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音のないプロポーズ 29

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  ◇

 これから帰る、と連絡したせいか、室内から美味しそうな香りが漂っていた。

 外から「ただいま」と声を掛け、三重に取り付けた鍵をひとつずつ開錠する。ドアを開けると、雪が廊下へ出てきたところだった。
「ただいま」
 氷影がもう一度言うと、エプロン姿の雪が嬉しそうに笑う。
「おかえりなさい。お疲れさま」
「今日は仕事じゃないからね。遊びに行ったようなものだよ」
 鍵を掛ける間に、雪がスリッパを揃えてくれた。カバンを下ろすとそれも甲斐がいしく引き取っていく。
「そうだったね。ハルさん、今日はどうだった?」
 鍋の沸騰する音がして、雪は小走りに台所へ戻った。氷影も後に続いてリビングに入る。部屋は今日もピカピカだ。
「元気だったよ。リハビリも頑張ってたし。今日から歩く練習なんだってさ」
「へえ、ついに。氷影さん、お手伝いしてあげた?」
「ううん、まったく。ホッシーがいるからね。僕は口で応援だけ」
「もう」
 叱るような仕草をみせたが、雪は笑っていた。氷影は、そうだ、と思い出して、雪がソファに置いたカバンを開ける。
「これ、新刊。買って来た」
 紙の包みを差し出すと、雪が嬉しそうに飛び跳ねた。本好きの雪の中でも、特にイチオシ作家の新作小説だ。
「ありがとう! 作者渾身の一冊って聞いて、読みたかったの」
「本当は昨日の発売日に買って来たかったんだけど。ごめんね」
「いいよう。いつもありがとう」
 本を抱きしめる雪の頭を撫でると、ふわりといい香りがした。氷影が最も安心できる甘い香りだ。
「今日のメニューは何?」
「オムライスだよ。それから、コンソメスープと、サラダも」
「楽しみだな。先にシャワーだけ浴びてくるよ」
 うん、と言って雪が調理に戻った。無意識であろう小さなスキップが、氷影の気持ちを幸福で満たしていく。


「あ、そういえば、今日ハルのお母さんに訊かれたんだけど…」
 夕食を終え、洗い物をする雪の隣で食器を拭いていると、カバンの隙間から缶コーヒーが目に入った。佳之にもらった物だ。結局開封しないまま、持ち帰ってしまった。
「――どういう意味だと思う?」
 一通りの会話を伝えると、やはり雪も首を傾げる。
「うーん、それだけじゃ、何とも…。でも、確かにハルさんのお母さん、何か気になることがありそうだね」
 雪は聴く間に食器を洗い終え、食後のコーヒー作りを始めていた。粉を程よく蒸らしてから、やや冷えた熱湯をじっくりと注いでいく。ポットの上で、きめ細かな泡がふわりと盛り上がった。
「でもホッシーのこと、褒めてもいたんだよね。お世辞には見えなかったんだけどなあ」
 部屋に拡がる香りを楽しみながら、氷影はテーブルに戻る。温められたカップがコーヒーで満たされ、カウンターに顔を出した。それを二人分テーブルに並べると、代わりに缶コーヒーをカウンターに乗せる。
「ホッシーさんが親切だから、もったいないって思ったのかな」
 雪は缶を冷蔵庫に入れると、台所を出た。
「そんなこと思う? 息子が嫁にもらうなら、相手の出来は良いに越したことないんじゃないの?」
「そうとは限らないよ。相手のご両親に申し訳ないって思ったりすることもあるんじゃないかな」
「ハルとホッシーならお似合いだと思うんだけどな」
 氷影はミルクを溶くと、コーヒーをすすった。雪はブラック党だが、氷影はミルクで少し甘くしたものが好みだ。猫舌の雪はまだ冷めるのを待っている。
「ねえ、ホッシーから告白するのは、ありだと思う?」
 考えても佳之のことはわからないので、氷影は話を変えた。雪が怪訝な顔をする。
「私はいいと思うけど…、そういうのは、男の人の方が気にするんじゃない?」
「そうなんだよなあ。やっぱり、ダメかなあ」
 軽くエアコンは入れてあるが、体が暑くなってきた。天井を仰ぐと、部屋は天面まで真っ白だ。

「氷影さんはホッシーさんに告白させたいの?」
「うーん。本当はハルに言わせたいんだけど、なかなか言えないみたいだからさ」
「どうしても、二人をくっつけたいんだね」
 くすっと雪は笑った。



 (つづく)
 
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