担当したのは五十メートル走。
「あ……平均値書いたひと」
「えへへ。思い出してくれた?」
こくり、とうなずきながらも史郎は自分の記憶を信じ切れずにいた。
春のあの日、史郎が見た猿渡は表情をこわばらせていた。はじけるような笑顔も、周囲まで元気にしてしまうような明るい声と通じるところはどこにもない。
揺れるアホ毛を覚えていなかったら、別人だと思っていただろう。
(猿渡はなんであんなに沈んでたんだろう)
「あのときね」
今更になって気になりだした史郎の思いを汲んだかのように、猿渡がくちを開いた。
「あたし、走るのが怖かったの。それで、ほかの子がみんな走り終わってほかの測定に行っちゃったのに、ひとりっきり残っちゃったのにスタートラインに立てなかったんだ」
「俺はてっきり、測定されるのが苦手なのかと……」
史郎自身が衆目を集めて行動することを苦手とするため、仲間かと思ったことを覚えていた。けれど、違ったらしい。ずいぶんと遅れてきた勘違いに恥じらう史郎を見て猿渡はくすくす笑う。
「ふふ、そうだね。測定が苦手なんだ、って言えばいいんだ。これからはそうしよっかな」
「俺の専売特許でもないので、どうぞ使ってもらえれば。でも、なぜ」
なぜ測定が苦手ではないのに、そんなウソをつく必要があるのか。走るのが苦手、ではなく怖いというのはなぜなのだろう。
そんな思いを込めた史郎の『なぜ』に、猿渡は自身の左足をそっと前に踏み出した。狭いアパートの玄関で、すらりと伸びた白い脚が史郎の脚に触れそうになる。互いの素肌が近づいて、空気越しに届いたほのかな体温が史郎の心臓を跳ねさせる。
「中学の時、あたし陸上部でね。脚を痛めちゃったんだ」
ドキン、と熱を持った史郎の胸は、自身の脚を見つめる猿渡の切なげな表情ですぐに冷めた。白くすべらかな猿渡の脚に目立つ傷などはない。けれど彼女の静かな声と切なげな瞳が、その話が真実なのだと語っていた。
「最後の試合の練習中にね。ばちんって音がして、急に倒れちゃって。びっくりしたよ。ああいうときって、痛みとかよりびっくりが先に来るんだね。何で動けないんだろ、って思ってる間にコーチの車で病院に着いてて。お医者さんにじん帯が伸び切っちゃってるって言われて。それからはもう走るとか、それどころじゃなくってさ」
はは、と力なく笑う猿渡の顔を見て、史郎は彼女とはじめて出かけたときのことを思い出していた。
(ああ、だからあのとき陸上部のほうを見ないようにしてたんだ)
笑って話す猿渡だけれど、きっとまだ彼女のなかには冷たいしこりが残っているのだろう。ユーリと仲が良いぶん、思い通りにグラウンドを駆ける友だちの姿を見つめることができないのかもしれない。
そんな猿渡に史郎はかけることばが見つけられない。運動部に所属するどころか、集団行動をひたすら避けて通って来た自身の気の利かなさに歯噛みするしかなくて、拳をにぎりしめる。
「半年間、リハビリばっかり。高校入るころにはふつうに歩けるようになってたんだ。周りは『良かったね』『また走れるよ』なんて言ってくれるけど、でも……」
薄笑いを浮かべていた猿渡の顔から表情が消えた。同時に、彼女の声からはずむような明るさも失われる。
「自分でわかってた。もう前みたいには走れないって、わかってたんだ。歩いてても身体のバランスが右と左で違うの。成長期にずっとギプスしてたせいだろうね、足の大きさも左右で変わっちゃって。感覚が、怪我する前と後じゃまったくちがってた。だから、走るのが怖くて」
「猿渡……」
絞り出すような声に、史郎はたまらず猿渡の名前を呼んだ。呼んだはいいけれど、気の利いたことばは出てこない。
「ユーリちゃんにはね『ひとりで大丈夫だから先に測定、回っててよ』なんて言って。けっきょく脚がすくんでスタートラインにも立てなかった」
猿渡が愛らしい顔に笑みを乗せたのは、自身に不甲斐なさを覚える史郎に気づいたからか。自嘲の混じる彼女らしくない笑みは、けれどすぐに甘さをにじませたやわらかいものになった。
「そのときに上江が『脚がつらいんなら、適当に平均値書いときますが』って言ったんだよ」
愛おしげに告げられたことばは測定の放棄をうながす内容で、不真面目このうえなく褒められたものではない。
「ええと、俺は注目を集めるのが苦手なので。タイムが良すぎるってことはないんですが、悪すぎることがないように平均値を記憶してから挑むようにしてまして」
