上 下
5 / 6
あなたにいつも、まばたき二回

イソベとわたし

しおりを挟む
 あなたと目が合う。
 わたしは、ゆっくりまばたき二回。
 あなたの頬が緩んで、返ってくるまばたき二回。
 しあわせの合図。



 イソベはいつも夜明けよりも早く家を出る。ブーブー音を立てて光を出す四角い板より先に起きるときもあるし、疲れて板に起こされるときもある。
 いちど、板に触って静かにさせてからまた眠ってしまったことがあって、その日の夜にイソベにお願いされたのは懐かしい思い出ね。
 もしもまた眠っちゃったら、わたしに起こしてほしいんですって。
 それって、板よりもわたしの方が頼りになるってことよね?
 それ以来、板が光るより前に、わたしがイソベを起こすことにしたの。もちろん、板みたいにうるさくなんてしないわ。
 いつもイソベは水で顔をバシャバシャやってるから、わたしがキレイにしてあげることにしたの。
 イソベには部分的にしか毛がないから、それ以外のところは舌先だけでチロチロ舐めてね。それでもときおりうっかりして「いたいよエリ~!」って、顔をクシャクシャにゆがませてるけど。
 仕方ないのよ、ツヤツヤの毛並みにするには、このブラシが必要なんだもの。犬みたいにはいかないわ。


 暑い季節がもうじき終わろうとする頃、夕暮れからなんだかちょっと嫌な予感がしていたの。
 こういうのを「胸騒ぎ」って言うのかしら。
 外では犬たちも不安そうに鼻を鳴らしているのが、風に乗って聞こえてきてた。
 ここからは少し距離があるけど、大きな川が近くに流れていて、その上流でずっと雨が降っているんだって、イソベが言ってた。こっちもしとしと降っているけど、風はないからそんなに危険じゃないとか。
 なにがどうなったら危険なのか、わたしにはよくわからないの。
 だって、イソベと約束したもの。このおうちから出ないって。
 わたしは、イソベのおばあちゃんの家で生まれたの。おかあさんは、農薬のかかった草を食べて死んじゃった。兄弟は納屋のネズミ取りっていうお仕事のために残ったけど、わたしは食が細くて育ちも悪かったから、おばあちゃんちではごはんをもらえなかったの。
 息が止まったら、そのまま埋めるつもりだったんですって。
 チビでヒョロヒョロのわたしを、その時たまたまおばあちゃんちに寄ったイソベが連れて帰ってくれたのよ。このおうちについてからしばらく、思い出してはイソベは泣いて怒ってた。
 そういえば、おばあちゃんちでは、イソベは別の名前で呼ばれてたんだけど、耳もあまり聞こえなくなってたわたしは覚えてないの。
 ここにきてから、たまに玄関のチャイムが鳴って「イソベさーん!」って呼ばれてるから、名前はイソベって言うんでしょ。

 夜中にいっとき雨が強くなって、でも明け方には小降りになって。
 イソベはいつも通りわたしのために部屋の中を涼しくしたまま出掛けていった。
 わたしはご飯を少し食べてからイソベにしっかり撫でさせてあげて、見送ってから、階段の上のイソベの部屋に戻ったの。
 いまはわたしとイソベだけのおうちだけど、元々はもっと人がいたみたい。古い臭いがあちこちに残ってる。だけど、イソベの部屋はイソベの臭いだけよ。特にこの机のとこの椅子が好き。机の引き出しの下に隠れるようになっているから安心する。
 日が暮れるまでひとりでお留守番しなくちゃだから、普段は窓から外を眺めたりするんだけど、今日はイヤな気分。なるべく安全なとこにいなくちゃ。

