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九・影
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今日もまた、影がやってくる。
いや、違う。影は自分の中にいるのだ。男はそのことに気が付き始めていた。あの日やってきた影は激しい雨によって消え去った。しかし男の中に入り込んだ一部は、雨では消せなかったらしい。
『応えよ。その心に巣喰った憎悪を解き放て』
影は男に囁く。しかし男は抵抗を続けていた。それはかつて自ら封印した思いだ。憎悪は確かにある。しかしそれを隠して前に進むと決めていた。未来だけを見つめていれば、目的を見失わなければ、痛みを忘れることはできるのだ。
だが影は思い出させる。未だに癒えない傷を。
不意に、男の目の前に髪の長い女性が現れた。儚げな微笑とは裏腹に、目が逸らせないほどに強い光を湛える双眸。男は目を見開いた――しかしそれは意識の上だけで、茵に横たわる男はただ眠っているように見えた。
『この者をお前が望むようにできる』
『この声に応えるだけで良い』
女は静かに男の頬に手を伸ばした。男は瞠目する。それは幻などではなく、本物の感触を持っていた。しかしそれが本物であるはずがない。女が既に死んでいることを男は誰よりも知っている。
『求めよ、さすれば与えられん』
女の白い手が男の体をなぞる。喉の隆起に触れ、ゆっくりと着物の合わせの中に手が入り込む。
やめてくれ、と男は譫言のように言った。それは何よりも求めていたことだった。けれど許されないと心の奥底にしまいこみ、ついには永久に叶わなくなった欲望。男の厚い胸板に触れながら、女は静かな声で囁く。
『お慕いしておりました……ずっと』
そんなことはない。女はかつて、別の男を選び、その男と結ばれたのだ。女を思い、気持ちを打ち明けることすらできなかった男を裏切り。
『どうして気付いてくださらないの? 私が本当に愛していたのは――』
違う。これは都合のいい幻だ。最期の瞬間まで男を見ることがなかった女がこんなことを言うはずはない。
『私の立場では、あなたと結ばれるわけにはいかなかった。だから私は身を引いたのです。でも――今なら、自分の思いのままにあなたに触れることができます』
違う、違う、と男は呻いた。だが女の動きは止まらない。白い手が男の胸をまさぐり、やがて着物の前が完全に開かれた。
「やめろ」
男は小さく言った。しかし影は手を緩めない。女の手は男の下腹部へと伸びていく。
「やめてくれ……」
男はもう一度言った。しかし影は手を止めない。こんなはずはない。こんな、男の思い通りにことが進むはずはないのだ。これは都合のいい幻だ。男はそう念じて、女を振り払おうとする。
『まだ信じられないのですね』
女は悲しげに言った。その手はゆっくりと男の着物の裾を割り開き、筋肉のついた太く逞しい脚に触れる。
「違う……お前は、幻だ……偽物なんだ」
男はもう一度言った。しかし影は手を止めない。そして女は、男の体に馬乗りになった。
『では――これで信じてくださいますか?』
男は目を瞑り、これ以上は耐えられぬとばかりに首を横に振る。女は残念そうに目を伏せるが、やがて柔らかく微笑んで男の着物の帯を解き始めた。
「やめてくれ! もうたくさんだ!」
男はついに大声を上げた。しかし体は全く自由にならない。何か見えないものに体を押さえ付けられているように、腕を少し上げることさえできなかった。
『どうして? 私では不足ですか? あれほどまでに私を望んでいたというのに』
「違う……お前は、俺の望んだ女じゃない」
『いいえ、私はあなたの望む者です』
女は男の体にしなだれかかる。その体は冷えていて、女がこの世のものでないことを男に悟らせた。それならば尚更応えるわけにはいかない。曲がりなりにも男は神に仕える身なのだ。
『ねえ、私を見てください。本当に何も感じませんか?』