身に覚えのある史郎は気まずげに視線をそらしながら言い訳をくちにする。たいへん後ろ向きな思考回路を披露した史郎に、猿渡は笑い声をこぼした。
「あはは! 平均値ほんとに知ってたんだ。上江ってば変なとこで真面目だね~」
「真面目……いや、全力で不真面目なのでは」
それこそ真面目に返す史郎にひとしきり笑って顔をあげた猿渡は、いつもの元気な彼女に戻っていた。
「上江にはなんでもないことだったんだろうけど、あたし、すごくうれしかったんだよ。すごく助けられた。それで上江のこと気になって、ずっと話しかける機会をうかがってたんだから」
「あ、すみませ……」
頬をぷくりとふくらませていたずらっぽく怒ってみせる猿渡に史郎が謝ろうとしたとき、不意に彼女は真剣な顔で史郎を見つめた。
「何回も好きって言ってきたけど、あたしが上江に向けてる好きは友だちの好きだけじゃないよ」
「えっ」
驚き、顔をあげた史郎に猿渡はとびきりの笑顔をみせる。
「恋愛の好き。上江にね、あたしのこと好きになってほしいな」
(えっ)
史郎は驚きすぎて声が出なかった。呆然と見つめる史郎の視線の先で、猿渡の笑顔に朝日が射した。
猿渡はもともと、愛らしい顔をしている。そして笑顔の似合う明るさを生まれ持つ。そんな彼女の心からの笑顔に光が射しこむ様は、まるでつぼみだった花が開くように目を惹くものだった。
それは、史郎さえも例外ではない。
(なんてきれいな……)
ぼうっと見とれていた史郎は、ハッと気づいて慌ててうつむいた。再び目を合わせてしまったことでにじむ恐怖はあったけれど、それよりも彼の胸のなかには抑えきれない感情が湧き上がる。
(怖い……よりも、もっと見ていたかった。怖いけど、ずっと見ていたいって思った。なんでだ、猿渡が俺を好きって言ったから? ……俺が、好き? 恋愛の好き? どういうことだ? わからい。わからないけど……描きたい)
胸のドキドキが恐怖からだけではないとはっきり自覚して、史郎の頬に熱がのぼる。胸に湧く熱が、身体じゅうを巡っているようだ。
「返事はすぐじゃなくて良いよ。っていうか、まだ待って。あたしがもっとちゃんとかっこよくて良いところ見せてからにして欲しいから、まだ待ってて。それよりも、いまは上江の絵のほうが問題だよね」
「猿渡さんを描かせて」
「へっ?」
自身の恋心をよそに心配を優先する猿渡だったが、史郎の思考はすでに走り始めていた。湧き上がる衝動のままに史郎は続ける。
「猿渡さんの目なら、ずっと見ていたいって思えたんだ。俺が描いてる間、猿渡さんに見ててほしい」
「ええっ」
ぼっ、と燃え上がるように顔を真っ赤にする猿渡を史郎はちらりと見る。自分から見つめるのはまだ怖かった。うっかり目が合ったとき猿渡の目に嫌悪の色は浮かばなかったけれど、史郎の記憶にこびりついた過去がいつ顔を出すかはわからない。
(急がないと)
過去の恐怖が顔を出す前に、描いてしまわなければと史郎は急ぐ。
「今日、何か用事はありますか。もしこのあと時間があるなら描かせてほしい。俺にできるお礼ならなんでもするから」
「なんでもっ」
真っ赤になった猿渡の脳内でどんな『なんでも』が展開されているのか、おもいを巡らせる余裕は史郎になかった。ただ、真っすぐに頭を下げる史郎の姿に猿渡も彼の真剣さを受け止める。
「んんっ、ん。上江のお願いならいくらでも、何時まででもお付き合いするよっ」
浮かれる心をなだめるのに少々てこずったようではあったが、猿渡もまたきりりとした顔になってそう答えた。
「あたしが上江とお付き合い……うふへ」
心をなだめきることはできなかったようだが、長い日曜日がはじまった。
気合を入れて布団まで干したその夜、史郎はほこほこの布団のうえに正座してSNSを開く。史郎がばたばたしている間に新しいお祝いメッセージがいくつも届いていた。けれどそれらへの返信はあとにして、DMを開く。
いくつか来ている新しいDMには、しばしばSNSでやり取りする絵師の先輩からのものやまったく関係のなさそうな不審なアカウントからのものなどあるけれど、そのなかに『山田』からの新しいメッセージもあった。
ごくり、と唾を飲み込んだ史郎は、大きく深呼吸をしてからそのメッセージを開く。
『シロさんの絵の瞳の強さに惹かれたので、見るひとを射抜くような視線を描いてほしいのです。正面を向いている絵のラフを何枚か見せていただきたいのですが、いかがでしょう』
びきり、と固まった史郎の目は文章のなかの一点「正面を向いている絵」というところに釘付けだ。
