上 下
10 / 24

初めてのキス

しおりを挟む
 ゲルデが持ってきた絨毯に座り、二人並んで焼き菓子や軽食を食べることに慣れるまで、ひと月を要した。慣れる頃にはゲルデが持ってくるジュースは葡萄酒に変わり、焼き菓子や軽食はパイに取って代わられた。パイは挽肉がたっぷり使われているものか、林檎と蜂蜜をたっぷり使ったパイにぶんされた。どちらにせよ、贅沢なパイであることに変わりはない。
 葡萄酒を飲んだザシャは、ほろ酔いでいい気分だった。ゲルデが作った林檎のパイをかじり、未だ慣れない甘味に上機嫌で笑った。

「口の中がこんなに甘いなんて、未だに夢みたいだ。僕ら〈狼〉は、甘い物なんて贅沢の上の贅沢だからね」
「そっか。気に入ってもらえたなら、よかった」

 ゲルデの返事は歯切れが悪い。上の空のようにも思える。普段のザシャならば、ゲルデのこんな態度を見ても「自分がつまらないことを言ってしまったんだ」と落ち込むところだ。だが今のザシャは、酒に酔っている。
 ついこの前も同じようにゲルデから酒をがれて飲み過ぎ、ゲルデに心配された。このときザシャは「酒じゃなくてきみに酔ってるんだよ」と気障ったらしいことを宣い、真っ赤になったゲルデを見て顔を真っ青にした。酔いが覚めたザシャは、口が滑ったことを謝りに謝った。ザシャは酒を飲むと、気が大きくなって口が滑るようだ。
 今も気が大きくなってるザシャは、ゲルデに「飲まないのかい?」と杯を向けた。「僕と飲むのは美味しくない?」とも尋ねた。ゲルデは「そんなことないよ」と慌てて首を振った。しかし飲もうとはせず、空の杯をもじもじともてあそび、うつむく。肩の上で揃えられた髪が、さらりと揺れた。
 ゲルデはザシャをちらちらと見ては口を開き、閉じては手元の杯に視線を落とした。何か言いたげなのに言い切らないゲルデに業を煮やし、ザシャは「言ってごらんよ」と促した。ゲルデはじわじわと顔を赤くし、黙り込む。ザシャは赤くなっていくゲルデをじっと見て、桃色の唇が口を開くのを待った。
 うつむいたゲルデは桃色の唇をわずかに開き、ザシャが四つの耳をゲルデに傾けていなければ聞こえないような、小さな声でぽそぽそと呟いた。

「……今キスしたら、蜂蜜の味かな。それとも、林檎の味になるのかなぁ」

 耳まで赤くなったゲルデの台詞に、ザシャは杯を落としそうになった。ゲルデはうつむいたままだ。ザシャは自分の四つの耳が熱を持つのを感じた。
 ゲルデがちら、と横目でザシャを見上げる。ゲルデの黒曜石のような瞳で見つめられ、ザシャは目を逸らしたくなるのを懸命にこらえた。
 杯をそっと絨毯の上へ置き、ザシャはゲルデに向き直った。

