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音のないプロポーズ 54
しおりを挟む「それが、いい報せなの…? こんなこと言うの冷たいかもしれないけど、春ちゃんを……巻き込んだ人なのに…」
自分の心が汚くみえる。
当人の春直がすべてを受け入れ、相手の回復を喜んでいるのに、斗南はそれを「いい報せ」とは思えなかった。
――うん。でも、その彼の弟さんって子が謝りに来てくれた。両親がいなくて、唯一の肉親だってお兄さんが回復して、本当に嬉しそうだった。退院する日にそれが聞けて、良かったなって思った。
距離。そんな言葉が心を刺す。この数日に何があったのだろう。自分が逃げ道だけを追う間に、春直がここまで遠い人になってしまうなんて。
……いや、そうではないかもしれない。本当の春直は、昔からずっとまっすぐで努力家で、誰より心のキレイな人だった。離れたのは自分だ。化けの皮が剥がれるみたいに、弱くて卑怯な本性が出た。だから彼の眩しさが、今さらこんなに痛いのだ。
今の彼は何を見ているのだろう。こんな苦境の中、眩い光にどんな希望を抱いているのだろう。隣でそれを見ていることすら、もう叶わないのだろうか。一緒にいたい。斗南の唯一の願いは、もう零れ落ちてしまったのかもしれない。
春直がメッセージを続ける。
――母さんは最初、怒ってたんだけど、相手の子に土下座されて参っちゃったみたい。帰るときには、あなたも大変だったねって母さんの方が泣いちゃって、ちょっと大変だったよ。
そうか。佳之も乗り越えたんだ。警官から事情を聴いた日、直永を否定し、相手を拒んでいた佳之を思い出す。みんな、前に進んでいる。どこにも行けない斗南に、どんな返事ができるだろうか。少なくとも汚いことだけは言いたくない。でも何も言えなかった。相手の容態なんて、ろくに気に留めてもいなかった冷酷な自分が吐く「よかったね」なんて、嘘以外の何ものでもないじゃないか。
「何だか春ちゃん、元気になったね。やっぱり病院の外に出たから?」
辛うじて、春直に話題を移した。顔を隠そうとコップを持ち上げた時、小指でリングがキラリと光る。春直は、見ないふりで画面に目を落とした。
――目標ができたからかな。
目標。また前向きな言葉だ。斗南の胸がチクチク痛む。
「どんな目標? 仕事復帰とか?」
――うん。
え、と斗南が制止した。春直は得意げに親指を立てる。
――桃ノ木さんが任せてくれた仕事、受けたんだ。早く歩けるようにして、職場にも戻る。迷惑掛けないように、やれるようにしなきゃいけないこと色々あるんだけどね。
「…そうなんだ」
斗南の声は低い。それでも春直は言葉を重ねた。
――また一緒に頑張ろう。
斗南はドキッとして、とっさに手とリングを机の下へ隠した。
今更そんなことを言われたってもう遅いのだ。もうあの会社に、斗南の居られる席はない。
「…私ね、結婚決まりそうなんだよ」
斗南は左手を春直の前に戻した。小指のリングもしっかり見てもらう。そうだ、元々、そのために外さずに来たのだ。
「相手の人、何がいいんだか、私を気に入ったって言ってくれて。こういう時、親同士が先に知り合ってると楽だよね。挨拶とか、許しとか気にしなくていいもん。あのね、だから……仕事は辞めるの」
それから、斗南は声を落とした。
「ちょっともう、無理なんだ…。ごめんなさい」
それは、赦し欲しさに告げた謝罪だった。逃げることを、弱い自分を、春直にだけはどうしても赦してもらいたかった。でないと、もう会えない。友達であり続けたいために、近くにいてもいいという免罪符を出してもらいたいがために、斗南は頭を下げた。
自分のそんな狡さが、何より醜い。
春直は迷った。斗南の本心がどこにあるのかわからなかった。
恐らく、会社での立場は本当に限界なのだろう。そうでなければ、こんな風に弱音を吐く斗南じゃない。でもだからと言って、このリングが斗南の幸せにも見えなかった。ただの嫉妬なのだろうか? でも、斗南は一度隠した。隠してから、自供するみたいに出したのだ。
斗南の肩をつつく。顔を上げた斗南は、やっぱり全然幸せそうじゃない。どうしてそんな顔をするのだろう。どうすれば笑ってくれるのだろうか。
思えば、事故当初はともかく、ある程度の頃から斗南はずっと笑っていた。春直のためにそうしてくれていたのは間違いないだろうが、それでもこんな辛そうな顔はしていなかった。会社のことがあってから? 辛い目に遭っているのはわかる。それは春直のせいでもある。でも、あの日はまだ笑っていたのに。
何かが違う。今は二人でいても、斗南が全然笑わない。会社に残ると言えば喜んでくれるかもしれないと期待していたが、ちっとも効果はないみたいだ。本当に職場のせいなのだろうか? 春直は考える。でもわからないのだ。どうして斗南がこんなに目を合わせてくれないのか、どうしても解読できない。
――ホッシー。訊いてもいい?
斗南は不安げに小首を傾げた。ほら、まただ。まるで春直が取り調べでもしているみたいな怯え方をする。こんな時に訊いてもいいのか迷ったが、しかし訊かなければ春直としても目的が果たせない。
春直は御守りの指輪に誓ったのた。斗南を絶対に幸せにする。目的はそれしかなかった。
――ホッシーの幸せは何?
だが見た瞬間、斗南は席を立って机から離れた。春直は驚き、その背を見つめる。
(つづく)
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