正面絵。キャラクターが正面を向いている絵だ。そして依頼主の希望は「見るひとを射抜くような視線」。それはつまり、キャラクターの視線がこちらを向いているということである。
シンプルでわかりやすい指定だ。シンプルゆえに絵師の技術が試されるものでもあるけれど、問題はそこではない。
指定された絵は、史郎が長年描けないでいるものであった。
(こっちを向いてる瞳を描くってことは、キャラと目が合うってこと……)
史郎は構図をぼんやりと思い浮かべる。
画面のなか、こちらを向いて立つキャラクター。賞に応募した絵の雰囲気ならば、笑った顔でなくて良いはずだ。唇を引き結び決意を秘めた顔で見つめてくるキャラクター。想像のなかのキャラクターと史郎の視線が合った瞬間、キャラクターの瞳がじわりと濁る。
色とりどりの光を封じ込められたその瞳を濁らせるのは、侮蔑、嫌悪、憐憫、嘲り。
史郎にとって忌まわしく、けれど忘れられないそれらの感情が薄れたはずの過去の痛みを思いださせる。
(いやだ)
嫌な瞳だった。
(そんな目で見ないで)
史郎を傷つけようとする者が見せる瞳だ。
その瞳を何度も向けられて、そのたび傷つけられてきた史郎は、いつしかひとと目を合わせるのが怖くなった。
(また俺を馬鹿にするんだろ)
やさしい相手であっても、いつその目にさげすむ感情が乗るのかと思うと恐ろしくてたまらなくて。いつしか家族とさえ目を合わせるのが苦痛になった史郎は、うつむいたまま絵を描き続けることを覚えたのだった。
(描けない。俺には無理だ……)
逃げるように布団に潜り込んだ史郎は、頭から布団をかぶってスマホを遠ざける。画面を見つめているとそこに自分をさげすむ瞳が浮かびあがるようでたまらなかった。
(……寒いな)
太陽のぬくもりを受けた布団はふかふかと温かいはずなのに、それすら史郎には感じ取れなくなっていた。
※※※
どこか遠くで車のエンジン音がする。毎日同じ時間に聞こえるきしんだ自転車をこぐ音は、新聞配達員のものだろう。
夏の朝ははやいとはいえ、史郎が布団のすき間から見上げた空はまだ群青色をしていた。
(ああ、また陽がのぼるのか。ずっと暗がりならいいのに)
あと数時間もすれば射しこむであろう陽光におびえる史郎は、ひとの目を見るのが怖い。
いつからかは、はっきりとわからないけれど小学校を卒業するころにはすでにぼんやりと自覚していた。中学生になってもその想いはつもり、しだいに写真のなかのひとの視線にすら怯えるようになった。そして、いつからか大好きなはずの絵でさえも、目を直視することができなくなった。
だから、人物と視線の合う構図は史郎が唯一描けないと断じている絵だった。
(見られないのに描けるわけがない)
布団のなか、一晩じゅう諦めばかりをくり返した史郎の胸がぎゅっと痛む。
描けるわけがないと自嘲したくせに、そのことに傷ついている自分が嫌になる。ずっとその繰り返しだ。
絵なんか描いて、と馬鹿にされて悔しくて悲しくて、けれど描くことをやめられない。
描いた絵を馬鹿にされてもやめられず、かばおうとしてくれたひとたちを巻き込んでしまってもまだやめられない。
そのたび史郎は自己嫌悪を重ねながら、見たくない視線から逃げながら絵を描き続けてきた。
けれど。
(……すこしだけ、描いてみようか)
いつもであれば逃げ出す史郎が寝不足の頭でそう思えたのは、できたばかりの友人たちや理解を示してくれる家族の応援、そしてコンテストで評価されたというちょっぴりの自信のおかげだった。
周囲が変わったいま、自分も変わっているかもしれないという期待が史郎の背を押す。
「描いてみよう」
気合をいれようとつぶやいた史郎は、もぞもぞと布団から這い出した。
寝転がったまま描けないこともないけれど、真面目に向き合いたいからと布団のうえに正座してスマホ画面を見つめる。
慣れた手が開いた白いキャンバス。
いつも描きながらイメージをつかむため何気なく動く史郎の手は、スマホの画面を指さしたまま固まっていた。
(広いな……)
見慣れたアプリのキャンバス画面が途方もなく広く感じる。手のひらにおさまるちいさな画面のどこに指を落としていいかわからない。さっき入れたはずの気合がはやくもしぼみはじめる。
反発しあう磁石のようにスマホ画面に近づけないまま、ふらふらとさ迷う自身の指に史郎はぎり、と歯を噛みしめた。
(正面絵、正面絵は描けるんだから)
