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二・鬼の血
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「鬼が出たぞ!」
半鐘の音と櫓から叫ぶ男の声に、木蓮は反射的に立ち上がった。巫がいない七年間、男衆たちはわずかな霊力を頼りに鬼を退けていた。しかし今この瞬間からは違う。
「お前の使命を果たすのだ、木蓮」
「わかっています」
木蓮はその場で一礼すると、成人の儀の衣装を着たままで拝殿を飛び出した。鬼はいつも龍神の社とは反対側の山からやってくる。数は一体のときもあれば複数のときもある。鬼は人の霊力が蓄えられている心の臓を好む。心の臓を食われれば人は死ぬしかない。だから鬼は倒さなければならない。はるか昔から続く鬼との攻防は、その理由だけは単純であった。
(今日は一体――人型の鬼)
半鐘の音で鬼の種類は大体わかるようになっている。五年前に定められた音の違いを木蓮は正確に把握していた。風のように駆け抜けて邑外れの荒れ野に辿り着くと、既に男衆たちと鬼との戦いが繰り広げられていた。
男衆は刀や弓を手に鬼に攻撃を浴びせている。今日の鬼はそれほど動きは速くない。けれど鬼の瘴気を浄化するまで鬼は動きを止めないのだ。男衆に選ばれるのは霊力を持っている者だけだが、それでも鬼を瞬時に倒すには足りない。
「木蓮殿!」
男衆を率いている武羅瀬という青年が木蓮に気付き声を上げる。今日が木蓮の成人の儀であることは邑中の人間が知っていることだった。木蓮は武羅瀬に向かって軽く頷き、状況を把握する。
一体の鬼につき男衆は七人。数の上では有利だが、決定打を浴びせられないために負傷している者もいた。致命傷を負っているものはいない。木蓮は静かに息を吐き出してから刀の柄に手をかけた。
「――はぁっ!」
抜刀しながら袈裟懸けに一閃。木蓮自身の霊力と龍神の加護が与えられた刀は鬼に深い傷を与えた。人間のものよりも黒ずんだ血を噴き出しながら鬼が倒れる。
「すごい……」
男衆の一人が思わずそう漏らした。鬼が撒き散らしていた瘴気も跡形もなく消え去る。木蓮は刀の血を軽く払い、鞘に戻した。木蓮が一息吐くと男衆たちが喜色満面で木蓮に近付く。
「すごいじゃないか、木蓮! ……あ、いや木蓮殿」
「巫になったからってわざわざ呼び方なんて変えなくても……。これまでと同じでいいよ」
この邑における巫は邑長と同等の尊敬を受ける。しかし男衆とは一緒に修行もしてきた気の置けない関係だ。年上の男たちにいきなり敬称をつけて呼ばれるのはむず痒かった。それは男たちも同じだったようで、厳しい修行のあとに互いを労うときのように木蓮の肩を抱く。
「宿堤様はこれまでで一番力が強いかもしれないって言ってたけど本当だな! これなら本当に全部の鬼を倒せるかもしれない!」
「そのつもりだよ。私は必ず全ての鬼を倒してこの邑を守る」
無謀な目標だと木蓮を笑う者はいなかった。数百年もの間、鬼の根絶には至っていない。けれどこれまで鬼と戦ってきた巫の中でも特に木蓮は力が強いのだ。
「頼もしい巫様だな! さて、じゃあ邑に戻って体を清めないとな」
「そうだね」
鬼と戦った後は必ず体を清めなければならない。そうしなければその者も鬼に堕ちてしまうのだ。男衆には川の水を使った専用の浴場が用意されている。巫の木蓮は禊の儀式として龍神の本殿がある滝まで行かなければならない。
「しかし木蓮だけ龍神のところまで行くっていうのも大変だよな。疲れてるんだからもうちょっと近いところに作って欲しいよな」
「遠いのは確かだけど、あの滝は好きだから」
そこは神聖な場所だが、木蓮は数日に一度はそこに足を伸ばしていた。霊力を高める修行の一環として滝行をしていたのと、そのあたりに漂う澄んだ空気を吸うのが好きだったのだ。
