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Chapter 11:「南の島、逃亡計画」
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【6月11日(月)】
*******************************
TOKYO CHIC 2006号
「君に会えたら」 第11話 掲載
*******************************
「「君に会えたら」を書き終わったら、引っ越そうと思うんだ」
「げほっ、げほっ」
コーヒーを変なところに入れてしまったみたいで、桃野くんが噎せた。
「卒論仕上げたら、来年は卒業式までもう大学には行かなくていいし」
「ど、どこに行くつもり?」
「まだはっきりとは決めてないんだけど・・・南の島がいいな。楽しそうじゃない?」
「例えば?」
「沖縄とか、サイパンとか、トンガとか?あ~でも、ウクレレしにハワイでもいいな」
「冗談だよね?!」
「本気だけど」
「それって実は、俺が原稿の催促に行けないようにするため?!毎日コーヒー飲みに来られて、本当は迷惑とか?!」
かなりパニクった顔をしていたから、思わず笑ってしまった。
「そんなわけないでしょ。でも引っ越したら、どうやって桃野くんと仕事していけばいいのかな?電話とメール?オンラインでチャットもできるし・・・テクノロジーの進化ってすごいね」
「―――引越しなんて、なんでまた急に?それもまた、そんな遠くに・・・」
桃野くんはちょっと困ったような顔。
「別に急に決めたわけじゃないんだけど・・・区切りもいいし、マンションの契約更新のこともあるし、環境を変えるものいいかなって。卒業まで住んだらここにもう4年だよ?いい加減、潮時じゃない?」
「・・・」
「大学にもアシュフィにも集公舎にも近くて、ここは本当に便利だったけどね・・・東京はもういいかな」
タイミングがいい、っていうのは本当。
大学を卒業したら、基本的にここにいる必要はないし、「君に会えたら」を終えたらしばらく調整が利く。
だけど、いちばんの理由はやっぱり・・・
私は桃野くんとのこの心地いい関係をずっと続けたいから、
ある意味「付かず離れず」の距離に行きたい。
今の距離は・・・少し近すぎる気がする。
「でも、飯島さんには反対されるよね?」
「なんで?」
「聞いてないの?」
「いや?」
「とにかくそれまでには、桃野くんにおいしいコーヒーの作り方を伝授しないと」
「・・・俺、今日は仕事に戻るよ」
急に元気のなくなった桃野くんは、珍しく集公舎に戻って行った。
飯島さんにも引越しのことを相談しておく、と付け加えて。
そんなに私のコーヒーが飲めなくなるのがショックなんだ。
覇気のない桃野くんの後姿を見て、少しココロが痛む。
でも、いつまでもこういう生活が続けられるわけじゃないし、
桃野くんが引きこもり生活を卒業するためにも、私がここを離れるのは最終的にいいことのはず。
だけど。
桃野くんが飯島さんから私のことを聞いてなかったのは意外だった。
ここの合鍵を桃野くんに渡しておきながら、なぜ飯島さんは説明しなかったのだろう?
「「片桐純」は執筆以外に生きる意義を見出していない。非常に危険で危うくて・・・心配なんだ」
17歳の私に、飯島さんははっきりそう言った。
それはつまり。
寝ることや食べることを含めて、書くこと以外の全てが、ムダに思えるということ。
自然や社会や、生身の人間と触れ合うことも忘れてしまうということ。
全てが、自分の中で、つまり妄想の世界で完結してしまうということ。
―――究極的には、肉体を持つ意味が見出せなくなる、ということ。
それだけじゃない。
執筆に入ると、私は時間の感覚がなくなってしまう。
とはいっても、最近は以前ほどじゃないけど。
でも、1-2日位のギャップがあることはまだある。
つまり、気が付いたら翌日の夜だった、みたいなこと。
だから、飯島さんは繰り返し私に言い続けた。
「天才と狂気は紙一重だから気を付けて」
「絢ちゃんは、社会との接点を絶対に断っちゃだめだ」
飯島さんに祐のことを話したことはない。
私が入院していたことも知らないはず。
でも、私が「危険」で「狂っている」ということをわかっている。
長年この仕事に携わってきた飯島さんの「カン」っていうヤツなのかもしれない。
私自身、執筆中に意識が飛んでいる間というのはたぶん、祐の幻覚を見て記憶を失っていたのと同じ症状だと思っている。
つまり、執筆をし続け、時間が知らない間に失われていく限り、私は狂ったまま。
―――そして
私が筆を置く、つまり「片桐純」を辞めるということは・・・死ぬまでありえない。
ただ。
「執筆以外に生きる意義を見出していない」という飯島さんの言葉はいま、厳密に言うと正しくない。
なぜならこの半年で、私には執筆以外に2つ、この世で大切なものができたから。
コーヒーと、桃野くんだ。
南の島での1人暮らしって、どんなふうになるんだろう?