うつむいた人物を正面から見た構図のイラストは描いたことがあった。そのときも依頼で『正面を向いてる絵を』と言われたのだけれど、視線を逸らしたもので依頼主がオーケーを出してくれたからどうにか描けたのだ。ヒヨは「苦手を避けるのもひとつのテクニックだよ!』と言ってくれたけれど、史郎の胸のなかであれは逃げだったとずっとくすぶっている。
(でも、もう逃げたくない)
そう思うけれど、史郎の手は震えて言うことを聞かない。頭では描きたいと思うのに身体は史郎を裏切って、震える指先は冷え切り史郎の『逃げたくない』という思いさえも凍えさせてしまいそうだ。
「ううううぅぅ~……」
情けなさに涙がにじむ。
描きたい気持ちはあふれるほどある。描けるだけの技術も磨いてきた。それなのに描くことを邪魔する自分の心が憎くて憎くて、史郎は胸元をかきむしる。
そのとき。
「うわっ」
握りしめていたスマホがブルブルと震えた。着信を知らせる音楽とともに画面に表示された文字は『猿渡』の二文字。
時刻は朝の六時。描けずにいるうちに時間が経っていたとはいえ、まだ早朝と言える時間だ。
緊急事態だろうかと慌てた史郎は、とっさに通話ボタンを押してしまう。
『もっ、もしもし上江!? あの、いま暇だったりしない、かな!?』
スマホから飛び出してきたのは当然、猿渡の声。力みすぎてところどころ上ずりながらも言いきった彼女は息をひそめて史郎の返事を待つ。
「え、いま……?」
史郎は思わずもう一度、時刻を確認した。何度見ても六時だ。窓の外、夏の空は明るく色づいてきてはいるけれど気軽に電話をかける時間ではない。にもかかわらず、猿渡は『いま暇?』と言っている。
(ええと、どういう意図の電話だ?)
わからない。猿渡の、リアルを謳歌する現役女子高生の思考回路がまったく思い描けず史郎は混乱した。けれど、今はクラスメイトの相手をできる余裕がない、と本人に言える史郎ではない。
かと言って「うん暇。あそぶ?」とも言えず史郎はうなる。
「いや、なんか……しんどい」
寝不足と心労に「どうして俺は電話に出てしまったのか」という後悔が重なった結果、つい口を突いて出たのはいろいろな思いがこもったつぶやきだ。実際、身体はしんどかったのだが言ってから「しまった」と思った史郎だけれど、訂正を伝えるよりはやく猿渡が声を鋭くさせる。
『上江、なんかあったの!? えっと、わかった! いまいくから!」
「え」
史郎の声に答えた猿渡は、叫ぶように言って通話を切ってしまう。
止める間どころか返事をする間もない早業に史郎が驚いているあいだに、カンカンカンッとアパートの階段が甲高い音を立てはじめた。よく響く音は見る間に近づいたかと思うと、史郎の部屋のチャイムがふるぼけた音をたてる。
「え、え?」
早朝の訪問客に心当たりはない。けれどついさっき電話口で話した相手の顔が思い浮かんだ史郎は驚き、跳びあがるようにして玄関に向かった。こけそうになりながら辿りついた扉の鍵をはずし、押し開くと。
「上江! なにがあったの!?」
果たして、そこには私服姿の猿渡がいた。おしゃれなスウェットと言うべきか、スポーティな女性ものというべきか。肩口に切れ込みの入った半袖パーカーは白地に青い生地がつぎはぎのように合わせられて、夏らしく爽やかだ。パーカーのしたにちらりと見える短パンは裾が広く、すんなりと伸びる猿渡の脚をより華奢に見せている。ユニセックスなショルダーバッグを合わせているおかげでともすると少年にも見えそうだが、肩にかかるやわらかな髪と愛らしい顔の造形がほどよくかわいらしさを足している。
これが早朝でさえなかったなら、クラスメイトのかわいい女の子がたずねてきたというドキドキイベントにもなりうるが、残念ながら時刻は朝六時。明らかに非常識であった。
猿渡はそんなことにはお構いなしで、扉が開くなり室内に滑り込んで史郎に手を伸ばし、彼の全身をペタペタペタペタと触りだした。
「怪我はない、熱もなさそう。なんかあたしより細い気がするんですけど……でも上江のリラックス部屋着たまらんです。クラスの誰も知らない姿、ひとりじめぐふふ」
「えっ、ちょ」
はじめこそ真剣な顔をしていたものの、史郎に異常はなさそうだと見てとった猿渡の表情は一瞬険しさを増し、そしてゆるんでいく。史郎の肩や腕、腰に手を這わせながらトレードマークのアホ毛を揺らし、ついには下心丸出しの笑いをこぼしはじめた猿渡に、史郎は怯えて後ずさった。
「はっ! ご、ごめん! 生上江の貴重なリラックスモードが目の前にあると思ったらつい!」
(つい、ってなんだ……?)
