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五・穢れなきもの
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「随分遅かったな」
拝殿に戻ると、宿堤が木蓮を待ち構えていた。木蓮は迷った末に、今し方起きた出来事についてかいつまんで説明した。鬼の呪いを受けて祠の前で倒れたこと。そこを龍神に救われたこと。その内容がどんなものだったかは言わなかったが、宿堤の関心はそこにはなかったようで、あっさりと納得された。
「龍神と会ったというのは誠か?」
「はい。あの気配は間違いなく」
木蓮は怖気が走るほど美しかった龍神の姿を思い出していた。青みがかった銀色の髪。湖面のような青い瞳。子供のような姿をしていたが、纏っていた清浄な気が紛れもなく彼女が龍神であるということを示していた。
「これまで、龍神の姿を直接見た者はほとんどいない。まして自ら浄化を手伝ったなどと言う話は聞いたことがない」
宿堤の言葉に、木蓮は頷いた。これまで邑に残された記録を紐解いても、そのような話は出て来なかった。しかし先程の出来事は夢や幻ではない。それは木蓮の体が一番知っていることであった。
「だが……お前の力であれば、それも不思議ではない。あるいは本当に龍神の気まぐれか。いずれにしても、引き続き龍神の加護を得られるように務めるのだ」
「はい。心得ております」
「ならばよし。今日は疲れただろう。早く体を休めなさい」
木蓮は一礼をして宿堤の前を辞した。木蓮の自室は拝殿の隣、つまり邑長の家の中にある。静かに玄関をくぐると、既に已須見たちは眠っているようだった。音を立てないように自室に入り、寝床を用意する。
しかし布団に潜ってからも中々眠気は訪れなかった。先程までの出来事がまだ体に残っている。それが浄化のために行われたということを理解していても、体が火照ってしまっていた。
胸にはじん、と疼くような熱があり、触れたいという欲望を抑えるのに難儀するほどだった。股の間にもなにか微温湯が滲み出したような感覚がある。木蓮は布越しに熱を持つ部分に手を伸ばした。
(駄目なのは、わかってる……)
神に仕える巫は、身も心も清くなければならない。そうでなければ神の加護を受けられない。それどころか霊力を失ってしまう。木蓮は幼い頃からそう厳しく教え込まれてきた。両親が死んだあの日から、木蓮以上の力を持つ者がこの邑に現れることはなかった。この邑では最も霊力が強い者が巫になると定められている。木蓮自身も、邑の人間も、木蓮が巫になるということを昔から理解していた。
だからこそ木蓮は厳しく躾けられた。その身が穢れることがないようにと細心の注意を払われてきたのだ。そんな木蓮が淫らな欲望を抱くなどということはあってはならない。
(母様の二の舞になってはならないのだから)
木蓮の母親である緑波は、木蓮の二代前の巫であった。しかし緑波は男衆の一人であった那久弥と恋に落ち、木蓮と引き換えにその力を失った。愛とは恐ろしいもので、もし恋仲にある男と情を交わせばどうなるか、ということをわかっていながらも止められなかったのだ。そして緑波の次に力の強かった者が巫を引き継ぐことになったのだが、巫だった頃の緑波に比べると力が弱く、七年前の鬼の襲撃を許してしまった。
(後悔するくらいなら、愛し合わなければよかったのに)
両親が死んだ日のことを、木蓮は鮮明に覚えている。忘れてはならないと心に刻んでいる。緑波は那久弥が死んだと知らされたときに、自分のせいだと半狂乱になって泣き叫んでいた。その意味が今ならわかる。緑波は自分が力を失わず巫のままでいたら、那久弥は死なずに済んだことを理解していたのだ。
(私は、鬼を全て倒すまでは……誰のことも愛さない)
力を失わないために、愛で目が曇ることがないように。木蓮は脇目も振らずに鬼を倒すことだけを考えていた。――これまでは。
(でも――)
体が熱い。龍神は「今後はこのようなことはしない」と言っていた。そもそも巫の前にすら姿を現したことはほとんどないと言われている。おそらくもう会うことはないだろう。けれどその美しい姿が頭から離れなかった。