ベランダで、東京の夕陽を見ながら考える。
寂しくなるから、犬か猫を飼おうかな。
桃野くんは犬っぽいから、犬がいいな。
きっとその犬は、桃野くんみたいに優しくて、
エサを持つ私に寄ってきて、
しっぽを思いっきり振ってくれるんだろう。
そして
本物の桃野くんがたまに、原稿の催促の電話をしてきて、
「絢ちゃん、元気?」って聞いてくれるはず。
そういう生活は悪くない。
桃野くんが結婚するときは、たくさんご祝儀包んであげよう。
子供ができたら、お祝いは何がいいかな?
ちゃんと、報告して欲しいな。
桃野くんがずっと私の担当だったら嬉しいけど、
飯島さんみたいに偉くなっても、
万が一集公舎を辞めてしまっても、
連絡が取れるようにしておきたいな。
桃野くんは、これからどんな人生を送るのかな?
困ったことがあったら、私を頼って欲しいな。
いつも、笑ってて欲しいな。
なんかストーカーみたいだけど、このくらいはいいよね?
私は絶対に、桃野くんの幸せの邪魔はしないから。
たまに桃野くんの声を聞けて、
たまに桃野くんの姿を見られたら、それでいい。
桃野くんには、本当の意味で、幸せになって欲しい。
ずっと、そのままで。
私にできることは、何かあるのかな?
祐、どう思う?
気がつくとすっかり辺りは暗くなっていて、
私の頬が濡れていたことに、
星たちも気がつかなかったと思う。
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TOKYO CHIC 2006号
「君に会えたら」 第11話 掲載
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「「君に会えたら」を書き終わったら、引っ越そうと思うんだ」
「げほっ、げほっ」
コーヒーを変なところに入れてしまったみたいで、桃野くんが噎せた。
「卒論仕上げたら、来年は卒業式までもう大学には行かなくていいし」
「ど、どこに行くつもり?」
「まだはっきりとは決めてないんだけど・・・南の島がいいな。楽しそうじゃない?」
「例えば?」
「沖縄とか、サイパンとか、トンガとか?あ~でも、ウクレレしにハワイでもいいな」
「冗談だよね?!」
「本気だけど」
「それって実は、俺が原稿の催促に行けないようにするため?!毎日コーヒー飲みに来られて、本当は迷惑とか?!」
かなりパニクった顔をしていたから、思わず笑ってしまった。
「そんなわけないでしょ。でも引っ越したら、どうやって桃野くんと仕事していけばいいのかな?電話とメール?オンラインでチャットもできるし・・・テクノロジーの進化ってすごいね」
「―――引越しなんて、なんでまた急に?それもまた、そんな遠くに・・・」
桃野くんはちょっと困ったような顔。
「別に急に決めたわけじゃないんだけど・・・区切りもいいし、マンションの契約更新のこともあるし、環境を変えるものいいかなって。卒業まで住んだらここにもう4年だよ?いい加減、潮時じゃない?」
「・・・」
「大学にもアシュフィにも集公舎にも近くて、ここは本当に便利だったけどね・・・東京はもういいかな」
タイミングがいい、っていうのは本当。
大学を卒業したら、基本的にここにいる必要はないし、「君に会えたら」を終えたらしばらく調整が利く。
だけど、いちばんの理由はやっぱり・・・
私は桃野くんとのこの心地いい関係をずっと続けたいから、
ある意味「付かず離れず」の距離に行きたい。
今の距離は・・・少し近すぎる気がする。
「でも、飯島さんには反対されるよね?」
「なんで?」
「聞いてないの?」
「いや?」
「とにかくそれまでには、桃野くんにおいしいコーヒーの作り方を伝授しないと」
「・・・俺、今日は仕事に戻るよ」
急に元気のなくなった桃野くんは、珍しく集公舎に戻って行った。
飯島さんにも引越しのことを相談しておく、と付け加えて。
そんなに私のコーヒーが飲めなくなるのがショックなんだ。
覇気のない桃野くんの後姿を見て、少しココロが痛む。
でも、いつまでもこういう生活が続けられるわけじゃないし、
桃野くんが引きこもり生活を卒業するためにも、私がここを離れるのは最終的にいいことのはず。
だけど。
桃野くんが飯島さんから私のことを聞いてなかったのは意外だった。
ここの合鍵を桃野くんに渡しておきながら、なぜ飯島さんは説明しなかったのだろう?
「「片桐純」は執筆以外に生きる意義を見出していない。非常に危険で危うくて・・・心配なんだ」
17歳の私に、飯島さんははっきりそう言った。
それはつまり。
寝ることや食べることを含めて、書くこと以外の全てが、ムダに思えるということ。
自然や社会や、生身の人間と触れ合うことも忘れてしまうということ。
全てが、自分の中で、つまり妄想の世界で完結してしまうということ。
―――究極的には、肉体を持つ意味が見出せなくなる、ということ。
それだけじゃない。
執筆に入ると、私は時間の感覚がなくなってしまう。
とはいっても、最近は以前ほどじゃないけど。
でも、1-2日位のギャップがあることはまだある。
つまり、気が付いたら翌日の夜だった、みたいなこと。
だから、飯島さんは繰り返し私に言い続けた。
「天才と狂気は紙一重だから気を付けて」
「絢ちゃんは、社会との接点を絶対に断っちゃだめだ」
飯島さんに祐のことを話したことはない。
私が入院していたことも知らないはず。
でも、私が「危険」で「狂っている」ということをわかっている。
長年この仕事に携わってきた飯島さんの「カン」っていうヤツなのかもしれない。
私自身、執筆中に意識が飛んでいる間というのはたぶん、祐の幻覚を見て記憶を失っていたのと同じ症状だと思っている。
つまり、執筆をし続け、時間が知らない間に失われていく限り、私は狂ったまま。
―――そして
私が筆を置く、つまり「片桐純」を辞めるということは・・・死ぬまでありえない。
ただ。
「執筆以外に生きる意義を見出していない」という飯島さんの言葉はいま、厳密に言うと正しくない。
なぜならこの半年で、私には執筆以外に2つ、この世で大切なものができたから。
コーヒーと、桃野くんだ。
南の島での1人暮らしって、どんなふうになるんだろう?
ベランダで、東京の夕陽を見ながら考える。
寂しくなるから、犬か猫を飼おうかな。
桃野くんは犬っぽいから、犬がいいな。
きっとその犬は、桃野くんみたいに優しくて、
エサを持つ私に寄ってきて、
しっぽを思いっきり振ってくれるんだろう。
そして
本物の桃野くんがたまに、原稿の催促の電話をしてきて、
「絢ちゃん、元気?」って聞いてくれるはず。
そういう生活は悪くない。
桃野くんが結婚するときは、たくさんご祝儀包んであげよう。
子供ができたら、お祝いは何がいいかな?
ちゃんと、報告して欲しいな。
桃野くんがずっと私の担当だったら嬉しいけど、
飯島さんみたいに偉くなっても、
万が一集公舎を辞めてしまっても、
連絡が取れるようにしておきたいな。
桃野くんは、これからどんな人生を送るのかな?
困ったことがあったら、私を頼って欲しいな。
いつも、笑ってて欲しいな。
なんかストーカーみたいだけど、このくらいはいいよね?
私は絶対に、桃野くんの幸せの邪魔はしないから。
たまに桃野くんの声を聞けて、
たまに桃野くんの姿を見られたら、それでいい。
桃野くんには、本当の意味で、幸せになって欲しい。
ずっと、そのままで。
私にできることは、何かあるのかな?
祐、どう思う?
気がつくとすっかり辺りは暗くなっていて、
私の頬が濡れていたことに、
星たちも気がつかなかったと思う。
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