60 / 61
最終話 音のないプロポーズ 60
しおりを挟む「おいおい。辞めるからって遊び感覚か」
背後から嫌な声がした。
春直が先に振り返る。斗南は既に割り切っていたが、春直にとっては斗南を苦しめ、退社に追い込んだ張本人だ。扇雅を見る目付きは自然と睨むものになった。
「復帰早々、先輩への態度ってものがなってないなあ。相変わらず」
扇雅は見下すように話し続ける。
「ケガ人の付き人になったんだって? ご苦労様なことで」
それに斗南がカチンと来た。
扇雅もわかっている。春直のことを煽れば、斗南は黙っていられないはずだ。そういうところが気に入らないんだ。だからどれだけでも侮辱してやる、そういうつもりだった。
「扇雅さん」
だが斗南は冷静な声で言った。
「春ちゃんにおかしなことしないでくださいね。私もう部下じゃないんで、次があったら本当に容赦しないですから」
それからフンときびすを返す。もっといろいろ、言い返そうか悩んでいる雰囲気だったので、春直が止めた。扇雅があの時と同じ顔で顎をさすっている。斗南のカウンター効果は、もう充分だろう。
「よく言う。あれのどこが容赦だ。父上にも驚かれたぞ、こんな乱暴な女は見たことがないと」
「お互い様ですよ」
どうやらもう、煽りにも乗ってくれないようだ。扇雅もフンとため息を吐いた。
「…俺は結婚しないからな」
斗南は無視したが、春直が振り返った。
「元々独身主義なんだ。親がうるさいから、手ごろなお前で済まそうと思ったが、結局、面倒事に巻き込まれた。ろくなもんじゃないな」
お手上げのポーズと同時に、結婚なんて男には地獄だぞ、というオーラを春直に送り付けた。無論、春直ももうそんな脅しには怯まない。
「知りませんよ、そんなこと」
斗南は顔も見ないで言うと、さっさと歩きだした。扇雅が舌打ちをする。その目が自分に向くまで待ってから、春直は扇雅に向けて口を開いた。
――じゃあ、遠慮なくいただきます。
何を言ったかは伝わらないだろう。だが別にそれでいい。妙に余裕のある笑みで去る春直に、扇雅が少し動揺していたのは確かだ。
春直と扇雅はまた同じ配属の先輩後輩になる。斗南にから選ばれた優位を、これからじっくり見せつけて行こう。
◇
秋の風も冷たくなり、ぼちぼちコートを着たい季節になった。小料理屋『さすけ』でも熱かんの注文が多い。春直も今シーズン初めての注文をした。
「ハルさあ。少しは遠慮してよ」
氷影が、机に頬杖を突いたままぼやく。斗南が先に反応した。
「影ちゃん、まだお許し出てないんだ?」
春直も頷いて、同じ疑問を示す。氷影は厚みのない財布をポケットから出した。
「許しっていうか、お小遣いがね…」
「子供かいな」
とはいえ見るからにぺらぺらの財布は、確かに中身の心許なさを物語っている。春直が斗南に目配せした。
「しょうがないなあ。今日は奢ってあげるよ。呑みたまえ」
「え、いいの!」
氷影は目を輝かせた。
「だから、子供かっての」
――お酒に喜ぶのは子供じゃないけどね。
二人で茶化しながら、氷影用におちょこを追加しようとする。だが、幾度か唸った末、氷影は「やっぱりいい」と言った。
「やめとく…。ユキ、すぐ気付くからなあ」
「お酒禁止ってわけじゃないんでしょ?」
「うん。でも、なんとなくさ。酔っぱらって帰るのって、反省してる感じしないじゃん?」
――それはあるかも。カゲ、えらい。
氷影は代わりに水を頼むと、一気に飲み込んだ。味がない。周りの客すべてが恨めしくなってきた。
「はあ。でさ、そっちでのユキの様子はどうなの? なんか最近、すっかり別人なんだけど」
「あー…ユキちゃんね。うん。…昔の血が騒ぐ、みたいになってるかな」
斗南の動きが止まった。
氷影と雪は、結局田舎には帰らなかった。というより、帰ろうとしたら、氷影は雪に激怒された。
田舎に移る話は、雪に伝えないまま、雪の両親とで話を進めていた。しかし春直も会社を去ると聞いて、氷影に未練が生まれた。斗南があの状況で気がかりだったというのもあるし、残れる道があるなら、氷影自身もやはりここにいたかった。そこで氷影は春直の見舞いを中止し、雪と特訓を始めた。
簡単に言えば、都会に慣れるための訓練だ。コンビニ程度から始め、一緒に色々なところに行く。雪が慣れられるようであれば、ここに残ることも考えていた。ただし、雪にはそれも言っていない。言えば重責になると思ったからだ。
ところが、雪は氷影の新たな行動にすぐ違和感を覚えた。普段以上に気を遣ったあたりも疑惑を呼んだらしい。そこで田舎に帰る算段をしていると告げるなり、激昂されてしまったというわけだ。
「信じられない。そんな大事なこと、一人で決めちゃうなんて」
雪はそれを何度も口にした。同意したのは晶子だ。
「本当だ、本当だ。夫婦のことは、夫婦で決めなきゃだめ。そんなのは男の身勝手と変わんないよ」
傍で聞く斗南は氷影を少し気の毒に思ったが、二人の気迫はすさまじくて、とても口を挟めなかった。
「でも、お母さんと商店に行けるようになったよ。顔なじみになれば、そこの人とは気さくに話せるみたいで」
斗南は氷影に冷たい水を注いであげた。
「うん、まあ、それはありがたいよ。ホッシーのお母さんには感謝してる」
氷影は水をお酒に見立て、ちびりちびりと呷ってみる。
晶子の家では現在、花嫁修業の会が結成され、斗南と雪はその弟子になっていた。晶子いわく、斗南はとにかく家事を徹底、雪は買い物や野菜の目利きなど、外のことがダメだと言う事で、掃除から買い出しまで三人で特訓するのだ。晶子と打ち解けた後の雪は、途端に人が変わり始めた。
「家でも厳しくてさあ。前から家事はすごいやってくれてたけど、トマトひとつかじっても、こっちのからにしろとか、それはソースにするつもりだから使うなとか、なんていうか…」
――前の方が良かった?
春直が意地悪に訊くと、氷影は耳を垂らした。
「今の方がいいさ。ユキが怯えないで、毎日活き活きしてるんだから。…ただ、うちではね…。僕にだけ甘えてたのユキの方が可愛かったかなあ、なんて…ちょっと、ほんとにちょっとだけ……」
――ご愁傷様。
「何だよ、人のことだと思って!」
氷影は腹いせに、春直の刺身を盗み食いする。
「減給は今年いっぱいなんだから、年明けたらお小遣いだって元に戻るんだからな。そしたらハルより高い酒呑んでやる」
減給は、退職願い取り消しの条件だった。社内を振り回したとして、形式的な罰を下すことで社に残れるよう取り計らってくれたのは、やはり桃ノ木だった。お陰で戻った届を雪に手渡し、ようやく彼女の許しをいただけたというわけだ。
「――じゃあその時は、乾杯しよう」
斗南が嬉しそうに言った。氷影が口をもごもごさせながら首を傾げる。
「乾杯? 何に?」
春直が斗南の言葉を継ぐように文字を打ち出す。それを見て、氷影も頬が緩んだ。そうだね、と同意する。きっと心からの祝杯になるだろう。
「じゃあ、今日は前祝いで! ほら、持って持って」
「え、前祝い? 早くない?」
驚く氷影をよそに、いいから、いいからと斗南はコップを持たせる。三人揃って水だ。顔を見合わせて、それから同時に笑った。
――来年も、三人でお酒を囲めることに。
「乾杯!」
コン!と小気味の良い音が鳴った。
<おわり>
0
お気に入りに追加
35
あなたにおすすめの小説
社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
推活♡指南〜秘密持ちVtuberはスパダリ社長の溺愛にほだされる〜
湊未来
恋愛
「同じファンとして、推し活に協力してくれ!」
「はっ?」
突然呼び出された社長室。総務課の地味メガネこと『清瀬穂花(きよせほのか)』は、困惑していた。今朝落とした自分のマスコットを握りしめ、頭を下げる美丈夫『一色颯真(いっしきそうま)』からの突然の申し出に。
しかも、彼は穂花の分身『Vチューバー花音』のコアなファンだった。
モデル顔負けのイケメン社長がヲタクで、自分のファン!?
素性がバレる訳にはいかない。絶対に……
自分の分身であるVチューバーを推すファンに、推し活指南しなければならなくなった地味メガネOLと、並々ならぬ愛を『推し』に注ぐイケメンヲタク社長とのハートフルラブコメディ。
果たして、イケメンヲタク社長は無事に『推し』を手に入れる事が出来るのか。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
10 sweet wedding
国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。
ワケあり上司とヒミツの共有
咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。
でも、社内で有名な津田部長。
ハンサム&クールな出で立ちが、
女子社員のハートを鷲掴みにしている。
接点なんて、何もない。
社内の廊下で、2、3度すれ違った位。
だから、
私が津田部長のヒミツを知ったのは、
偶然。
社内の誰も気が付いていないヒミツを
私は知ってしまった。
「どどど、どうしよう……!!」
私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?
隠れドS上司の過剰な溺愛には逆らえません
如月 そら
恋愛
旧題:隠れドS上司はTL作家を所望する!
【書籍化】
2023/5/17 『隠れドS上司の過剰な溺愛には逆らえません』としてエタニティブックス様より書籍化❤️
たくさんの応援のお陰です❣️✨感謝です(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)
🍀WEB小説作家の小島陽菜乃はいわゆるTL作家だ。
けれど、最近はある理由から評価が低迷していた。それは未経験ゆえのリアリティのなさ。
さまざまな資料を駆使し執筆してきたものの、評価が辛いのは否定できない。
そんな時、陽菜乃は会社の倉庫で上司が同僚といたしているのを見てしまう。
「隠れて覗き見なんてしてたら、興奮しないか?」
真面目そうな上司だと思っていたのに︎!!
……でもちょっと待って。 こんなに慣れているのなら教えてもらえばいいんじゃないの!?
けれど上司の森野英は慣れているなんてもんじゃなくて……!?
※普段より、ややえちえち多めです。苦手な方は避けてくださいね。(えちえち多めなんですけど、可愛くてきゅんなえちを目指しました✨)
※くれぐれも!くれぐれもフィクションです‼️( •̀ω•́ )✧
※感想欄がネタバレありとなっておりますので注意⚠️です。感想は大歓迎です❣️ありがとうございます(*ᴗˬᴗ)💕
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる