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第二章 秋
Order10. 忘れ得ぬ人へ
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秋の午後は、穏やかに流れていく。
『春秋館』の窓際の席には、二十代後半と思しき男がひとりまどろんでいる。男のテーブルには、ロイヤルブレンドと甘さを抑えたシフォンケーキが運ばれていた。その顔には年齢以上に疲労の色が刻まれ、何故か生気が感じられない。それだけにどうしてもケーキなど注文するようなタイプには見えなかった。ぼんやりとした瞳はどこか頼りなさ気で心許ない。
店の奥のいつもの場所に座っている少女の指先からは、情熱的なメロディが細いピアノ線のように空気に絡まり、生まれ、消えていく。『木枯らしのエチュード』だ。
男はそのメロディに耳を傾けながら、時折物思いにふけるような遠い眼差しを窓の外に注いでいる。オレンジ色に染まった十一月の景色が彼の黒い瞳を淡く曇らせていた。
少女のピアノが最後の鍵盤を叩き終えると、一瞬しんとした空気が店内を覆った。
カウンター内の若い店長は、少し伸びた前髪に瞳を隠し、腕を組んでガラスの食器棚にもたれたままだ。
少女が軽い吐息をつくと同時に、お客は我に返ったようにフォークを取り、初めてケーキに口をつけた。そして何かを想い出したような顔で少女を見やり、「『エレジー』……お願いできますか?」と言った。その抑揚のない声は、深く紳士的な響きで少女の耳に届いた。
少女は、この空気を壊したくなかったので無言のまま頷くと、少しためらいがちに再び指を鍵盤に走らせた。男は少し懐かしそうに、寂しそうに、そのロマンチックでどこか悲哀を感じさせる旋律に耳をすまし、一口つけただけのフォークを置くと、もう一度窓の外を見つめた……。
「ありがとう。何気なく立ち寄った店で『エレジー』が聴けるとは思わなかったよ」
帰り際、男は意外なほど無邪気な笑顔を浮かべ、少女に礼を言った。その少年のような瞳を見ると、もしかすると実際の年齢は青年とそんなに変わらないのかもしれないと思ってしまう。少女は男の立つ入り口辺りまで足を運び、尋ねた。
「あの曲に、何か想い入れが?」
「ええ……。実は、昔別れた彼女が好きだった曲なんです」
「え……」
「懐かしさに駆られて、彼女と一緒に歩いた道を今日一日歩いてみました。なんだかもう一度会えるような気がして……。この店の前もよくふたりで歩いたんですよ。次来た時は入ってみようねって約束してたんですが……」
男はそれっきり口をつぐんだ。そして照れたように、「情けないですね。いつまでも未練たらたらで」と笑った。茶色いハンチング帽子を必要以上に深くかぶり、精算を済ませる。
その寂し気で頼りなさそうな男の背中はやけに切なく感じる。男は少女を振り向くと、右手を彼女の方に差し出した。
「これ、良かったら使って」
無意識に出した少女の両手に、リーフの形をしたガラス細工のストラップがふたつ乗せられた。
「可愛い……!」
思わず感嘆の声が飛び出す。どう見ても手作りっぽく、形も統一していない。
「これ、もしかしてあなたが?」
「ええ。家がガラス工房で。でも元々不器用なんで……それも実は失敗作で悪いんだけど、どうしても捨てられなくて。出逢った人にひとつずつ渡しているんです。彼も良かったらどうぞ」
男は青年の方に一瞬目を向けた。青年は、何か思案するような不思議顔でお客を見つめていたが、少女は気づかなかった。
「とても失敗には見えないです。ありがとうございます。大事に使わせて貰いますね」
少女は微笑むと、深く透明な緑色をしたストラップを握りしめた。
「素敵ね。どんな事情があったのか知らないけど、別れてもあんなに恋人の事を想っていられるなんて」
「うん……」
お客が去った後呟いた少女に、青年は曖昧な返事をした。
「あんな穏やかで素敵な人が振られるなんて、何か信じられないな……」
「うん……」
上の空気味の青年に、少女は少しだけつまらなさそうに唇をすぼめた。
「ねぇ、このストラップ、あなたに……」
言いかけて、青年は携帯電話など持っていない事を想い出した。ストラップなど無用の長物に違いない。少女は肩を竦めると、カバンから携帯電話を取り出しそのストラップをひとつ取り付けた。シャラリと涼しげな音をたて、シルバーの携帯電話を彩る。
そしてその透明な緑色のストラップをしばらくの間見つめ、心の中で呟いた。
……もしかして、シフォンケーキも彼女の好物だったのかな。彼女に、いつか再会できたらいいですね……
もうひとつは大学の友人にでもあげようと思いカバンに仕舞おうとすると、いきなり青年がカウンターから飛び出し、少女の手からストラップを奪ってしまった。
「な、なあに?」
びっくりだ。どうしたんだろう。
「これ、貰うよ」
「え、でも、携帯なんて持ってないでしょう?」
「いいから」
それっきり何も言わず、青年はストラップをシャツの胸ポケットに収め、火の点いていない煙草を銜えながら扉を出て行った。
「?」
少女はしばらく首を傾げて扉を見つめていたが、偶然とはいえ青年とお揃いの小物を持てた事が何だか嬉しかった。
「こんにちはぁ」
「あ、いらっしゃいませ!」
青年と入れ違いに、お喋り好きな主婦のふたり組が入って来ると、少女は慌てて電話をカバンに仕舞いこみ、お客をテーブルに案内した。
