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第三章 春
Order20. 流れゆく愛情
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「もう、疲れちゃったのよ……。家に帰って来てもムスッとしてて、ほとんど会話はないし、休みの日は一日ゴロゴロしてテレビ観てるだけだし……」
六月の太陽が西の空に傾き始めた頃。五十代後半だろうか。白髪まじりの頭を項垂れて、時々訪れるひとりの女性が今日も『春秋館』のカウンターに掛け、アイスコーヒーを飲んでいる。
「私、夢だったのよ。主人が定年退職してから、夫婦で日本全国の温泉巡りしてさ。そんな仲の良い夫婦でいられたらなって、ずっと思ってたのよ。でも、いざその時期が近づくと、ふたりで行ってもちっとも楽しくないんだろうなってつくづく思うわ」
女性は魂まで吐き出すようなため息をついた。
「ご主人、ゴルフが趣味じゃなかったでしたっけ?」
青年は、カウンターの中で食器棚にもたれながら言う。女性は眉間に皺を寄せながら首を横に振った。
「若い頃の話よ。もう最近は無趣味もいいとこ。何もしないからどんどんお腹は出てきてるし、血圧は高くて体調も悪いみたいだしね。病院行けって言っても、面倒臭がって絶対行かないのよ。まったく、何かあったら面倒みるこっちの身にもなれって言うのよ」
女性は「大体ね、」と一呼吸置いて続ける。
「一番許せないのは何をしても『ありがとう』の一言もないとこね。ご飯作るのも当たり前。洗濯、掃除も当たり前。私の事家政婦だとでも思ってるのかしらね」
ピアノ弾きの少女は楽譜をめくりながら自分の父親の事を考えた。年齢は働き盛りの四十代半ばで、まだお腹は出ていないし、幸い母親とも仲良くやっている方だと思う。少女の知っている限り、お互い感謝の気持ちは普段から言葉で伝えているようにも思う。
少女がラヴェルの『水の戯れ』を弾き始めると、女性はしばらく聴き入っていたが、やがて躊躇いがちに口を開く。
「熟年離婚なんて、他人事だと思ってたわ。でも、意外と身近なところで起こるものなのかもね」
ピアノ弾きの少女は思わずピアノを止め、女性を見やった。ただの主婦の愚痴かと思っていたのに、この人はそこまで追い詰められているのだろうか?
「ご主人は、照れてるだけなんじゃないんですか? 本当は奥様にきっと感謝してると思いますよ。夫婦って、そういうものなんじゃないんですか? 言葉で言わなくてもわかり合えてると思ってるんですよ、きっと」
少女は思わず会話に加わった。
「でも、実際はそうじゃない。言葉にしてくれなきゃ何も伝わらない。子供も家を出て、このまま後十年も二十年もふたりで生きていくなんて、考えただけで息が詰まるわ」
女性はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、再び魂を吐き出した。
「そんな……」
女性が帰った後、客足が途絶えてから少女はピアノの椅子に座ったまま呟いた。
「あの人、どうするのかしら」
「さぁ……。女の人は決断したら早いし。男は変化に弱いとこあるからね。今の気持ちを旦那さんに打ち明けたら、びっくりして目を醒ますかもしれないよ」
「だといいけど……」
「でも、プライドは高いから、そう簡単に頭は下げないだろうね」
青年は何やらいくつかの珈琲豆をブレンドしてコーヒーを淹れては味見を繰り返している。
「一歩、歩み寄りさえできればね……。最終的にふたりが離婚を選択したとしても、やっぱり話し合いは必要だよ。それも、本気の。照れるとか今更とか言ってないで、本気で思ってる事を一度ぶつけ合うべきだろうね。それが吉と出るか凶と出るかはわからないけど……。でも、お互いの本音がわからないまま離れるよりは、すっきりするんじゃないかな? 失うものが何もないって思ったら、きっと本音で話し合えると思うけど」