 うとうとしていたら、玄関で物音がして、凄い勢いでイソベが駆け込んできた。
 どうしたの? まだオシゴトの時間でしょ?
 びっくりしてじっとしていると、椅子を引き出したイソベが、わたしの首に手を回してもそもそやり始めた。
 わたしが少しマシなみてくれになった頃、イソベが同じようになにか付けようとしたことがあって。最初はわけわからなくてされるがままになったんだけど、それをすると首が重いし、痒いところがちゃんと掻けないし、なによりわたしの毛が擦れてそこだけハゲちゃったの!
 もうショックでショックで、その次付けようとしたときは、悪いけど本気でイソベの手を噛んで抵抗したのよ。
 だからイソベの手の甲には、いまでも少し牙の跡が残ってる。悪いことしたわ。でも、イソベだって悪いんだからね。
 そのとき約束したの。付けていないとノラだって思われるから、絶対に外には出ないでって何度も言われて。
 お庭にくる鳥には興味あったけど、イソベがそこまで言うなら出ないわ。
 だから、もう何年も首には何も付けていなかったのに。
 どうして?
 じいっと見つめると、泣きそうなくらいにゆらゆら揺れながらも、わたしから離れない眼差しに、わたしは反抗する気にもなれなくて。
 わたしを大好きって気持ちが切々と伝わってくるの。
 ゆっくりと二回瞬きするイソベ。
 わたしも、ゆっくりと二回。
 イソベがそうっと額を合わせてきて、わたしは目を閉じてその温もりを受け止める。
 数秒後、すうっと温もりは消えて、音もなくイソベがいなくなっていた。



 なんだかスッキリしない気分のまま、またうとうとしていたんだけど、ちょっぴりお腹が空いたから食べに降りることにしたの。
 リズムよくタタタタッといっきに下まで降りて、ダイニングの隅にあるわたしのスペースでご飯を食べてから用足しも済ませる。
 でも、イヤな気分は晴れないまま、どころかもっとひどくなっている気がした。
 いつの間にか雨が強くなっていて、大きなガラス窓を叩いてる。絶対に外には出たくないわねって鼻にシワを寄せながらまた階段を登ろうとして、ふと変なニオイに玄関を振り向いたら。
 にごった水が、イソベの靴を隠してるじゃないの!
 びっくりしておそるおそる近寄って確認したら、ドアの向こうからどんどん水が入ってきてるみたい。
 やだ! 濡れたくない!
 そろりあとじさって、様子見。
 イソベが帰ってくるまで、まだまだ時間がかかるはず。
 振り返りながらも、わたしはイソベの部屋に戻って、水の音とにおいに警戒しながら椅子の上で丸くなった。


 途中で我慢できなくなって見に行ったら、もう階段の途中まで水が迫ってきてた。
 あわてて引き返して、机の上に跳び乗る。
 イソベ、早く帰ってきて!
 おうちが、おへやがおそわれてるよ!

 ついにイソベのベッドもおそわれて、茶色い水の下になっちゃった……。
 がんばってタンスの上に登ったけど、これ以上高いところはないよ。どうしよう。
 水がせまってくるスピードは落ちた気がするけど、カタカタふるえながら水をにらみつけることしかできない。
 見張るのも、疲れちゃった。
 まだかな、イソベ。早く帰ってきて、この水おうちから追い出して抱きしめてほしいの。
 なんだかグラグラしてるし。このタンスが倒れたら、わたしは水に落ちちゃうよ。


 へやの中ばかり気にしていたわたしは、外がどうなってるのか気付いてなかったの。だってわたしのセカイは、おうちの中だけ。
 お外に出るときは、イソベと病院に行くときだけだし。そんなときも体がすっぽり入る大きさのカバンの中だから、あんまり周りは見えてないし。
 だから、聞いたことない音がして、へやの中にもっとたくさんの水と色んなものが入ってきて、びっくりなんてものじゃなかった。
 ああ! もうダメ!
 ざぷんと水に投げ出されて、あちこちがなにかにぶつかって。
 必死に足を動かして顔を水から出して、木の枝らしきものに爪を立てて。
 顔にざぷざぷ水がかかるし、息できなくなるし、ゴツンゴツン痛いし。でも、どこかにつかまっていないと怖い。
 意識しなくても爪だけは出しっぱなしで、あがいていたら、うまいことタタミのへりに引っかかったの。
 水に引きずり込まれそうになりながら、片方ずつちょっとずつちょっとずつ前足をのばして、どうにか上に登れたけど、ぶるぶるしても雨は降りつづいてて、意味ないの。
 寒いよ。足としっぽ、感覚なくなってきたよ。
 流れていく水にまかせて、ぼんやりと周りを見てるしかできない。
 イソベはいないけど、ほかのニンゲンがちらほら見えた。きっと屋根の上なのね。とがったところにしがみついてる。
 わたしのほかにも、木の箱に乗ってる犬が見えた。クンクン鼻を鳴らしてだれかを探してる。
 わたしも探してる。イソベを。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】異類婚姻マッチングセンター~蜘蛛が大嫌いな私と蜘蛛の神様が、遺伝子レベルで好相性なんて何かの間違いですよね!?~

