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優生学
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優生説(優生学?)というものをテレビで見ました。優れた人間だけを繁殖させ、そうでない人間を繁殖させないようにするという考え方です。普通に聞くとひどいし、何をもって「優れている」と言うのかも、嫌な予感しかしないのですが、考え方としては興味があります。
子どもの頃は、「子どもは天からの授かりもの」だと思っていて、子どもを作ることに親の意志や行為が存在し、責任が必要などとは知りませんでした。だから物語の中で貧しい親子が出てきて、ボロボロの家に住んでいて、お母さんが病気で寝ていて、子どもが一生懸命働いてお母さんに食べ物を買ってきて、お母さんが「すまないね、お前には苦労ばかりかけて……」と言っていても、疑問には思いませんでした。
しかし。現代において、例えば満足な収入がないのにペットショップでペットを買って、自分の食事を減らしてエサ代を工面しようとするものの満足に食べ物をあげられず、体調が悪そうに見えても病院にも連れて行ってあげられず、弱ったペットにどうしてあげることもできずに涙を流しながら抱きしめているうちに、腕の中でペットは息を引き取った……。という物語があったら、「美しい」とは感じません。捨て犬や捨て猫を見かけてしまったとかならまだしも、飼えるだけの余裕がないのに、ペットショップでペットを買ってしまうというのは。
……というような感覚を、人間に対してもちょっと思うのです。責任とは……幸せとは何だろうと。
誰しも不満の一つや二つあるものだろうし、それをなくす必要も、完璧にする必要もないのかもしれませんが。物語で、子どもが「大金持ちの家に生まれたかった~」と妄想する、なんてシーンもありますね。ちょっと変わった家庭環境に対して、「どうしてお母さんは◯◯なの?」と子どもが迫るシーンとか。それも後から振り返れば思い出ということなのか。「貧しくても、良い教育を受けられなくても、夢を叶えられなくても、家族がいれば幸せ」とか……。そういうものでしょうか。
よく「なんでもかんでも買い与えられて、好き放題甘やかされた子が良い子に育つわけではない。貧しくても親に愛され、良い子に育った子はいる。家族の愛こそが最高だ」みたいな物語がありますが、それも……そうかもしれないけど、どうでしょう。
お金があれば、好きなことを習うとか、才能を伸ばすチャレンジもできるでしょうが、お金がないと叶えられないことも多いのでは。まぁ「夢は自力で叶えろ」って考えもありますね。でもそれは、貧しくても応援してくれる……あんまり邪魔しないでくれる環境がある方が有利なのでは。知的好奇心を伸ばせる財力や空間があれば、なお良いのでは。
「◯◯博士」と呼ばれるような子をテレビで見ていると、家に生き物だったり模型だったり、色んなものを置いてもらっているスペースがあって、うらやましく思います。
子どもが何に興味を示しても何もあげず、「余計なことをするな」「そんな金はない」「ガラクタを増やすな」など、なんでもかんでも否定してきたり、話が通じない、荒れた環境だと(学校や近所含む)、心を保つのも日々の疲れを癒すのも難しく、心に傷を負って無気力になることもあるのでは。
貧しい上に家族からの愛もない人も多いはず。この間テレビで、「家族からの性被害は多い。実際は誰にも言えない子も多いだろうから、もっと多くなるはずだ」という話を聞いて、ショックでした。
今調べたところ、「18歳未満の子どもが、保護者などから虐待を受けたとして児童相談所が対応した件数は、2019年度、全国で19万件余りに上り、過去最多を更新しました。 このうち、家庭内で起きた性的虐待はおよそ2600件と、件数全体の1.3%で、被害の潜在化が指摘されています」だそう。
また、16~24歳の若年層のうち、およそ4人に1人が何らかの性暴力の被害を受けたことがあるとの調査結果が出たそう。
そう思うと、貧富の差だけでなく、人間性の質が低いというか……。
現実でも、身近なところで「は?」と思うような話を聞いたことがあります。で、困っているときに誰が助けてくれるわけでもないけれど、私のような落ちこぼれを「クズ」だの何だの呼んで嫌う人は多そうな印象。
自分は落ちこぼれだと思っていますが、自分を変えるために今すぐどうにか、何かを始められる頭脳はありません。怠慢癖なのでしょうか。それとも貧しいから、秀才や天才のような知識もなければ、計画やアイデアも沸いてこない?
私が素晴らしく賢い人だったら、見込みのないことにグズグズ使っている時間をバッサリ捨て、何もない……いや、マイナスからのスタートでも、輝く生活を送れるようになるでしょうか。
なんか、庶民は庶民なりの発想しか沸いてこない気がしますね。それでも、エリート家系じゃなくてもガラッと人生変えている人もいるし、生まれだ何だというのは言い訳で、あとは個人のやる気や努力や発想の問題でしょうか。
「うまく生きたいのに思うようにいかない。上手にできない」
それを人生の魅力の一つと取るか、「無駄」と取るかで変わってきそうですね。
結局優生学は、ナチスの思想や、人種差別に繋がるので良くないそうです。たしかに。
動物だって、過酷な環境で子どもを産み、たくさん死んだりしています。命を軽視したやり方であるとも思うけれど、そういうシステムなのだからしょうがありません。ならば人間界でも、過酷だったり理不尽だったり貧しかったり家庭破綻したり豊かだったり凶暴な人がいたり、色んな人がいるのは「多様性」であって、その多様性はあった方が良いということでしょうか。
何をもって優秀な人と言うか。人それぞれではありますが、私は、非人道で意地悪な人や、責任をもって世話ができない、見るからに育児放棄しそうな人には繁殖させなくても良いのではないかなと思います。けどどうやって見分けるのかという問題もあるし、少子高齢化の世の中、税金を取りたい政府が、繁殖制限するとも思えませんね。
第一システムというのはおそらく、どうやったって歪むものだし、自分たちの思った方向にはいかないもんです。不正防止のために、不正なんて考えてもいないこちらが、ややこしい手続きをさせられるように。手間になったり見誤ったり差別を助長したり。絶対、良いことにはならないでしょう。
ここで、最近見たニュース……「傷がい者の方が、本人への説明なく強制的に不妊手術をさせられ、子どもが産めない体になっていたことで、国に損害賠償を求めた」という話を元に検索すると、かつて日本には「旧優生保護法」というものがあったと出てきました。なんと1996年……わりと近年まで存在していたとか。つまり優生説は、日本にもあったけど廃止されたのですね。
人権となってくると本当に難しい……。画像検索で見かけたのですが、ブラックジャックに、無脳症の赤ちゃんを殺すシーンがあったみたいですね。人を選別して、生死を決めるなんて、そんなことをしていいのか。
やはり私は、アンチナタリズムとか、人類滅亡の方が気になってきます。誰かを排除するのではなく、みんな平等に滅びる幻想に憧れるのです。
けど……結局、極論は傾くのでしょう。テレビでロボトミー手術の話とか見て……やっぱり差別的な世の中は嫌だなと思います。誰かを標的にするような世界なんて。
「すべて滅ぼす」の逆ならばやはり、すべての人と共存したいですね。一体どう考えればいいのか。なぜ人は極論に走るのか。
ポルポト政権とやらは、知識人を殺しまくったようですね。反逆しないように、でしょうか。
現代の一部の冷たい人間からは、「役に立つ人間を残して役に立たない人間を排除する」ような思想の匂いを感じるのですが、あれが独裁的思想の第一歩ですかね。言うことを聞かないものはすべて煩わしく感じてくることでしょう。一度殺伐とした考えがまかり通れば、歯止めがきかなくなりそうです。「どくさいスイッチ」みたいですね。
なぜ差別というものは起こるのか? 差別対象が「遠いから」というのも一因ではないでしょうか。死刑や屠殺や殺処分は遠いから、自分が殺しているとは感じないように。それぞれが限られた世界で生きているから、冷酷なことを見聞きしても、何も感じないのかもしれません。
けれど近い存在であっても……。元々、「劣っている」と見なした者をいじめる気質があるのかもしれませんね。太ったハトが痩せたハトを追い回しているように。
もし優生説が採用されても、生き残った人の中でまた排除が始まり、争い合うのでしょう。次はこれ、次はこれ……と。きっと永遠に続く。
私の好きなマンガ「BEASTARS」では、多くのキャラが自分の存在……というか種族に対して、不満や葛藤を抱いているようです。「どうして凶暴な動物に生まれてしまったんだろう」「どうして弱い動物に生まれたんだろう」とか。
生まれると同時に、苦しみが起こる。生まなければ良いようにも思えます。けれど獣たちが生きる姿は輝いていて、そんな極論では語れないと分かります。ざっくり言うと「みんなが生き続けることに意味がある」みたいな。
共存がテーマだとは思いますが、共存が夢や目標や正義であるとしても、道から外れる者もいる……。分かり合えないときもある。それでも続いていこうとする、命そのものが尊いというか……。
命の選別とか安楽死とか駆除とか、世の中嫌な話ばかり。「生きていて幸せなのかどうか」そんなこと言い出したら誰だって、本当に幸せなのかどうか怪しいでしょう。「生かすべきか、殺すべきか」議論して誰かを排除してその上で、スッキリにこにこ生きていける? 「本人のために命を絶つ」なんて、生かしてあげるのが難しい、もしくは面倒な場合の言い訳ではないでしょうか。ならば「生まないようにする」権利も誰にもない。じゃあ動物は……。
奇麗事、机上の空論、何もできない私が偉そうにこねくり回してみても、分からないことだらけ。足下が定まらなくて、何が正義か、何が現在のベストか、分からなくなっていきます。それで私はますます優柔不断の無気力な腑抜けになる。まぁ臆病になって命を奪う量が減るならば、個人的にはそっちの方が良さそうですが。世の中は「殺さないこと」なんかより、生産だの経済だの重視です。駆除も排除も仕事でしょう。考えれば考えるほど、誰のための社会なんだろう。
ちゃんと働けるか、働けないか。結局社会が言いたいのはお金のことでしょう。働く、社会貢献、何らかの形でそういうことができればいいと。できなければ、意味がないと。違うのでしょうか。
そんなことで命の価値を決められたくないと思いつつ、落ちこぼれ、迷い、どこかへ流されていきそうな自分の心がある……。
こうなったら、落ちこぼれの私だって自信を持って存在していい、尊い命なんだってことを証明してやりたいです。お金を稼ぐか稼がないか、社会の役に立つかどうか、現代の間違った物差しで命を計られてたまるか。
「すべての命は尊い」ということを心の底から悟ったときには、何かすごい力が沸いてくるかも。
子どもの頃は、「子どもは天からの授かりもの」だと思っていて、子どもを作ることに親の意志や行為が存在し、責任が必要などとは知りませんでした。だから物語の中で貧しい親子が出てきて、ボロボロの家に住んでいて、お母さんが病気で寝ていて、子どもが一生懸命働いてお母さんに食べ物を買ってきて、お母さんが「すまないね、お前には苦労ばかりかけて……」と言っていても、疑問には思いませんでした。
しかし。現代において、例えば満足な収入がないのにペットショップでペットを買って、自分の食事を減らしてエサ代を工面しようとするものの満足に食べ物をあげられず、体調が悪そうに見えても病院にも連れて行ってあげられず、弱ったペットにどうしてあげることもできずに涙を流しながら抱きしめているうちに、腕の中でペットは息を引き取った……。という物語があったら、「美しい」とは感じません。捨て犬や捨て猫を見かけてしまったとかならまだしも、飼えるだけの余裕がないのに、ペットショップでペットを買ってしまうというのは。
……というような感覚を、人間に対してもちょっと思うのです。責任とは……幸せとは何だろうと。
誰しも不満の一つや二つあるものだろうし、それをなくす必要も、完璧にする必要もないのかもしれませんが。物語で、子どもが「大金持ちの家に生まれたかった~」と妄想する、なんてシーンもありますね。ちょっと変わった家庭環境に対して、「どうしてお母さんは◯◯なの?」と子どもが迫るシーンとか。それも後から振り返れば思い出ということなのか。「貧しくても、良い教育を受けられなくても、夢を叶えられなくても、家族がいれば幸せ」とか……。そういうものでしょうか。
よく「なんでもかんでも買い与えられて、好き放題甘やかされた子が良い子に育つわけではない。貧しくても親に愛され、良い子に育った子はいる。家族の愛こそが最高だ」みたいな物語がありますが、それも……そうかもしれないけど、どうでしょう。
お金があれば、好きなことを習うとか、才能を伸ばすチャレンジもできるでしょうが、お金がないと叶えられないことも多いのでは。まぁ「夢は自力で叶えろ」って考えもありますね。でもそれは、貧しくても応援してくれる……あんまり邪魔しないでくれる環境がある方が有利なのでは。知的好奇心を伸ばせる財力や空間があれば、なお良いのでは。
「◯◯博士」と呼ばれるような子をテレビで見ていると、家に生き物だったり模型だったり、色んなものを置いてもらっているスペースがあって、うらやましく思います。
子どもが何に興味を示しても何もあげず、「余計なことをするな」「そんな金はない」「ガラクタを増やすな」など、なんでもかんでも否定してきたり、話が通じない、荒れた環境だと(学校や近所含む)、心を保つのも日々の疲れを癒すのも難しく、心に傷を負って無気力になることもあるのでは。
貧しい上に家族からの愛もない人も多いはず。この間テレビで、「家族からの性被害は多い。実際は誰にも言えない子も多いだろうから、もっと多くなるはずだ」という話を聞いて、ショックでした。
今調べたところ、「18歳未満の子どもが、保護者などから虐待を受けたとして児童相談所が対応した件数は、2019年度、全国で19万件余りに上り、過去最多を更新しました。 このうち、家庭内で起きた性的虐待はおよそ2600件と、件数全体の1.3%で、被害の潜在化が指摘されています」だそう。
また、16~24歳の若年層のうち、およそ4人に1人が何らかの性暴力の被害を受けたことがあるとの調査結果が出たそう。
そう思うと、貧富の差だけでなく、人間性の質が低いというか……。
現実でも、身近なところで「は?」と思うような話を聞いたことがあります。で、困っているときに誰が助けてくれるわけでもないけれど、私のような落ちこぼれを「クズ」だの何だの呼んで嫌う人は多そうな印象。
自分は落ちこぼれだと思っていますが、自分を変えるために今すぐどうにか、何かを始められる頭脳はありません。怠慢癖なのでしょうか。それとも貧しいから、秀才や天才のような知識もなければ、計画やアイデアも沸いてこない?
私が素晴らしく賢い人だったら、見込みのないことにグズグズ使っている時間をバッサリ捨て、何もない……いや、マイナスからのスタートでも、輝く生活を送れるようになるでしょうか。
なんか、庶民は庶民なりの発想しか沸いてこない気がしますね。それでも、エリート家系じゃなくてもガラッと人生変えている人もいるし、生まれだ何だというのは言い訳で、あとは個人のやる気や努力や発想の問題でしょうか。
「うまく生きたいのに思うようにいかない。上手にできない」
それを人生の魅力の一つと取るか、「無駄」と取るかで変わってきそうですね。
結局優生学は、ナチスの思想や、人種差別に繋がるので良くないそうです。たしかに。
動物だって、過酷な環境で子どもを産み、たくさん死んだりしています。命を軽視したやり方であるとも思うけれど、そういうシステムなのだからしょうがありません。ならば人間界でも、過酷だったり理不尽だったり貧しかったり家庭破綻したり豊かだったり凶暴な人がいたり、色んな人がいるのは「多様性」であって、その多様性はあった方が良いということでしょうか。
何をもって優秀な人と言うか。人それぞれではありますが、私は、非人道で意地悪な人や、責任をもって世話ができない、見るからに育児放棄しそうな人には繁殖させなくても良いのではないかなと思います。けどどうやって見分けるのかという問題もあるし、少子高齢化の世の中、税金を取りたい政府が、繁殖制限するとも思えませんね。
第一システムというのはおそらく、どうやったって歪むものだし、自分たちの思った方向にはいかないもんです。不正防止のために、不正なんて考えてもいないこちらが、ややこしい手続きをさせられるように。手間になったり見誤ったり差別を助長したり。絶対、良いことにはならないでしょう。
ここで、最近見たニュース……「傷がい者の方が、本人への説明なく強制的に不妊手術をさせられ、子どもが産めない体になっていたことで、国に損害賠償を求めた」という話を元に検索すると、かつて日本には「旧優生保護法」というものがあったと出てきました。なんと1996年……わりと近年まで存在していたとか。つまり優生説は、日本にもあったけど廃止されたのですね。
人権となってくると本当に難しい……。画像検索で見かけたのですが、ブラックジャックに、無脳症の赤ちゃんを殺すシーンがあったみたいですね。人を選別して、生死を決めるなんて、そんなことをしていいのか。
やはり私は、アンチナタリズムとか、人類滅亡の方が気になってきます。誰かを排除するのではなく、みんな平等に滅びる幻想に憧れるのです。
けど……結局、極論は傾くのでしょう。テレビでロボトミー手術の話とか見て……やっぱり差別的な世の中は嫌だなと思います。誰かを標的にするような世界なんて。
「すべて滅ぼす」の逆ならばやはり、すべての人と共存したいですね。一体どう考えればいいのか。なぜ人は極論に走るのか。
ポルポト政権とやらは、知識人を殺しまくったようですね。反逆しないように、でしょうか。
現代の一部の冷たい人間からは、「役に立つ人間を残して役に立たない人間を排除する」ような思想の匂いを感じるのですが、あれが独裁的思想の第一歩ですかね。言うことを聞かないものはすべて煩わしく感じてくることでしょう。一度殺伐とした考えがまかり通れば、歯止めがきかなくなりそうです。「どくさいスイッチ」みたいですね。
なぜ差別というものは起こるのか? 差別対象が「遠いから」というのも一因ではないでしょうか。死刑や屠殺や殺処分は遠いから、自分が殺しているとは感じないように。それぞれが限られた世界で生きているから、冷酷なことを見聞きしても、何も感じないのかもしれません。
けれど近い存在であっても……。元々、「劣っている」と見なした者をいじめる気質があるのかもしれませんね。太ったハトが痩せたハトを追い回しているように。
もし優生説が採用されても、生き残った人の中でまた排除が始まり、争い合うのでしょう。次はこれ、次はこれ……と。きっと永遠に続く。
私の好きなマンガ「BEASTARS」では、多くのキャラが自分の存在……というか種族に対して、不満や葛藤を抱いているようです。「どうして凶暴な動物に生まれてしまったんだろう」「どうして弱い動物に生まれたんだろう」とか。
生まれると同時に、苦しみが起こる。生まなければ良いようにも思えます。けれど獣たちが生きる姿は輝いていて、そんな極論では語れないと分かります。ざっくり言うと「みんなが生き続けることに意味がある」みたいな。
共存がテーマだとは思いますが、共存が夢や目標や正義であるとしても、道から外れる者もいる……。分かり合えないときもある。それでも続いていこうとする、命そのものが尊いというか……。
命の選別とか安楽死とか駆除とか、世の中嫌な話ばかり。「生きていて幸せなのかどうか」そんなこと言い出したら誰だって、本当に幸せなのかどうか怪しいでしょう。「生かすべきか、殺すべきか」議論して誰かを排除してその上で、スッキリにこにこ生きていける? 「本人のために命を絶つ」なんて、生かしてあげるのが難しい、もしくは面倒な場合の言い訳ではないでしょうか。ならば「生まないようにする」権利も誰にもない。じゃあ動物は……。
奇麗事、机上の空論、何もできない私が偉そうにこねくり回してみても、分からないことだらけ。足下が定まらなくて、何が正義か、何が現在のベストか、分からなくなっていきます。それで私はますます優柔不断の無気力な腑抜けになる。まぁ臆病になって命を奪う量が減るならば、個人的にはそっちの方が良さそうですが。世の中は「殺さないこと」なんかより、生産だの経済だの重視です。駆除も排除も仕事でしょう。考えれば考えるほど、誰のための社会なんだろう。
ちゃんと働けるか、働けないか。結局社会が言いたいのはお金のことでしょう。働く、社会貢献、何らかの形でそういうことができればいいと。できなければ、意味がないと。違うのでしょうか。
そんなことで命の価値を決められたくないと思いつつ、落ちこぼれ、迷い、どこかへ流されていきそうな自分の心がある……。
こうなったら、落ちこぼれの私だって自信を持って存在していい、尊い命なんだってことを証明してやりたいです。お金を稼ぐか稼がないか、社会の役に立つかどうか、現代の間違った物差しで命を計られてたまるか。
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