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9月

脱落者一名1

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「ねぇ、ねぇ。千香ちゃーん」
「なに?」

移動教室なう、です。
正確には移動していた教室から、自分の教室に戻る途中です。

私はまだ千香ちゃんに、葵先輩のバイトの件を聞き出せずにいる。
だって、タイミングがないんだもん。話のきっかけもないし。

「なんでもない」
「変な子ね」

不思議そうな顔をされるけど、結局切り出せないのだ。
そのまま、私は視線を手元に落とす。

「あっ!さっきの教室にプリント忘れてる。ごめんね、ちょっと走って取って来る」
「え、ちょっと。未希!」

持ったと思っていたプリントがない。
さっきの授業でここに書かれた内容をテストに出すって言ってた、すごく大事なプリントなのに!

そんなに離れていないし、すぐに戻って来れるはずだ。
実際、戻ってくるまではそんなに時間もかからなかった。

「あった。セーフ」

無人になった教室に戻って、私の座っていた場所を探せば見つかった目的物。
さて、急いで戻ろう。あんまり遅くなると次の授業に遅れちゃう。

急ぐ私は、駆け足で教室を飛び出す。

「おっと」
「わっ!」

だが、ちょうど教室のドアの前に人がいたらしい。
私が突撃をかますような形になってしまった。そして、尻餅をつく。

「すみません」
「いやオレは平気だが。って、お前か」

頭上から落ちる、聞き覚えのある声。
一瞬で、背中に冷や汗が滲む。

見たくない。だって、予想が当たってるなら絶対に会いたくない男である。

「おい、橋本未希。ここで会ったのも何かの縁だ。とっとと、知ってること吐け」

見なくても絶対に、口元を歪めて悪人面スマイルを浮かべていることが分かる。
この男はいつもそういう顔で笑うもん。

意を決して顔を上げれば、予想通り獰猛に笑う保健医の姿が。
しかも、なんでかこっちに近づいて来てない?なんで前屈みになってくるの?!

パニックになりかける私の腕を掴んだ保健医は、そのまま真上に私を持ち上げた。
足が床を捉える。
呆ける中で、やっと保健医が座り込んだ私を立たせてくれたのだと理解した。

でも、それだけで終わるはずがない。コイツに善意の行動なんてない!
掴まれた腕から下に、保健医の手が滑るように降りていき今度は手首を握られる。
手首にキュッとした力がかかったと思ったら、私の体は前に倒れた。この男に引っ張られたのだ。

保健医の胸に手を当てて、なんとか衝撃に耐えた私のすぐ前には肉食獣のような表情で笑う男の顔。
思わぬ行動、思わぬ距離に息が止まる。

「この前は逃がしちまったからな」

ヤバいって。絶対。
どうする、私。どうする、どう動けばいい?!
ショートしそうになる私のスカスカの脳をフル稼働するが、答えなんてでない。

頭の大混乱をよそに、私の耳は逆に冷静に周囲の音を拾っていた。
人の声が近づいてくる。
良く通る声は女子特有の高さをもっている。その声の種類は多い。

「あっ、御堂先生!」
「こんにちは」
「先生、今日は保健室じゃないんだ」

「未希!」

同じタイミングでかけられたいくつもの言葉。
幸運にも、その位置は正反対だ。

大勢の女子生徒がこの男にかけた言葉。それに反応した男は、そちらに顔を向けた。
同時に、ちょっと緩んだ私への注意力。
女子生徒の群れの逆側から、私のために後を追いかけて来てくれたらしい千香ちゃんの声が私には届いた。

私は千香ちゃんの方に走り出す。
向こうに意識を向けていた保健医を出し抜くのは難しくない。
力いっぱい振り回した腕のおかげで、保健医の拘束から抜け出す。

千香ちゃんのところまで一目散に走った私は、そこでやっと振り返った。
悔しそうな顔の保健医がこっちを見ていた。

だから私はニッコリ笑ってやった。
へへ、ざまーみろ。どやぁ。
と、調子に乗ったら、睨まれたから慌てて目を逸らす。

「ごめんね、お待たせ。千香ちゃん行こう」

速足でその場から撤退する。

はーあ。この短い時間であんな思いをするなんて。
どうか、あんな心臓に悪い出会い方はもう二度としませんように。


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