「やめてくれ……」
女は悲しそうな顔をする。次に口を開いたのは男の中に巣食う影だった。影は低い声で男に囁く。
『それは、お前が望んだ女だ』
『お前はその女をお前の望む通りにできる』
『お前がそれを望みさえすれば』
影がゆらりと立ち昇り、女の体に蔦のようにまとわりつく。男が驚いている間に、影は女の体を操り、着物の裾をたくし上げた。薄手の着物の下には何も身につけていない。ゆっくりと開かれた脚の間には透明な蜜を湛える女の秘所があった。
「やめろ……何を」
『お前がずっと望んでいたことだ』
影は嗤う。女は自分の指でその場所を広げ、男にそれを見せつけるようにした。
『これが欲しかったのでしょう? ずっとずっと、私を穢したかったのでしょう?』
「それは……」
『いいのですよ。あなたの好きになさって』
女の秘部から蜜がゆっくりとこぼれ落ち、男の体に触れる。それが普通の人間のものでないことは男にもすぐにわかった。濃密な瘴気。そんなものにこれ以上触れてはならない。
「駄目だ」
男は首を横に振る。女は影を纏わり付かせながら、再び悲しそうな目をした。
『そう……でも、あなたはいずれ私を求める。あなたは私のことを、愛してくださったのだから』
女はそう言い残して、霧のように消えた。
――そこで男の意識は覚醒する。
周囲を見回し、そこが自分の寝所で、いつもと変わらない光景であることを確認した。あれは夢だった。しかし、夢と言うにはあまりにも鮮明で、男は背中に大量の汗をかいていた。
「嗚呼……」
男は自分の手を見つめて呟く。欲望が黒い煙のように立ち昇ってくる。蜜をこぼすあの場所に触れたいと、何度願っただろうか。清らかな存在を穢してしまいたいと暗い欲望を抱いたのも一度ではない。しかしそれらは全て自分の中に封じ込めていたはずだった。
「嗚呼――どうして、俺のものにはなってくれなかったのだ」
しかし、心は既に影の手に落ちつつあった。
影に欲望を引きずり出されてしまった男は、頭を掻き毟りながら呻き声を上げた。
***
木蓮は部屋で書き物をしていた。あたりには微かに墨の香りが漂っている。同じ部屋の片隅では宿堤の息子である泰良が土鈴を手に何やら唸っていた。
(どこまで書こうかな……)
巫は鬼と戦ったあとは必ずその戦いを記録する。それが後の戦いの役に立つことがあるからだ。どのような特徴のある鬼だったか、どのような攻撃をしてきたのか、そしてどのように倒したのか。できるだけ正確に書き記すことで、次に同じような鬼が現れたときはもっと上手く対処できる。事実、木蓮と宿堤はその記録を何度も読み、鬼に対抗するための様々な術や戦略を立てていた。
(正確に書いた方がいいのはわかってるけど……)
あの大蜘蛛にされたことをありのままに書いてしまうのは憚られた。思い出したくもない。しかも大蜘蛛に陵辱されたと書けば、穢れた巫と見なされてしまうだろう。龍神はそのことで力を失うことはないと言った。事実、木蓮の霊力は変わらずに強いままだ。しかし邑の人間が巫は純潔を守らなければ力を失うと信じ込んできたのもまた事実である。特に宿堤はその点で木蓮を厳しく躾けていた。
(全部書くと……焔と龍神様にされたことも書かなきゃいけなくなるか……)
木蓮は臍の下あたりが熱くなるのを感じた。あくまで霊力の恢復と呪いの浄化のためにやったことだ。けれど木蓮の体は確かに官能を覚えていた。木蓮は体を鎮めるように臍のあたりを撫で、筆に墨をつけた。
鬼の特徴と攻撃手段。そして何よりも書かねばならないのは、それが普通の蜘蛛ではありえない行動をしたこと。これまでは瘴気により生き物などが変質した姿が鬼だと考えられてきた。実際、鬼たちは人間を食うという本能と同時に鬼になる前の行動を繰り返すという特徴もある。そうでない鬼、元の生物の括りからも外れた鬼は、木蓮たちが思っている生まれ方とは違う方法で生まれたのかもしれない。
(誰かが作り出した鬼……?)
