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「道」のポジション
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創作を認められたくて、あちこちのサイトを転々とし、発信を続けるも、相変わらず鳴かず飛ばずです。才能がないんだと思います。
が、最近ふと気づいたのは、フォロワー様に私の作品を求められてはいない、ファンはいないけれど、話し相手というか話し友達は、どこのサイトにいるときもわりといたんじゃないかということ。
「作家は孤独でなければいけない」みたいな言葉をどこかで聞いて、「えーなんで?」と思っていたけれど、たしかにそうなのかも、と思い始めました。私の感じている理由で合っているのかどうか分かりませんが。
目的が創作のみなら、もういいね欄もコメント欄も全部閉じて、交流ゼロで、作品のことだけを考える……。そういう方法もあります。が、私、ダメなんですよね。元々創作発信していなかったときから、オンラインゲームのコミュニティーとか、無料チャットに入り浸っていた。人嫌いキャラを演じるウザい奴ではありつつ、どうも人恋しくてしょうがなく。しかし対面は苦手。縛られる関係も苦手。ということで、ネットの繋がりが好きなんですね。交流を絶つことは、私にとって無理なようでした。
しかし、個々のフォロワー様(いつも話してくれる人)に精神的に依存しがちなので、一人一人に執着せず、来るもの拒まず去るもの追わず、浅~く広~くを目指しています。フラ~ッと立ち寄ったり、いなくなったり。私の元々の本の読み方みたいな感じです。「全員に同じように接しないといけない」というのは、なんとなく思っていましたが、そうではないかもしれません。
以前、マメにタイムラインを巡回したりしていましたが、内容を読んでいないのにいいねやフォローしてくる人がいるんじゃないか、本当に読まれているのか分からない、そんなことがストレスになっていました。延々「いいね」なら、システムであってもできるし、内容を読まなくても付けられます。いいね返しで、内容を読まれずにいいねを付けられているとしたら、私の作品、一体何なのかと。
いいねのお礼に返ってくるいいね、いいねしないと来ないいいねにモヤつきもしました。お返しされているのは「また読みたい」とは違う。面白ければお返しじゃなく夢中で読むはず。そしてコメントも、作品に付き合ってくださってはいるけど、正直そこまで好まれてはいないんじゃないかと。相手の好みでない食べ物を無理に押し付けても迷惑なように、好みじゃない私の作品を多くの人々に「読んでください!」と強引に勧め、読んでもらったとしても、特に意味ないし、相手の人生にとってプラスになることはないんじゃないかと。
私たちがお店に行くときは、買うものや買いたいものを見つけに行くのであって、望みと全然違うものを次から次へと手渡されたって困りますよね。作家もきっとそうで、「読者様を楽しませたい」が本音ならば、アクセスや評価を求めて「押し付け」るのは違う。
私の作品は結局、求められなかった。いつも投稿を見てくれるフォロワー様はいても、宣伝した作品のアクセス数は上がらなかった。それは多分、多くの人が、暇つぶしとかいいね集め、あるいは交流のため、いいねを押して回ることだけが目的になっているからではないでしょうか。いいねしなきゃいけない、今日もいいねしてくれた、と。いいねの交換が目的になっているという。
けどあちこちでできる話し友達の人は、作品を読んでいるかどうかは分からないけど、投稿を見てくれています。いいねだけの人が「お店に入った」かどうか分からないのに対し、話し仲間の人は確実に、お店に来てくれています(商品を買うかどうかは別)。
私の人生こうじゃない、と、承認欲求に任せ、ずっと彷徨ってきましたが、なんだかここらで、半ば諦めても良いような気がしてきました。心地いいのです。店に来て喋ってくれる人がいることが。
というか私は人にとって、人が集まる「お店」ではなかったのかもしれません。お店になりたかったけど違った。
私は道。たまたま用があって、あるいは散歩で、通る「道」。それが私のポジションのような気がしてきました。
「読まれる作品」は、人や生き物が集う、大樹だったりお店だったり。多くの人がその目的地を目指します。私はその途中、あるいは外れにある道。
道に用はありません。何も求められてはいません。けどけっこう大事にしてもらえます。花を植えてもらったり。
そして、いつも通っていた人が別の道を選ぶようになり、来なくなることもあります。新しい人が通ってくれるようにもなったり。
「今日はスーパーに行くの」「あのアニメが好き」「歌が……芸能人が……」といった、「目的地」を通行人から聞かされて、自分の存在の小ささ軽さを感じて、目的地に嫉妬してきたけれど、もう良いんじゃないでしょうか。それなりに人が通ってくれる、小道みたいな存在で。
せっかく、ある程度人が来てくれる散歩道であっても。こちらが雰囲気悪く、雑な対応をすれば、通行人の方々は離れていってしまいます。
もう良いよ、作品なんてものは見られていようがいまいが。道は主張するもんじゃありません。なんとなく通ってもらえる、目的地の途中にある、関わってもらえる、それだけで幸せ。そしてその関わりをもっと大事にしないと。不快にさせないように。感謝して、楽しく、喋れたら良いじゃない。……そう思えたらな。
けど、今日はこう思えても、やっぱりまた忘れるかも。承認欲求が服を着て歩いているようなものだし。煩悩まみれだし。それに精神的にはこれで良いとしても、やっぱり創作でお金稼げたらありがたいんだけど。生きてるし。そう上手くはいかんものかな……。
*
上の文章を書いたときは道モードだったけど、今日はやっぱり認められたいモードです。コイツの作品なんて興味ない、つまらない、才能ない、大したことない、面白くない、そう思うならいいねもフォローもいらない。「いつもいいねしてくれるから、いいねを返さなきゃ」とか思われるような人になるべきじゃない。作品をちょっと気に入った人が、反応気にせず来てほしいなと。
……認められたいなら認められたいで、グダグダなエッセイばかり書いていないで、作品と呼べるものを書かないと。読者様が来ないの分かり切ってるからやる気が出ない、なんて言い訳。やる気がないから読者様が来ないのです。やりたければ何が何でもやるはず。やる気のないことばかり書いてたら、ふっと立ち寄った読者様もどっか行ってしまうはず。
もう中身のないエッセイ書くのは一切やめて、全部小説書く時間に充てるぞ、くらいの覚悟ができたら良いんですけどね~。なかなか。時間の使い方がグダグダです。
が、最近ふと気づいたのは、フォロワー様に私の作品を求められてはいない、ファンはいないけれど、話し相手というか話し友達は、どこのサイトにいるときもわりといたんじゃないかということ。
「作家は孤独でなければいけない」みたいな言葉をどこかで聞いて、「えーなんで?」と思っていたけれど、たしかにそうなのかも、と思い始めました。私の感じている理由で合っているのかどうか分かりませんが。
目的が創作のみなら、もういいね欄もコメント欄も全部閉じて、交流ゼロで、作品のことだけを考える……。そういう方法もあります。が、私、ダメなんですよね。元々創作発信していなかったときから、オンラインゲームのコミュニティーとか、無料チャットに入り浸っていた。人嫌いキャラを演じるウザい奴ではありつつ、どうも人恋しくてしょうがなく。しかし対面は苦手。縛られる関係も苦手。ということで、ネットの繋がりが好きなんですね。交流を絶つことは、私にとって無理なようでした。
しかし、個々のフォロワー様(いつも話してくれる人)に精神的に依存しがちなので、一人一人に執着せず、来るもの拒まず去るもの追わず、浅~く広~くを目指しています。フラ~ッと立ち寄ったり、いなくなったり。私の元々の本の読み方みたいな感じです。「全員に同じように接しないといけない」というのは、なんとなく思っていましたが、そうではないかもしれません。
以前、マメにタイムラインを巡回したりしていましたが、内容を読んでいないのにいいねやフォローしてくる人がいるんじゃないか、本当に読まれているのか分からない、そんなことがストレスになっていました。延々「いいね」なら、システムであってもできるし、内容を読まなくても付けられます。いいね返しで、内容を読まれずにいいねを付けられているとしたら、私の作品、一体何なのかと。