鬼ヶ咲あちたん
恋愛
「私が蜘蛛の神様とマッチング?」ある日、親展と書かれた分厚い封筒が届いたことで、蜘蛛が大嫌いな山上サエの日常は大きく変化する。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】冷酷眼鏡とウワサされる副騎士団長様が、一直線に溺愛してきますっ!

楠結衣
恋愛
触ると人の心の声が聞こえてしまう聖女リリアンは、冷酷と噂の副騎士団長のアルバート様に触ってしまう。 (リリアン嬢、かわいい……。耳も小さくて、かわいい。リリアン嬢の耳、舐めたら甘そうだな……いや寧ろ齧りたい……) 遠くで見かけるだけだったアルバート様の思わぬ声にリリアンは激しく動揺してしまう。きっと聞き間違えだったと結論付けた筈が、聖女の試験で必須な魔物についてアルバート様から勉強を教わることに──! (かわいい、好きです、愛してます) (誰にも見せたくない。執務室から出さなくてもいいですよね?) 二人きりの勉強会。アルバート様に触らないように気をつけているのに、リリアンのうっかりで毎回触れられてしまう。甘すぎる声にリリアンのドキドキが止まらない! ところが、ある日、リリアンはアルバート様の声にうっかり反応してしまう。 (まさか。もしかして、心の声が聞こえている?) リリアンの秘密を知ったアルバート様はどうなる? 二人の恋の結末はどうなっちゃうの?! 心の声が聞こえる聖女リリアンと変態あまあまな声がダダ漏れなアルバート様の、甘すぎるハッピーエンドラブストーリー。 ✳︎表紙イラストは、さらさらしるな。様の作品です。 ✳︎小説家になろうにも投稿しています♪

伝える前に振られてしまった私の恋

メカ喜楽直人
恋愛
母に連れられて行った王妃様とのお茶会の席を、ひとり抜け出したアーリーンは、幼馴染みと友人たちが歓談する場に出くわす。 そこで、ひとりの令息が婚約をしたのだと話し出した。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

転生しても侍 〜この父に任せておけ、そう呟いたカシロウは〜

ハマハマ
ファンタジー
 ファンタジー×お侍×父と子の物語。   戦国時代を生きた侍、山尾甲士郎《ヤマオ・カシロウ》は生まれ変わった。  そして転生先において、不思議な力に目覚めた幼い我が子。 「この父に任せておけ」  そう呟いたカシロウは、父の責務を果たすべくその愛刀と、さらに自らにも目覚めた不思議な力とともに二度目の生を斬り開いてゆく。 ※表紙絵はみやこのじょう様に頂きました!

銀眼の左遷王ケントの素人領地開拓&未踏遺跡攻略~だけど、領民はゼロで土地は死んでるし、遺跡は結界で入れない~

雪野湯
ファンタジー
王立錬金研究所の研究員であった元貴族ケントは政治家に転向するも、政争に敗れ左遷された。 左遷先は領民のいない呪われた大地を抱く廃城。 この瓦礫に埋もれた城に、世界で唯一無二の不思議な銀眼を持つ男は夢も希望も埋めて、その謎と共に朽ち果てるつもりでいた。 しかし、運命のいたずらか、彼のもとに素晴らしき仲間が集う。 彼らの力を借り、様々な種族と交流し、呪われた大地の原因である未踏遺跡の攻略を目指す。 その過程で遺跡に眠っていた世界の秘密を知った。 遺跡の力は世界を滅亡へと導くが、彼は銀眼と仲間たちの力を借りて立ち向かう。 様々な苦難を乗り越え、左遷王と揶揄された若き青年は世界に新たな道を示し、本物の王となる。

処理中です...