上 下
35 / 61

音のないプロポーズ 35

しおりを挟む
 
 氷影にメッセージを入れたが、今夜、春直のところで一緒に話す、という返事しかもらえなかった。
 午後の仕事など手に付くはずもない。
 だが氷影とはフロアも違うし、一言で聞ける話題でもないだろう。待つより他になかった。

 なのに、少しの残業の後、やっと仕事が終わったかと思えば、氷影は外回りが遅くなったから先に行っていてくれと言う。やきもきしながら片付けをする。
 春直はこの事を知っているのだろうか。どうして何も相談してくれなかったのだろう。それほどの何かが氷影に起きたのだろうか。
 悶々としながら書類を束ねていると、桃ノ木から声が掛かった。
「比野くん、少しだけ、いいかな?」
 ドキッとした。氷影のことだろうかと思ったのだ。直属の部下でないとはいえ、届のことを知れば気に掛けて不思議はない。あれほど知りたがったくせに、氷影の口より先に退職の理由などが語られるのかと思うと、少し怖くなった。
「何でしょうか…」
「実崎くんの調子はどうかな。体調や、他にも気分が落ち込んでいたりとか、最近の様子が知りたくて」
 どうやら氷影のことはまだ知らないようだった。斗南はほっとして、春直のことを考える。
「痛みはだいぶ減ったように言っていました。気持ちも安定しているようですが…でも、気を遣ってそう振舞っているだけかもしれません。やっぱり、怪我のことを気に病んでいると思います」
 素直に話すと、相談のようになってしまった。簡単に割り切れるはずもないが、春直の気を少しでも楽にしてあげたい。だが、そのためにどうしたらいいのか、斗南にはわからないでいた。
「そうか。僕の前でも、気さくに笑ったりするんだけどね。やはり、無理しているよね…」
 桃ノ木も時間を見つけては顔を出していることを、斗南は知っている。今時、いい上司だと直永が喜んでいた。
 桃ノ木はカレンダーに目を向けた。
「夏の決算に向けて、人手が欲しくてね。実崎くんに在宅で経理の処理をしてもらえたらと思ったんだが、私から言うと、無理してでも引き受けてしまうと思うんだ。悪いんだが、比野くん。頃合いを見て、やれそうかどうか、一度訊いてみてもらえないかな」
 何しろ、二人きりの経理課だ。桃ノ木が自分の業務の合間に手伝うにも限界があった。と言って、新しい人間を入れても、社風に馴染む時間が掛かる。何より、春直が戻りにくくなることを懸念した。
「もちろん、体調に負担が掛からないよう、出来るだけの配慮はする。しんどいようだったら断ってくれても構わない。ただ、やっていた仕事をすることで、元の生活に少しでも近づくことになれば、多少は気分転換にもなるんじゃないかと思うんだ」
「私も、良いと思います」
 斗南は意気込んで答えた。春直がまた仕事をする。何だか、無性に嬉しくなってくる。
「実崎に話してみます。ちょっとくらい怖気づいていても、やるように追い立てます!」
「ははは。頼もしいな。でも、程々にしてやれよ?」
 桃ノ木は笑った。
 若い人のノリは面白い。新入の頃に面倒を見た時も、三人の会話に何度も笑わされた。
「そういえば、今日、扇雅さんは早いんですね」
 斗南が何気なく春直の席に目をやると、隣席の扇雅は既に帰っているようだった。長く残業する方ではないが、定時上がりも珍しい。すると桃ノ木が、ああ、と言った。
「彼は今日、実崎くんのお見舞いに行くと言って先に帰ったよ」
 瞬間、斗南の顔が凍る。えっ、と漏れた声は音にならなかった。
「比野くんも行くだろ? 向こうで会うかもしれないな」
 もう一度振り返って席を見た。扇雅が春直の所へ向かった? あれだけ馬鹿にしていたのに、何しに――それも、一人で。斗南の脳裏に、嫌な予測が生まれる。
「さっきの話を、扇雅くんに頼もうかなとも思ったんだが、彼だと先輩だろう、やっぱり断りにくい…」
「すみません! 私、すぐに出ますっ」
 驚く桃ノ木に礼をすると、斗南はカバンを引っ掴んだ。小走りに階段を抜け、外に飛び出す。当然、扇雅はいなかった。斗南を待つでもなく、やはり一人で春直のところへ行ったのだろう。
 氷影に居場所を訊くと、まだしばらくは来られないそうだ。続けて春直に連絡する。扇雅が行くかもしれない、と書いたが、「既読」が付かない。斗南は駅まで駆けた。

