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音のないプロポーズ 51
しおりを挟むその後春直とどう過ごして別れたのか、斗南は覚えていない。
家に帰った記憶もない。
ただ、翌日には確かに見合いに行ったようだ。
何となく、知らない男性の紳士的な声が耳の片隅に残っている。
斗南さん。言われ慣れないその呼び名が、新しい比野斗南――いや、いつかの「玉井斗南」の第一歩みたいだった。
玉井は、斗南に置き土産を残していた。
小指に光る高価な細いリング。嵌められたことも覚えていないのに、家に帰ってもずっと着けていた。
――深い意味ではなく、プレゼントとして。
確かそう言われたと思うけど、外してはいけない気がした。そのまま会社に行った。誰も、何も言った人はいない。
その日も仕事を終えると春直の見舞いに行った。だが、病院近くまで来てから気付く。春直はもう退院していた。
斗南は実家の場所を知らない。春直には会えない。
……ああ、これが玉井斗南の人生なんだな。そんな感触が唐突にした。
帰るべきところは、あの紳士的な“知らない”男性の元で、かつての親友と呑みに行ったりすることはもうない。家で夕食を作って彼を待ち、朝になったら職場に行き、また夜になって――。これからそんな毎日が、斗南の日常になる。
早く結婚してしまった方がいいのかもしれない。自宅に一人でいると、時の流れに取り残されたようで、息が詰まった。本当に、することが何一つない。よくこれまで生きて来られたものだな…。そんな思いがした。
――応援、できないよ。
春直はあの時、そう書いた。
応援してもらうつもりはなかった。何かを頑張るわけじゃないし、急に方向転換した自分に気付かれたのが恰好悪くて、どうにか正当化しようとしただけだ。それもありかもね、くらいに軽く流してもらえれば、それでよかった。
だが春直は、斗南の心積もりを問うた上で、はっきり応援できないと言った。あの瞬間の衝撃だけは、今もしっかり斗南の心に残っている。あれは、いつでもどんなことでも受け入れてくれた春直にされた、初めての拒絶だった。
自分でもわかっている。この結婚は、意地と逃避だ。そんな形で結婚の道を選ぶ人間を、世間は通常、非難する。安易でいい加減で、中途半端で他人任せ。相手にも失礼でしかない。でも、玉井はそれでもいいと言った。
――春直にも言ってほしかった。逃げることを許してほしかった。
春直と氷影は、斗南の宝だ。
これまで生きてきた中で、二人は何より大切な存在になった。彼らと親友でいられることだけが、考えてみれば斗南のステータスだったのだ。仕事を頑張るのも、同じ会社で隣りに並んでいたかっただけかもしれない。何しろ二人がいなくなると聞いた瞬間に、仕事の価値がまるで消えてしまった。
仕事は辞めるつもりだった。扇雅とのことを無実だと晴らした上で、退職して家庭に入ろうと思っている。玉井が忙しくてあまり帰れないようなら、母の元へ通おうとも考えていた。結婚さえしてしまえば、わだかまりはなくなる。また、仲の良かった母と娘に戻れる。昔の母とは、何でも話せる友達みたいな親子だった。喧嘩もまた、ものすごくたくさんしたけれど。
いつかまた、春直と氷影、二人と並べる自分になれるのだろうか。斗南はまた小指のリングを見つめた。女友達なら、これで勝ち組という人もいるかもしれない。親孝行か、或いは子育てでも務め上げれば、社会的責任は果たしたということになるかもしれない。でもきっと、それだけじゃ二人に並べない。だったら何をすれば…。
天井を見上げた。
そうだ。とにかく今は、引っ越しの準備をすればいいんだ。ここを出ていく支度をすれば、時間は潰せるし、その分だけ早く妻になれる。
……「妻」に、なれる?
妻って何だろう? 結婚とは、ただ受け身で逃げ道を作ってもらうことじゃない。自分も何かをしなくてはいけない。何かって? 自分に何ができる…? 斗南は急に怖くなる。得体の知れない脅威に、安易に足を踏み入れた心地がした。妻としてすべきこと。妻としてしなければならないこと。玉井に気に入られ、母を落胆させず、春直と氷影に認めてもらえるような何かをしなくてはいけない。
使命。そんな言葉が頭をもたげる。
その時、突然の着信音に、驚いて飛び上がった。
(つづく)
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