(龍の姿は、どんな感じなんだろう――)
木蓮を返すときに使った水の龍は、あくまで水を変化させたものだ。あの龍神の真の姿は邑の記録を見てもどこにも書いていない。木蓮が思い描いたのは、髪と同じ青みがかった銀の鱗を持つ龍だった。光を反射する水面のように、龍が身をくねらせる度に鱗が輝く。
(きっと、綺麗だろうなぁ)
目を閉じて、木蓮は再びその姿を思い描く。
清浄な水の中から浮かび上がり、空を駆けて、それは木蓮のところまでやってくる。長い尾が横になっている木蓮の腰に巻き付き、木蓮の動きを軽く封じた。そして湖面のような青い双眸で木蓮の眼をのぞき込む。それを想像した瞬間、体がかっと熱くなるのを感じた。
(許されるわけがない……ましてや相手は神様なのに)
それでも、美しいものに惹かれる心だけは止められなかった。木蓮は体に触れる水の感触を思い出しながら、布越しに胸の膨らみを包み込んだ。微かに吐息が漏れる。指の下で、胸の先の小さな果実が膨らんでいるのもわかっていた。けれどその先へ進むことは出来なかった。
***
龍神は短い眠りから目を覚ました。普段の龍神の眠りは深く、一度眠ると数年起きないこともあるくらいであるが、今回は数日で目が覚めてしまった。
一人きりの本殿に水の音だけが響いている。ここに木蓮がいたのはほんの数日前のことだ。龍神の永い生を思えば一瞬の出来事。しかしそれがなかなか頭を離れなかった。
「――吾がそんな愚かしいことをするわけがなかろう」
水で満たされた本殿。その水はゆっくりとだが確実に流れている。いくら清浄な水と雖も、長い間溜めておくと力が澱む。しかし本殿の奥に一箇所だけ、暗い青色を湛えている場所があった。龍神は澄んだ青色の瞳をその場所に向ける。
「あれの二の舞になるのは吾も御免だ」
暗い青色の水は穢れているわけではない。長い間そこに留められてなお、静かで澄んだ力を秘めている。しかし水底から泡がいくつか上がってきた瞬間、それは激しいものに変わる。龍神が扇を広げると水の筋が現れ、暗い青色の水面に入り込んでいく。
「案ずることはない。もうあの娘には会わぬ」
そもそも神域に人間を入れるなどと、という声とともに水面が揺れる。龍神は扇をぱたりと閉じて溜息を吐いた。
「あれは吾が巫。今死なれては困ると思っただけだ。……あの力がそのまま鬼に転じることはあってはならない」
水面は静かになっていく。龍神は半分が水に浸かった本殿の階段に腰掛けた。
「もう暫く大人しくしていてくれ。人間の寿命など吾らにとっては須臾の夢でしかないのだから」
木蓮の力の強さは特別だ。幼い頃の出来事によって箍が外れているだけだ。仮に普通に育っていたならば、巫にはなっていただろうが、一人で戦うことなど不可能だったはずだ。木蓮の命が尽きれば、再び均衡は保たれるようになる。龍神はその時を待つつもりであた。
静けさを取り戻した本殿で龍神は扇を広げ、口元を覆い隠した。木蓮にはもう会うことはない。それなのに、その姿が何故か頭から離れなかった。初めての感覚に身体を捩らせる様や、あえかな声。久しく味わっていない感情が迫り上がってくる。
「……本当に木蓮の花のようだな」
おそらく木蓮本人は気が付いていない。人間は自分の霊力を自分の目で見ることはできない。けれど龍神の眼はそれをしっかりと捉えていた。ゆらめく炎のように、あるいは白い花のようにその身から溢れる力は、大変に美しかった。
「命が尽きれば、見られなくなるというのは……少し残念ではあるな」
しかし神の時間と人の時間は違う。人に肩入れしても何にもならないことを龍神は知っていた。それどころか困難な事態を引き寄せることもある。神として生を受けたばかりの頃、何度も聞かされた言葉が蘇る。
今度はもう少し長く眠ろう。龍神はそう考え、龍の姿に戻った。龍の眠りは深く長い。目を覚ませば数百年が経っていたということさえあるのだ。龍神は水鏡に一瞬だけ映した木蓮に別れを告げ、目を閉じた。
しかしその眠りは、数刻もしないうちに遮られた。