「初めてで……上手くできる自信なんか、ないんだ。それでも……きみにキスしたいと言っても、いいかい?」

 ゲルデはパッと顔を上げると、「わ、私もっ」とザシャに向き直った。

「わ、私も……初めてなの。だから上手になんて、できないと思う。それでも……それでもザシャ、私の初めて、もらってくれる?」

 ザシャが真剣な顔でうなずくと、ゲルデは頬をほころばせた。
 ザシャとゲルデは互いに近づき、向かい合った。座ったままでものっぽのザシャと小柄なゲルデの差は大きく、ザシャはゲルデとうまく唇を触れ合わせられるか不安になった。
 ゲルデの色づいた頬に、ザシャが無骨な手を伸ばす。柔らかな頬に骨張った指が触れると、ゲルデはぎゅっと目を閉じた。
 頬の柔らかさと肌の滑らかさを堪能しながら、ザシャは顎先まで指を滑らせた。ザシャが「少し上を向いて」と言って顎を軽く持ちあげると、ゲルデはピンと背筋を伸ばしてやや上を向いた。あとはザシャが、ゲルデの唇に触れる勇気を出すだけだ。
 ゲルデの唇は瑞々しく、触れずともその柔らかさが知れる。蜂蜜と林檎、そして葡萄酒の香りがザシャを誘う。いつかの父の台詞が、ザシャの脳裏に蘇った。それを尻尾で振り払い、ザシャは背を丸めた。
 ゆっくり、ゆっくりとザシャは唇を近づけた。互いの鼻先が触れ合うような、互いの吐息がかかるような、そんな近さまで来てザシャはためらった。〈狼〉や〈赤ずきん〉がどうのではなく、ゲルデ自身に自分が触れていいのかと思ってしまったのだ。だが身じろぎもせずザシャを待つゲルデを見て、ザシャは心を固めた。
 初めて触れた唇の柔らかさに、ザシャはこの感触を一生忘れないだろうと思った。
 唇が触れて、重なって、どちらもそのまま動かなくなった。ザシャはこのまま、唇の柔らかさだけを感じていたかった。
 風が吹き花々が揺れ、木々の葉が擦れ合う音で我に返った二人は、自分が息を止めていたことに気づいた。パッと離れた二人は、体ごと顔を背けて大きく息を吸った。酸欠に喘ぐ顔を、相手に見せたくなかったのだ。
 新鮮な空気を吸いながら、ザシャは女の子と初めてのキスを反芻した。林檎の味も蜂蜜の味も、葡萄酒の味もしなかった。だが、甘い香りが記憶に焼き付くキスだった。
 これは一生忘れない、忘れられないなと、ザシャは甘酸っぱい気持ちでいっぱいになった。
 一方ゲルデは、肺へ酸素を取り込みながら、つい先ほどまでザシャと触れ合っていた唇に、そっと指を滑らせていた。耳まで真っ赤になりながら、ゲルデは惚けた声で呟いた。

「唇って……柔らかいんだね……」

 ともすれば風に飛ばされ聞こえなくなりそうな声だったが、ザシャには狼の耳も人の耳もある。ゲルデのとろけた声を聞き逃すなんて愚行はしない。ザシャが振り向くと、ゲルデもザシャを見ていた。
 ザシャは考えるよりも先にゲルデに手を伸ばし、肩を抱いてもう一度キスをしていた。今度は、少し触れるだけの短いキスだった。突然二度目の唇を奪われ、ゲルデは目を丸くした。だが、嫌がる様子はない。驚いているゲルデから唇を離すと、ザシャはゲルデの手を取った。ゲルデの瞳に、真剣な顔のザシャが映り込んだ。

「好きだ。ずっとずっと、きみが好きなんだ、ゲルデ」

 ゲルデは丸く見開いていた目を、嬉しそうに、幸せそうに細めた。

「私も、ザシャが好き」

 ザシャに手を握られたまま、ゲルデも「好き」と思いを返す。

「ザシャに助けてもらったとき、私、王子様よりもザシャがかっこよく見えたの。それにね、会うたびエスコートしようと頑張ってくれるところが素敵だなって思った。私が持ってきたお菓子を、美味しそうに食べてくれるところは可愛いなって。いつも、いつでも優しいザシャが、大好き!」

 ゲルデがすべて言い切る前に、ザシャはゲルデを抱きしめていた。ゲルデもザシャの背に腕を回し、惜しげもなく体を押しつけ抱き返した。
 気の済むまで抱き合った二人は、体を離すと、照れくさそうに笑い合っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

13歳女子は男友達のためヌードモデルになる

矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

車の中で会社の後輩を喘がせている

ヘロディア
恋愛
会社の後輩と”そういう”関係にある主人公。 彼らはどこでも交わっていく…

【R18】淫魔の道具〈開発される女子大生〉

ちゅー
ファンタジー
現代の都市部に潜み、淫魔は探していた。 餌食とするヒトを。 まず狙われたのは男性経験が無い清楚な女子大生だった。 淫魔は超常的な力を用い彼女らを堕落させていく…

マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました

東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。 攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる! そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。

処理中です...