失って初めて気づく愛か……そういうものはきっとあるんだろう。でも、それじゃ遅い。気づいた時には、もう相手の心は遠くに離れていて、どんなに取り戻そうとしても、もう戻れない。
人の気持ちなんて、思い通りにはできない。あって当たり前の愛、居て当たり前の人なんて本当はない。求め、求められ、与え、与えられ続けるからこそ持続していくもの。求める事も、与える事もやめたら、求められる事も与えられる事もなくなっていくんだろう。
どんな愛も、安心しきっていられない。哀しいけど、「永遠」なんて約束で縛れるものじゃない。人の心は流れていくもの。そしてそれが人間らしさでもある。
女性が帰り際に、少女に耳打ちした事がある。少女は、その言葉を心の中で反芻し、噛み砕いた。
〝本当はね。私は若い時、大好きな人がいたのよ。主人よりずっと好きだった人が。絶対その人と結婚できると思ってたわ。でも、好きだけじゃ結婚はできないのね。結局私は現実的に考えて今の主人を選んだの。でも、時々思うのよ。あのままあの恋を貫いてたら、どうなってたんだろうって。また違う人生があったんだろうなって思ったら、今でも帰りたくなる時があるのよ。お嬢さんは、絶対に後悔しない人生を選びなさいよ〟
何が正解なんてないんだ。少女は思った。答えはきっと人それぞれに違ってて、人生が終わる時にわかるんだろう。
自分の人生は素晴らしかった。最高だった。素敵だった。そう言って人生を終えられたらどんなにいいだろう。
青年が、少女の名を呼んだ。振り向くと、いつもの涼しい瞳が黒髪越しにこちらを見つめている。
「ちょっと休憩しない? 新しいメニュー考えたんだ。試飲してよ」
そしてそう思える人生を送るには、〝今〟を一生懸命生きる事。未来は過去と現在を生きて初めて生まれていくもの。未来のために今を犠牲にしたくはない。
今、思うままに生きよう。いつか後悔なんてしないで済むように。今の自分の気持ちに正直になろう。
少女が放心したように突っ立ったまま青年を見つめているので、彼は不思議そうに表情を失くして動きを止めている。その顔を見て思わず吹き出すと、少女は彼の方へ小走りに向かった。
いつになく軽快な足取りで。
六月の太陽が西の空に傾き始めた頃。五十代後半だろうか。白髪まじりの頭を項垂れて、時々訪れるひとりの女性が今日も『春秋館』のカウンターに掛け、アイスコーヒーを飲んでいる。
「私、夢だったのよ。主人が定年退職してから、夫婦で日本全国の温泉巡りしてさ。そんな仲の良い夫婦でいられたらなって、ずっと思ってたのよ。でも、いざその時期が近づくと、ふたりで行ってもちっとも楽しくないんだろうなってつくづく思うわ」
女性は魂まで吐き出すようなため息をついた。
「ご主人、ゴルフが趣味じゃなかったでしたっけ?」
青年は、カウンターの中で食器棚にもたれながら言う。女性は眉間に皺を寄せながら首を横に振った。
「若い頃の話よ。もう最近は無趣味もいいとこ。何もしないからどんどんお腹は出てきてるし、血圧は高くて体調も悪いみたいだしね。病院行けって言っても、面倒臭がって絶対行かないのよ。まったく、何かあったら面倒みるこっちの身にもなれって言うのよ」
女性は「大体ね、」と一呼吸置いて続ける。
「一番許せないのは何をしても『ありがとう』の一言もないとこね。ご飯作るのも当たり前。洗濯、掃除も当たり前。私の事家政婦だとでも思ってるのかしらね」
ピアノ弾きの少女は楽譜をめくりながら自分の父親の事を考えた。年齢は働き盛りの四十代半ばで、まだお腹は出ていないし、幸い母親とも仲良くやっている方だと思う。少女の知っている限り、お互い感謝の気持ちは普段から言葉で伝えているようにも思う。
少女がラヴェルの『水の戯れ』を弾き始めると、女性はしばらく聴き入っていたが、やがて躊躇いがちに口を開く。
「熟年離婚なんて、他人事だと思ってたわ。でも、意外と身近なところで起こるものなのかもね」
ピアノ弾きの少女は思わずピアノを止め、女性を見やった。ただの主婦の愚痴かと思っていたのに、この人はそこまで追い詰められているのだろうか?
