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あなたにいつも、まばたき二回

イソベとわたし

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 あなたと目が合う。
 わたしは、ゆっくりまばたき二回。
 あなたの頬が緩んで、返ってくるまばたき二回。
 しあわせの合図。



 イソベはいつも夜明けよりも早く家を出る。ブーブー音を立てて光を出す四角い板より先に起きるときもあるし、疲れて板に起こされるときもある。
 いちど、板に触って静かにさせてからまた眠ってしまったことがあって、その日の夜にイソベにお願いされたのは懐かしい思い出ね。
 もしもまた眠っちゃったら、わたしに起こしてほしいんですって。
 それって、板よりもわたしの方が頼りになるってことよね?
 それ以来、板が光るより前に、わたしがイソベを起こすことにしたの。もちろん、板みたいにうるさくなんてしないわ。
 いつもイソベは水で顔をバシャバシャやってるから、わたしがキレイにしてあげることにしたの。
 イソベには部分的にしか毛がないから、それ以外のところは舌先だけでチロチロ舐めてね。それでもときおりうっかりして「いたいよエリ~!」って、顔をクシャクシャにゆがませてるけど。
 仕方ないのよ、ツヤツヤの毛並みにするには、このブラシが必要なんだもの。犬みたいにはいかないわ。


 暑い季節がもうじき終わろうとする頃、夕暮れからなんだかちょっと嫌な予感がしていたの。
 こういうのを「胸騒ぎ」って言うのかしら。
 外では犬たちも不安そうに鼻を鳴らしているのが、風に乗って聞こえてきてた。
 ここからは少し距離があるけど、大きな川が近くに流れていて、その上流でずっと雨が降っているんだって、イソベが言ってた。こっちもしとしと降っているけど、風はないからそんなに危険じゃないとか。
 なにがどうなったら危険なのか、わたしにはよくわからないの。
 だって、イソベと約束したもの。このおうちから出ないって。
 わたしは、イソベのおばあちゃんの家で生まれたの。おかあさんは、農薬のかかった草を食べて死んじゃった。兄弟は納屋のネズミ取りっていうお仕事のために残ったけど、わたしは食が細くて育ちも悪かったから、おばあちゃんちではごはんをもらえなかったの。
 息が止まったら、そのまま埋めるつもりだったんですって。
 チビでヒョロヒョロのわたしを、その時たまたまおばあちゃんちに寄ったイソベが連れて帰ってくれたのよ。このおうちについてからしばらく、思い出してはイソベは泣いて怒ってた。
 そういえば、おばあちゃんちでは、イソベは別の名前で呼ばれてたんだけど、耳もあまり聞こえなくなってたわたしは覚えてないの。
 ここにきてから、たまに玄関のチャイムが鳴って「イソベさーん!」って呼ばれてるから、名前はイソベって言うんでしょ。

 夜中にいっとき雨が強くなって、でも明け方には小降りになって。
 イソベはいつも通りわたしのために部屋の中を涼しくしたまま出掛けていった。
 わたしはご飯を少し食べてからイソベにしっかり撫でさせてあげて、見送ってから、階段の上のイソベの部屋に戻ったの。
 いまはわたしとイソベだけのおうちだけど、元々はもっと人がいたみたい。古い臭いがあちこちに残ってる。だけど、イソベの部屋はイソベの臭いだけよ。特にこの机のとこの椅子が好き。机の引き出しの下に隠れるようになっているから安心する。
 日が暮れるまでひとりでお留守番しなくちゃだから、普段は窓から外を眺めたりするんだけど、今日はイヤな気分。なるべく安全なとこにいなくちゃ。

 うとうとしていたら、玄関で物音がして、凄い勢いでイソベが駆け込んできた。
 どうしたの? まだオシゴトの時間でしょ?
 びっくりしてじっとしていると、椅子を引き出したイソベが、わたしの首に手を回してもそもそやり始めた。
 わたしが少しマシなみてくれになった頃、イソベが同じようになにか付けようとしたことがあって。最初はわけわからなくてされるがままになったんだけど、それをすると首が重いし、痒いところがちゃんと掻けないし、なによりわたしの毛が擦れてそこだけハゲちゃったの!
 もうショックでショックで、その次付けようとしたときは、悪いけど本気でイソベの手を噛んで抵抗したのよ。
 だからイソベの手の甲には、いまでも少し牙の跡が残ってる。悪いことしたわ。でも、イソベだって悪いんだからね。
 そのとき約束したの。付けていないとノラだって思われるから、絶対に外には出ないでって何度も言われて。
 お庭にくる鳥には興味あったけど、イソベがそこまで言うなら出ないわ。
 だから、もう何年も首には何も付けていなかったのに。
 どうして?
 じいっと見つめると、泣きそうなくらいにゆらゆら揺れながらも、わたしから離れない眼差しに、わたしは反抗する気にもなれなくて。
 わたしを大好きって気持ちが切々と伝わってくるの。
 ゆっくりと二回瞬きするイソベ。
 わたしも、ゆっくりと二回。
 イソベがそうっと額を合わせてきて、わたしは目を閉じてその温もりを受け止める。
 数秒後、すうっと温もりは消えて、音もなくイソベがいなくなっていた。



 なんだかスッキリしない気分のまま、またうとうとしていたんだけど、ちょっぴりお腹が空いたから食べに降りることにしたの。
 リズムよくタタタタッといっきに下まで降りて、ダイニングの隅にあるわたしのスペースでご飯を食べてから用足しも済ませる。
 でも、イヤな気分は晴れないまま、どころかもっとひどくなっている気がした。
 いつの間にか雨が強くなっていて、大きなガラス窓を叩いてる。絶対に外には出たくないわねって鼻にシワを寄せながらまた階段を登ろうとして、ふと変なニオイに玄関を振り向いたら。
 にごった水が、イソベの靴を隠してるじゃないの!
 びっくりしておそるおそる近寄って確認したら、ドアの向こうからどんどん水が入ってきてるみたい。
 やだ! 濡れたくない!
 そろりあとじさって、様子見。
 イソベが帰ってくるまで、まだまだ時間がかかるはず。
 振り返りながらも、わたしはイソベの部屋に戻って、水の音とにおいに警戒しながら椅子の上で丸くなった。


 途中で我慢できなくなって見に行ったら、もう階段の途中まで水が迫ってきてた。
 あわてて引き返して、机の上に跳び乗る。
 イソベ、早く帰ってきて!
 おうちが、おへやがおそわれてるよ!

 ついにイソベのベッドもおそわれて、茶色い水の下になっちゃった……。
 がんばってタンスの上に登ったけど、これ以上高いところはないよ。どうしよう。
 水がせまってくるスピードは落ちた気がするけど、カタカタふるえながら水をにらみつけることしかできない。
 見張るのも、疲れちゃった。
 まだかな、イソベ。早く帰ってきて、この水おうちから追い出して抱きしめてほしいの。
 なんだかグラグラしてるし。このタンスが倒れたら、わたしは水に落ちちゃうよ。


 へやの中ばかり気にしていたわたしは、外がどうなってるのか気付いてなかったの。だってわたしのセカイは、おうちの中だけ。
 お外に出るときは、イソベと病院に行くときだけだし。そんなときも体がすっぽり入る大きさのカバンの中だから、あんまり周りは見えてないし。
 だから、聞いたことない音がして、へやの中にもっとたくさんの水と色んなものが入ってきて、びっくりなんてものじゃなかった。
 ああ! もうダメ!
 ざぷんと水に投げ出されて、あちこちがなにかにぶつかって。
 必死に足を動かして顔を水から出して、木の枝らしきものに爪を立てて。
 顔にざぷざぷ水がかかるし、息できなくなるし、ゴツンゴツン痛いし。でも、どこかにつかまっていないと怖い。
 意識しなくても爪だけは出しっぱなしで、あがいていたら、うまいことタタミのへりに引っかかったの。
 水に引きずり込まれそうになりながら、片方ずつちょっとずつちょっとずつ前足をのばして、どうにか上に登れたけど、ぶるぶるしても雨は降りつづいてて、意味ないの。
 寒いよ。足としっぽ、感覚なくなってきたよ。
 流れていく水にまかせて、ぼんやりと周りを見てるしかできない。
 イソベはいないけど、ほかのニンゲンがちらほら見えた。きっと屋根の上なのね。とがったところにしがみついてる。
 わたしのほかにも、木の箱に乗ってる犬が見えた。クンクン鼻を鳴らしてだれかを探してる。
 わたしも探してる。イソベを。
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