***
「戻ったか、木蓮」
先程まで成人の儀が行われていた拝殿に戻ると、宿堤が木蓮と男衆を出迎えた。心なしか宿堤の表情が柔らかく見え、木蓮は不思議に思った。宿堤は両親を失った木蓮の養父であり、厳しい修行をつける師匠でもあった。優しい言葉をかけられたことはあまりない。宿堤は鬼に強い恨みを抱いている。だからこそ木蓮の目的も理解して厳格に接し続けてきたのだ。
「木蓮、その血は――」
「全て鬼の血です。避けられれば良かったんですが。私に負傷はありません」
木蓮の後ろに控えていた男衆たちが口々に宿堤に木蓮の戦いぶりを報告する。宿堤はそれを宥めるようにしながら、木蓮に奥の部屋へ行くように促した。邑の中央にある拝殿は邑長の家と繋がっている。そしてその屋敷を抜けると滝までの近道になるのだ。
(何だか体が重いな……)
戦い自体はすぐに終わった。普段の修行の方が余程長時間体を動かしている。この程度で疲れるとは思えない。しかし妙な怠さがある。今日は身を清めたら体を休めようと思いながら、木蓮は邑長の家に続く戸を開けた。
「木蓮ねえちゃん!」
戸が開く音に気がつき木蓮を出迎えたのは、宿堤の息子である泰良だった。泰良の後ろからはその母親である已須見が追いかけてくる。木蓮は二人の姿を見て笑みを浮かべた。木蓮が宿堤に引き取られた一年後に生まれた泰良は、血の繋がらない木蓮のことをとても慕っている。そして木蓮も泰良を本当の弟のように可愛がっていた。
「鬼と戦ってきたんだろ! 勝ったの?」
「当然。一撃だったよ」
「すっげー! さすが木蓮ねえちゃん!」
泰良は木蓮の話を一通り聞き終わると、廊下を歩きながら、今度は自分の話を始めた。泰良は邑長の孫として、この年から既に修行を始めているのだ。
「へえ、泰良もすごいね。もうそんなことができるようになったんだ」
「今度木蓮ねえちゃんにも見せてあげる!」
「ふふ、楽しみにしてる」
木蓮は得意げに話す泰良の頭を撫でようとした。しかしその瞬間に已須見の鋭い声が飛ぶ。
「――触らないで!」
はた、と手を止めた木蓮は、ようやく自分の状況を思い出した。多少は拭き取ってはいるがまだ鬼の血に塗れている状態で人に触れるわけにはいかない。単純に汚れるというのもそうだが、鬼の血はそれ自体が強い瘴気を含んでおり、鬼以外には毒だ。
「……すみません。体を清めてきます」
泰良に微笑みかけ、已須見を安心させるために言う。しかし已須見は怯えたような表情を変えなかった。木蓮は軽く視線を落としてから、本来の目的地を目指した。
龍神がいるという滝は邑から出て山を少し登ったところにある。それほど遠くはないが、少し重い身体には堪える道のりだ。けれど清流に沿って歩いていると、少しずつではあるが体の中にわだかまる霧が晴れていくように感じる。浄化の力を持つ龍神の加護が及んでいるのだろう。木蓮は黙々と滝を目指して坂道を登っていった。
岩場から滝壺に向かって落ちる滝は白く繊細な布のようにも見える。滝に辿り着いた木蓮は暫くその荘厳な姿に見惚れていた。しかしすぐに気を取り直して滝の横にある祠に足を向けた。拝殿に比べると驚くほどこぢんまりとした祠だ。木蓮は祠の前に立ち、深く礼をしてから手を合わせた。
水が落ちる音だけが響き、他の音は聞こえない。澄んだ空気が木蓮の心を鎮めていく。木蓮は再び礼をすると、鬼の血で汚れた服を着たままで滝の下へと向かった。
ここでの滝行は何度もしている。水が体を打つ瞬間は痛みを感じることもあるが、それにはもう慣れていた。水の冷たさも平気になっていた。修行を始めたばかりの頃は、滝行のあまりのつらさに音を上げそうになり、その度に宿堤に叱責されていた。
――お前が鬼を討ち果たさなければ、誰がやるのか。
邑を護るため。そして幼い木蓮から大切な家族を奪った鬼に復讐するため。これまで厳しい修行に耐えてきたが、本番はここからだ。全ての鬼を滅ぼすまで止まることは出来ない。