猿渡が赤面する理由が史郎にはわからないけれど、突っ込んで聞きたいことでもなかったので誤魔化されておくことにした。
「あの、猿渡さん、どうして」
どうして電話をかけてきたのか。どうしてここにいるのか。というか今はまだ朝早い時間なのだけれど、という史郎の声にならない問いかけに猿渡はなぜか頬を染める。
「えっとぉ……あのね、思いもよらない場所でばったり会うとさ。相手に運命感じたり、しない?」
「運命……というよりは、因縁をつけられそうだとは思うかも」
史郎の脳裏に浮かぶのは、中学生時代にさんざんなことを言ってきたクラスメイトの顔だ。教室で会えばあいさつ代わりに罵られ、学校内でも偶然顔を合わせれば不愉快そうにあれこれと吐き捨ててきた。
そうやって史郎のなかでは偶然と因縁が結びついている。
「そっ、そんな!」
史郎の回答は猿渡に衝撃をもたらしたらしい。顔を青ざめさせた彼女は、にわかに慌て始めた。
「え、え、じゃあ、上江の家の近くであたしとばったり会って『ちょっと散歩してたんだ。もしかして上江も?』なんて言っても、ドキッとしないの!?」
「はあ、まあ。何でこんなとこにいるんだろう、って思うかと。あと、俺、学校と買い物以外で外に出ないんで」
引き気味に答える史郎に、猿渡はつかみかかる勢いで近寄る。
「じゃあ、あたしはどこで上江とばったり出会って運命の恋に発展したらいいの! 家の周りをぐるぐる回ってもだめなら、スーパー!? それとも駅で待ってればいい? いっそ上江の部屋の前で……!?」
(こんな朝からぐるぐる回ってたのか)
彼女の話から推察するに、猿渡は「ばったり上江に会わないかな」という下心を満載して日曜日の朝六時からクラスメイトの家の近くをうろついていたらしい。完全に不審者のそれであり、うっかりすればストーカーの域である。
(まあ、でも悪気はなさそうだし……)
暴走する猿渡を眺めながら、史郎は彼女が不審者として通報されなくてよかったと思う。でも部屋の前で待たれるのはびっくりするから勘弁してほしい、という気持ちでくちを開く。
「あの、何かあったなら電話でもメールでも、出られるときは出ますから」
「そうだ! 何かあったんじゃないの、上江!」
早朝徘徊はやめたほうが、という気遣うことばを遮って史郎にかけられたのは心配する声。
「さっき電話で上江、しんどいって言ってたから。だから一大事だと思って慌てて家に来ちゃったんだけど。怪我もしてないし熱も無さそうなのに、どうしたの? たんすのかどに小指をぶつけた? でもこの部屋、たんす無いよね!」
どうしたの、大丈夫? と心配して大騒ぎする猿渡の姿に、史郎はなんだか気が抜けた。
その拍子にふと、猿渡になら相談してもいいんじゃないか、と気持ちが揺らぐ。
「ちょっと、絵の依頼のことで……」
言いかけて史郎はくちごもった。
(こんな相談して、迷惑じゃないか? 相手はヒヨじゃないんだ、依頼もらったのに描けなくて困ってた、なんて言われても「だからどうしたの」って思われるだけかもしれない。でも、ヒヨに相談したらきっとまた心配かけるし……)
長くともに暮らした家族は、史郎がひとと目を合わせられないことに気づいている。そのうえで気にかけてくれているのだから、これ以上の心配をかけたくないというのが史郎の心情だった。かといっていちクラスメイトでしかない猿渡相手に相談をするのもまたためらわれた。
不意に黙り込んだ史郎に、猿渡が「うん」とうなずく。
「絵の依頼! あたしに答えられることかな!? いやでも答えられなかったらユーリちゃんとか別の友だちとか、わかりそうなひとに聞いてみるし。話して! 聞くよ!」
真剣そのものの顔で待ち受ける猿渡の熱意がうれしかった。
(迷惑じゃないのか……? 俺なんかの相談を聞いてくれるんだ)
そう思うと気持ちがゆるんで、史郎はへらりと笑ってしまう。「あわわわわ! 上江の微笑みぃ!」と小声でもだえる猿渡に気づかないまま、うつむいた史郎がこぼす。
「正面を向いた絵を描いてほしいって依頼をもらったんだけど、俺、描けなくて……」
「んん? 上江が? 描けないの? はっ! じゃああたしがモデルになるとか!? やだ、あたしが上江のミューズになっちゃう!!」
「いや、あの、形が取れないとかじゃなくて、その」
勘違いして身もだえる猿渡を止めようと、焦った史郎はにごしたことばをくちにする。
「目を合わせるのが怖くて! 描けないんだ、イラストでも……」
「目……そういえばそうだね!」
ぱちん、と手を合わせて笑う猿渡の反応が予想外で、史郎は驚き動きを止めた。そんな史郎に気づかず、猿渡はうんうんと何度もうなずく。
「上江の視界になんとか入ろうとしたこともあったけど、なかなか顔あげないから難しかったよ。学校に来るのもいつもギリギリだから声かけられないし、休み時間はすぐスマホ画面見つめちゃうから話しかける隙はないし」
