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第三章 春

Order26. ふたりの時間

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 明日、青年は日本を発つ。
 また、数ヶ月の空白ができる。
『春秋館』と、わたしと彼との間に……。

「ごちそうさん。じゃあ、店長。次会うのは秋だな。それまでインスタントコーヒーでも飲んで我慢してるよ。気つけて行って来いよ」
「ありがとう。ヤスさんも体調管理、しっかりして下さいよ」

 ガランというベルの音を鳴らし、木目の扉が熱風を巻き込みながら開き、ゆっくりと閉まった。
 最後のお客が帰った後……。
 静まり返った店内に、青年と少女だけが残った。少女がピンクのベルトの腕時計を見ると、時刻は八時を少し回っていた。いつもより時間が遅いのは、常連のヤスさんがいつまでも青年を独り占めしていたからだ。彼とのしばしの別れを存分に惜しんだ後、それでも名残惜しそうに出て行った。
「さて、と。今日も一日お疲れさん。これ、今日までの。確認しといて」
 青年は、そう言って少女に茶色い封筒を渡した。アルバイト料だ。
「あ、ありがとうございます……あれ、ちょっと多いですよ?」
 明細を見た少女は、いつもより金額が多い事に気づいた。
「あ、今回からアップしておいたから。いつも頑張ってくれてるし。勉強そっちのけで。……それに、いつも迷惑かけちゃうのに、他のバイトに浮気しないで待っててくれてるし」
 青年はにこっと笑うと、エプロンを外して煙草を銜えた。
 少女は、素直に嬉しかった。普通の年頃の女の子みたいに、おしゃれして好きな人とデートしたりという事はないにしても、やっぱり欲しい服もあれば行きたい場所もある。そのために、お金はなくてはならない。
「ありがとうございます……」
 少女は素直にお礼を言って、奥の狭い休憩室にあるバッグに封筒をしまった。
 そう言えば、以前届いたお金の入った封筒はどうなったのだろう。青年のことだ。あの手紙に書かれていた通り、きっと警察にも知らせずにそのまま大切にしまって、持ち主が現れるのをじっと待っているのだろう。大丈夫なのだろうか。本当に、彼に危害が加わる事はないのだろうか。少女の心配をよそに、青年は火の点かない煙草を銜えながら表の看板の片づけをしている。
 明日から永い休暇に入るため、いつもより念入りに片づけと掃除を行う。

「ありがとう。遅くなるし、もうあがってくれていいよ。後は僕がやっておくから」
 青年はそう言うと、ポケットに入った鍵を少女に渡した。
 店の合鍵に、箱根細工のキーホルダーがぶら下がっている。恐らくお客から貰ったおみやげか何かなのだろう。
 少女は黙って受け取ると、キーホルダーを指に絡めてわざと音を鳴らした。
「行っちゃうのね」
「うん。また気が向いたら店の掃除でもしておいて。それに、ピアノもたまには弾いてやって。開店前には調律も頼まないといけないし」
「そうね……気が向いたら」
 少女は、俯き加減に答えた。暗くなるつもりはない。いつもの事だ。だけど、やっぱり一年の内二回訪れるこんな日はどうしても得意になれない。
「また絵はがき送るよ」
 少女に気遣ったのかどうだか、青年がカラリとした声で言う。
「あぁ、あの愛想も何もない絵はがきね」
 少女が余りにもそっけなく返事をしたので、青年はキョトンとした顔をした。
 しまった。変な言い方をしてしまった。
 少女は後悔した。
 いつも彼から送られてくる一枚の絵はがきは、確かに何の愛想もないただの絵はがきだった。その土地その土地に売っているはがきを買い、少女の住む日本に向けてポストに投函する。右上がりの特徴のある英文字で少女の住所と名前だけが書かれている。メッセージは一言もない。そのはがき一枚が、「元気です」という彼のメッセージそのものなのだ。
 彼が、異国の地で自分の事を想い出してくれる。ただそれだけで充分だったはずなのに。多くは望まないって決めていたつもりなのに……。
「送らない方が良かった?」
「そんな事言ってないわ!」
 少女がムキになって言うと、「そう」と、青年はにっこり微笑んだ。
 やられた……。またしても青年のペースにはめられてしまった。
 少女は少しだけむくれると、「じゃ、帰るわ」と言って、バッグを取るために大股で休憩室に向かった。その途端、テーブルの足につまづき、青年の背後で派手にすっ転んでしまった。
「いったぁ~~い!!」
「はははっ! 何やってんの?」
 青年がめずらしく大笑いした。少女は、右腕をさすりながら益々気分を害した顔をして彼を睨みつけた。もう、踏んだり蹴ったりだ。
「あはは、あ……ごめん。……大丈夫?」
 青年は少女の表情に気づいて謝ったが、それでもくすくす笑いながら右手を差し出した。
 もう……。少女は、唇を尖らせながらその手を取った。彼の手の温かさが伝わってくる。彼の手に触れたのはいつ以来だろう。出逢って二年。一度でもこんな風に手を握った事があっただろうか。
 少女は彼の手を借りて立ち上がったが、なかなかその手を離す事ができない。
 ……離したくない。
 無意識に、手に力がこもる。
「本当に大丈夫?」
 相変わらず青年は笑っている。……そして、波が引くように青年の方から静かにその手を離した。
「…………」
 何か拒否されたようで、なんとなく切ない気持ちで少女は汚れたスカートの裾を払った。そして、ぼんやりとした表情のまま頭で考えるより先に言葉が口に出た。
「今度……」
「ん?」
 青年が振り向く。その涼しい瞳が少女の心をざわつかせる。
「……何でもない」
「?」
 少女は、込み上げる心を必死に押し殺した。

 少女は預かった『春秋館』の鍵を握り締めた。愛しい場所。だけど明日から愛しい人はここにいない。とても、遠い所へ行ってしまう。
 わたしも、お前も近づけない場所よ……。
「あ、まだ時間大丈夫だったら、最後にお茶して帰る?」
 青年の何気ない言葉に、少女の心は締め付けられた。
 わからない。あなたには、きっとわからない。置いてきぼりにされる気持ちなんて……。
 わかってる。彼の世界は誰にも汚染させられない。入り込めない。

 でも、思わず言いそうになった。
〝今度……〟
 ハーブティーの香り。
「これ、昨日お客さんが持って来てくれたんだ。自宅の庭でとれたんだって」
 青年の、高くもなく低過ぎもない声。
〝今度……〟
「君、確か好きだったよね。ハーブティ。クッキーでもあれば最高なんだけど。残念。買い置きなかったよ」
 少女は、無邪気に言いながらもテキパキと手を動かす彼の顔を見つめていた。

〝いつかわたしも一緒に行きたいな〟

 彼が承知しない事は知っている。誰よりも優しい人だけど、誰よりも意志が強い人でもある。
 彼の世界には、わたしは決して入れない。わかってる。でも……。
 いつか、きっと、連れて行ってね。
 ね、連れて行ってね……。
 少女は心の中でそっと呟いた。

 青年のいない夏が、やってくる。
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