「ご主人は、照れてるだけなんじゃないんですか? 本当は奥様にきっと感謝してると思いますよ。夫婦って、そういうものなんじゃないんですか? 言葉で言わなくてもわかり合えてると思ってるんですよ、きっと」
少女は思わず会話に加わった。
「でも、実際はそうじゃない。言葉にしてくれなきゃ何も伝わらない。子供も家を出て、このまま後十年も二十年もふたりで生きていくなんて、考えただけで息が詰まるわ」
女性はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、再び魂を吐き出した。
「そんな……」
女性が帰った後、客足が途絶えてから少女はピアノの椅子に座ったまま呟いた。
「あの人、どうするのかしら」
「さぁ……。女の人は決断したら早いし。男は変化に弱いとこあるからね。今の気持ちを旦那さんに打ち明けたら、びっくりして目を醒ますかもしれないよ」
「だといいけど……」
「でも、プライドは高いから、そう簡単に頭は下げないだろうね」
青年は何やらいくつかの珈琲豆をブレンドしてコーヒーを淹れては味見を繰り返している。
「一歩、歩み寄りさえできればね……。最終的にふたりが離婚を選択したとしても、やっぱり話し合いは必要だよ。それも、本気の。照れるとか今更とか言ってないで、本気で思ってる事を一度ぶつけ合うべきだろうね。それが吉と出るか凶と出るかはわからないけど……。でも、お互いの本音がわからないまま離れるよりは、すっきりするんじゃないかな? 失うものが何もないって思ったら、きっと本音で話し合えると思うけど」
失って初めて気づく愛か……そういうものはきっとあるんだろう。でも、それじゃ遅い。気づいた時には、もう相手の心は遠くに離れていて、どんなに取り戻そうとしても、もう戻れない。
人の気持ちなんて、思い通りにはできない。あって当たり前の愛、居て当たり前の人なんて本当はない。求め、求められ、与え、与えられ続けるからこそ持続していくもの。求める事も、与える事もやめたら、求められる事も与えられる事もなくなっていくんだろう。
どんな愛も、安心しきっていられない。哀しいけど、「永遠」なんて約束で縛れるものじゃない。人の心は流れていくもの。そしてそれが人間らしさでもある。
女性が帰り際に、少女に耳打ちした事がある。少女は、その言葉を心の中で反芻し、噛み砕いた。
〝本当はね。私は若い時、大好きな人がいたのよ。主人よりずっと好きだった人が。絶対その人と結婚できると思ってたわ。でも、好きだけじゃ結婚はできないのね。結局私は現実的に考えて今の主人を選んだの。でも、時々思うのよ。あのままあの恋を貫いてたら、どうなってたんだろうって。また違う人生があったんだろうなって思ったら、今でも帰りたくなる時があるのよ。お嬢さんは、絶対に後悔しない人生を選びなさいよ〟
何が正解なんてないんだ。少女は思った。答えはきっと人それぞれに違ってて、人生が終わる時にわかるんだろう。
自分の人生は素晴らしかった。最高だった。素敵だった。そう言って人生を終えられたらどんなにいいだろう。
青年が、少女の名を呼んだ。振り向くと、いつもの涼しい瞳が黒髪越しにこちらを見つめている。
「ちょっと休憩しない? 新しいメニュー考えたんだ。試飲してよ」
そしてそう思える人生を送るには、〝今〟を一生懸命生きる事。未来は過去と現在を生きて初めて生まれていくもの。未来のために今を犠牲にしたくはない。
今、思うままに生きよう。いつか後悔なんてしないで済むように。今の自分の気持ちに正直になろう。
少女が放心したように突っ立ったまま青年を見つめているので、彼は不思議そうに表情を失くして動きを止めている。その顔を見て思わず吹き出すと、少女は彼の方へ小走りに向かった。
いつになく軽快な足取りで。
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