(全部が終わったら、邑のみんなで祭りをしたりして、幸せに暮らすんだ――)
滝に打たれながら遠い未来に思いを馳せていた木蓮は、不意に体に触れる何か柔らかいものに気が付いた。優しく包み込むような感触がある。体を打つ滝の水とは明らかに異なっていた。しかしそのあたりを見ようとしても、滝の勢いが強いためにしっかり目を開けることは出来ない。悪いものでないことは感覚でわかる。悪いものでなければ別にいいか――と、木蓮はその柔らかな何かを受け入れた。
それは水に紛れて体の表面や布をなぞり、鬼の血を洗い流していく。冷たい水の中にいるはずなのに、何かに包まれているような温かさもあった。龍神のいる場所なのだから不思議なことの一つや二つは起こるだろう。木蓮がそう自分を納得させると同時に、その柔らかな感触は消えていった。
「何だったんだろう、今の」
滝の下から出た木蓮は、白く煙るような瀑布を眺めながら呟く。正体はわからないが、それに触れられているのは心地よかった。鬼と戦った直後にはあった体の重さもない。木蓮はひとまず気にしないことにして、濡れた体のまま滝壺を離れていった。
***
「成人の儀くらい、最後までやればいいものを」
今日の鬼はさほど強くはなかった。ささやかな霊力しか持たない男衆でも、時間をかければ確実に倒せる相手だった。実際木蓮は一撃で鬼を滅したのだ。龍神は水鏡に映った新たな巫の姿を見ながら呟く。
「其方は、全ての鬼を討つことを望むか」
これまでの巫にも同じ願いを持つ者はいた。けれど木蓮のそれは誰よりも強い。木蓮が修行のために龍神が棲まう滝に通ううちに、龍神はその理由を自ずと悟っていた。鬼と化した父と、その父に殺された母。その光景を目の前で見てしまったがために、少女だった木蓮は己の力を解放してしまったのだ。
「其方の力であれば無謀な願いではない。だが、一度外れた箍は元には戻らぬ」
木蓮の力がこれまでの巫よりも突出して強いのは、霊力の制限が一度外れてしまったからだ。それ以降、木蓮は強大な力を垂れ流している。巫として力の使い方を学んだ為、問題なく生活できる上に、これまでの巫よりも強くなってはいるが、その強さは諸刃の剣でもある。
「其方の戦いは厳しいものになるだろう」
霊力を浄化の力に変えれば鬼にとって毒になるが、霊力そのものは鬼にとっては格別の馳走だ。あれだけ力を持っている木蓮を狙う鬼も現れるだろう。
「吾が気にかけることではないかもしれぬが」
神は人の生活には干渉しない。恵みを与えているように思われるが、ただ自分の陣地を守り、それを人に貸し与えているだけだ。これまで人に関わろうとした神は多くいたが、どれも良い結果とはならなかった。神の力は人間には大きすぎる。大きすぎる力は不幸を招くものだ。ましてや一人の人間に入れ込むなど愚の骨頂である。龍神はそう思いながらも、滝に打たれる木蓮に自分の力を込めた水の筋を伸ばした。少しでもその体を蝕む鬼の呪いが軽くなるように。瘴気を多く含む血に触れることはもとより、鬼と対峙するだけでその体は徐々に蝕まれていくのだ。
「……馬鹿馬鹿しいな」
これまでの巫にここまでのことをすることはなかった。ただ滝に打たれるだけでも十分呪いは浄化できる。今日のように一切傷を負わずに倒すことができたのなら尚更だ。それなのにどうして木蓮には特別に目をかけてしまうのだろうか。
七年前のあの日、深い眠りを打ち破ったあの強い力をいまだに覚えている。深い悲しみに満ちていたけれど、その場にいた鬼が霧散するほどに清らかなものであった。神の中でもあれほどの力を持つものは少ない。だからこそ気になってしまう。だがそれは他の存在にとっても同じことだ。
「吾には関係のないことだ。だが――」
無事でいてほしいと願ってしまうことは止められなかった。龍神は木蓮に気付かれないように水の筋を消す。