水がざわめいている。本殿を満たす水は、外の世界のことを龍神に伝える役割も担っていた。龍神は少女の姿に転じ、白い手を水に浸ける。
「あちらの方は大人しくしてくれる気はないようだな」
強すぎる霊力は鬼にとってはこの上ない馳走になる。
木蓮がなって巫になってからというもの、勢力を削られ続けることに業を煮やし始めたのかもしれない。龍神が介入せずとも木蓮は十分に強い。しかし鬼が邑ではなく木蓮を狙い始めるのなら話は別だ。
「……もう二度と会わないというわけにはいかなくなりそうだ」
龍神は広げた扇で虚空を薙いだ。直接言葉を伝えずとも、雨が降れば鬼も龍神の意図を察するだろう。もちろんそれで大人しくなる相手でないことは承知している。
「吾が巫を、みすみす渡してなるものか――」
***
男の寝所に、黒い影が迫っていた。
それは無数の小さな蛇のようであった。影の蛇は眠っている男の首筋に噛み付く。微かな痛みに男は声を上げるが、目を覚ますことはなかった。
『――憎かろう』
影は男に向かって低い声で囁く。男が顔をしかめた。しかし答えはない。
『お前の愛しい者を奪った男が憎いだろう』
影の蛇は男の額からぬるりとその中に入り込んでいく。幾条もの蛇に入り込まれた男は呻き声を上げた。しかしそれでも目は覚まさない。影が男を深い眠りの中に留めているのだ。
今は意識に上らずとも良い。その魂をゆっくりと鬼に落とす。影は男の記憶を読み取り、男が隠してきた本心を暴き立てる。
『愛していただろう。だが、その者を思って手を引いた。だがそんなことも知らずにその者は別の者を選んだ』
ああ、そうだ。眠っている男の口がひとりでに動き、答える。影は更に男の中に入り込み、言葉を重ねた。
『せっかく自分が身を引いたのに、どうしてあれを選んだのか』
『愚かな選択だ』
『穢れた巫は鬼と変わらぬ』
それは男が封じ込めた思いであった。男はしかし首を横に振る。そのようなことを心中で思っていたとしても、出さなければいいだけのこと。醜い本心は墓場まで持っていくととうの昔に覚悟を決めていた。
『まこと、高潔な男よ』
『だが、お前は何のために高潔であろうとする?』
『愛する者はもういないというのに』
愛する者を喪った傷を癒やすことは難しい。男は前を向くことでその傷を覆い隠してきた。だが影は簡単にそれを暴く。傷口に頭をめり込ませ、未だにそこには血が滲んでいることを思い出させる。
『お前が守ろうとしているものを与えてやろう』
『難しいことではない』
『ただ我が声に応えればいい』
『さすればお前の全ての望みを叶えてやろう』
『愛する者も、お前の手に与えてやろう』
男は歯を食いしばる。眠りの中でも、その抵抗は強かった。それはひとえに男の思いを封じ込めてきた善の心の強さを物語ってもいた。
『ここまで入り込んでも我が声に応えぬか。実に強き男だ』
男は喪った愛する者を思い浮かべる。喪った悲しみは、その者を想えばこそ、どうにか耐え忍ぶことが出来た。その者がどうすれば喜ぶのか。自分が本心を見せたとしても、その者は喜びはしなかっただろう。同時に思い出したのは、その者が遺していったものだった。
『成程。お前はその者を想えばこそ、穢れなくいられるのか』
『だがその者もいずれお前の手から離れていくだろう』
『お前が愛した者と同じように穢れを負うことになるだろう』
『それを止めたくば、我が声に応えよ』
男は呻き声を上げながら抵抗を続ける。影はその様子を見て、呆れたように嗤った。しかし影は地面を叩く雨音に気付き、動きを止める。このあたりが潮時だ。龍神の雨は穢れを祓う。弱い影がそれに触れれば、須臾にして消え去ってしまうだろう。
『強情な男だ。だがいずれ、お前はこの声に応えることになる』
『明日もまた来よう』
『お前が首を縦に振るまで、来よう』
人の心は脆い。どれだけ澄んだ心の持ち主でも、少しのことで容易く鬼へと化す。今は男も耐えている。だがいずれ耐えられなくなることを影は知っていた。
『一度入り込んだ影は、あれでも簡単には消せない。俺はお前がこちら側に来るのを待っているぞ』
影は男にそう言い残し、波が引くようにその場から消えた。後に残されたのは、何事もなかったかのように眠り続ける男と、激しく響く雨の音だけであった。
拝殿に戻ると、宿堤が木蓮を待ち構えていた。木蓮は迷った末に、今し方起きた出来事についてかいつまんで説明した。鬼の呪いを受けて祠の前で倒れたこと。そこを龍神に救われたこと。その内容がどんなものだったかは言わなかったが、宿堤の関心はそこにはなかったようで、あっさりと納得された。
「龍神と会ったというのは誠か?」
「はい。あの気配は間違いなく」
木蓮は怖気が走るほど美しかった龍神の姿を思い出していた。青みがかった銀色の髪。湖面のような青い瞳。子供のような姿をしていたが、纏っていた清浄な気が紛れもなく彼女が龍神であるということを示していた。
「これまで、龍神の姿を直接見た者はほとんどいない。まして自ら浄化を手伝ったなどと言う話は聞いたことがない」
宿堤の言葉に、木蓮は頷いた。これまで邑に残された記録を紐解いても、そのような話は出て来なかった。しかし先程の出来事は夢や幻ではない。それは木蓮の体が一番知っていることであった。
「だが……お前の力であれば、それも不思議ではない。あるいは本当に龍神の気まぐれか。いずれにしても、引き続き龍神の加護を得られるように務めるのだ」
「はい。心得ております」
「ならばよし。今日は疲れただろう。早く体を休めなさい」
木蓮は一礼をして宿堤の前を辞した。木蓮の自室は拝殿の隣、つまり邑長の家の中にある。静かに玄関をくぐると、既に已須見たちは眠っているようだった。音を立てないように自室に入り、寝床を用意する。
しかし布団に潜ってからも中々眠気は訪れなかった。先程までの出来事がまだ体に残っている。それが浄化のために行われたということを理解していても、体が火照ってしまっていた。
胸にはじん、と疼くような熱があり、触れたいという欲望を抑えるのに難儀するほどだった。股の間にもなにか微温湯が滲み出したような感覚がある。木蓮は布越しに熱を持つ部分に手を伸ばした。
(駄目なのは、わかってる……)
神に仕える巫は、身も心も清くなければならない。そうでなければ神の加護を受けられない。それどころか霊力を失ってしまう。木蓮は幼い頃からそう厳しく教え込まれてきた。両親が死んだあの日から、木蓮以上の力を持つ者がこの邑に現れることはなかった。この邑では最も霊力が強い者が巫になると定められている。木蓮自身も、邑の人間も、木蓮が巫になるということを昔から理解していた。
だからこそ木蓮は厳しく躾けられた。その身が穢れることがないようにと細心の注意を払われてきたのだ。そんな木蓮が淫らな欲望を抱くなどということはあってはならない。
(母様の二の舞になってはならないのだから)
木蓮の母親である緑波は、木蓮の二代前の巫であった。しかし緑波は男衆の一人であった那久弥と恋に落ち、木蓮と引き換えにその力を失った。愛とは恐ろしいもので、もし恋仲にある男と情を交わせばどうなるか、ということをわかっていながらも止められなかったのだ。そして緑波の次に力の強かった者が巫を引き継ぐことになったのだが、巫だった頃の緑波に比べると力が弱く、七年前の鬼の襲撃を許してしまった。
(後悔するくらいなら、愛し合わなければよかったのに)
両親が死んだ日のことを、木蓮は鮮明に覚えている。忘れてはならないと心に刻んでいる。緑波は那久弥が死んだと知らされたときに、自分のせいだと半狂乱になって泣き叫んでいた。その意味が今ならわかる。緑波は自分が力を失わず巫のままでいたら、那久弥は死なずに済んだことを理解していたのだ。
(私は、鬼を全て倒すまでは……誰のことも愛さない)
力を失わないために、愛で目が曇ることがないように。木蓮は脇目も振らずに鬼を倒すことだけを考えていた。――これまでは。
(でも――)
体が熱い。龍神は「今後はこのようなことはしない」と言っていた。そもそも巫の前にすら姿を現したことはほとんどないと言われている。おそらくもう会うことはないだろう。けれどその美しい姿が頭から離れなかった。
(龍の姿は、どんな感じなんだろう――)