鬼には指示役がいるのではないかと宿堤も言っていた。仮にそれが鬼を作り出すこともできるとするならば、大元を叩かなければ何も解決しないということになる。しかしそんな仮説を立ててみても、あの大蜘蛛から得られた情報はそれほど多くはなかった。木蓮はある程度のところまで書いて、溜息を吐きながら筆を置く。
「木蓮ねえちゃん、終わったの?」
「大体ね。どうしたの、泰良?」
「ちょっと木蓮ねえちゃんに聞きたくて……」
木蓮は泰良に向き直った。泰良はずっと手に持っていた土鈴を木蓮に見せる。
「父上が、これが鳴らせるようになるまで鍛錬しろって。でも全然できないんだ」
「あ、懐かしいなぁこれ。私も昔その鍛錬やったよ」
土鈴はこの邑に古くから伝わっている神具の一つだ。しかし中に玉が入っておらず、振っても音は鳴らない。音を鳴らすには、土鈴に適切な量の霊力を送る必要があるのだ。土鈴が鳴らせるようになれば、武器に霊力を込めることもできるようになる。
木蓮もかつて同じ鍛錬をしたことがある。しかしその目的は泰良たちとは違っていた。
「木蓮ねえちゃんもやったの⁉︎ 必要ないんじゃない?」
「私の場合は力が無駄に流れちゃうから、ちゃんと鈴だけに伝わるように練習したんだよ」
木蓮は泰良から鈴を受け取る。木蓮が鈴の上についた赤い紐を持つと、優しく柔らかな鈴の音が響いた。
「やっぱり木蓮ねえちゃんはすごいなぁ。僕は全然鳴らせないんだ」
「うーん……泰良の場合は霊力は十分だと思うから、力をうまく伝えられていないんだと思う」
「父上にもそう言われたんだ。木蓮ねえちゃんはそんなことなかっただろ?」
「私は鈴が鳴るには鳴るんだけどそれ以外にも力をいっぱい使っちゃうから、泰良と同じように訓練したんだよ」
いくら霊力が強くても、無駄に使うことはできない。宿堤は厳しく、朝から晩までこの鍛錬をさせられたこともある。その甲斐あって、今は最低限の力で苦もなく鈴を鳴らせるようになった。
「じゃあまず、手に力を集めるところを想像してみて。泰良は……そうだな、木漏れ日を集める感じで」
自分の霊力は自分では見られないが、他人の力を見ることはできる。泰良のそれは木漏れ日のような柔らかな光だ。頭に思い描く図が正確であればあるほど霊力の操作の成功率は上がる。
泰良は目を閉じ、木蓮の言う通りにした。ゆっくりと泰良の力が手に集まってくる。木蓮は泰良に土鈴を差し出して言った。
「この紐を持って、今手に集めたものが紐を伝って流れていくのを思い描いて」
それが一番難しい。紐は細く、一度に流せる霊力はそれほど多くないのだ。泰良の霊力は途中で強まったり弱まったりしながら、どうにか土鈴まで辿り着いた。物音にすらかき消されてしまいそうな微かな音が鳴る。
「今、鳴った?」
「うん、ちゃんと鳴ってたよ。紐を伝わせるときに力が一定になっていなかったから、そこを中心に練習すれば、もっといい音で鳴らせるようになるよ」
土鈴を鳴らすことができるようになれば、次は武器に霊力を流す練習をする。巫も男衆も、邑長の一族も、全員が通る道だ。
木蓮はふと思い立って、棚から自分用の土鈴を取り出した。今はもう土鈴を使った鍛錬はしていない。けれど久々に鳴らしてみたいと思ったのだ。
(最初に教えてくれたのは、母様だったな)
けれど、緑波が生きていた頃は一度もちゃんと鳴らせなかった。土鈴の音は、天にも地にも届くという。今鳴らした音も、遠き彼岸まで届くのだろうか。
(そういえば、この鈴の音は神様にも聞こえるんだったな……)
神に声を届けるための鈴とも言われている。あの龍神にもこの音は聞こえているのだろうか。木蓮は鈴を鳴らしながら、小さな声で祝詞を唱えた。
「掛けまくも畏き大水津薙命――」
また会いたいと思うのはいけないことだろうか。本来神と人間はおいそれと会えるものではない。けれど木蓮はその時を求めてしまっていた。