「えっと、お手数かけました……?」
猿渡の勢いに押された史郎は、首を傾げながらも彼女の苦労をねぎらった。猿渡もまんざらでもなさそうに「ありがとー」などと答えるため、部屋のなかにほのぼのした雰囲気が流れはじめる。
「って、ちがうちがう! そうじゃなくて、上江の困りごとをなんとかしなきゃ!」
ほわほわと笑ったかと思えば、急にきりりと表情を引き締めた猿渡はひとり騒がしい。そんな猿渡をちらりとうかがった史郎は、ちらちらと彼女の姿を視界に収めては何かを言おうとし、だまってしまう。
そんな史郎のそわそわと落ち着かない様子に猿渡が気づいた。
「上江、どうしたの。言ってよ。あたし、何でも聞くから! 聞くだけしかできないかもしれないけど、それでもいいならなんでも言って!」
こぶしを握って聞く気満々という態度の猿渡の熱意に押されて、史郎の重たい口が動く、
「あの、猿渡さんはなんで笑わないの……?」
「ほえっ!? わ、笑ってるよ! 教室でも上江の前でも幸せもりもりハッピーにこにこだよ、あたし!」
もしかして笑ってるってわからないくらいぶさいくな顔になってた!? と大騒ぎする猿渡に、史郎は緩く首をふる。
「そうじゃなくて、その、俺がひとと目を合わせられないって言っても馬鹿にしないんだな、って」
自嘲まじりのつぶやきに、猿渡はぴたりと動きを止めた。彼女の動きに合わせて忙しなく左右していたアホ毛が一拍遅れてゆらりと揺れる。
うつむく史郎の額のあたりをじっと見つめて猿渡はじわりと笑みをにじませた。
「馬鹿になんてしないよ」
やさしさのこもった静かな声に、史郎はぎゅっと拳をにぎる。
彼女を信じたい想いと、傷ついてきた心がもう信じるのをやめたいと願う想いがぶつかり合って彼の胸のうちで暴れまわる。
「……なんで」
「だってあたし、上江のこと好きだもん」
うなるようにこぼれた史郎のことばに、猿渡は間髪いれず答えを返した。
構えもせず、素の想いがこぼれたようなてらいのない響きが史郎の耳に届く。
「は……?」
猿渡が何を言っているのかわからなくて、史郎は思わず顔をあげた。
史郎の視線と猿渡の視線がはじめてまともに交わる。
遠目に見たり横目でちら見していたためかわいい系だとわかっていた史郎だが、改めて見る猿渡はぼんやりと認識していた以上にかわいい。そして何より、真っすぐに史郎を見つめてくる猿渡の目に惹きつけられた。
(瞳が、きらめいてる……)
夜空のように光を散りばめた黒い瞳に見入っていた史郎は、ハッとして視線を逸らす。
心臓が痛いくらいに脈打っていた。
(このドキドキはなんだ、ひとと目を合わせたから? それとも……)
史郎が自分のなかで答えを見つけ出すよりはやく、猿渡が声をはずませた。
「あたし上江のいいとこいっぱい知ってるからね。ちょっぴり苦手なことがあるくらい、むしろかわいいなって思ってキュンキュンしちゃう!」
「キュンキュン……」
頬をおさえてうれしげな猿渡の脳内でどんな空想が繰り広げられているのか、すこし怖い気もしながら気になってしまう史郎だった。
そんな史郎に構わず、猿渡は笑顔のまま続ける。
「上江はねー、まずやさしいでしょ。それから、よく周りのこと見てるよね。ほら、このあいだだって誰かが忘れてた雑巾、片付けてたしさ!」
言われて、そんなこともあったかもしれない、と史郎は思い出す。それは教室でイラストアプリを開いて猿渡に見られた日だった。絵を描いていることがラスメイトにばれるという最悪の日、不幸を打ち消すこともできないささやかすぎる善行だと思っていた行為を猿渡は見ていたのだと言う。
「それはたまたま」
「うん、たまたま目に入ったから、上江が片付けたんでしょ? 見ないふりもできたし、掃除当番に任せても良かったのに、たまたま目に入ってたまたま手が空いてたからやったんでしょ。それが自然にできるってのが、やさしいってことなんだよ。その自然なやさしさで上江はあたしのことも助けてくれたんだから」
「……俺が?」
猿渡を助けた、と言われても史郎には心当たりがなかった。
それどころか笹渡の顔をまともに認識するようになったのはここ数日のこと。そのなかで猿渡を助けたことなど記憶になく、むしろ史郎があれこれと世話をかけているような気しかしない。
なんのことだろう、とふしぎそうに首をひねる史郎を見つめて猿渡がやわらかく微笑む。
「入学してすぐのころだよ。身体測定のとき、上江は記録係してたでしょ」
愛おしさに満ちた表情はそのまま声にも感情をにじませた。やさしく慈しむような響きが史郎の記憶を揺り起こし、忘れていたはずの過去を思い出させる。