水鏡越しに去っていく木蓮を見送りながら、龍神は細く長く息を吐いた。
半鐘の音と櫓から叫ぶ男の声に、木蓮は反射的に立ち上がった。巫がいない七年間、男衆たちはわずかな霊力を頼りに鬼を退けていた。しかし今この瞬間からは違う。
「お前の使命を果たすのだ、木蓮」
「わかっています」
木蓮はその場で一礼すると、成人の儀の衣装を着たままで拝殿を飛び出した。鬼はいつも龍神の社とは反対側の山からやってくる。数は一体のときもあれば複数のときもある。鬼は人の霊力が蓄えられている心の臓を好む。心の臓を食われれば人は死ぬしかない。だから鬼は倒さなければならない。はるか昔から続く鬼との攻防は、その理由だけは単純であった。
(今日は一体――人型の鬼)
半鐘の音で鬼の種類は大体わかるようになっている。五年前に定められた音の違いを木蓮は正確に把握していた。風のように駆け抜けて邑外れの荒れ野に辿り着くと、既に男衆たちと鬼との戦いが繰り広げられていた。
男衆は刀や弓を手に鬼に攻撃を浴びせている。今日の鬼はそれほど動きは速くない。けれど鬼の瘴気を浄化するまで鬼は動きを止めないのだ。男衆に選ばれるのは霊力を持っている者だけだが、それでも鬼を瞬時に倒すには足りない。
「木蓮殿!」
男衆を率いている武羅瀬という青年が木蓮に気付き声を上げる。今日が木蓮の成人の儀であることは邑中の人間が知っていることだった。木蓮は武羅瀬に向かって軽く頷き、状況を把握する。
一体の鬼につき男衆は七人。数の上では有利だが、決定打を浴びせられないために負傷している者もいた。致命傷を負っているものはいない。木蓮は静かに息を吐き出してから刀の柄に手をかけた。
「――はぁっ!」
抜刀しながら袈裟懸けに一閃。木蓮自身の霊力と龍神の加護が与えられた刀は鬼に深い傷を与えた。人間のものよりも黒ずんだ血を噴き出しながら鬼が倒れる。
「すごい……」
男衆の一人が思わずそう漏らした。鬼が撒き散らしていた瘴気も跡形もなく消え去る。木蓮は刀の血を軽く払い、鞘に戻した。木蓮が一息吐くと男衆たちが喜色満面で木蓮に近付く。
「すごいじゃないか、木蓮! ……あ、いや木蓮殿」
「巫になったからってわざわざ呼び方なんて変えなくても……。これまでと同じでいいよ」
この邑における巫は邑長と同等の尊敬を受ける。しかし男衆とは一緒に修行もしてきた気の置けない関係だ。年上の男たちにいきなり敬称をつけて呼ばれるのはむず痒かった。それは男たちも同じだったようで、厳しい修行のあとに互いを労うときのように木蓮の肩を抱く。
「宿堤様はこれまでで一番力が強いかもしれないって言ってたけど本当だな! これなら本当に全部の鬼を倒せるかもしれない!」
「そのつもりだよ。私は必ず全ての鬼を倒してこの邑を守る」
無謀な目標だと木蓮を笑う者はいなかった。数百年もの間、鬼の根絶には至っていない。けれどこれまで鬼と戦ってきた巫の中でも特に木蓮は力が強いのだ。
「頼もしい巫様だな! さて、じゃあ邑に戻って体を清めないとな」
「そうだね」
鬼と戦った後は必ず体を清めなければならない。そうしなければその者も鬼に堕ちてしまうのだ。男衆には川の水を使った専用の浴場が用意されている。巫の木蓮は禊の儀式として龍神の本殿がある滝まで行かなければならない。
「しかし木蓮だけ龍神のところまで行くっていうのも大変だよな。疲れてるんだからもうちょっと近いところに作って欲しいよな」
「遠いのは確かだけど、あの滝は好きだから」
そこは神聖な場所だが、木蓮は数日に一度はそこに足を伸ばしていた。霊力を高める修行の一環として滝行をしていたのと、そのあたりに漂う澄んだ空気を吸うのが好きだったのだ。
***
「戻ったか、木蓮」
