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初めてのキス
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ゲルデが持ってきた絨毯に座り、二人並んで焼き菓子や軽食を食べることに慣れるまで、一月を要した。慣れる頃にはゲルデが持ってくるジュースは葡萄酒に変わり、焼き菓子や軽食はパイに取って代わられた。パイは挽肉がたっぷり使われているものか、林檎と蜂蜜をたっぷり使ったパイに二分された。どちらにせよ、贅沢なパイであることに変わりはない。
葡萄酒を飲んだザシャは、ほろ酔いでいい気分だった。ゲルデが作った林檎のパイをかじり、未だ慣れない甘味に上機嫌で笑った。
「口の中がこんなに甘いなんて、未だに夢みたいだ。僕ら〈狼〉は、甘い物なんて贅沢の上の贅沢だからね」
「そっか。気に入ってもらえたなら、よかった」
ゲルデの返事は歯切れが悪い。上の空のようにも思える。普段のザシャならば、ゲルデのこんな態度を見ても「自分がつまらないことを言ってしまったんだ」と落ち込むところだ。だが今のザシャは、酒に酔っている。
ついこの前も同じようにゲルデから酒を注がれて飲み過ぎ、ゲルデに心配された。このときザシャは「酒じゃなくてきみに酔ってるんだよ」と気障ったらしいことを宣い、真っ赤になったゲルデを見て顔を真っ青にした。酔いが覚めたザシャは、口が滑ったことを謝りに謝った。ザシャは酒を飲むと、気が大きくなって口が滑るようだ。
今も気が大きくなってるザシャは、ゲルデに「飲まないのかい?」と杯を向けた。「僕と飲むのは美味しくない?」とも尋ねた。ゲルデは「そんなことないよ」と慌てて首を振った。しかし飲もうとはせず、空の杯をもじもじともてあそび、うつむく。肩の上で揃えられた髪が、さらりと揺れた。
ゲルデはザシャをちらちらと見ては口を開き、閉じては手元の杯に視線を落とした。何か言いたげなのに言い切らないゲルデに業を煮やし、ザシャは「言ってごらんよ」と促した。ゲルデはじわじわと顔を赤くし、黙り込む。ザシャは赤くなっていくゲルデをじっと見て、桃色の唇が口を開くのを待った。
うつむいたゲルデは桃色の唇をわずかに開き、ザシャが四つの耳をゲルデに傾けていなければ聞こえないような、小さな声でぽそぽそと呟いた。
「……今キスしたら、蜂蜜の味かな。それとも、林檎の味になるのかなぁ」
耳まで赤くなったゲルデの台詞に、ザシャは杯を落としそうになった。ゲルデはうつむいたままだ。ザシャは自分の四つの耳が熱を持つのを感じた。
ゲルデがちら、と横目でザシャを見上げる。ゲルデの黒曜石のような瞳で見つめられ、ザシャは目を逸らしたくなるのを懸命に堪えた。
杯をそっと絨毯の上へ置き、ザシャはゲルデに向き直った。
「初めてで……上手くできる自信なんか、ないんだ。それでも……きみにキスしたいと言っても、いいかい?」
ゲルデはパッと顔を上げると、「わ、私もっ」とザシャに向き直った。
「わ、私も……初めてなの。だから上手になんて、できないと思う。それでも……それでもザシャ、私の初めて、もらってくれる?」
ザシャが真剣な顔でうなずくと、ゲルデは頬をほころばせた。
ザシャとゲルデは互いに近づき、向かい合った。座ったままでものっぽのザシャと小柄なゲルデの差は大きく、ザシャはゲルデとうまく唇を触れ合わせられるか不安になった。
ゲルデの色づいた頬に、ザシャが無骨な手を伸ばす。柔らかな頬に骨張った指が触れると、ゲルデはぎゅっと目を閉じた。
頬の柔らかさと肌の滑らかさを堪能しながら、ザシャは顎先まで指を滑らせた。ザシャが「少し上を向いて」と言って顎を軽く持ちあげると、ゲルデはピンと背筋を伸ばしてやや上を向いた。あとはザシャが、ゲルデの唇に触れる勇気を出すだけだ。
ゲルデの唇は瑞々しく、触れずともその柔らかさが知れる。蜂蜜と林檎、そして葡萄酒の香りがザシャを誘う。いつかの父の台詞が、ザシャの脳裏に蘇った。それを尻尾で振り払い、ザシャは背を丸めた。
ゆっくり、ゆっくりとザシャは唇を近づけた。互いの鼻先が触れ合うような、互いの吐息がかかるような、そんな近さまで来てザシャはためらった。〈狼〉や〈赤ずきん〉がどうのではなく、ゲルデ自身に自分が触れていいのかと思ってしまったのだ。だが身じろぎもせずザシャを待つゲルデを見て、ザシャは心を固めた。
