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音のないプロポーズ 04
しおりを挟むさっと、血の気が引いた。
「交通事故に遭ったって…。救急車で運ばれて、病院にいるって。影ちゃん、どうしよう、どうしよう…」
斗南は泣いていた。それが真っ白になりそうな氷影の理性を辛うじて繋ぎ止める。とにかく斗南を助けなければ。
「落ち着いて、ホッシー。病院行こう。どこだか、わかる?」
平静を装った自分の声が、想像以上に引き攣った。電話口から、メモを引き寄せたような無機質な紙の音が響く。
「上川総合病院、だって…。影ちゃん、こわいよ、影ちゃん…」
「大丈夫。ハルは大丈夫だよ」
容体もなにもわからないのに言うのは、いささか無責任な気もしたが、言わずにはいられなかった。そう信じていなければ崩れ落ちてしまいそうなのは、氷影とて同じだった。
「病院で会おう。一人で来られる?」
「うん…行く。大丈夫だよね?」
「大丈夫。ハルだよ、不器用だけどさ、打たれ弱いやつじゃないでしょ」
斗南が自分を奮い立たせているのが伝わってきた。
電話を切ると、氷影も立ち上がって私服を棚から引っ張り出す。だが、いざとなると何を持って行くべきか、財布は要るのか、スマホはとにかく持っていなくては、あとは、なんだ、保険証? いや、そんなものは自分はいらないのか、とか、ちっとも思考がまとまらない。
スーツのポケットに突っ込んだままになっていた家の鍵を探すのにも、ずいぶん遠回りをしてしまった。家を出たら、この時間だからタクシーを拾って病院へ向かうことになる。目的地を伝えれば、否応なしに現地へ着くだろう。
こわい、と言った斗南の言葉が蘇った。病院で春直に直面した時、自分はどんな顔ができるだろうか。
春直は今どういう状態なのだろう。交通事故と言っていたが、具体的なことは聞いていない。だが、家に帰ってからではないだろう。ということは、自分と連絡を取っていた直後ということなのだろうか。春直は徒歩だから、加害側とは考えにくい。巻き込まれたということなのか。じゃあ、相手は車?
ぐるぐると止めどない考えが回り始め、不安ばかりが膨れ上がってきた。斗南も連絡を受けて、こんな気持ちで氷影に掛けてきたに違いない。何やってんだよ、春直。心配かけてどうする。そう言いたかった。もう言えなかったらどうしようか。瞬間、自分の思考が怖くなる。また不安が頭をもたげてきた。
「だいじょうぶだよ」
氷影は顔をあげた。自分の言ったその言葉が、無責任でも多少は役に立っていたことを知る。そうだ、言ったじゃないか、大丈夫だ。春直は死んだりしない。だってまだ斗南に想いを告げていない。要領の悪いやつだけど、途中で投げ出すことはしないやつだ。絶対に。
「行ってくる」
玄関扉を開けると、雨音が室内になだれ込んだ。今も激しく降り注ぐ雨に、不意に殺意を抱く。こいつだ、と直感的に思った。この雨が、何かを引き起こして春直を傷つけたんだ。
マンションの廊下にも、屋根を無視して水たまりができていた。いまいましくそれを踏みつけにする。早く行こう。二人が待っている。
氷影は小走りに廊下を抜け、道に出ると一気に加速した。
こんな時間だが、土曜日の早朝ということもあり、住宅街へ着くタクシーは案外あるようだ。少しウロウロしていると、ちょうど酔っ払ったサラリーマンを降ろして空車になったタクシーが見つかり、氷影はそれを拾った。
「上川総合病院に」
間髪入れない乗車に、運転手は少し疲労を滲ませたが、病院の名と氷影の切迫した顔を見ると、気合を入れ直して力強い返事をくれた。傘を下ろし、スマホを確認したが、あれから新たな着信はない。斗南は今どうしているだろうか。すぐに支度したはずなのに、午前五時を過ぎている。先に到着しているかもしれない。
天候のせいもあり、外はまだ真っ暗だった。タクシーとは、乗ってしまえばあとはただ到着を待つのみで、氷影は焦りを持て余して外を見つめる。窓を打ちつける滴と、ノイズのように続く雨音が心を締め付ける。運転手が何か雑談でもしてくれれば気も紛れるのにと思ったが、氷影自身から、とても余計な話を振れない威圧が発されていた。
何度もスマホに目を落とした。一分毎、数字が変わるのを見逃すまいとするかのように、瞬きの度に視界に入れていた。手にしているのだから、着信がないのはわかっている。
それでも、着信がないことを安心材料のように、何度も何度も確認した。
(つづく)
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