先程まで成人の儀が行われていた拝殿に戻ると、宿堤が木蓮と男衆を出迎えた。心なしか宿堤の表情が柔らかく見え、木蓮は不思議に思った。宿堤は両親を失った木蓮の養父であり、厳しい修行をつける師匠でもあった。優しい言葉をかけられたことはあまりない。宿堤は鬼に強い恨みを抱いている。だからこそ木蓮の目的も理解して厳格に接し続けてきたのだ。
「木蓮、その血は――」
「全て鬼の血です。避けられれば良かったんですが。私に負傷はありません」
木蓮の後ろに控えていた男衆たちが口々に宿堤に木蓮の戦いぶりを報告する。宿堤はそれを宥めるようにしながら、木蓮に奥の部屋へ行くように促した。邑の中央にある拝殿は邑長の家と繋がっている。そしてその屋敷を抜けると滝までの近道になるのだ。
(何だか体が重いな……)
戦い自体はすぐに終わった。普段の修行の方が余程長時間体を動かしている。この程度で疲れるとは思えない。しかし妙な怠さがある。今日は身を清めたら体を休めようと思いながら、木蓮は邑長の家に続く戸を開けた。
「木蓮ねえちゃん!」
戸が開く音に気がつき木蓮を出迎えたのは、宿堤の息子である泰良だった。泰良の後ろからはその母親である已須見が追いかけてくる。木蓮は二人の姿を見て笑みを浮かべた。木蓮が宿堤に引き取られた一年後に生まれた泰良は、血の繋がらない木蓮のことをとても慕っている。そして木蓮も泰良を本当の弟のように可愛がっていた。
「鬼と戦ってきたんだろ! 勝ったの?」
「当然。一撃だったよ」
「すっげー! さすが木蓮ねえちゃん!」
泰良は木蓮の話を一通り聞き終わると、廊下を歩きながら、今度は自分の話を始めた。泰良は邑長の孫として、この年から既に修行を始めているのだ。
「へえ、泰良もすごいね。もうそんなことができるようになったんだ」
「今度木蓮ねえちゃんにも見せてあげる!」
「ふふ、楽しみにしてる」
木蓮は得意げに話す泰良の頭を撫でようとした。しかしその瞬間に已須見の鋭い声が飛ぶ。
「――触らないで!」
はた、と手を止めた木蓮は、ようやく自分の状況を思い出した。多少は拭き取ってはいるがまだ鬼の血に塗れている状態で人に触れるわけにはいかない。単純に汚れるというのもそうだが、鬼の血はそれ自体が強い瘴気を含んでおり、鬼以外には毒だ。
「……すみません。体を清めてきます」
泰良に微笑みかけ、已須見を安心させるために言う。しかし已須見は怯えたような表情を変えなかった。木蓮は軽く視線を落としてから、本来の目的地を目指した。
龍神がいるという滝は邑から出て山を少し登ったところにある。それほど遠くはないが、少し重い身体には堪える道のりだ。けれど清流に沿って歩いていると、少しずつではあるが体の中にわだかまる霧が晴れていくように感じる。浄化の力を持つ龍神の加護が及んでいるのだろう。木蓮は黙々と滝を目指して坂道を登っていった。
岩場から滝壺に向かって落ちる滝は白く繊細な布のようにも見える。滝に辿り着いた木蓮は暫くその荘厳な姿に見惚れていた。しかしすぐに気を取り直して滝の横にある祠に足を向けた。拝殿に比べると驚くほどこぢんまりとした祠だ。木蓮は祠の前に立ち、深く礼をしてから手を合わせた。
水が落ちる音だけが響き、他の音は聞こえない。澄んだ空気が木蓮の心を鎮めていく。木蓮は再び礼をすると、鬼の血で汚れた服を着たままで滝の下へと向かった。
ここでの滝行は何度もしている。水が体を打つ瞬間は痛みを感じることもあるが、それにはもう慣れていた。水の冷たさも平気になっていた。修行を始めたばかりの頃は、滝行のあまりのつらさに音を上げそうになり、その度に宿堤に叱責されていた。
――お前が鬼を討ち果たさなければ、誰がやるのか。
邑を護るため。そして幼い木蓮から大切な家族を奪った鬼に復讐するため。これまで厳しい修行に耐えてきたが、本番はここからだ。全ての鬼を滅ぼすまで止まることは出来ない。
(全部が終わったら、邑のみんなで祭りをしたりして、幸せに暮らすんだ――)