いや、違う。影は自分の中にいるのだ。男はそのことに気が付き始めていた。あの日やってきた影は激しい雨によって消え去った。しかし男の中に入り込んだ一部は、雨では消せなかったらしい。
『応えよ。その心に巣喰った憎悪を解き放て』
影は男に囁く。しかし男は抵抗を続けていた。それはかつて自ら封印した思いだ。憎悪は確かにある。しかしそれを隠して前に進むと決めていた。未来だけを見つめていれば、目的を見失わなければ、痛みを忘れることはできるのだ。
だが影は思い出させる。未だに癒えない傷を。
不意に、男の目の前に髪の長い女性が現れた。儚げな微笑とは裏腹に、目が逸らせないほどに強い光を湛える双眸。男は目を見開いた――しかしそれは意識の上だけで、茵に横たわる男はただ眠っているように見えた。
『この者をお前が望むようにできる』
『この声に応えるだけで良い』
女は静かに男の頬に手を伸ばした。男は瞠目する。それは幻などではなく、本物の感触を持っていた。しかしそれが本物であるはずがない。女が既に死んでいることを男は誰よりも知っている。
『求めよ、さすれば与えられん』
女の白い手が男の体をなぞる。喉の隆起に触れ、ゆっくりと着物の合わせの中に手が入り込む。
やめてくれ、と男は譫言のように言った。それは何よりも求めていたことだった。けれど許されないと心の奥底にしまいこみ、ついには永久に叶わなくなった欲望。男の厚い胸板に触れながら、女は静かな声で囁く。
『お慕いしておりました……ずっと』
そんなことはない。女はかつて、別の男を選び、その男と結ばれたのだ。女を思い、気持ちを打ち明けることすらできなかった男を裏切り。
『どうして気付いてくださらないの? 私が本当に愛していたのは――』
違う。これは都合のいい幻だ。最期の瞬間まで男を見ることがなかった女がこんなことを言うはずはない。
『私の立場では、あなたと結ばれるわけにはいかなかった。だから私は身を引いたのです。でも――今なら、自分の思いのままにあなたに触れることができます』
違う、違う、と男は呻いた。だが女の動きは止まらない。白い手が男の胸をまさぐり、やがて着物の前が完全に開かれた。
「やめろ」
男は小さく言った。しかし影は手を緩めない。女の手は男の下腹部へと伸びていく。
「やめてくれ……」
男はもう一度言った。しかし影は手を止めない。こんなはずはない。こんな、男の思い通りにことが進むはずはないのだ。これは都合のいい幻だ。男はそう念じて、女を振り払おうとする。
『まだ信じられないのですね』
女は悲しげに言った。その手はゆっくりと男の着物の裾を割り開き、筋肉のついた太く逞しい脚に触れる。
「違う……お前は、幻だ……偽物なんだ」
男はもう一度言った。しかし影は手を止めない。そして女は、男の体に馬乗りになった。
『では――これで信じてくださいますか?』
男は目を瞑り、これ以上は耐えられぬとばかりに首を横に振る。女は残念そうに目を伏せるが、やがて柔らかく微笑んで男の着物の帯を解き始めた。
「やめてくれ! もうたくさんだ!」
男はついに大声を上げた。しかし体は全く自由にならない。何か見えないものに体を押さえ付けられているように、腕を少し上げることさえできなかった。
『どうして? 私では不足ですか? あれほどまでに私を望んでいたというのに』
「違う……お前は、俺の望んだ女じゃない」
『いいえ、私はあなたの望む者です』
女は男の体にしなだれかかる。その体は冷えていて、女がこの世のものでないことを男に悟らせた。それならば尚更応えるわけにはいかない。曲がりなりにも男は神に仕える身なのだ。
『ねえ、私を見てください。本当に何も感じませんか?』
「やめてくれ……」
女は悲しそうな顔をする。次に口を開いたのは男の中に巣食う影だった。影は低い声で男に囁く。