入学して間もなく行われた身体測定のとき、地方から引っ越してきたばかりの史郎はあちらこちらでグループを作るクラスメイトの輪から離れてぽつんと立っていた。そのせいか、通りかかった担任にクラス名簿とストップウォッチを渡されて記録係をする羽目になったのだ。ほかにも何人かが肩を叩かれ記録係を任されていたから、単純に偶然かもしれないが。
そのとき、史郎が担当したのは五十メートル走。
「あ……平均値書いたひと」
「えへへ。思い出してくれた?」
こくり、とうなずきながらも史郎は自分の記憶を信じ切れずにいた。
春のあの日、史郎が見た猿渡は表情をこわばらせていた。はじけるような笑顔も、周囲まで元気にしてしまうような明るい声と通じるところはどこにもない。
揺れるアホ毛を覚えていなかったら、別人だと思っていただろう。
(猿渡はなんであんなに沈んでたんだろう)
「あのときね」
今更になって気になりだした史郎の思いを汲んだかのように、猿渡がくちを開いた。
「あたし、走るのが怖かったの。それで、ほかの子がみんな走り終わってほかの測定に行っちゃったのに、ひとりっきり残っちゃったのにスタートラインに立てなかったんだ」
「俺はてっきり、測定されるのが苦手なのかと……」
史郎自身が衆目を集めて行動することを苦手とするため、仲間かと思ったことを覚えていた。けれど、違ったらしい。ずいぶんと遅れてきた勘違いに恥じらう史郎を見て猿渡はくすくす笑う。
「ふふ、そうだね。測定が苦手なんだ、って言えばいいんだ。これからはそうしよっかな」
「俺の専売特許でもないので、どうぞ使ってもらえれば。でも、なぜ」
なぜ測定が苦手ではないのに、そんなウソをつく必要があるのか。走るのが苦手、ではなく怖いというのはなぜなのだろう。
そんな思いを込めた史郎の『なぜ』に、猿渡は自身の左足をそっと前に踏み出した。狭いアパートの玄関で、すらりと伸びた白い脚が史郎の脚に触れそうになる。互いの素肌が近づいて、空気越しに届いたほのかな体温が史郎の心臓を跳ねさせる。
「中学の時、あたし陸上部でね。脚を痛めちゃったんだ」
ドキン、と熱を持った史郎の胸は、自身の脚を見つめる猿渡の切なげな表情ですぐに冷めた。白くすべらかな猿渡の脚に目立つ傷などはない。けれど彼女の静かな声と切なげな瞳が、その話が真実なのだと語っていた。
「最後の試合の練習中にね。ばちんって音がして、急に倒れちゃって。びっくりしたよ。ああいうときって、痛みとかよりびっくりが先に来るんだね。何で動けないんだろ、って思ってる間にコーチの車で病院に着いてて。お医者さんにじん帯が伸び切っちゃってるって言われて。それからはもう走るとか、それどころじゃなくってさ」
はは、と力なく笑う猿渡の顔を見て、史郎は彼女とはじめて出かけたときのことを思い出していた。
(ああ、だからあのとき陸上部のほうを見ないようにしてたんだ)
笑って話す猿渡だけれど、きっとまだ彼女のなかには冷たいしこりが残っているのだろう。ユーリと仲が良いぶん、思い通りにグラウンドを駆ける友だちの姿を見つめることができないのかもしれない。
そんな猿渡に史郎はかけることばが見つけられない。運動部に所属するどころか、集団行動をひたすら避けて通って来た自身の気の利かなさに歯噛みするしかなくて、拳をにぎりしめる。
「半年間、リハビリばっかり。高校入るころにはふつうに歩けるようになってたんだ。周りは『良かったね』『また走れるよ』なんて言ってくれるけど、でも……」
薄笑いを浮かべていた猿渡の顔から表情が消えた。同時に、彼女の声からはずむような明るさも失われる。
「自分でわかってた。もう前みたいには走れないって、わかってたんだ。歩いてても身体のバランスが右と左で違うの。成長期にずっとギプスしてたせいだろうね、足の大きさも左右で変わっちゃって。感覚が、怪我する前と後じゃまったくちがってた。だから、走るのが怖くて」
「猿渡……」
絞り出すような声に、史郎はたまらず猿渡の名前を呼んだ。呼んだはいいけれど、気の利いたことばは出てこない。
「ユーリちゃんにはね『ひとりで大丈夫だから先に測定、回っててよ』なんて言って。けっきょく脚がすくんでスタートラインにも立てなかった」
猿渡が愛らしい顔に笑みを乗せたのは、自身に不甲斐なさを覚える史郎に気づいたからか。自嘲の混じる彼女らしくない笑みは、けれどすぐに甘さをにじませたやわらかいものになった。
「そのときに上江が『脚がつらいんなら、適当に平均値書いときますが』って言ったんだよ」
愛おしげに告げられたことばは測定の放棄をうながす内容で、不真面目このうえなく褒められたものではない。
「ええと、俺は注目を集めるのが苦手なので。タイムが良すぎるってことはないんですが、悪すぎることがないように平均値を記憶してから挑むようにしてまして」
