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二十・美しきもの
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「ここは……」
縮地術はどうにか成功したらしい。しかし行き先を指定しなかったため、木蓮は自分がどこにいるか一瞬わからなかった。地面についた手は既に黒い紋様に覆われている。このまま放っておけば確実に鬼になってしまう。しかしこの状態から呪いを浄化するのも不可能だ。
どうやらここはいつもの鬼の出現地の手前らしい。行き先を指定しなかったため、既に縮地術の陣がある場所に飛ばされたようだ。どちらにしろ邑からはそれなりに距離はある。始末をつけるには問題ない場所だ。
しかし木蓮は微かに異質な気配を感じていた。少し離れた場所に黒い柱が立ち上がる。
「迎えに来たってわけ……?」
現れたのは黒い狼のような鬼が四体だった。普段の木蓮ならば敵にもならないような相手だ。しかし瀕死の重傷を負った状態で戦えるかはわからない。だからといって目の前に鬼がいるのに何もしないわけにはいかなかった。木蓮は柏手を打ち、狼たちのいる場所にかかっている術を解除する。いつもは罠が発動するようにしていたが、今はそこまで移動する体力が惜しい。
狼たちは警戒しながらもゆっくりと木蓮の方に歩み寄ってくる。攻撃する意図はないようだ。これまでの鬼であれば、そこに人間がいると見るやすぐに襲ってきたというのに。おそらく木蓮を襲わないように命じられているのだろう。
「――やるしかないか」
霊力はまだ僅かに残っている。意識も正常に保てている。鬼に与するつもりなど毛頭なかった。この黒狼が鬼の使いならば木蓮のすべきことはたった一つだ。
「掛けまくも畏き大水津薙命、諸々の禍事、罪、穢有らんをば」
最後の力を振り絞り、木蓮は祝詞を唱える。瞼の裏に描くのは龍神の姿だ。瘴気を浄化すれば鬼は消える。清らかな水であたりを満たすように霊力を巡らせる。
「祓え給い、清め給えと白す事を、聞こし食せと、恐み恐み白す」
向かってきた黒狼を刀で薙ぐ。決着は一瞬だと思われたが、次の瞬間に木蓮は我が目を疑った。
あとからあとから黒狼が湧き出し、木蓮に襲いかかる。数が多すぎる。弱い鬼であっても、それは限界に近付いている木蓮の力を削っていく。
「っ、ぐ……ぅ、うう……」
木蓮はその場に膝をつく。霊力を失うということは呪いへの対抗手段をなくすということだ。全身が熱い。心の臓が裏返るような痛みを覚える。
「く……っ、嫌だ……鬼には、なりたくない……っ」
鬼にはなりたくない。鬼になれば人を襲うようになる。それは本能的なものであって、いくら意志を保ったまま鬼になったとしても、人を喰うことからは逃れられないものだ。そんなものにはなりたくない。木蓮は地面に爪を立てた。
もう戦えるほどの力は残っていない。息をする度に体が軋む。地面についていた手の爪が異形のものに変わりつつあるのを見て、木蓮は唇を噛んだ。
覚悟を決めなければならない。鬼になりたくないのなら、選ぶ道はつひとつだ。
「鬼に、なるくらいなら……っ!」
木蓮は懐剣を取り出した。普段使う刀とは別に、いざというときのために常に身につけているものだ。正気を保てている間に、終わらせなければならない。
黒狼たちは木蓮の様子を窺っているようだった。その輪が少しずつ狭まっていく。木蓮は鞘を地面にそっと置き、鈍く輝く刀身を己の喉に突きつけた。
手が震える。早くやらなければならないとわかっているのに、巫になった時点で覚悟はできていたはずなのに、それ以上力を入れることができなかった。
「……鬼には、なりたくない……」
何もわからなくなり、愛する者を手にかけてしまった父の姿を見た。もうそれは父ではないというのに、変わり果てた愛する人のところへ駆けていった母の姿を見た。そんな悲しみは断ち切らなければならない。
それでも――。
「でも……死ぬのも嫌だよ……」
怖かった。自分で自分の喉を突くなんてことはできそうになかった。死にたくない。きつく閉じた瞼に美しい銀色が煌めく。どうしてその姿を思い描いたのか、自分でもわからなかった。それでもその姿が頭から離れない。
木蓮の手から懐剣が落ちる。
それと同時に強い水の気配を感じ、木蓮はおそるおそる目を開いた。
「――鬼になるのも死ぬのも嫌か。強欲な娘だ」
目の前には龍がいた。
青みがかった白銀の鱗。透き通った青色の瞳。そこにいるだけで空気が澄んでいくような圧倒的な力を感じる。
その姿を見るのは初めてだったが、それがあの龍神の本来の姿なのだと木蓮にはすぐにわかった。同時に、社からあまり動いてはならないはずの龍神がどうしてここにいるのか疑問に思った。
「吾を呼んだであろう」
「え……?」
「其方は祝詞の意味もわからずに唱えていたのか?」
邑で一般的に使われている祝詞の中で、基本である祓詞ははっきりと大水津薙命に奏上する形を取る。半ば無意識で選んだ祝詞だった。けれどそれが届いていたのだ。黒い紋様が広がりつつある頬を透明な雫が伝う。
「さて、邪魔者には疾く消えてもらおうか」
龍の体が強く発光する。その眩しさに木蓮は思わず目を瞑った。しばらくしてゆっくり目を開けると、あれほど沢山いた黒狼は一匹もいなくなっていた。
木蓮はほっと息を吐き出す。同時に少し意識が遠のくように感じた。
「……ありがとう」
「礼を言われるようなことではない。それに、自分の状況はわかっておろう」
木蓮は頷いた。黒狼を退けたとしても、もはや浄化のために神の力を入れることはできない。鬼になりたくないと願うなら、死を選ぶしかない。俯く木蓮に龍神はどこか優しい声で言った。
「白木蓮の花は咲いてこそ美しい。其方も同じだ」
「でも……私はもう」
「鬼にもなりたくないし死ぬのも嫌だと言ったのは其方であろう。吾はその二つを叶えることができる。それは其方にとっては望まぬ結果かも知れぬが――二つの願いを叶えるにはそれしかない」
「その方法は……」
龍神は厳かに、決意を秘めたように木蓮に告げる。
「吾が伴侶として、其方を迎え入れよう」
神の伴侶となるとはどういうことなのか。巫である木蓮は知識としてそれを知っていた。人の身でありながら神に近付き、人よりも遥かに永い生を与えられる。当然普通の人間よりも神の力に対する耐性も上がる。龍神の伴侶となれば、いま木蓮を蝕む呪いを浄化することもできる。それに――。
それは木蓮にとっては願ってもみない言葉であった。しかしだからこそ首を縦に振ることができなかった。
「……結婚するなら、本当に好きな人としなよ」
情けで娶られたところで嬉しくはない。鬼にもなりたくないし、死にたくもない。全ての鬼を倒すという目的も神の伴侶となれば果たせるかもしれない。受け入れれば木蓮の望みは叶う。だが、それは神の望みではないはずだ。
「どうしてこう、己のこととなると鈍いのだ」
龍神はどこか溜息混じりで呟いた。
「吾が好いてもいない人間と契りを結ぶように見えるのか?」
「それは……どういう……?」
これまで木蓮を突き放すようなことを言ってきたのは龍神の方だ。木蓮はいつしか龍神に対して淡い想いを抱いていた。けれど神と人間の間に線を引きたがる龍神にはこの想いを打ち明けてはならないと思っていたのだ。
「水夜のこともあって、吾は人の子に入れ込まぬようにと気を付けていた。だが散りゆく花を前にして何もしない程、吾は愚かではない」
不意に木蓮の体が水に包まれる。刹那のうちに見知った社の景色が眼前に広がった。鬼化の呪いはまだ残っているが、戦いでついた傷はもう塞がれている。木蓮は銀髪の少女の姿に戻った龍神の透明な碧の双眸を見つめた。
「そなたには人の子としての幸福を手に入れて欲しかった。だが……それが望めないとなれば話は別だ」
「どういうこと……?」
木蓮はその場に座り込んだままで首を傾げる。龍神はそっと白い手を伸ばして木蓮の頬に触れる。その手はゆっくりと木蓮の顎をなぞって離れていった。
「ここまで言ってもわからぬか。――吾はそなたを愛していると言っておるのだ」
その言葉が嘘でないことは、言い終わってから少し照れたように木蓮から目を逸らしたその仕草でわかる。
「……いつから?」
「野暮なことを訊くな。吾の時間ではそなたと会ったのも昨日のことのようだ」
「……私なんかの、どこが」
「そなたは美しい。愛する理由にそれ以外のものは必要なかろう」
木蓮は恋や愛の類を遠ざけて生きてきた。父と結ばれることで力を失った母のようにはならないと誓っていた。しかし純潔を喪ったからといって力を失うわけではないことを教えられた。その後に湧き上がってきたのは龍神への想いだった。けれど神と人は近いようで遠い。まさかそんなはっきりと好意を告げられルとは思わず、どうすればいいのかはわからなかった。けれど張り詰めていた心が解けていくような感覚がある。木蓮は静かに頷いた。
「私も、あなたを美しいと思う」
神であるから、それは当然のことかもしれない。けれどそれだけではない。龍神と何度も言葉を交わすうちに、木蓮はその尊大な態度に潜む優しさに気付いていた。巫として鬼と戦うのは当然と考えていた。鬼と戦うのだからそれによって傷つくのも当然だと思っていた。けれど龍神は木蓮が傷つけられたときに怒ってくれた。きっとそのときから、惹かれていたのだろう。
「ならば、契りを結ぼう」
「……わかった」
龍神の差し出した右手に木蓮も己の手を重ねる。触れ合う肌の温かさに涙が出そうだった。その涙の意味は自分でもよくわからない。ただ、これまでずっと冷え切っていた心が満たされていくような心地がした。
龍神が左手を開くと小さな水の珠が浮かび上がる。それは透明でいながら複雑な煌めきを湛えていた。それが神の力で満たされているものであることはわかる。木蓮は本能的に繋いでいる手とは逆の手を差し出す。水の珠はゆっくりと木蓮の手の上に移動していった。
この水を飲めば、木蓮の人としての生は終わる。それは木蓮も理解していた。けれど迷いはない。木蓮はゆっくりとその水の珠を飲み込んだ。
呪いのせいで熱を持った体が少し冷えていく。強い力が自分の体のどこを通っていくのかがわかる。喉を通り、静かに腹の底まで落ちていき、そこから体の中に神力の枝が伸びていくようだった。
「っ、はぁ……」
自分の霊力と龍神の力が混ざり、わずかに変質していく。おそらくはこの契りの儀式にも耐えられない人間は多いだろう。しかし強い霊力を持つ木蓮の体は自らの変化を受け入れた。それを感じ取ったのか、龍神が微笑んだ。
「これで其方は吾が伴侶となった。だが――何はともあれ、ひとまずその呪いをどうにかしなければな」
木蓮の体に透明な水の筋が巻きついた。足元に湛えられた水から透明な筋がいくつも顕われ、木蓮の体に触れる。呪いのために熱を持った体にその冷たさはどこか心地よかった。
「ん……っ」
しかし木蓮はどこか躊躇いがちに龍神を見つめる。龍神は訝しげに木蓮に尋ねた。
「どうかしたのか?」
「……我が儘を言ってもいい?」
「吾に聞けることであれば」
木蓮は龍神を真っ直ぐに見つめた。
体の奥底から、呪いとは別の熱が湧き出している。龍神の伴侶となった今ならば、この欲望は聞き入れられるだろうか 。
「龍の姿で……は、駄目?」
龍神は驚いていた。その顔は少し間が抜けていて可愛らしい。予想していなかった言葉なのだろう。しかし木蓮は一人で美しい龍の姿を夢想して自らを慰めたことすらあるのだ。
「そのくらいならば造作もないことだ」
龍神の体が淡い光に包まれる。その光が弾けた瞬間に、青みがかった銀の鱗を持つ龍が現れた。
縮地術はどうにか成功したらしい。しかし行き先を指定しなかったため、木蓮は自分がどこにいるか一瞬わからなかった。地面についた手は既に黒い紋様に覆われている。このまま放っておけば確実に鬼になってしまう。しかしこの状態から呪いを浄化するのも不可能だ。
どうやらここはいつもの鬼の出現地の手前らしい。行き先を指定しなかったため、既に縮地術の陣がある場所に飛ばされたようだ。どちらにしろ邑からはそれなりに距離はある。始末をつけるには問題ない場所だ。
しかし木蓮は微かに異質な気配を感じていた。少し離れた場所に黒い柱が立ち上がる。
「迎えに来たってわけ……?」
現れたのは黒い狼のような鬼が四体だった。普段の木蓮ならば敵にもならないような相手だ。しかし瀕死の重傷を負った状態で戦えるかはわからない。だからといって目の前に鬼がいるのに何もしないわけにはいかなかった。木蓮は柏手を打ち、狼たちのいる場所にかかっている術を解除する。いつもは罠が発動するようにしていたが、今はそこまで移動する体力が惜しい。
狼たちは警戒しながらもゆっくりと木蓮の方に歩み寄ってくる。攻撃する意図はないようだ。これまでの鬼であれば、そこに人間がいると見るやすぐに襲ってきたというのに。おそらく木蓮を襲わないように命じられているのだろう。
「――やるしかないか」
霊力はまだ僅かに残っている。意識も正常に保てている。鬼に与するつもりなど毛頭なかった。この黒狼が鬼の使いならば木蓮のすべきことはたった一つだ。
「掛けまくも畏き大水津薙命、諸々の禍事、罪、穢有らんをば」
最後の力を振り絞り、木蓮は祝詞を唱える。瞼の裏に描くのは龍神の姿だ。瘴気を浄化すれば鬼は消える。清らかな水であたりを満たすように霊力を巡らせる。
「祓え給い、清め給えと白す事を、聞こし食せと、恐み恐み白す」
向かってきた黒狼を刀で薙ぐ。決着は一瞬だと思われたが、次の瞬間に木蓮は我が目を疑った。
あとからあとから黒狼が湧き出し、木蓮に襲いかかる。数が多すぎる。弱い鬼であっても、それは限界に近付いている木蓮の力を削っていく。
「っ、ぐ……ぅ、うう……」
木蓮はその場に膝をつく。霊力を失うということは呪いへの対抗手段をなくすということだ。全身が熱い。心の臓が裏返るような痛みを覚える。
「く……っ、嫌だ……鬼には、なりたくない……っ」
鬼にはなりたくない。鬼になれば人を襲うようになる。それは本能的なものであって、いくら意志を保ったまま鬼になったとしても、人を喰うことからは逃れられないものだ。そんなものにはなりたくない。木蓮は地面に爪を立てた。
もう戦えるほどの力は残っていない。息をする度に体が軋む。地面についていた手の爪が異形のものに変わりつつあるのを見て、木蓮は唇を噛んだ。
覚悟を決めなければならない。鬼になりたくないのなら、選ぶ道はつひとつだ。
「鬼に、なるくらいなら……っ!」
木蓮は懐剣を取り出した。普段使う刀とは別に、いざというときのために常に身につけているものだ。正気を保てている間に、終わらせなければならない。
黒狼たちは木蓮の様子を窺っているようだった。その輪が少しずつ狭まっていく。木蓮は鞘を地面にそっと置き、鈍く輝く刀身を己の喉に突きつけた。
手が震える。早くやらなければならないとわかっているのに、巫になった時点で覚悟はできていたはずなのに、それ以上力を入れることができなかった。
「……鬼には、なりたくない……」
何もわからなくなり、愛する者を手にかけてしまった父の姿を見た。もうそれは父ではないというのに、変わり果てた愛する人のところへ駆けていった母の姿を見た。そんな悲しみは断ち切らなければならない。
それでも――。
「でも……死ぬのも嫌だよ……」
怖かった。自分で自分の喉を突くなんてことはできそうになかった。死にたくない。きつく閉じた瞼に美しい銀色が煌めく。どうしてその姿を思い描いたのか、自分でもわからなかった。それでもその姿が頭から離れない。
木蓮の手から懐剣が落ちる。
それと同時に強い水の気配を感じ、木蓮はおそるおそる目を開いた。
「――鬼になるのも死ぬのも嫌か。強欲な娘だ」
目の前には龍がいた。
青みがかった白銀の鱗。透き通った青色の瞳。そこにいるだけで空気が澄んでいくような圧倒的な力を感じる。
その姿を見るのは初めてだったが、それがあの龍神の本来の姿なのだと木蓮にはすぐにわかった。同時に、社からあまり動いてはならないはずの龍神がどうしてここにいるのか疑問に思った。
「吾を呼んだであろう」
「え……?」
「其方は祝詞の意味もわからずに唱えていたのか?」
邑で一般的に使われている祝詞の中で、基本である祓詞ははっきりと大水津薙命に奏上する形を取る。半ば無意識で選んだ祝詞だった。けれどそれが届いていたのだ。黒い紋様が広がりつつある頬を透明な雫が伝う。
「さて、邪魔者には疾く消えてもらおうか」
龍の体が強く発光する。その眩しさに木蓮は思わず目を瞑った。しばらくしてゆっくり目を開けると、あれほど沢山いた黒狼は一匹もいなくなっていた。
木蓮はほっと息を吐き出す。同時に少し意識が遠のくように感じた。
「……ありがとう」
「礼を言われるようなことではない。それに、自分の状況はわかっておろう」
木蓮は頷いた。黒狼を退けたとしても、もはや浄化のために神の力を入れることはできない。鬼になりたくないと願うなら、死を選ぶしかない。俯く木蓮に龍神はどこか優しい声で言った。
「白木蓮の花は咲いてこそ美しい。其方も同じだ」
「でも……私はもう」
「鬼にもなりたくないし死ぬのも嫌だと言ったのは其方であろう。吾はその二つを叶えることができる。それは其方にとっては望まぬ結果かも知れぬが――二つの願いを叶えるにはそれしかない」
「その方法は……」
龍神は厳かに、決意を秘めたように木蓮に告げる。
「吾が伴侶として、其方を迎え入れよう」
神の伴侶となるとはどういうことなのか。巫である木蓮は知識としてそれを知っていた。人の身でありながら神に近付き、人よりも遥かに永い生を与えられる。当然普通の人間よりも神の力に対する耐性も上がる。龍神の伴侶となれば、いま木蓮を蝕む呪いを浄化することもできる。それに――。
それは木蓮にとっては願ってもみない言葉であった。しかしだからこそ首を縦に振ることができなかった。
「……結婚するなら、本当に好きな人としなよ」
情けで娶られたところで嬉しくはない。鬼にもなりたくないし、死にたくもない。全ての鬼を倒すという目的も神の伴侶となれば果たせるかもしれない。受け入れれば木蓮の望みは叶う。だが、それは神の望みではないはずだ。
「どうしてこう、己のこととなると鈍いのだ」
龍神はどこか溜息混じりで呟いた。
「吾が好いてもいない人間と契りを結ぶように見えるのか?」
「それは……どういう……?」
これまで木蓮を突き放すようなことを言ってきたのは龍神の方だ。木蓮はいつしか龍神に対して淡い想いを抱いていた。けれど神と人間の間に線を引きたがる龍神にはこの想いを打ち明けてはならないと思っていたのだ。
「水夜のこともあって、吾は人の子に入れ込まぬようにと気を付けていた。だが散りゆく花を前にして何もしない程、吾は愚かではない」
不意に木蓮の体が水に包まれる。刹那のうちに見知った社の景色が眼前に広がった。鬼化の呪いはまだ残っているが、戦いでついた傷はもう塞がれている。木蓮は銀髪の少女の姿に戻った龍神の透明な碧の双眸を見つめた。
「そなたには人の子としての幸福を手に入れて欲しかった。だが……それが望めないとなれば話は別だ」
「どういうこと……?」
木蓮はその場に座り込んだままで首を傾げる。龍神はそっと白い手を伸ばして木蓮の頬に触れる。その手はゆっくりと木蓮の顎をなぞって離れていった。
「ここまで言ってもわからぬか。――吾はそなたを愛していると言っておるのだ」
その言葉が嘘でないことは、言い終わってから少し照れたように木蓮から目を逸らしたその仕草でわかる。
「……いつから?」
「野暮なことを訊くな。吾の時間ではそなたと会ったのも昨日のことのようだ」
「……私なんかの、どこが」
「そなたは美しい。愛する理由にそれ以外のものは必要なかろう」
木蓮は恋や愛の類を遠ざけて生きてきた。父と結ばれることで力を失った母のようにはならないと誓っていた。しかし純潔を喪ったからといって力を失うわけではないことを教えられた。その後に湧き上がってきたのは龍神への想いだった。けれど神と人は近いようで遠い。まさかそんなはっきりと好意を告げられルとは思わず、どうすればいいのかはわからなかった。けれど張り詰めていた心が解けていくような感覚がある。木蓮は静かに頷いた。
「私も、あなたを美しいと思う」
神であるから、それは当然のことかもしれない。けれどそれだけではない。龍神と何度も言葉を交わすうちに、木蓮はその尊大な態度に潜む優しさに気付いていた。巫として鬼と戦うのは当然と考えていた。鬼と戦うのだからそれによって傷つくのも当然だと思っていた。けれど龍神は木蓮が傷つけられたときに怒ってくれた。きっとそのときから、惹かれていたのだろう。
「ならば、契りを結ぼう」
「……わかった」
龍神の差し出した右手に木蓮も己の手を重ねる。触れ合う肌の温かさに涙が出そうだった。その涙の意味は自分でもよくわからない。ただ、これまでずっと冷え切っていた心が満たされていくような心地がした。
龍神が左手を開くと小さな水の珠が浮かび上がる。それは透明でいながら複雑な煌めきを湛えていた。それが神の力で満たされているものであることはわかる。木蓮は本能的に繋いでいる手とは逆の手を差し出す。水の珠はゆっくりと木蓮の手の上に移動していった。
この水を飲めば、木蓮の人としての生は終わる。それは木蓮も理解していた。けれど迷いはない。木蓮はゆっくりとその水の珠を飲み込んだ。
呪いのせいで熱を持った体が少し冷えていく。強い力が自分の体のどこを通っていくのかがわかる。喉を通り、静かに腹の底まで落ちていき、そこから体の中に神力の枝が伸びていくようだった。
「っ、はぁ……」
自分の霊力と龍神の力が混ざり、わずかに変質していく。おそらくはこの契りの儀式にも耐えられない人間は多いだろう。しかし強い霊力を持つ木蓮の体は自らの変化を受け入れた。それを感じ取ったのか、龍神が微笑んだ。
「これで其方は吾が伴侶となった。だが――何はともあれ、ひとまずその呪いをどうにかしなければな」
木蓮の体に透明な水の筋が巻きついた。足元に湛えられた水から透明な筋がいくつも顕われ、木蓮の体に触れる。呪いのために熱を持った体にその冷たさはどこか心地よかった。
「ん……っ」
しかし木蓮はどこか躊躇いがちに龍神を見つめる。龍神は訝しげに木蓮に尋ねた。
「どうかしたのか?」
「……我が儘を言ってもいい?」
「吾に聞けることであれば」
木蓮は龍神を真っ直ぐに見つめた。
体の奥底から、呪いとは別の熱が湧き出している。龍神の伴侶となった今ならば、この欲望は聞き入れられるだろうか 。
「龍の姿で……は、駄目?」
龍神は驚いていた。その顔は少し間が抜けていて可愛らしい。予想していなかった言葉なのだろう。しかし木蓮は一人で美しい龍の姿を夢想して自らを慰めたことすらあるのだ。
「そのくらいならば造作もないことだ」
龍神の体が淡い光に包まれる。その光が弾けた瞬間に、青みがかった銀の鱗を持つ龍が現れた。
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