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音のないプロポーズ 12
しおりを挟む「…ねえ、ハル」
春直は目を合わせない。顔もあげない。斗南が顔を上げたら、目を逸らした。
おかしい。こんなに嬉しいはずの再会なのに、まだ心がざわめいている。違和感は膨らんでいく。改めて春直を見つめた。まるで、何かを一人で抱え込むかのような、思いつめた顔。違和感が、微かな可能性から確かな不安へと一気に旗色を変える。
「ハル…。何か、言って」
氷影の声が震えていた。いや、声だけではない。足元が覚束なくなるような恐怖が上ってくる。見れば、直永と佳之の顔色も浮かない。やっと春直が目を覚ましたというのに、二人は窓際のパイプ椅子に、昨日までと同じように項垂れている。ふつう、もっとあるだろう。興奮してはしゃいでいるとか、やっと一息ついてコーヒーでも飲んでいるとか、他人に近付かせるのも惜しいほど自分が春直の傍にいたい、とか。
彼らが手放しで喜べない何かは、まだあるということだ。
「春ちゃん…?」
不安が伝染したように、斗南からも笑みが引いた。春直は目を閉じる。手に微かに力がこもったのを斗南は感じた。それから、負けを認めるように、春直は静かに首を横に振った。
「うそ…でしょ」
氷影の乾いた声が、ぽつりと床に落ちる。直永がいっそう項垂れたのが、視界の端でわかった。どういう意味。ちゃんと目が覚めたのに。こうしてまた会えたのに。僕らのこともわかるのに――。
「うそだよね…。ねえ、ハル。うそだって言ってよ」
縋るような声になった。掴み掛かりそうになり、辛うじてベッドを握る。素っ気ない鉄パイプの冷たい感触を潰すように感情を込めた。
春直が申し訳なさそうに眉を下げる。その肯定に斗南がさっと顔を青くした。春直は何も言わない。いや、何も、
言えないのだ――。
「…完全に、ダメというわけではないらしいです」
見兼ねるように直永が口を挟んだ。
「事故のショックによる心因性のものだそうで、回復の見込みもあるとか。…ただ、このままの可能性も…五分五分くらいだ、と」
慰めるような口調だったのに、言葉の最後は消えていった。春直がまた罪悪感をまとった目をして父を見る。
「声が…出ない、の…?」
斗南が囁くように訊いた。
見上げる瞳に悲しみが浮かんでいる。春直は否定してあげられない自分が悔しかった。ごめん、と口だけで伝えると、斗南は俯いた。佳之の時も、同じだった。
病室の空気が一気に暗闇に呑まれる。小降りだった雨足がまた強まって、激しい音に春直は外を見た。今更、今は何時だろうとぼんやり思う。曜日もわからない。三日以上眠っていたのだと直永から聞いたけれど、三日前がいつに当たるのか、思い出せなかった。斗南と氷影がスーツを着てるから、平日なのだろうか。でも、会社帰りにしては外が明るく見える。
一本に繋がらない、生活の単純な前提に惑わされながら、心の奥底は真っ黒だった。不安とか、恐怖とか絶望とか、そういう言葉とはまた違う感覚だ。
ただ何もない。わからないことに何も感じないくらい、真っ黒だ。自分は何なのだっけ。誰なのだっけ。わかっているつもりの問いが、しかし本当にはわかっていないような、不安定な心地を運ぶ。自分は「実崎春直」。でも、実崎春直って、何だろう。
わかっていることはたったひとつだ。自分が今、この場にいる四人を悲しませている張本人であるということ――。
不意に、手が温度を再確認して我に返った。
斗南とは今も右手を繋いだままだったが、何かをしようと体を動かしたらしい。顔を向けると、左手でカバンを探っていた。片手で不自由そうに苦戦するのに、春直と繋いだ手は離そうとしない。虚ろな目で斗南に気付いた氷影が、手を貸してカバンを支えた。
出てきたのは、メモ帳とボールペンだった。斗南は、それを指し出す。
「春ちゃん。何か話そう?」
え、と思った時、斗南とまっすぐ目が合った。声は弱々しく、目元は赤かったが、もう泣いてはいない。しっかり意思を伝えるような瞳で春直を見ている。
「何でもいいよ。春ちゃんが今、一番言いたいこと、聞きたい」
差し出されたメモに手を伸ばした。それがちゃんと渡ったことを確かめると、斗南はずっと繋いでいた手をそっと引いた。
春直の右手には体温が残って、虚無は感じなかった。離れていた心を繋ぎ直したから、もう大丈夫なんだ。斗南は言わなかったが、たぶんそういう想いだったのが春直に伝わった。
春直は少し考えた。今、一番言いたいこと……。
四人が黙って自分を見守っている。声を、聴こうとしてくれている。開かれたページにボールペンを付ける。文字を書く四日ぶりの感覚は、スラスラと滑らかなもので、何だか意外な気持ちがした。
書けた、とメモを見せた。
氷影と、直永と佳之も覗き込んだ。思いの外、短くない一行に、皆が少し驚く。それから書かれた内容の突飛さに、全員が眉を顰めた。
――このボールペン、まだ持ってたんだね。なつかしい。
「ボールペン…?」
直永が棒読みになりながら、春直の手元を見た。和紙が巻かれた、少し変わったペンだ。真っ直ぐでない不均等な膨らみが独特で、色も全体にピンクが基調で可愛らしい。
それは、春直が以前、研修出張のお土産として斗南にあげた物だった。
「いや、持ってるよ…。お気に入りだし、でも、そうじゃなくてっ」
――だって、今一番思ったこと、これだったから。
「今が、今すぎるでしょ! ハル、天然か!」
思わず突っ込みになってしまい、斗南と氷影が苦笑した。
(つづく)
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