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プロローグ
オープン前日の夜に
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各部屋の準備も万全に整い、いよいよ明日が初めての入居者受け入れという晩、私はなかなか寝付けずにいた。
ちょっと食堂にでも行って、一休みしようかな……
ひょんなことから、このアパルトマンのコンシェルジュになってしまったけど、冷静に考える余裕もなく、ただ精一杯準備に励んできた。
派遣社員だった頃は、仕事に執着もなくただ淡々と業務をこなしてきただけ。
仕事が終われば、友達とたまにご飯を食べに行ったり映画を観て帰るくらい、土日は平日にできない家事を、ひと通りしてダラダラと過ごして終わり……
こんなに毎日が充実しているのは、久しぶりだ。
お気に入りのマグカップにお湯を注ぎに行こうと厨房へ向かうと、扉が開き、仕事を終えた様子の片桐さんが出てきた。
「…………」
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様です」
連日の作業で片桐さんも少し疲れていることが表情から窺える。
……気まずい。何か喋らなきゃ。
「いよいよ明日からですね」
「そうですね」
「私、緊張してしまって。何か飲んで落ち着こうかなって」
「……それ、カフェイン入ってますけど、大丈夫ですか?」
私の持っていたティーパックを指さしながら、片桐さんが言う。
「あ、そうですよね。ジャスミンティーってカフェイン入ってましたね」
ジャスミンティーはウーロン茶や緑茶の茶葉を使用して作られるので、カフェインを含んでいるのだ。
「良かったら、少し待ってて貰えます?」
片桐さんはそう言うと、また厨房の奥へと戻っていった。
数分経ち、片桐さんがティーポット片手にやって来た。
そっとマグカップに注いでくれると、少しリンゴに似た優しい香りが、ふわっと広がる。
「カモミールティーなら、カフェインレスですし、リラックス効果もあるので、寝付けない時にもお勧めですよ。苦手でなければ、どうぞ」
「以前飲んだことがあると思うので、大丈夫です……とってもいい香り~。ありがとうございます」
「それは良かった」
頷いた彼の表情はいつも通りの穏やかなものだった。
「片桐さんは、緊張されたりしませんか?」
「……そうですね。緊張も多少ありますが、楽しみな気持ちの方が優ってるかな」
「凄い! 以前もどこかお店でシェフをされていたんですか」
「……ええ、まぁ」
彼が少し言い淀んだので、それ以上詮索することは止めておいた。
「緊張ってどうすれば直るでしょうか」
「うーん。『緊張しちゃ駄目だ』って思わない事でしょうか」
「え?」
「無理して、そう自分に言い聞かせようとすると、却って緊張してしまうんじゃないかな」
「……はい」
「僕は結構プレッシャーに弱い人間で、自分に何か課そうとすると気負ってしまって駄目なんです。だから、『最初から順調にいくなんてありえない』位の心持ちで……」
片桐さんの『プレッシャーに弱い発言』に驚いてしまった。
いつも冷静沈着でスマートな立ち振る舞いなのに――
「翠川さんも、コンシェルジュなんて初めてでしょう?僕だって、そんなに経験を積んできたわけじゃないですから」
「そうなんですか? でも片桐さん、堂々とされてるし……」
「堂々としているように見せているだけですよ。誰だって最初は素人って良く言うじゃないですか。慌てず一緒に頑張っていきましょう」
「……はいっ!」
静かな食堂に、コーチに指導を受ける運動部員のような、気合いの入り過ぎた声が反響する。
――プッ。
片桐さんは噴き出しそうになりながら、慌てて口元を押さえる。
彼のこんな自然体な姿を見るのは初めてだ。
……は、恥ずかしい。
「翠川さんて・・・・・・声大きいですよね」
「えっ。嘘っ!」
「……すごく接客向きだと思いますよ」
目を細めて微笑んでいる片桐さんが、ポケットからキャンディーを一つ、私の目の前に置いて去っていった。
包み紙のスマイルマークが可愛い、のど飴。
片桐さんらしからぬセレクトに思わず顔がほころぶ。