『それは、お前が望んだ女だ』
『お前はその女をお前の望む通りにできる』
『お前がそれを望みさえすれば』
影がゆらりと立ち昇り、女の体に蔦のようにまとわりつく。男が驚いている間に、影は女の体を操り、着物の裾をたくし上げた。薄手の着物の下には何も身につけていない。ゆっくりと開かれた脚の間には透明な蜜を湛える女の秘所があった。
「やめろ……何を」
『お前がずっと望んでいたことだ』
影は嗤う。女は自分の指でその場所を広げ、男にそれを見せつけるようにした。
『これが欲しかったのでしょう? ずっとずっと、私を穢したかったのでしょう?』
「それは……」
『いいのですよ。あなたの好きになさって』
女の秘部から蜜がゆっくりとこぼれ落ち、男の体に触れる。それが普通の人間のものでないことは男にもすぐにわかった。濃密な瘴気。そんなものにこれ以上触れてはならない。
「駄目だ」
男は首を横に振る。女は影を纏わり付かせながら、再び悲しそうな目をした。
『そう……でも、あなたはいずれ私を求める。あなたは私のことを、愛してくださったのだから』
女はそう言い残して、霧のように消えた。
――そこで男の意識は覚醒する。
周囲を見回し、そこが自分の寝所で、いつもと変わらない光景であることを確認した。あれは夢だった。しかし、夢と言うにはあまりにも鮮明で、男は背中に大量の汗をかいていた。
「嗚呼……」
男は自分の手を見つめて呟く。欲望が黒い煙のように立ち昇ってくる。蜜をこぼすあの場所に触れたいと、何度願っただろうか。清らかな存在を穢してしまいたいと暗い欲望を抱いたのも一度ではない。しかしそれらは全て自分の中に封じ込めていたはずだった。
「嗚呼――どうして、俺のものにはなってくれなかったのだ」
しかし、心は既に影の手に落ちつつあった。
影に欲望を引きずり出されてしまった男は、頭を掻き毟りながら呻き声を上げた。
***
木蓮は部屋で書き物をしていた。あたりには微かに墨の香りが漂っている。同じ部屋の片隅では宿堤の息子である泰良が土鈴を手に何やら唸っていた。
(どこまで書こうかな……)
巫は鬼と戦ったあとは必ずその戦いを記録する。それが後の戦いの役に立つことがあるからだ。どのような特徴のある鬼だったか、どのような攻撃をしてきたのか、そしてどのように倒したのか。できるだけ正確に書き記すことで、次に同じような鬼が現れたときはもっと上手く対処できる。事実、木蓮と宿堤はその記録を何度も読み、鬼に対抗するための様々な術や戦略を立てていた。
(正確に書いた方がいいのはわかってるけど……)
あの大蜘蛛にされたことをありのままに書いてしまうのは憚られた。思い出したくもない。しかも大蜘蛛に陵辱されたと書けば、穢れた巫と見なされてしまうだろう。龍神はそのことで力を失うことはないと言った。事実、木蓮の霊力は変わらずに強いままだ。しかし邑の人間が巫は純潔を守らなければ力を失うと信じ込んできたのもまた事実である。特に宿堤はその点で木蓮を厳しく躾けていた。
(全部書くと……焔と龍神様にされたことも書かなきゃいけなくなるか……)
木蓮は臍の下あたりが熱くなるのを感じた。あくまで霊力の恢復と呪いの浄化のためにやったことだ。けれど木蓮の体は確かに官能を覚えていた。木蓮は体を鎮めるように臍のあたりを撫で、筆に墨をつけた。
鬼の特徴と攻撃手段。そして何よりも書かねばならないのは、それが普通の蜘蛛ではありえない行動をしたこと。これまでは瘴気により生き物などが変質した姿が鬼だと考えられてきた。実際、鬼たちは人間を食うという本能と同時に鬼になる前の行動を繰り返すという特徴もある。そうでない鬼、元の生物の括りからも外れた鬼は、木蓮たちが思っている生まれ方とは違う方法で生まれたのかもしれない。
(誰かが作り出した鬼……?)
