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音のないプロポーズ 41

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 瞬間、百の紙が宙を舞った。

「ふざけるなっ!!」
 会議室に怒号が響き、課長クラスの十人程度が一気に振り返る。即座に桃ノ木が、斗南の腕を掴んだ。
「やめなさい、比野くん」
「彼は関係ない!!」
「比野くん、社長の前だぞ」
 奥の席に掛けた社長が、眼鏡の底から斗南を見ていた。まるで、獣でも見るような目だ。それが斗南を通して春直にも向けられている気がする。そう思うと、斗南は自分をいさめることがどうしてもできない。
「落ち着きなさい。ちょっとこっちへおいで」
 桃ノ木は部屋の外へ斗南を誘導した。春直をやゆした男が、憎々しげに目を逸らす。斗南の剣幕に驚いたのか、それ以上言葉を続ける気はないようだった。それでやっと、斗南も怒りを制御した。

 隣の控室に入ると、桃ノ木は扉を閉めた。斗南が頭を下げる。
「申し訳ありませんでした…」
「いや。あんな言い方をする方も悪い。ただ、社長の前だったのは、まずかったかもね」
 桃ノ木の口調は冗談めいていて、怒ってはいないようだ。それが、桃ノ木は春直の味方でいてくれるという意味に思えて、斗南は安堵した。
「それより、君の方こそ大丈夫か。妙な噂を耳にしたが」
「あれは…全くのデマです」
「じゃあ、扇雅くんとは何もないのかい」
 斗南がはいと頷くと、桃ノ木も納得した顔をした。身近な部下だけに、奇妙な取り合わせだと思っていたのだろう。
「実崎くんとのことも?」
「…はい。何もありません」
 念のため訊くと、こちらも真実ではないようだ。
「そうか。僕が来た時にはもう騒ぎになっていて、噂の出所がよくわからないのだが、比野くんにとっては災難だったね」
「ご迷惑をおかけして、すみません」
「いや。君が謝ることはない。ただ――」
 桃ノ木は斗南の顔色を窺った。
 見るからにすぐれない。気の毒に、こういった噂が一番トゲになる年頃だろう。
「今日はもう上がりなさい」
「え? …いえ、大丈夫です。私は」
「いや。少し頭を冷やした方がいい。君もだが、社員たちもだ」
 桃ノ木は腕時計を確かめた。そろそろ会議が始まる。
「扇雅くんも明日には来られると言っていたから、そうすればいい加減な噂だとはっきりするだろう。無理して、一人で矢面に立ち続けることはない。それに、君は実崎くんのことになると、歯止めが利かないようだからね」
 斗南の顔が引きつった。昨日、扇雅を鞄で殴ったとはとても言えない。
「悲しいことだが、心無い言葉を口にする人はどうしてもいる。その度に声を荒げるだけでは、大切な人は守れないよ。一度、冷静に考えてみなさい」
 それが目上にたて突いた、斗南への宿題のようだった。
 甘すぎる処分なのはよくわかる。でも、罰を受けるべきは言った側じゃないのか。納得できない思いも同居する。
 きっとさっきの男は、少しだって反省しない。春直への中傷を取り消すことも永遠にないだろう。子供の喧嘩と違って、両成敗にはならない。大人の世界では、立場が上の者がずっと勝者なのだ。
「…わかりました」
 平静を装ったつもりだったのに、斗南の声は憮然としたものになった。諦めきれないのは別として、とても大人の態度とは言えない。冷静になれと言われるのも無理はないのだと実感する。
 部屋を出て頭を下げた時、桃ノ木は励ますような笑みで送り出してくれた。彼が上司でよかったと、改めて身にしみる。
 少なくとも、謝ってこいという命令だったら、斗南は絶対に聞けなかった。


 フロアに戻って片付けをしていると、周囲の声がよく聴こえる。
――やっぱり、帰らされてる。本当みたいだな。大人しい顔して、よくやるよ。こわいこわい。このまま辞めさせられるのかな。扇雅さんとはどうするのだろう。訴えられでもしたら、面白いのに。
 斗南は奥歯を噛んで耐えた。こんな噂ひとつで後ろ指を指される程度の信頼しかなかったと思うと、胸が苦しくなった。
 逃げるように玄関を通ると、受付の二人にも陰口をささやかれているようだった。そのうちの一人はいつも一緒にお昼に行くメンバーだが、今は斗南の方が「裏切り者」らしい。
 真昼間の日差しが眩しかった。七月も半ばに入り、もうすぐ梅雨明けだろうと言われている。こんな平日の昼間に放り出されて、どこへ行けばいいのだろうか。眩しさは休日と同じはずなのに、その光は残酷なほど斗南を焦がしていく。
 春ちゃん――。
 病院に行きたかったが、やめた。こんな時間に顔を出したら、何があったのかと訊かれるだろう。そんなこと知らなくていい。春直まで傷つかなくていいのだ。

 駅から地下鉄に乗った。向かう方角は同じなのに、春直の元へは行けない。


 (つづく)
 
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