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第一章 春

Order1. 午後の休息

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「昨日、家でボヤ騒ぎがあったんですよ! ええ。私が買い物から帰ったら、庭の花壇に火が付いて燃えてたんですよ! 私はそりゃあもうビックリしてね。急いでホースで水をかけて消しましたよ。放火ですよ、あれは!」

 その年の五月初旬の『春秋館』店内には、ショパンの前奏曲『雨だれ』が優雅なメロディを奏でていた。ピアノの弾き手は髪の長い、年の頃は十八、九の憂いな瞳の少女。
 店の中央に伸びる長いカウンターのちょうど真ん中に座っている老婆は、大きな身振り手振りで話をするのに必死だ。
 そしてカウンターバーの中には、店長と呼ぶにはあまりに若く見える青年がドリップでコーヒーを淹れ、老婆の話の聴き手に徹している。コポコポというくぐもった音と共に、ほろ苦い香りが辺りに漂う。
「それから消防やら警察やらが駆けつけて、色々訊かれましたよ。お手柄ですねと最後には拍手されましたけどね。なんてたって、息子達が帰ってきたのはそれから一時間も経ってからですよ! もし私が気づかなかったら、大火事ですよ、あなた!」 
 カウンターの中の青年は、にこにこしながら老婆の話に聴き入っては相槌を打っている。やがて白いカップに注がれたコーヒーを、老婆の前に差し出す。老婆は待ってましたとばかりにミルクを入れ、音をたてて一口啜った。
「それから、これは誰にも言いたくなかったんですけどね」
 やがて老婆は、他に客がいないにも関わらず辺りを見渡して声を潜めると、身を乗り出すように青年にそっと顔を近づけ、小声で囁いた。
「これ、息子が買ってくれたんですよ」
 そう言って藤色の洋服の襟元から見せたのは、あまりセンスが良いとは言えない真っ赤な石のついたネックレスだった。
「へぇ。息子さん、親孝行なんですね」
 青年が、うらやましそうに言う。
「いつもは嫁の尻に敷かれてるんだけどね。先月の私の誕生日には、嫁に内緒でこれを買って来てくれたんですよ。私ゃもう嬉しくてねぇ。涙が止まりませんでしたよ」
 老婆は、まるで少女のように無邪気な顔で笑い、皺だらけの顔を一層皺くちゃにした。そして愛しそうに再びネックレスを襟の中に仕舞い込む。

「お義母さん!」
 突然甲高い女の声がしたかと思うと、店の入り口に三十代前半に見える女がひとり、仁王立ちしていた。
「やっぱりここにいたんですか! もうとっくにお昼過ぎてるんですよ!」
 女は老婆をきりりと睨みつけると、財布を取り出して「会計を」と、短く青年に言った。青年は、カウンター越しに精算をする。
「いいですか? いつも言ってるでしょ。散歩に出るのはいいですけど、昼食までには帰って来て下さいって。食卓が片づかないでしょ? もう、あまり勝手な行動しないで下さいね!」
「だって、郁子さん……これ、見せてあげてたんですよ。ほら、良いでしょ。このネックレス。孝雄からのプレゼントですよ。……私の一生の宝物ですよ」
「……またそんな。それは、お義父さんの形見でしょう? 十年前に亡くなったご主人の。孝雄さんは、そんな趣味じゃありません。それに話し相手なら、私も子供達もいるじゃないですか」
 女はそう言うと、老婆の背中を押して店を出て行こうとする。老婆は、少し狼狽したようにおたおたした表情をすると、何か言いたげに店内を振り返る。
「おばあちゃん。また楽しい話聴かせに来てね」
 カウンターから身を乗り出して声を掛けた青年の言葉に、女は少し迷惑そうな顔をしたが、老婆は幾分か安堵したような表情を作り、店を出て行った。

「全部わかってたんでしょ。今までのおばあさんの話」
 ピアノ弾きの少女は、ふたりが出て行った扉を見つめ、青年に問うた。
「何の事?」
 青年は、カウンターの中から手を伸ばし、空っぽのコーヒーカップを流しに運ぶ。その顔は、どことなく嬉しそうに見えた。
「おかしな人……」
 ピアノ弾きの少女は、少し呆れたように肩を竦めると、再び『雨だれ』を弾き始めた。
「あのおばあさん? でも楽しそうだったよ」
 青年がやっぱり笑顔でそう言うのを横目で見ながら、少女はもう一度心の中で肩を竦めずにはいられなかった。
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