鬼には指示役がいるのではないかと宿堤も言っていた。仮にそれが鬼を作り出すこともできるとするならば、大元を叩かなければ何も解決しないということになる。しかしそんな仮説を立ててみても、あの大蜘蛛から得られた情報はそれほど多くはなかった。木蓮はある程度のところまで書いて、溜息を吐きながら筆を置く。
「木蓮ねえちゃん、終わったの?」
「大体ね。どうしたの、泰良?」
「ちょっと木蓮ねえちゃんに聞きたくて……」
木蓮は泰良に向き直った。泰良はずっと手に持っていた土鈴を木蓮に見せる。
「父上が、これが鳴らせるようになるまで鍛錬しろって。でも全然できないんだ」
「あ、懐かしいなぁこれ。私も昔その鍛錬やったよ」
土鈴はこの邑に古くから伝わっている神具の一つだ。しかし中に玉が入っておらず、振っても音は鳴らない。音を鳴らすには、土鈴に適切な量の霊力を送る必要があるのだ。土鈴が鳴らせるようになれば、武器に霊力を込めることもできるようになる。
木蓮もかつて同じ鍛錬をしたことがある。しかしその目的は泰良たちとは違っていた。
「木蓮ねえちゃんもやったの⁉︎ 必要ないんじゃない?」
「私の場合は力が無駄に流れちゃうから、ちゃんと鈴だけに伝わるように練習したんだよ」
木蓮は泰良から鈴を受け取る。木蓮が鈴の上についた赤い紐を持つと、優しく柔らかな鈴の音が響いた。
「やっぱり木蓮ねえちゃんはすごいなぁ。僕は全然鳴らせないんだ」
「うーん……泰良の場合は霊力は十分だと思うから、力をうまく伝えられていないんだと思う」
「父上にもそう言われたんだ。木蓮ねえちゃんはそんなことなかっただろ?」
「私は鈴が鳴るには鳴るんだけどそれ以外にも力をいっぱい使っちゃうから、泰良と同じように訓練したんだよ」
いくら霊力が強くても、無駄に使うことはできない。宿堤は厳しく、朝から晩までこの鍛錬をさせられたこともある。その甲斐あって、今は最低限の力で苦もなく鈴を鳴らせるようになった。
「じゃあまず、手に力を集めるところを想像してみて。泰良は……そうだな、木漏れ日を集める感じで」
自分の霊力は自分では見られないが、他人の力を見ることはできる。泰良のそれは木漏れ日のような柔らかな光だ。頭に思い描く図が正確であればあるほど霊力の操作の成功率は上がる。
泰良は目を閉じ、木蓮の言う通りにした。ゆっくりと泰良の力が手に集まってくる。木蓮は泰良に土鈴を差し出して言った。
「この紐を持って、今手に集めたものが紐を伝って流れていくのを思い描いて」
それが一番難しい。紐は細く、一度に流せる霊力はそれほど多くないのだ。泰良の霊力は途中で強まったり弱まったりしながら、どうにか土鈴まで辿り着いた。物音にすらかき消されてしまいそうな微かな音が鳴る。
「今、鳴った?」
「うん、ちゃんと鳴ってたよ。紐を伝わせるときに力が一定になっていなかったから、そこを中心に練習すれば、もっといい音で鳴らせるようになるよ」
土鈴を鳴らすことができるようになれば、次は武器に霊力を流す練習をする。巫も男衆も、邑長の一族も、全員が通る道だ。
木蓮はふと思い立って、棚から自分用の土鈴を取り出した。今はもう土鈴を使った鍛錬はしていない。けれど久々に鳴らしてみたいと思ったのだ。
(最初に教えてくれたのは、母様だったな)
けれど、緑波が生きていた頃は一度もちゃんと鳴らせなかった。土鈴の音は、天にも地にも届くという。今鳴らした音も、遠き彼岸まで届くのだろうか。
(そういえば、この鈴の音は神様にも聞こえるんだったな……)
神に声を届けるための鈴とも言われている。あの龍神にもこの音は聞こえているのだろうか。木蓮は鈴を鳴らしながら、小さな声で祝詞を唱えた。
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