木蓮を返すときに使った水の龍は、あくまで水を変化させたものだ。あの龍神の真の姿は邑の記録を見てもどこにも書いていない。木蓮が思い描いたのは、髪と同じ青みがかった銀の鱗を持つ龍だった。光を反射する水面のように、龍が身をくねらせる度に鱗が輝く。
(きっと、綺麗だろうなぁ)
目を閉じて、木蓮は再びその姿を思い描く。
清浄な水の中から浮かび上がり、空を駆けて、それは木蓮のところまでやってくる。長い尾が横になっている木蓮の腰に巻き付き、木蓮の動きを軽く封じた。そして湖面のような青い双眸で木蓮の眼をのぞき込む。それを想像した瞬間、体がかっと熱くなるのを感じた。
(許されるわけがない……ましてや相手は神様なのに)
それでも、美しいものに惹かれる心だけは止められなかった。木蓮は体に触れる水の感触を思い出しながら、布越しに胸の膨らみを包み込んだ。微かに吐息が漏れる。指の下で、胸の先の小さな果実が膨らんでいるのもわかっていた。けれどその先へ進むことは出来なかった。
***
龍神は短い眠りから目を覚ました。普段の龍神の眠りは深く、一度眠ると数年起きないこともあるくらいであるが、今回は数日で目が覚めてしまった。
一人きりの本殿に水の音だけが響いている。ここに木蓮がいたのはほんの数日前のことだ。龍神の永い生を思えば一瞬の出来事。しかしそれがなかなか頭を離れなかった。
「――吾がそんな愚かしいことをするわけがなかろう」
水で満たされた本殿。その水はゆっくりとだが確実に流れている。いくら清浄な水と雖も、長い間溜めておくと力が澱む。しかし本殿の奥に一箇所だけ、暗い青色を湛えている場所があった。龍神は澄んだ青色の瞳をその場所に向ける。
「あれの二の舞になるのは吾も御免だ」
暗い青色の水は穢れているわけではない。長い間そこに留められてなお、静かで澄んだ力を秘めている。しかし水底から泡がいくつか上がってきた瞬間、それは激しいものに変わる。龍神が扇を広げると水の筋が現れ、暗い青色の水面に入り込んでいく。
「案ずることはない。もうあの娘には会わぬ」
そもそも神域に人間を入れるなどと、という声とともに水面が揺れる。龍神は扇をぱたりと閉じて溜息を吐いた。
「あれは吾が巫。今死なれては困ると思っただけだ。……あの力がそのまま鬼に転じることはあってはならない」
水面は静かになっていく。龍神は半分が水に浸かった本殿の階段に腰掛けた。
「もう暫く大人しくしていてくれ。人間の寿命など吾らにとっては須臾の夢でしかないのだから」
木蓮の力の強さは特別だ。幼い頃の出来事によって箍が外れているだけだ。仮に普通に育っていたならば、巫にはなっていただろうが、一人で戦うことなど不可能だったはずだ。木蓮の命が尽きれば、再び均衡は保たれるようになる。龍神はその時を待つつもりであた。
静けさを取り戻した本殿で龍神は扇を広げ、口元を覆い隠した。木蓮にはもう会うことはない。それなのに、その姿が何故か頭から離れなかった。初めての感覚に身体を捩らせる様や、あえかな声。久しく味わっていない感情が迫り上がってくる。
「……本当に木蓮の花のようだな」
おそらく木蓮本人は気が付いていない。人間は自分の霊力を自分の目で見ることはできない。けれど龍神の眼はそれをしっかりと捉えていた。ゆらめく炎のように、あるいは白い花のようにその身から溢れる力は、大変に美しかった。
「命が尽きれば、見られなくなるというのは……少し残念ではあるな」
しかし神の時間と人の時間は違う。人に肩入れしても何にもならないことを龍神は知っていた。それどころか困難な事態を引き寄せることもある。神として生を受けたばかりの頃、何度も聞かされた言葉が蘇る。
今度はもう少し長く眠ろう。龍神はそう考え、龍の姿に戻った。龍の眠りは深く長い。目を覚ませば数百年が経っていたということさえあるのだ。龍神は水鏡に一瞬だけ映した木蓮に別れを告げ、目を閉じた。
しかしその眠りは、数刻もしないうちに遮られた。
水がざわめいている。本殿を満たす水は、外の世界のことを龍神に伝える役割も担っていた。龍神は少女の姿に転じ、白い手を水に浸ける。
