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最終話 音のないプロポーズ 60

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「おいおい。辞めるからって遊び感覚か」
 背後から嫌な声がした。

 春直が先に振り返る。斗南は既に割り切っていたが、春直にとっては斗南を苦しめ、退社に追い込んだ張本人だ。扇雅を見る目付きは自然と睨むものになった。
「復帰早々、先輩への態度ってものがなってないなあ。相変わらず」
 扇雅は見下すように話し続ける。
「ケガ人の付き人になったんだって? ご苦労様なことで」
 それに斗南がカチンと来た。
 扇雅もわかっている。春直のことを煽れば、斗南は黙っていられないはずだ。そういうところが気に入らないんだ。だからどれだけでも侮辱してやる、そういうつもりだった。
「扇雅さん」
 だが斗南は冷静な声で言った。
「春ちゃんにおかしなことしないでくださいね。私もう部下じゃないんで、次があったら本当に容赦しないですから」
 それからフンときびすを返す。もっといろいろ、言い返そうか悩んでいる雰囲気だったので、春直が止めた。扇雅があの時と同じ顔で顎をさすっている。斗南のカウンター効果は、もう充分だろう。
「よく言う。あれのどこが容赦だ。父上にも驚かれたぞ、こんな乱暴な女は見たことがないと」
「お互い様ですよ」
 どうやらもう、煽りにも乗ってくれないようだ。扇雅もフンとため息を吐いた。
「…俺は結婚しないからな」
 斗南は無視したが、春直が振り返った。
「元々独身主義なんだ。親がうるさいから、手ごろなお前で済まそうと思ったが、結局、面倒事に巻き込まれた。ろくなもんじゃないな」
 お手上げのポーズと同時に、結婚なんて男には地獄だぞ、というオーラを春直に送り付けた。無論、春直ももうそんな脅しには怯まない。
「知りませんよ、そんなこと」
 斗南は顔も見ないで言うと、さっさと歩きだした。扇雅が舌打ちをする。その目が自分に向くまで待ってから、春直は扇雅に向けて口を開いた。
――じゃあ、遠慮なくいただきます。
 何を言ったかは伝わらないだろう。だが別にそれでいい。妙に余裕のある笑みで去る春直に、扇雅が少し動揺していたのは確かだ。
 春直と扇雅はまた同じ配属の先輩後輩になる。斗南にから選ばれた優位を、これからじっくり見せつけて行こう。


  ◇

 秋の風も冷たくなり、ぼちぼちコートを着たい季節になった。小料理屋『さすけ』でも熱かんの注文が多い。春直も今シーズン初めての注文をした。
「ハルさあ。少しは遠慮してよ」
 氷影が、机に頬杖を突いたままぼやく。斗南が先に反応した。
「影ちゃん、まだお許し出てないんだ?」
 春直も頷いて、同じ疑問を示す。氷影は厚みのない財布をポケットから出した。
「許しっていうか、お小遣いがね…」
「子供かいな」
 とはいえ見るからにぺらぺらの財布は、確かに中身の心許なさを物語っている。春直が斗南に目配せした。
「しょうがないなあ。今日は奢ってあげるよ。呑みたまえ」
「え、いいの!」
 氷影は目を輝かせた。
「だから、子供かっての」
――お酒に喜ぶのは子供じゃないけどね。
 二人で茶化しながら、氷影用におちょこを追加しようとする。だが、幾度か唸った末、氷影は「やっぱりいい」と言った。
「やめとく…。ユキ、すぐ気付くからなあ」
「お酒禁止ってわけじゃないんでしょ?」
「うん。でも、なんとなくさ。酔っぱらって帰るのって、反省してる感じしないじゃん?」
――それはあるかも。カゲ、えらい。
 氷影は代わりに水を頼むと、一気に飲み込んだ。味がない。周りの客すべてが恨めしくなってきた。
「はあ。でさ、でのユキの様子はどうなの? なんか最近、すっかり別人なんだけど」
「あー…ユキちゃんね。うん。…昔の血が騒ぐ、みたいになってるかな」
 斗南の動きが止まった。


 氷影と雪は、結局田舎には帰らなかった。というより、帰ろうとしたら、氷影は雪に激怒された。
 田舎に移る話は、雪に伝えないまま、雪の両親とで話を進めていた。しかし春直も会社を去ると聞いて、氷影に未練が生まれた。斗南があの状況で気がかりだったというのもあるし、残れる道があるなら、氷影自身もやはりここにいたかった。そこで氷影は春直の見舞いを中止し、雪と特訓を始めた。
 簡単に言えば、都会に慣れるための訓練だ。コンビニ程度から始め、一緒に色々なところに行く。雪が慣れられるようであれば、ここに残ることも考えていた。ただし、雪にはそれも言っていない。言えば重責になると思ったからだ。
 ところが、雪は氷影の新たな行動にすぐ違和感を覚えた。普段以上に気を遣ったあたりも疑惑を呼んだらしい。そこで田舎に帰る算段をしていると告げるなり、激昂されてしまったというわけだ。

「信じられない。そんな大事なこと、一人で決めちゃうなんて」
 雪はそれを何度も口にした。同意したのは晶子だ。
「本当だ、本当だ。夫婦のことは、夫婦で決めなきゃだめ。そんなのは男の身勝手と変わんないよ」
 傍で聞く斗南は氷影を少し気の毒に思ったが、二人の気迫はすさまじくて、とても口を挟めなかった。

「でも、お母さんと商店に行けるようになったよ。顔なじみになれば、そこの人とは気さくに話せるみたいで」
 斗南は氷影に冷たい水を注いであげた。
「うん、まあ、それはありがたいよ。ホッシーのお母さんには感謝してる」
 氷影は水をお酒に見立て、ちびりちびりと呷ってみる。
 晶子の家では現在、花嫁修業の会が結成され、斗南と雪はその弟子になっていた。晶子いわく、斗南はとにかく家事を徹底、雪は買い物や野菜の目利きなど、外のことがダメだと言う事で、掃除から買い出しまで三人で特訓するのだ。晶子と打ち解けた後の雪は、途端に人が変わり始めた。
「家でも厳しくてさあ。前から家事はすごいやってくれてたけど、トマトひとつかじっても、こっちのからにしろとか、それはソースにするつもりだから使うなとか、なんていうか…」
――前の方が良かった?
 春直が意地悪に訊くと、氷影は耳を垂らした。
「今の方がいいさ。ユキが怯えないで、毎日活き活きしてるんだから。…ただ、うちではね…。僕にだけ甘えてたのユキの方が可愛かったかなあ、なんて…ちょっと、ほんとにちょっとだけ……」
――ご愁傷様。
「何だよ、人のことだと思って!」
 氷影は腹いせに、春直の刺身を盗み食いする。
「減給は今年いっぱいなんだから、年明けたらお小遣いだって元に戻るんだからな。そしたらハルより高い酒呑んでやる」
 減給は、退職願い取り消しの条件だった。社内を振り回したとして、形式的な罰を下すことで社に残れるよう取り計らってくれたのは、やはり桃ノ木だった。お陰で戻った届を雪に手渡し、ようやく彼女の許しをいただけたというわけだ。
「――じゃあその時は、乾杯しよう」
 斗南が嬉しそうに言った。氷影が口をもごもごさせながら首を傾げる。
「乾杯? 何に?」
 春直が斗南の言葉を継ぐように文字を打ち出す。それを見て、氷影も頬が緩んだ。そうだね、と同意する。きっと心からの祝杯になるだろう。
「じゃあ、今日は前祝いで! ほら、持って持って」
「え、前祝い? 早くない?」
 驚く氷影をよそに、いいから、いいからと斗南はコップを持たせる。三人揃って水だ。顔を見合わせて、それから同時に笑った。
――来年も、三人でお酒を囲めることに。
「乾杯!」
 コン!と小気味の良い音が鳴った。


 <おわり>
 
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