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第三章 春

Order17. 面影 《前編》

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参考:「Order11.」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/5748380
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 あの人が来た。
「ちょっとだけ、いいかしら?」
 肩下までのゆるくウェーブの掛かった髪。淡いルージュとアイシャドウが青年を手招きする。
 女性は、仕事中の彼を店の外に呼び出した。少女は、さすがにそれは無理だと青年が断ると思っていた。だけど、彼はあっさりとOKし、少女に「悪いけどちょっとだけ店見てて」と言って、彼女と一緒に出て行ってしまった。店に残された少女はぽかんとした。
 お客は二組。注文のコーヒーはもうテーブルに届いている。でも、だからってお客がいる時に店を出るなんて、少女の覚えている限り初めてだ。

〈なんで……?〉

 彼女は店の裏手の通路で足を止め、青年を振り返った。少し離れた場所にある隣のブティックとの間を、時折通行人が横切って行くのが見える。彼女はニコッと微笑んだ。
「久しぶりね。今回はどこへ行って来たの? 何ヶ月も店閉めて」
 半年振りに現れた彼女は、相変わらず美しく、品のある花柄のインナーに黒いカーディガンを羽織っている。
「うん。ちょっとコーヒー作りの修行にね」
「ふふ。相変わらずね」
 彼女は目を細めると、想い出したように「そうそう」と言った。
「この間の洋服、受け取ってくれた?」
「ああ、わざわざ悪かったね」
「それはこちらのセリフよ。あなたのお陰で助かったんだもの……。早いわね、もうあれから一年近く経つなんて」
「そうだね……」
 彼女がウェディングドレス姿のままこの店に駆け込んで来たのは、去年の梅雨の時期だった。びしょ濡れになって「かくまって欲しい」と逃げて来た花嫁。追手をなんとかまき、彼女は青年の自宅のある店の二階で彼の洋服に着替え、コーヒーを飲んで落ち着いたのだった。
「私が何故、ここに通うかわかる? いつ来ても閉まってて、何度振られても通う訳が」
「コロンビアブレンド?」
「そうね。でもそれだけじゃないわ」
「じゃ、ラフマニノフか」
「……ばかね。わかってるでしょ?」
 彼女はそう言うと、ゆっくりと青年に近づき、彼の左肩辺りにそっと頬を当てた。
「……私、この匂い知ってるわ。この匂いに惹かれたの。どんなコーヒーの香りでもごまかされない。……煙草の匂い。最初に逢った時に知ったわ。あなたがとんでもない愛煙家だって」
「……それは、飲食店のマスターとして失格だね」
 青年は身じろぎもせずに言う。
「大丈夫よ。私が普通の人より敏感なだけ。他の人ならきっと気づかないわ」
 彼女は疲れたように笑うと、優しく彼から離れた。
「あなたにとったら私なんて、わかり易い女なんでしょうね。あなたに苦手な事ってあるの? どんな時でも平静を装ってるけど。今だって、全然動じてないみたいだし。私なんて、あなたの眼中にないのかしら?」
「まさか。それは僕のセリフだよ」
「どういう意味?」
「君の眼の中に、僕はいない。去年店に飛び込んで来た日から変わってない。君は、僕の中に彼の面影を見てるだけだよ」
 そう言って青年は、胸ポケットから青いラインの入った煙草の箱を無造作に取り出した。女性の目が一瞬それに釘付けになった。
「……彼の好きな煙草と同じなんだろ?」
 青年は、ニッと笑った。女性は、少しだけ眉間に皺を寄せると、二、三歩青年から後ずさった。青年はいつになく真面目な顔で煙草をポケットに戻すと、彼女を見つめて言った。
「俺なんて、苦手な事だらけだよ。この店と旅と煙草を失くしたら、俺の存在なんてないも同然だから。他に何もできない。ただ黙ってここに来る人たちの話を聴くだけだ」
「それが最大の魅力なのよ。あなたは気づいてないだけよ。あなたに逢って、私、彼の事考える時間が随分減ったわ」
 彼女は必死に何かを訴えようとしているように見える。しかし青年はさらりとその視線を交わすと、「そんな事より俺、君に訊きたい事があるんだ」と言った。
「え、なぁに?」
 彼女は首を傾げる。
「……!!」
 青年が掌を広げると、彼女の顔色が一瞬にして蒼白になった。そして、舞台でセリフを忘れた女優のようにうろたえながら、誰もいない辺りを何度も見渡した。見えるのは、大通りに面した通りに連なる街路樹と、細い川と、ありふれた水色の空だけ。遠くで車のクラクションが小さく聴こえる位で、人の声もしない。
「去年の……秋の終わり頃だった」
「どうして……」
 彼女は両手で顔を覆うと、そのまま崩れるように地面に座り込んでしまった。
「ど、どうしたの!?」
 なかなか戻って来ないふたりを心配して少女が店から顔を出すと、ちょうど女性が座り込んだところだったので、少女は慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか? いったいどうしたの? 気分でも?」
 いったい彼は何を言ったのだろう? 青年を見上げてみたが、青年はうろたえる様子も見せずじっと口を結んでいる。

 女性は嗚咽を堪え、両手はガチガチと震えていた。何かに怯えるような、絶望的な、すがるような……それでいてどこか希望に満ちたような……そんな感情を入り混じらせながら……。

《後編に続く》
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