「あちらの方は大人しくしてくれる気はないようだな」
強すぎる霊力は鬼にとってはこの上ない馳走になる。
木蓮がなって巫になってからというもの、勢力を削られ続けることに業を煮やし始めたのかもしれない。龍神が介入せずとも木蓮は十分に強い。しかし鬼が邑ではなく木蓮を狙い始めるのなら話は別だ。
「……もう二度と会わないというわけにはいかなくなりそうだ」
龍神は広げた扇で虚空を薙いだ。直接言葉を伝えずとも、雨が降れば鬼も龍神の意図を察するだろう。もちろんそれで大人しくなる相手でないことは承知している。
「吾が巫を、みすみす渡してなるものか――」
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『――憎かろう』
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『お前の愛しい者を奪った男が憎いだろう』
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今は意識に上らずとも良い。その魂をゆっくりと鬼に落とす。影は男の記憶を読み取り、男が隠してきた本心を暴き立てる。
『愛していただろう。だが、その者を思って手を引いた。だがそんなことも知らずにその者は別の者を選んだ』
ああ、そうだ。眠っている男の口がひとりでに動き、答える。影は更に男の中に入り込み、言葉を重ねた。
『せっかく自分が身を引いたのに、どうしてあれを選んだのか』
『愚かな選択だ』
『穢れた巫は鬼と変わらぬ』
それは男が封じ込めた思いであった。男はしかし首を横に振る。そのようなことを心中で思っていたとしても、出さなければいいだけのこと。醜い本心は墓場まで持っていくととうの昔に覚悟を決めていた。
『まこと、高潔な男よ』
『だが、お前は何のために高潔であろうとする?』
『愛する者はもういないというのに』
愛する者を喪った傷を癒やすことは難しい。男は前を向くことでその傷を覆い隠してきた。だが影は簡単にそれを暴く。傷口に頭をめり込ませ、未だにそこには血が滲んでいることを思い出させる。
『お前が守ろうとしているものを与えてやろう』
『難しいことではない』
『ただ我が声に応えればいい』
『さすればお前の全ての望みを叶えてやろう』
『愛する者も、お前の手に与えてやろう』
男は歯を食いしばる。眠りの中でも、その抵抗は強かった。それはひとえに男の思いを封じ込めてきた善の心の強さを物語ってもいた。
『ここまで入り込んでも我が声に応えぬか。実に強き男だ』
男は喪った愛する者を思い浮かべる。喪った悲しみは、その者を想えばこそ、どうにか耐え忍ぶことが出来た。その者がどうすれば喜ぶのか。自分が本心を見せたとしても、その者は喜びはしなかっただろう。同時に思い出したのは、その者が遺していったものだった。
『成程。お前はその者を想えばこそ、穢れなくいられるのか』
『だがその者もいずれお前の手から離れていくだろう』
『お前が愛した者と同じように穢れを負うことになるだろう』
『それを止めたくば、我が声に応えよ』
男は呻き声を上げながら抵抗を続ける。影はその様子を見て、呆れたように嗤った。しかし影は地面を叩く雨音に気付き、動きを止める。このあたりが潮時だ。龍神の雨は穢れを祓う。弱い影がそれに触れれば、須臾にして消え去ってしまうだろう。
『強情な男だ。だがいずれ、お前はこの声に応えることになる』
『明日もまた来よう』
『お前が首を縦に振るまで、来よう』
人の心は脆い。どれだけ澄んだ心の持ち主でも、少しのことで容易く鬼へと化す。今は男も耐えている。だがいずれ耐えられなくなることを影は知っていた。
『一度入り込んだ影は、あれでも簡単には消せない。俺はお前がこちら側に来るのを待っているぞ』
影は男にそう言い残し、波が引くようにその場から消えた。後に残されたのは、何事もなかったかのように眠り続ける男と、激しく響く雨の音だけであった。
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