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奪われる
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秋を過ぎ、冬になり。日が落ちるのも随分早くなった。
この辺りはもうじき真っ暗になってしまうというのに、山道へ入ろうとしている人を見かけて、慌てて声をかけた。
「あの、すみません。今から山に入るのは危ないですよ」
彼が着ている服も、履いている靴も、ごく普通の格好で、とてもじゃないけど冬の山を登ろうとする人の服装ではない。
するとその男性はこちらを振り向き、不思議そうな顔をした。
「あれ?」と呟いて、辺りを見回している。
「俺、どうしてこんなところに」
彼はどうやら、自分がここにいる理由が分からないらしかった。
まただ。
私はこんな風に、知らない間にこの山へやって来てしまった人を何度も見ている。
「今からだと帰りのバスもありませんよ。私、この近くで民宿をやっているので、よかったら泊まって行ってください」
「いえ、でも」と男性はためらいを見せる。
「お代はいいですから。この辺りは他に泊まるところなんてないですし、その恰好で一夜を明かすなんて無理ですよ」
私の言葉を肯定するかのように、冷たい風が吹き抜ける。ジャケットでは防ぎきれない寒さに身を竦めて、「じゃあ、」と彼は頷いた。
日中出かけていたから、室内は冷え切っている。囲炉裏に火を起こすと、彼は自然とその傍に腰を下ろした。
民宿なんて言っても、今日は他にお客さんはいない。今日だけでなく、冬の間は人が来ることは稀だった。
「でも、冬だからこそ山に登りたいって人もいるでしょう、そういう客は来ないんですか」
彼はそう尋ねた。
私は彼にお茶を出しながら、話をする。
「実を言うと、この山は、冬の間は登ってはいけない決まりになってるんです」
そうして私は語り始める。ここへやって来たお客さんにはいつも聞かせているお話。
雪女の伝説を。
昔々。若い猟師とその妻が暮らしていました。
冬のある日。獲物を探していつもより深く山へ入った猟師は、この世の者とは思えないほど美しい女に出会います。
毛皮を着込んだ猟師でも凍えてしまいそうな山奥に、薄手の着物だけを纏った女がいたのです。
猟師はすぐに気付きました。その女が人間ではなく、雪山に棲む雪女であるということに。
しかし、雪女だと知りながら、そして妻のある身でありながら、猟師は美しい雪女に心を奪われてしまいます。そして雪女もまた、猟師に恋をしてしまったのです。
猟師はそのまま雪女と共に暮らすことを望みましたが、寒さの厳しい雪山では、人間の命はすぐに絶えてしまいます。
雪女は氷の涙を零しながら、愛する猟師に別れを告げました。
そうして猟師は束の間の恋に幕を引き、妻の待つ家へと帰り付いたということです。
そう、この山には、雪女が棲んでいるのです。
だから冬の間、山に登ってはいけません。雪女に身も心も囚われてしまいますからね。
くだんの猟師は無事に生きて帰ってきましたが。けれど、彼の心は、ついに妻の元へ戻ることはありませんでした。
猟師はわが家へ戻ってからも、いつも雪女の棲む山を見つめていました。今も自分を想っている雪女の元へすぐにでも戻りたいと願っていることは明らかでした。
それは彼の妻にとっては耐えがたいほどの苦痛でした。夫がいつ、自分を捨てて、人間としての命を捨てて、雪女の元へと行ってしまうのかと怯える日々は、きっと他の誰にも想像できないことでしょう。
ある日ついに、耐えかねた妻は、夫が雪女のもとへ行けないようにしました。
彼が山に登るのは屈強な脚があるからです。なのでそれを奪いました。
彼が山を見つめるのは、両の目があるからです。なのでそれを奪いました。
彼が人でないものに心奪われるのは、その心臓が動くからです。なのでそれを奪いました。
彼がどこへも行けないようになったので、妻はようやく心穏やかに過ごせるようになりましたとさ。
昔話はここでおしまい。
ここで終わっていればめでたしめでたしだった。
だけど悲しいことに、雪女は未だ愛した男を想っていて、男もまた、雪女への想いを忘れられないでいる。
だからこうして冬になると、時折この山へ引き寄せられた男がやって来る。昔々の出来事を忘れてしまっていても、魂が愛した人を覚えているのだろう。
だから私はこうやって、彼らの足を止めなければならない。
何度でも。
何度でも。
がちゃんと音がする。
彼の手から落ちた湯呑が割れた音だ。
昔話をどこまで真剣に聞いてくれたかは分からないけど、信じようが信じまいがどちらでも変わりない。充分に飲んでくれたということだけが事実だ。
それだけでいい。
もう座っていることもできない彼は、体を引き攣らせながらごろりと横たわる。
私は彼を止めなければならない。
山には行けないよう。
雪女の元には行けないよう。
何度の冬を迎えても、どれだけ生まれ変わろうと、彼がここへ来る限り、私は彼を止めなければならない。
人間は共に生きては行けないと山から帰してしまった雪女は、きっと知らなかったのだ。
人間は、ともすれば、鬼に変わるということを。
私は鉈を手に取った。
この辺りはもうじき真っ暗になってしまうというのに、山道へ入ろうとしている人を見かけて、慌てて声をかけた。
「あの、すみません。今から山に入るのは危ないですよ」
彼が着ている服も、履いている靴も、ごく普通の格好で、とてもじゃないけど冬の山を登ろうとする人の服装ではない。
するとその男性はこちらを振り向き、不思議そうな顔をした。
「あれ?」と呟いて、辺りを見回している。
「俺、どうしてこんなところに」
彼はどうやら、自分がここにいる理由が分からないらしかった。
まただ。
私はこんな風に、知らない間にこの山へやって来てしまった人を何度も見ている。
「今からだと帰りのバスもありませんよ。私、この近くで民宿をやっているので、よかったら泊まって行ってください」
「いえ、でも」と男性はためらいを見せる。
「お代はいいですから。この辺りは他に泊まるところなんてないですし、その恰好で一夜を明かすなんて無理ですよ」
私の言葉を肯定するかのように、冷たい風が吹き抜ける。ジャケットでは防ぎきれない寒さに身を竦めて、「じゃあ、」と彼は頷いた。
日中出かけていたから、室内は冷え切っている。囲炉裏に火を起こすと、彼は自然とその傍に腰を下ろした。
民宿なんて言っても、今日は他にお客さんはいない。今日だけでなく、冬の間は人が来ることは稀だった。
「でも、冬だからこそ山に登りたいって人もいるでしょう、そういう客は来ないんですか」
彼はそう尋ねた。
私は彼にお茶を出しながら、話をする。
「実を言うと、この山は、冬の間は登ってはいけない決まりになってるんです」
そうして私は語り始める。ここへやって来たお客さんにはいつも聞かせているお話。
雪女の伝説を。
昔々。若い猟師とその妻が暮らしていました。
冬のある日。獲物を探していつもより深く山へ入った猟師は、この世の者とは思えないほど美しい女に出会います。
毛皮を着込んだ猟師でも凍えてしまいそうな山奥に、薄手の着物だけを纏った女がいたのです。
猟師はすぐに気付きました。その女が人間ではなく、雪山に棲む雪女であるということに。
しかし、雪女だと知りながら、そして妻のある身でありながら、猟師は美しい雪女に心を奪われてしまいます。そして雪女もまた、猟師に恋をしてしまったのです。
猟師はそのまま雪女と共に暮らすことを望みましたが、寒さの厳しい雪山では、人間の命はすぐに絶えてしまいます。
雪女は氷の涙を零しながら、愛する猟師に別れを告げました。
そうして猟師は束の間の恋に幕を引き、妻の待つ家へと帰り付いたということです。
そう、この山には、雪女が棲んでいるのです。
だから冬の間、山に登ってはいけません。雪女に身も心も囚われてしまいますからね。
くだんの猟師は無事に生きて帰ってきましたが。けれど、彼の心は、ついに妻の元へ戻ることはありませんでした。
猟師はわが家へ戻ってからも、いつも雪女の棲む山を見つめていました。今も自分を想っている雪女の元へすぐにでも戻りたいと願っていることは明らかでした。
それは彼の妻にとっては耐えがたいほどの苦痛でした。夫がいつ、自分を捨てて、人間としての命を捨てて、雪女の元へと行ってしまうのかと怯える日々は、きっと他の誰にも想像できないことでしょう。
ある日ついに、耐えかねた妻は、夫が雪女のもとへ行けないようにしました。
彼が山に登るのは屈強な脚があるからです。なのでそれを奪いました。
彼が山を見つめるのは、両の目があるからです。なのでそれを奪いました。
彼が人でないものに心奪われるのは、その心臓が動くからです。なのでそれを奪いました。
彼がどこへも行けないようになったので、妻はようやく心穏やかに過ごせるようになりましたとさ。
昔話はここでおしまい。
ここで終わっていればめでたしめでたしだった。
だけど悲しいことに、雪女は未だ愛した男を想っていて、男もまた、雪女への想いを忘れられないでいる。
だからこうして冬になると、時折この山へ引き寄せられた男がやって来る。昔々の出来事を忘れてしまっていても、魂が愛した人を覚えているのだろう。
だから私はこうやって、彼らの足を止めなければならない。
何度でも。
何度でも。
がちゃんと音がする。
彼の手から落ちた湯呑が割れた音だ。
昔話をどこまで真剣に聞いてくれたかは分からないけど、信じようが信じまいがどちらでも変わりない。充分に飲んでくれたということだけが事実だ。
それだけでいい。
もう座っていることもできない彼は、体を引き攣らせながらごろりと横たわる。
私は彼を止めなければならない。
山には行けないよう。
雪女の元には行けないよう。
何度の冬を迎えても、どれだけ生まれ変わろうと、彼がここへ来る限り、私は彼を止めなければならない。
人間は共に生きては行けないと山から帰してしまった雪女は、きっと知らなかったのだ。
人間は、ともすれば、鬼に変わるということを。
私は鉈を手に取った。
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