――たとえ何かでつまづいたとしても、片桐さんとなら上手く乗り越えていけそう。
明日は、いよいよアパルトマン第一号のお客様の入居日だ。
ちょっと食堂にでも行って、一休みしようかな……
ひょんなことから、このアパルトマンのコンシェルジュになってしまったけど、冷静に考える余裕もなく、ただ精一杯準備に励んできた。
派遣社員だった頃は、仕事に執着もなくただ淡々と業務をこなしてきただけ。
仕事が終われば、友達とたまにご飯を食べに行ったり映画を観て帰るくらい、土日は平日にできない家事を、ひと通りしてダラダラと過ごして終わり……
こんなに毎日が充実しているのは、久しぶりだ。
お気に入りのマグカップにお湯を注ぎに行こうと厨房へ向かうと、扉が開き、仕事を終えた様子の片桐さんが出てきた。
「…………」
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様です」
連日の作業で片桐さんも少し疲れていることが表情から窺える。
……気まずい。何か喋らなきゃ。
「いよいよ明日からですね」
「そうですね」
「私、緊張してしまって。何か飲んで落ち着こうかなって」
「……それ、カフェイン入ってますけど、大丈夫ですか?」
私の持っていたティーパックを指さしながら、片桐さんが言う。
「あ、そうですよね。ジャスミンティーってカフェイン入ってましたね」
ジャスミンティーはウーロン茶や緑茶の茶葉を使用して作られるので、カフェインを含んでいるのだ。
「良かったら、少し待ってて貰えます?」
片桐さんはそう言うと、また厨房の奥へと戻っていった。
数分経ち、片桐さんがティーポット片手にやって来た。
そっとマグカップに注いでくれると、少しリンゴに似た優しい香りが、ふわっと広がる。
「カモミールティーなら、カフェインレスですし、リラックス効果もあるので、寝付けない時にもお勧めですよ。苦手でなければ、どうぞ」
「以前飲んだことがあると思うので、大丈夫です……とってもいい香り~。ありがとうございます」
「それは良かった」
頷いた彼の表情はいつも通りの穏やかなものだった。
「片桐さんは、緊張されたりしませんか?」
「……そうですね。緊張も多少ありますが、楽しみな気持ちの方が優ってるかな」
「凄い! 以前もどこかお店でシェフをされていたんですか」
「……ええ、まぁ」
彼が少し言い淀んだので、それ以上詮索することは止めておいた。
「緊張ってどうすれば直るでしょうか」
「うーん。『緊張しちゃ駄目だ』って思わない事でしょうか」
「え?」
「無理して、そう自分に言い聞かせようとすると、却って緊張してしまうんじゃないかな」
「……はい」
「僕は結構プレッシャーに弱い人間で、自分に何か課そうとすると気負ってしまって駄目なんです。だから、『最初から順調にいくなんてありえない』位の心持ちで……」
片桐さんの『プレッシャーに弱い発言』に驚いてしまった。
いつも冷静沈着でスマートな立ち振る舞いなのに――
「翠川さんも、コンシェルジュなんて初めてでしょう?僕だって、そんなに経験を積んできたわけじゃないですから」
「そうなんですか? でも片桐さん、堂々とされてるし……」
「堂々としているように見せているだけですよ。誰だって最初は素人って良く言うじゃないですか。慌てず一緒に頑張っていきましょう」
「……はいっ!」
静かな食堂に、コーチに指導を受ける運動部員のような、気合いの入り過ぎた声が反響する。
――プッ。
片桐さんは噴き出しそうになりながら、慌てて口元を押さえる。
彼のこんな自然体な姿を見るのは初めてだ。
……は、恥ずかしい。
「翠川さんて・・・・・・声大きいですよね」
「えっ。嘘っ!」
「……すごく接客向きだと思いますよ」
目を細めて微笑んでいる片桐さんが、ポケットからキャンディーを一つ、私の目の前に置いて去っていった。
包み紙のスマイルマークが可愛い、のど飴。
片桐さんらしからぬセレクトに思わず顔がほころぶ。
――たとえ何かでつまづいたとしても、片桐さんとなら上手く乗り越えていけそう。
明日は、いよいよアパルトマン第一号のお客様の入居日だ。
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