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二人のアル

8・全ての感情から守る繭になる

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 けれど、穏やかな時間は長くは続かなかった。体を休めるために目を閉じてから暫く経った頃、由真たちのいる場所は急に強い明かりで照らされた。
「逃げようとしたらどうなるか、君は知っていると思いましたが」
 顔が見えないほどの強い光を背に、角田が前に進み出る。アルは唇を噛んだ。アルが記憶している限り、北斗の家からの脱走に成功した人はいない。大体すぐに連れ戻される。それがわかっていたから、蒔菜も逃げたいと思いながらも慎重になっていたのだ。それでも――あのままあそこにいても潰されてしまっただけだろう。アルは見えない剣を手に立ち上がった。
 けれどその刃が角田に届く直前で、アルの動きは止められた。見えない糸が全身に巻き付いているようだ。姿を隠してはいるが、角田以外に誰か能力者が隠れているようだ。どうにかしてその拘束から逃れようとアルが腕に力を込めると、その瞬間に強い電流が流れた。地面に膝をついたアルの腹部を角田が蹴る。
「君は自分が何をしたか、本当に理解しているんですか?」
「……っ、わかってるよ」
「いや、君はわかっていませんよ。君を作った私に逆らうだけでなく、貴重な七星の能力者を無断で連れ出すなど」
 更に鳩尾を強く蹴り上げられ、アルは声を出すことが出来なかった。声が出るのなら言ってやりたかった。その貴重な能力者の心を壊そうとしているのは誰なのかと。
 アルは反撃の機会を狙う。自分は逃げられなくても、由真だけでも自由にしたかった。しかしアルを拘束する見えない糸は、逃れようとすればするほど強い電流が流れるという厄介な代物だった。下手に動けば共倒れになりかねない。由真が逃げる時間を確保するだけの策が必要だ。
「朝の件といい、罰が足りませんでしたかね?」
「……っ!」
 角田が指を鳴らした瞬間に、強い痛みとともに一瞬意識が飛ぶ。隠れている能力者は、おそらく簡単に人を殺せるほどの電流を流せるだろう。けれど死なない程度にとどめている。ただ、アルに苦痛を与えるためにやっているのだ。けれど、その能力者のことは把握している。強い能力だが、一度に一人に対してしか使えないという欠点がある。アルが攻撃されている間、由真が攻撃を受ける心配はない。由真が自分を見捨ててでも逃げてくれればそれでいい。しかしそれが出来ないのが由真であることもアルはわかっていた。
 遠のきかける意識を精神力だけで繋ぎ止めながら、アルは角田を睨む。反抗的な態度のアルに角田が更に攻撃を加えようとしたとき、夜の森の中に由真の凛とした声が響いた。
「もうやめて。――私が戻ればいいんでしょ」
「由真……!」
 由真がそう言うだろうことを、角田もわかっていたのだろう。けれどそれはアルが一番望んでいない言葉だった。角田の笑みを横目に、アルは唇を噛む。そういう人だからこそ惹かれたのは事実だ。でもこんなときくらいは自分のことだけを考えてほしかった。
「私が外に出たいって言ったの。だから彼は悪くない」
 それは由真の口から発される、明確な嘘だった。潜在的には確かにそう思っていただろう。でもこの状況で、自分で全ての責任を背負う必要なんて本当はないのだ。
「では、君に免じて今回のことはこれで終わりにしましょう。――以後、このようなことはないように」
 由真は諦めたような顔で頷く。アルは左の背中が痛むのを感じながら、その横顔を見ていることしか出来なかった。



 脱走を試みてから半年ほどが過ぎた。あれ以来、アルも由真も仕事を増やされていた。由真は、これまでのように明確に抵抗することはしなくなっていた。従えばそれだけ多くの人を殺すことになる。けれど抵抗すれば大切なものが奪われてしまう。表面上だけでも従っている振りをしなければならなかった。自分の心をねじ伏せてでも、他の誰かを傷つけてしまっても、アルのことだけは守りたかったのだ。
 由真が従順になったことによって、計画は順調に進んでいると角田は言っていた。けれど不穏な噂も聞こえていた。警察側に優秀な解析能力の持ち主がいるらしく、巧妙に偽装工作をしても、実行犯が同じだと特定されてしまっていることがあるらしい。警察が踏み込んでくる前に計画を完遂させなければならない。そんな焦りのようなものが大人たちの間では流れていた。
 けれど由真にとってはどうでもよかった。上辺だけを取り繕って、陰では逃げ出す方法を絶えず考えていた。自分よりも、アルをここから自由にしたかった。
 自分は欠陥品なんだと、道具として作られたのだと、アルはよく言っていた。しかし由真にはそうは思えなかった。本人が思っているよりその心は繊細で、ちゃんと人の形をしている。ずっと道具として扱われてきたせいで、本人がそれに気付けなくなっているだけだ。
 アルに人として生きられる道を作るためには、まずここから出なければならない。けれど監視は強化されているし、それをかいくぐるうまい方法も見つからない。もどかしく思ううちに日々はどんどん過ぎ去っていった。
 蒔菜がいた頃、アルは与えられた感情だけで生きていた。しかし蒔菜はアルの変化に気が付いて、少しずつ能力の使用を控えていった。アル自身の感情が芽生えていることを知っていたのだ。けれどその扱い方を教える前に、由真は蒔菜を死なせてしまった。アルのことが気にかかるのはその罪悪感からだろうか。いや、最初はそうだったかもしれない。でも今は違う。
 能力を使えば使うほどに、反動で力を抑えられなくなる。負の感情を元にしているからこその厄介な副作用を、まともに治せるのは蒔菜だけだった。由真の能力でできるのは、種に触れてその力を余分な分だけ吸い取ることだけだった。根本的な解決が出来ているわけではない。それでも自分が手を出さなければ、アルは勝手に自分でなんとかしようとしてしまう。しかも自分自身を傷つけるという方法で。それを止めたくて、由真は何度も自分の首を絞めさせた。そしてその度に、奇妙な感情を味わうようになっていた。
 好きと似ているようで少し違う。愛と呼べるかどうかはわからない。ただ愛しくて、まるで自分の子供を抱きしめているような気持ちになったのだ。
「……由真」
 呼吸を整えていると、アルが由真の頬にそっと触れた。顔を見れば何を考えているかはだいたいわかる。アルは本当は由真を傷つけることは望んでいないのだ。自分自身で解決できるならそうしたいと思っている。馬鹿だな、と由真は思った。申し訳ないなんて思う必要はない。なぜなら、全て由真が望んでやらせていることなのだから。
「いいんだよ、アル」
 アルになら何をされても構わないと、心の底から思っていた。このまま殺されてもいいとさえ思えた。短い言葉で、真意がどこまで伝わっているかはわからない。でも、全部伝わる必要もないと思っていた。
「由真。――好きだ」
「私なんかで本当にいいの?」
「由真じゃなきゃ駄目だ」
 酸素を分け合うような口づけを何度も繰り返す。地獄のような日々の中で、互いの存在だけが希望だった。だからこそもっと欲しくなる。先に由真の体に手を伸ばしたのはアルだった。しかし由真も同じことを望んでいた。
 アルが由真の左腕を持ち上げる。能力を使う度に傷は増えていく。綺麗な体ではないと自分でも思う。しかしアルはその中のひとつにそっと口付けた。
「何でそんなとこ……傷だらけなのに」
「それも含めて由真だろ」
 恥ずかしいことを言ってくれる。悪い気はしなかった。この人を包み込んであげたいと思った。この一瞬だけでも構わない。全ての苦しみから、繭のように彼を守りたい。
 誰かと体を繋げるのは初めてのことだった。知識もそれほどあるわけではなかった。けれど身構えていたほど痛くはなかった。何よりも二人が一つになって、深い海へと沈んでいくような感覚は心地よかった。内蔵を押し上げられるような圧迫感も、自分の中に注がれた熱も、何もかもが愛おしかった。そこに嘘は一つもなかった。

 このまま時間が止まればいいと思った。
 この微睡みのような幸福の中で眠ってしまいたかった。
 彼が全てなのだと、甘い愛のフレーズさえ頭に浮かんだ。

 あの瞬間に世界が終わってしまっていたのだったら、どれだけ幸せだっただろうか。
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