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音のないプロポーズ 17
しおりを挟む思えば、春直の恋は入社と同時に始まったのだ。
◇
大手というほどではないが、希望の内定をもらえてほっとしたのも束の間、ブラック企業だの社内いじめだのと同級生が不安がるのが伝染して、春直は初日、憂鬱と緊張にさいなまれて出社した。
面接では人が好く見えた先輩たちも、自分を試す悪意の塊に書きかえられていたし、同期は自分より優秀な人間ばかりでついて行けないに違いないと恐れてもいた。でも、とにかく嫌われないようにしなければ。意欲だの目標だのはすっかり心の外へ追い出され、まるで敵地に出向くように自動ドアをくぐったのを覚えている。
まだ社員証はないから、ロビーで待っているように言われて、飾られた木をそわそわと眺めた。葉が生み出しているであろう酸素をがめるように吸い込み、代わりに二酸化炭素を押し付ける。このロビーの酸素は目の前の木がすべて牛耳っている気になり、木に媚びれば社内の地位も守られるのではないかと、わけのわからない思考になっていた。
問題は、それが脳内で済まず、口に出ていたことだ。
くすっ。
笑うような声が聴こえ、我に返って顔をあげる。斗南を見たのはそれが初めてだった。やっぱり体が強張っていて、けれど頬だけ緊張が解けていた。自分の影響だとは気付かないまま、目を白黒させ、それから慌てて背筋を伸ばした。
「実崎で――あ、いや、すみません! おかしなことを…。あの、今日からお世話になります。いや、お手数をおかけしないようさせていただきま……つと、努めます…!」
斗南は呆気にとられたように見ていた。後から思えば、ロビー中に響く声でいきなり宣言していたわけだから当たり前だし、見ていたのも斗南だけではなかったのだろう。だがその時の春直には人間が斗南しかいなく、しかも雰囲気から同期の方だと思っていながら、話し相手としては先輩のつもりで言っていたという混乱ぶりで、とにかく正しく挨拶をすることに必死だった。
斗南はまた笑った。今度は心を許した笑顔だった。
「実崎、なにくん?」
「あ…えっと、春直です――」
「私も今日から。比野斗南です。よろしくね、春直くん」
態度は落ち着いていたのに、差し伸べられた手は震えていた。パニック半ばなのは、自分だけじゃないようだ。そんな仲間意識に春直は救われた。
初めて交わした握手は、結果的に二人を親友にまで導いてくれた。
それからずっと、春直は斗南の笑顔を追っている。
何か不安がある時、斗南はいつも春直の傍で励まし続けてくれた。そして、斗南もまた春直のことを頼りにしてくれていた。ああ、だからだろうか。自分は斗南に頼られる存在だと誤解したのかもしれない。でも、それは違う。斗南は春直に自信を付けさせるため、出来そうな相談を持ちかけてくれていただけだ。同期として分け隔てなく接してくれただけで、春直に能力があったわけではない。
理由の筆頭は氷影だった。彼は優秀で、特に問題解決能力に優れていた。春直たち同期三人の中でも頭ひとつ出ていて、今の営業課も引き抜きで入っている。その期待を裏切らず、着実に成績も上げているようだ。そんな氷影をおいて春直に相談すべきことなど、何があったというのか。
もちろん、斗南が春直を見下していたということとは違う。氷影だって、春直をさげすんだ物言いなどしたことがない。二人は本当に親友になってくれた。でもだからって、それを釣り合っていると受け取るのは甘えすぎというものだろう。
無鉄砲だったな、過去の俺は。
まるで他人事のように思った。でも、その無鉄砲なまま言えていたら、斗南はなんと答えたのだろう。いや、ちがう。期待するのは間違いだ。もしそんなことをしていたら、こんな風に今隣にいてもらうことさえなくなっていたかもしれないのだから。
でも――。
それでも、言ってみたかった。まだ声に出せたあの頃に。ちゃんと、言葉にしてみたかった。
それを思うとどうしようもなく心が痛み、喉を掻きむしりたい衝動に襲われるのだった。
(つづく)
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