身に覚えのある史郎は気まずげに視線をそらしながら言い訳をくちにする。たいへん後ろ向きな思考回路を披露した史郎に、猿渡は笑い声をこぼした。
「あはは! 平均値ほんとに知ってたんだ。上江ってば変なとこで真面目だね~」
「真面目……いや、全力で不真面目なのでは」
それこそ真面目に返す史郎にひとしきり笑って顔をあげた猿渡は、いつもの元気な彼女に戻っていた。
「上江にはなんでもないことだったんだろうけど、あたし、すごくうれしかったんだよ。すごく助けられた。それで上江のこと気になって、ずっと話しかける機会をうかがってたんだから」
「あ、すみませ……」
頬をぷくりとふくらませていたずらっぽく怒ってみせる猿渡に史郎が謝ろうとしたとき、不意に彼女は真剣な顔で史郎を見つめた。
「何回も好きって言ってきたけど、あたしが上江に向けてる好きは友だちの好きだけじゃないよ」
「えっ」
驚き、顔をあげた史郎に猿渡はとびきりの笑顔をみせる。
「恋愛の好き。上江にね、あたしのこと好きになってほしいな」
(えっ)
史郎は驚きすぎて声が出なかった。呆然と見つめる史郎の視線の先で、猿渡の笑顔に朝日が射した。
猿渡はもともと、愛らしい顔をしている。そして笑顔の似合う明るさを生まれ持つ。そんな彼女の心からの笑顔に光が射しこむ様は、まるでつぼみだった花が開くように目を惹くものだった。
それは、史郎さえも例外ではない。
(なんてきれいな……)
ぼうっと見とれていた史郎は、ハッと気づいて慌ててうつむいた。再び目を合わせてしまったことでにじむ恐怖はあったけれど、それよりも彼の胸のなかには抑えきれない感情が湧き上がる。
(怖い……よりも、もっと見ていたかった。怖いけど、ずっと見ていたいって思った。なんでだ、猿渡が俺を好きって言ったから? ……俺が、好き? 恋愛の好き? どういうことだ? わからい。わからないけど……描きたい)
胸のドキドキが恐怖からだけではないとはっきり自覚して、史郎の頬に熱がのぼる。胸に湧く熱が、身体じゅうを巡っているようだ。
「返事はすぐじゃなくて良いよ。っていうか、まだ待って。あたしがもっとちゃんとかっこよくて良いところ見せてからにして欲しいから、まだ待ってて。それよりも、いまは上江の絵のほうが問題だよね」
「猿渡さんを描かせて」
「へっ?」
自身の恋心をよそに心配を優先する猿渡だったが、史郎の思考はすでに走り始めていた。湧き上がる衝動のままに史郎は続ける。
「猿渡さんの目なら、ずっと見ていたいって思えたんだ。俺が描いてる間、猿渡さんに見ててほしい」
「ええっ」
ぼっ、と燃え上がるように顔を真っ赤にする猿渡を史郎はちらりと見る。自分から見つめるのはまだ怖かった。うっかり目が合ったとき猿渡の目に嫌悪の色は浮かばなかったけれど、史郎の記憶にこびりついた過去がいつ顔を出すかはわからない。
(急がないと)
過去の恐怖が顔を出す前に、描いてしまわなければと史郎は急ぐ。
「今日、何か用事はありますか。もしこのあと時間があるなら描かせてほしい。俺にできるお礼ならなんでもするから」
「なんでもっ」
真っ赤になった猿渡の脳内でどんな『なんでも』が展開されているのか、おもいを巡らせる余裕は史郎になかった。ただ、真っすぐに頭を下げる史郎の姿に猿渡も彼の真剣さを受け止める。
「んんっ、ん。上江のお願いならいくらでも、何時まででもお付き合いするよっ」
浮かれる心をなだめるのに少々てこずったようではあったが、猿渡もまたきりりとした顔になってそう答えた。
「あたしが上江とお付き合い……うふへ」
心をなだめきることはできなかったようだが、長い日曜日がはじまった。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
校長先生の話が長い、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。
学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。
とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。
寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ?
なぜ女子だけが前列に集められるのか?
そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。
新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。
あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる