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音のないプロポーズ 53
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「着いたけど…。ねえ、影ちゃん、中にいるの?」
「ううん? 僕は自分ん家にいる。さ、押して押して」
言われるがまま、インターホンを鳴らした。まあ、中に誰がいるのかは、もう消去法でわかる。返事がある、と同時に、氷影が電話で言った。
「一応、報告。僕、田舎戻れなくなった。じゃね」
「は? え、ちょっと」
電話が切れた。それから、インターホンの返事はノックだった。つまり、中にいるのは春直ということだ。まあ当たり前である。ここは、春直が一人暮らしをしていた部屋なのだから。
「え? あ、えっと…お邪魔します…?」
電話とインターホン、どちらに応えていいのか困惑しつつ、ひとまず扉に手を掛けた。鍵が開けてある。斗南はゆっくり玄関ドアを引いた。
「比野です…。お邪魔します…」
声を掛けながら中に入る。佳之や直永がいるかもしれないと思った。しまった、そういえば、誘導に気を取られて手土産を買っていない。氷影が後から来るなら頼むしかない。何だかしてやられたような思いで室内へ上がる。
――いらっしゃい。
リビングから、春直が顔を出した。笑っている。それから、立っている。もちろん右手には松葉杖があるのだが、左手で小さく手を振っている。斗南は少し驚いた。
「春ちゃん…! 大丈夫なの?」
壁にももたれず、杖だけで立っているのに、春直はしっかり安定して見えた。招かれて室内に入ると、春直は左手にも杖を持ち、ゆっくりだが一人で歩いて台所へ行く。
「歩ける…の?」
少し前まで、こんなことはなかった。リハビリで歩行訓練をしても、進むというほど前進できなかったはずだ。それが今、たった一人で室内を移動できている。
「お茶なんていいよ。私、やるよ」
コップをすすごうとする春直を見て、斗南は慌てて後を追った。それから、二つ並んだコップを見る。同じコップは棚にまだあるが、出されていない。
「春ちゃんひとり…? ご両親や、影ちゃんは?」
春直は、いない、と答えた。そしてまた笑う。まるで、以前の春直に戻ったみたいに、マイペースで屈託のない笑顔だ。
以前、氷影と一緒にここへ来たことがある。
あの時は、お酒とつまみを調達してからということで別ルートを通ったから、途中まで気付かなかった。まだ『さすけ』を見つける前なので、だいぶ懐かしい記憶だ。
不躾と思いながらも、ちらちらと室内をうかがった。ずいぶん掃除されているようだ。今の春直が一人でやったとは考えにくい。斗南は首を捻った。
「ここに住んでるの?」
春直はちがう、と答えた。
――今日と明日だけ、泊まりに来てる。自分の家なんだけどね。
「一人で?」
――カゲも後で来る。ホッシーも泊まってく?
言ってからイタズラな目で笑った。からかわれているのは間違いないが、春直は何だか元気そうだ。斗南は少しほっとした。
――退院する前、母さんにやっぱり一人で暮らしたいって言ったら、とにかくできるのかやってみろって言われて、お泊り体験中。
テーブルを挟んで座り、春直はスマホで色々な話をしてくれた。
「そうなんだね。大丈夫そう?」
――まだあんまりかな。家の外には行けないし、さっきも玄関まで迎えに行けなかった。でも、部屋が一階だったから希望はあると思ってる。
斗南は、なるほどと頷いていた。
希望。そんな言葉をこの一ヶ月、耳にしたことは一度もない。春直が前向きになっているのがわかった。喜ばしいことなのに、比較して今の自分を考えると、後ろめたくも思う。
――そういえば退院の日、いい報せがあったんだよ。
「いい報せ?」
初耳だ。たった数日会っていなかっただけなのに、今の春直について、斗南は知らないことだらけだった。それまでは毎日、あんなに言葉を交わした仲だったのに。
――運転してた大学生の子、意識が戻ったって。まだ動けなくて、この先どこまで回復できるかもわからないけど、もう命の心配はないって。
春直が滑らかにつづっていく。そういえば、入院していた時は、もっと指がぎこちなかった。痛みのせいだと思っていたけど、こういうところにも心境の変化が表れているのかもしれない。だけど……。
「それが、いい報せなの…? こんなこと言うの冷たいかもしれないけど、春ちゃんを……巻き込んだ人なのに…」
(つづく)
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