午後のティータイム。
穏やかな秋の時間は今日もゆっくりと、だけど決して止まることなく冬へと流れ続ける……。
『春秋館』の窓際の席には、二十代後半と思しき男がひとりまどろんでいる。男のテーブルには、ロイヤルブレンドと甘さを抑えたシフォンケーキが運ばれていた。その顔には年齢以上に疲労の色が刻まれ、何故か生気が感じられない。それだけにどうしてもケーキなど注文するようなタイプには見えなかった。ぼんやりとした瞳はどこか頼りなさ気で心許ない。
店の奥のいつもの場所に座っている少女の指先からは、情熱的なメロディが細いピアノ線のように空気に絡まり、生まれ、消えていく。『木枯らしのエチュード』だ。
男はそのメロディに耳を傾けながら、時折物思いにふけるような遠い眼差しを窓の外に注いでいる。オレンジ色に染まった十一月の景色が彼の黒い瞳を淡く曇らせていた。
少女のピアノが最後の鍵盤を叩き終えると、一瞬しんとした空気が店内を覆った。
カウンター内の若い店長は、少し伸びた前髪に瞳を隠し、腕を組んでガラスの食器棚にもたれたままだ。
少女が軽い吐息をつくと同時に、お客は我に返ったようにフォークを取り、初めてケーキに口をつけた。そして何かを想い出したような顔で少女を見やり、「『エレジー』……お願いできますか?」と言った。その抑揚のない声は、深く紳士的な響きで少女の耳に届いた。
少女は、この空気を壊したくなかったので無言のまま頷くと、少しためらいがちに再び指を鍵盤に走らせた。男は少し懐かしそうに、寂しそうに、そのロマンチックでどこか悲哀を感じさせる旋律に耳をすまし、一口つけただけのフォークを置くと、もう一度窓の外を見つめた……。
「ありがとう。何気なく立ち寄った店で『エレジー』が聴けるとは思わなかったよ」
帰り際、男は意外なほど無邪気な笑顔を浮かべ、少女に礼を言った。その少年のような瞳を見ると、もしかすると実際の年齢は青年とそんなに変わらないのかもしれないと思ってしまう。少女は男の立つ入り口辺りまで足を運び、尋ねた。
「あの曲に、何か想い入れが?」
「ええ……。実は、昔別れた彼女が好きだった曲なんです」
「え……」
「懐かしさに駆られて、彼女と一緒に歩いた道を今日一日歩いてみました。なんだかもう一度会えるような気がして……。この店の前もよくふたりで歩いたんですよ。次来た時は入ってみようねって約束してたんですが……」
男はそれっきり口をつぐんだ。そして照れたように、「情けないですね。いつまでも未練たらたらで」と笑った。茶色いハンチング帽子を必要以上に深くかぶり、精算を済ませる。
その寂し気で頼りなさそうな男の背中はやけに切なく感じる。男は少女を振り向くと、右手を彼女の方に差し出した。
「これ、良かったら使って」
無意識に出した少女の両手に、リーフの形をしたガラス細工のストラップがふたつ乗せられた。
「可愛い……!」
思わず感嘆の声が飛び出す。どう見ても手作りっぽく、形も統一していない。
「これ、もしかしてあなたが?」
「ええ。家がガラス工房で。でも元々不器用なんで……それも実は失敗作で悪いんだけど、どうしても捨てられなくて。出逢った人にひとつずつ渡しているんです。彼も良かったらどうぞ」
男は青年の方に一瞬目を向けた。青年は、何か思案するような不思議顔でお客を見つめていたが、少女は気づかなかった。
「とても失敗には見えないです。ありがとうございます。大事に使わせて貰いますね」
少女は微笑むと、深く透明な緑色をしたストラップを握りしめた。
「素敵ね。どんな事情があったのか知らないけど、別れてもあんなに恋人の事を想っていられるなんて」
「うん……」
お客が去った後呟いた少女に、青年は曖昧な返事をした。
「あんな穏やかで素敵な人が振られるなんて、何か信じられないな……」
「うん……」
上の空気味の青年に、少女は少しだけつまらなさそうに唇をすぼめた。
「ねぇ、このストラップ、あなたに……」
言いかけて、青年は携帯電話など持っていない事を想い出した。ストラップなど無用の長物に違いない。少女は肩を竦めると、カバンから携帯電話を取り出しそのストラップをひとつ取り付けた。シャラリと涼しげな音をたて、シルバーの携帯電話を彩る。
そしてその透明な緑色のストラップをしばらくの間見つめ、心の中で呟いた。
……もしかして、シフォンケーキも彼女の好物だったのかな。彼女に、いつか再会できたらいいですね……
もうひとつは大学の友人にでもあげようと思いカバンに仕舞おうとすると、いきなり青年がカウンターから飛び出し、少女の手からストラップを奪ってしまった。
「な、なあに?」
びっくりだ。どうしたんだろう。
「これ、貰うよ」
「え、でも、携帯なんて持ってないでしょう?」
「いいから」
それっきり何も言わず、青年はストラップをシャツの胸ポケットに収め、火の点いていない煙草を銜えながら扉を出て行った。
「?」
少女はしばらく首を傾げて扉を見つめていたが、偶然とはいえ青年とお揃いの小物を持てた事が何だか嬉しかった。
「こんにちはぁ」
「あ、いらっしゃいませ!」
青年と入れ違いに、お喋り好きな主婦のふたり組が入って来ると、少女は慌てて電話をカバンに仕舞いこみ、お客をテーブルに案内した。
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