滝に打たれながら遠い未来に思いを馳せていた木蓮は、不意に体に触れる何か柔らかいものに気が付いた。優しく包み込むような感触がある。体を打つ滝の水とは明らかに異なっていた。しかしそのあたりを見ようとしても、滝の勢いが強いためにしっかり目を開けることは出来ない。悪いものでないことは感覚でわかる。悪いものでなければ別にいいか――と、木蓮はその柔らかな何かを受け入れた。
それは水に紛れて体の表面や布をなぞり、鬼の血を洗い流していく。冷たい水の中にいるはずなのに、何かに包まれているような温かさもあった。龍神のいる場所なのだから不思議なことの一つや二つは起こるだろう。木蓮がそう自分を納得させると同時に、その柔らかな感触は消えていった。
「何だったんだろう、今の」
滝の下から出た木蓮は、白く煙るような瀑布を眺めながら呟く。正体はわからないが、それに触れられているのは心地よかった。鬼と戦った直後にはあった体の重さもない。木蓮はひとまず気にしないことにして、濡れた体のまま滝壺を離れていった。
***
「成人の儀くらい、最後までやればいいものを」
今日の鬼はさほど強くはなかった。ささやかな霊力しか持たない男衆でも、時間をかければ確実に倒せる相手だった。実際木蓮は一撃で鬼を滅したのだ。龍神は水鏡に映った新たな巫の姿を見ながら呟く。
「其方は、全ての鬼を討つことを望むか」
これまでの巫にも同じ願いを持つ者はいた。けれど木蓮のそれは誰よりも強い。木蓮が修行のために龍神が棲まう滝に通ううちに、龍神はその理由を自ずと悟っていた。鬼と化した父と、その父に殺された母。その光景を目の前で見てしまったがために、少女だった木蓮は己の力を解放してしまったのだ。
「其方の力であれば無謀な願いではない。だが、一度外れた箍は元には戻らぬ」
木蓮の力がこれまでの巫よりも突出して強いのは、霊力の制限が一度外れてしまったからだ。それ以降、木蓮は強大な力を垂れ流している。巫として力の使い方を学んだ為、問題なく生活できる上に、これまでの巫よりも強くなってはいるが、その強さは諸刃の剣でもある。
「其方の戦いは厳しいものになるだろう」
霊力を浄化の力に変えれば鬼にとって毒になるが、霊力そのものは鬼にとっては格別の馳走だ。あれだけ力を持っている木蓮を狙う鬼も現れるだろう。
「吾が気にかけることではないかもしれぬが」
神は人の生活には干渉しない。恵みを与えているように思われるが、ただ自分の陣地を守り、それを人に貸し与えているだけだ。これまで人に関わろうとした神は多くいたが、どれも良い結果とはならなかった。神の力は人間には大きすぎる。大きすぎる力は不幸を招くものだ。ましてや一人の人間に入れ込むなど愚の骨頂である。龍神はそう思いながらも、滝に打たれる木蓮に自分の力を込めた水の筋を伸ばした。少しでもその体を蝕む鬼の呪いが軽くなるように。瘴気を多く含む血に触れることはもとより、鬼と対峙するだけでその体は徐々に蝕まれていくのだ。
「……馬鹿馬鹿しいな」
これまでの巫にここまでのことをすることはなかった。ただ滝に打たれるだけでも十分呪いは浄化できる。今日のように一切傷を負わずに倒すことができたのなら尚更だ。それなのにどうして木蓮には特別に目をかけてしまうのだろうか。
七年前のあの日、深い眠りを打ち破ったあの強い力をいまだに覚えている。深い悲しみに満ちていたけれど、その場にいた鬼が霧散するほどに清らかなものであった。神の中でもあれほどの力を持つものは少ない。だからこそ気になってしまう。だがそれは他の存在にとっても同じことだ。
「吾には関係のないことだ。だが――」
無事でいてほしいと願ってしまうことは止められなかった。龍神は木蓮に気付かれないように水の筋を消す。
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