初めて触れた唇の柔らかさに、ザシャはこの感触を一生忘れないだろうと思った。
唇が触れて、重なって、どちらもそのまま動かなくなった。ザシャはこのまま、唇の柔らかさだけを感じていたかった。
風が吹き花々が揺れ、木々の葉が擦れ合う音で我に返った二人は、自分が息を止めていたことに気づいた。パッと離れた二人は、体ごと顔を背けて大きく息を吸った。酸欠に喘ぐ顔を、相手に見せたくなかったのだ。
新鮮な空気を吸いながら、ザシャは女の子と初めてのキスを反芻した。林檎の味も蜂蜜の味も、葡萄酒の味もしなかった。だが、甘い香りが記憶に焼き付くキスだった。
これは一生忘れない、忘れられないなと、ザシャは甘酸っぱい気持ちでいっぱいになった。
一方ゲルデは、肺へ酸素を取り込みながら、つい先ほどまでザシャと触れ合っていた唇に、そっと指を滑らせていた。耳まで真っ赤になりながら、ゲルデは惚けた声で呟いた。
「唇って……柔らかいんだね……」
ともすれば風に飛ばされ聞こえなくなりそうな声だったが、ザシャには狼の耳も人の耳もある。ゲルデのとろけた声を聞き逃すなんて愚行はしない。ザシャが振り向くと、ゲルデもザシャを見ていた。
ザシャは考えるよりも先にゲルデに手を伸ばし、肩を抱いてもう一度キスをしていた。今度は、少し触れるだけの短いキスだった。突然二度目の唇を奪われ、ゲルデは目を丸くした。だが、嫌がる様子はない。驚いているゲルデから唇を離すと、ザシャはゲルデの手を取った。ゲルデの瞳に、真剣な顔のザシャが映り込んだ。
「好きだ。ずっとずっと、きみが好きなんだ、ゲルデ」
ゲルデは丸く見開いていた目を、嬉しそうに、幸せそうに細めた。
「私も、ザシャが好き」
ザシャに手を握られたまま、ゲルデも「好き」と思いを返す。
「ザシャに助けてもらったとき、私、王子様よりもザシャがかっこよく見えたの。それにね、会うたびエスコートしようと頑張ってくれるところが素敵だなって思った。私が持ってきたお菓子を、美味しそうに食べてくれるところは可愛いなって。いつも、いつでも優しいザシャが、大好き!」
ゲルデがすべて言い切る前に、ザシャはゲルデを抱きしめていた。ゲルデもザシャの背に腕を回し、惜しげもなく体を押しつけ抱き返した。
気の済むまで抱き合った二人は、体を離すと、照れくさそうに笑い合っていた。
葡萄酒を飲んだザシャは、ほろ酔いでいい気分だった。ゲルデが作った林檎のパイをかじり、未だ慣れない甘味に上機嫌で笑った。
「口の中がこんなに甘いなんて、未だに夢みたいだ。僕ら〈狼〉は、甘い物なんて贅沢の上の贅沢だからね」
「そっか。気に入ってもらえたなら、よかった」
ゲルデの返事は歯切れが悪い。上の空のようにも思える。普段のザシャならば、ゲルデのこんな態度を見ても「自分がつまらないことを言ってしまったんだ」と落ち込むところだ。だが今のザシャは、酒に酔っている。
ついこの前も同じようにゲルデから酒を注がれて飲み過ぎ、ゲルデに心配された。このときザシャは「酒じゃなくてきみに酔ってるんだよ」と気障ったらしいことを宣い、真っ赤になったゲルデを見て顔を真っ青にした。酔いが覚めたザシャは、口が滑ったことを謝りに謝った。ザシャは酒を飲むと、気が大きくなって口が滑るようだ。
今も気が大きくなってるザシャは、ゲルデに「飲まないのかい?」と杯を向けた。「僕と飲むのは美味しくない?」とも尋ねた。ゲルデは「そんなことないよ」と慌てて首を振った。しかし飲もうとはせず、空の杯をもじもじともてあそび、うつむく。肩の上で揃えられた髪が、さらりと揺れた。
ゲルデはザシャをちらちらと見ては口を開き、閉じては手元の杯に視線を落とした。何か言いたげなのに言い切らないゲルデに業を煮やし、ザシャは「言ってごらんよ」と促した。ゲルデはじわじわと顔を赤くし、黙り込む。ザシャは赤くなっていくゲルデをじっと見て、桃色の唇が口を開くのを待った。
うつむいたゲルデは桃色の唇をわずかに開き、ザシャが四つの耳をゲルデに傾けていなければ聞こえないような、小さな声でぽそぽそと呟いた。
「……今キスしたら、蜂蜜の味かな。それとも、林檎の味になるのかなぁ」