 扇雅が何をするつもりかはわからない。ふつうに見舞いなのかもしれない。だが、先日の様子を見ると、胸がざわついた。少なくとも春直に良いことをしてくれるわけではない気がする。二人きりにはしたくなかった。

 何度もスマホを見たが、やはり春直はメッセージを読んでいないようだった。午後六時半を回っている。直永たちは帰ってしまっているだろう。
――早く。早く、早く!
 地下鉄の壁を何度も指先で突いた。春直に会いたい――。斗南の焦燥など知るはずもなく、電車はひとつずつ駅で停車していく。



 (つづく)
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

推活♡指南〜秘密持ちVtuberはスパダリ社長の溺愛にほだされる〜

湊未来
恋愛
「同じファンとして、推し活に協力してくれ!」 「はっ?」 突然呼び出された社長室。総務課の地味メガネこと『清瀬穂花(きよせほのか)』は、困惑していた。今朝落とした自分のマスコットを握りしめ、頭を下げる美丈夫『一色颯真(いっしきそうま)』からの突然の申し出に。 しかも、彼は穂花の分身『Vチューバー花音』のコアなファンだった。 モデル顔負けのイケメン社長がヲタクで、自分のファン!? 素性がバレる訳にはいかない。絶対に…… 自分の分身であるVチューバーを推すファンに、推し活指南しなければならなくなった地味メガネOLと、並々ならぬ愛を『推し』に注ぐイケメンヲタク社長とのハートフルラブコメディ。 果たして、イケメンヲタク社長は無事に『推し』を手に入れる事が出来るのか。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

10 sweet wedding

国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。

ハメられ婚〜最低な元彼とでき婚しますか?〜

鳴宮鶉子
恋愛
久しぶりに会った元彼のアイツと一夜の過ちで赤ちゃんができてしまった。どうしよう……。

ワケあり上司とヒミツの共有

咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。 でも、社内で有名な津田部長。 ハンサム&クールな出で立ちが、 女子社員のハートを鷲掴みにしている。 接点なんて、何もない。 社内の廊下で、2、3度すれ違った位。 だから、 私が津田部長のヒミツを知ったのは、 偶然。 社内の誰も気が付いていないヒミツを 私は知ってしまった。 「どどど、どうしよう……!!」 私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?

隠れドS上司の過剰な溺愛には逆らえません

如月 そら
恋愛
旧題:隠れドS上司はTL作家を所望する! 【書籍化】 2023/5/17 『隠れドS上司の過剰な溺愛には逆らえません』としてエタニティブックス様より書籍化❤️ たくさんの応援のお陰です❣️✨感謝です(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎) 🍀WEB小説作家の小島陽菜乃はいわゆるTL作家だ。  けれど、最近はある理由から評価が低迷していた。それは未経験ゆえのリアリティのなさ。  さまざまな資料を駆使し執筆してきたものの、評価が辛いのは否定できない。 そんな時、陽菜乃は会社の倉庫で上司が同僚といたしているのを見てしまう。 「隠れて覗き見なんてしてたら、興奮しないか?」  真面目そうな上司だと思っていたのに︎!! ……でもちょっと待って。 こんなに慣れているのなら教えてもらえばいいんじゃないの!?  けれど上司の森野英は慣れているなんてもんじゃなくて……!? ※普段より、ややえちえち多めです。苦手な方は避けてくださいね。(えちえち多めなんですけど、可愛くてきゅんなえちを目指しました✨) ※くれぐれも!くれぐれもフィクションです‼️( •̀ω•́ )✧ ※感想欄がネタバレありとなっておりますので注意⚠️です。感想は大歓迎です❣️ありがとうございます(*ᴗˬᴗ)💕

処理中です...