耳まで赤くなったゲルデの台詞に、ザシャは杯を落としそうになった。ゲルデはうつむいたままだ。ザシャは自分の四つの耳が熱を持つのを感じた。
ゲルデがちら、と横目でザシャを見上げる。ゲルデの黒曜石のような瞳で見つめられ、ザシャは目を逸らしたくなるのを懸命に堪えた。
杯をそっと絨毯の上へ置き、ザシャはゲルデに向き直った。
「初めてで……上手くできる自信なんか、ないんだ。それでも……きみにキスしたいと言っても、いいかい?」
ゲルデはパッと顔を上げると、「わ、私もっ」とザシャに向き直った。
「わ、私も……初めてなの。だから上手になんて、できないと思う。それでも……それでもザシャ、私の初めて、もらってくれる?」
ザシャが真剣な顔でうなずくと、ゲルデは頬をほころばせた。
ザシャとゲルデは互いに近づき、向かい合った。座ったままでものっぽのザシャと小柄なゲルデの差は大きく、ザシャはゲルデとうまく唇を触れ合わせられるか不安になった。
ゲルデの色づいた頬に、ザシャが無骨な手を伸ばす。柔らかな頬に骨張った指が触れると、ゲルデはぎゅっと目を閉じた。
頬の柔らかさと肌の滑らかさを堪能しながら、ザシャは顎先まで指を滑らせた。ザシャが「少し上を向いて」と言って顎を軽く持ちあげると、ゲルデはピンと背筋を伸ばしてやや上を向いた。あとはザシャが、ゲルデの唇に触れる勇気を出すだけだ。
ゲルデの唇は瑞々しく、触れずともその柔らかさが知れる。蜂蜜と林檎、そして葡萄酒の香りがザシャを誘う。いつかの父の台詞が、ザシャの脳裏に蘇った。それを尻尾で振り払い、ザシャは背を丸めた。
ゆっくり、ゆっくりとザシャは唇を近づけた。互いの鼻先が触れ合うような、互いの吐息がかかるような、そんな近さまで来てザシャはためらった。〈狼〉や〈赤ずきん〉がどうのではなく、ゲルデ自身に自分が触れていいのかと思ってしまったのだ。だが身じろぎもせずザシャを待つゲルデを見て、ザシャは心を固めた。
初めて触れた唇の柔らかさに、ザシャはこの感触を一生忘れないだろうと思った。
唇が触れて、重なって、どちらもそのまま動かなくなった。ザシャはこのまま、唇の柔らかさだけを感じていたかった。
風が吹き花々が揺れ、木々の葉が擦れ合う音で我に返った二人は、自分が息を止めていたことに気づいた。パッと離れた二人は、体ごと顔を背けて大きく息を吸った。酸欠に喘ぐ顔を、相手に見せたくなかったのだ。
新鮮な空気を吸いながら、ザシャは女の子と初めてのキスを反芻した。林檎の味も蜂蜜の味も、葡萄酒の味もしなかった。だが、甘い香りが記憶に焼き付くキスだった。
これは一生忘れない、忘れられないなと、ザシャは甘酸っぱい気持ちでいっぱいになった。
一方ゲルデは、肺へ酸素を取り込みながら、つい先ほどまでザシャと触れ合っていた唇に、そっと指を滑らせていた。耳まで真っ赤になりながら、ゲルデは惚けた声で呟いた。
「唇って……柔らかいんだね……」
ともすれば風に飛ばされ聞こえなくなりそうな声だったが、ザシャには狼の耳も人の耳もある。ゲルデのとろけた声を聞き逃すなんて愚行はしない。ザシャが振り向くと、ゲルデもザシャを見ていた。
ザシャは考えるよりも先にゲルデに手を伸ばし、肩を抱いてもう一度キスをしていた。今度は、少し触れるだけの短いキスだった。突然二度目の唇を奪われ、ゲルデは目を丸くした。だが、嫌がる様子はない。驚いているゲルデから唇を離すと、ザシャはゲルデの手を取った。ゲルデの瞳に、真剣な顔のザシャが映り込んだ。
「好きだ。ずっとずっと、きみが好きなんだ、ゲルデ」
ゲルデは丸く見開いていた目を、嬉しそうに、幸せそうに細めた。
「私も、ザシャが好き」
ザシャに手を握られたまま、ゲルデも「好き」と思いを返す。
「ザシャに助けてもらったとき、私、王子様よりもザシャがかっこよく見えたの。それにね、会うたびエスコートしようと頑張ってくれるところが素敵だなって思った。私が持ってきたお菓子を、美味しそうに食べてくれるところは可愛いなって。いつも、いつでも優しいザシャが、大好き!」
ゲルデがすべて言い切る前に、ザシャはゲルデを抱きしめていた。ゲルデもザシャの背に腕を回し、惜しげもなく体を押しつけ抱き返した。
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