いいねのお礼に返ってくるいいね、いいねしないと来ないいいねにモヤつきもしました。お返しされているのは「また読みたい」とは違う。面白ければお返しじゃなく夢中で読むはず。そしてコメントも、作品に付き合ってくださってはいるけど、正直そこまで好まれてはいないんじゃないかと。相手の好みでない食べ物を無理に押し付けても迷惑なように、好みじゃない私の作品を多くの人々に「読んでください!」と強引に勧め、読んでもらったとしても、特に意味ないし、相手の人生にとってプラスになることはないんじゃないかと。
私たちがお店に行くときは、買うものや買いたいものを見つけに行くのであって、望みと全然違うものを次から次へと手渡されたって困りますよね。作家もきっとそうで、「読者様を楽しませたい」が本音ならば、アクセスや評価を求めて「押し付け」るのは違う。
私の作品は結局、求められなかった。いつも投稿を見てくれるフォロワー様はいても、宣伝した作品のアクセス数は上がらなかった。それは多分、多くの人が、暇つぶしとかいいね集め、あるいは交流のため、いいねを押して回ることだけが目的になっているからではないでしょうか。いいねしなきゃいけない、今日もいいねしてくれた、と。いいねの交換が目的になっているという。
けどあちこちでできる話し友達の人は、作品を読んでいるかどうかは分からないけど、投稿を見てくれています。いいねだけの人が「お店に入った」かどうか分からないのに対し、話し仲間の人は確実に、お店に来てくれています(商品を買うかどうかは別)。
私の人生こうじゃない、と、承認欲求に任せ、ずっと彷徨ってきましたが、なんだかここらで、半ば諦めても良いような気がしてきました。心地いいのです。店に来て喋ってくれる人がいることが。
というか私は人にとって、人が集まる「お店」ではなかったのかもしれません。お店になりたかったけど違った。
私は道。たまたま用があって、あるいは散歩で、通る「道」。それが私のポジションのような気がしてきました。
「読まれる作品」は、人や生き物が集う、大樹だったりお店だったり。多くの人がその目的地を目指します。私はその途中、あるいは外れにある道。
道に用はありません。何も求められてはいません。けどけっこう大事にしてもらえます。花を植えてもらったり。
そして、いつも通っていた人が別の道を選ぶようになり、来なくなることもあります。新しい人が通ってくれるようにもなったり。
「今日はスーパーに行くの」「あのアニメが好き」「歌が……芸能人が……」といった、「目的地」を通行人から聞かされて、自分の存在の小ささ軽さを感じて、目的地に嫉妬してきたけれど、もう良いんじゃないでしょうか。それなりに人が通ってくれる、小道みたいな存在で。
せっかく、ある程度人が来てくれる散歩道であっても。こちらが雰囲気悪く、雑な対応をすれば、通行人の方々は離れていってしまいます。
もう良いよ、作品なんてものは見られていようがいまいが。道は主張するもんじゃありません。なんとなく通ってもらえる、目的地の途中にある、関わってもらえる、それだけで幸せ。そしてその関わりをもっと大事にしないと。不快にさせないように。感謝して、楽しく、喋れたら良いじゃない。……そう思えたらな。
けど、今日はこう思えても、やっぱりまた忘れるかも。承認欲求が服を着て歩いているようなものだし。煩悩まみれだし。それに精神的にはこれで良いとしても、やっぱり創作でお金稼げたらありがたいんだけど。生きてるし。そう上手くはいかんものかな……。
*
上の文章を書いたときは道モードだったけど、今日はやっぱり認められたいモードです。コイツの作品なんて興味ない、つまらない、才能ない、大したことない、面白くない、そう思うならいいねもフォローもいらない。「いつもいいねしてくれるから、いいねを返さなきゃ」とか思われるような人になるべきじゃない。作品をちょっと気に入った人が、反応気にせず来てほしいなと。
……認められたいなら認められたいで、グダグダなエッセイばかり書いていないで、作品と呼べるものを書かないと。読者様が来ないの分かり切ってるからやる気が出ない、なんて言い訳。やる気がないから読者様が来ないのです。やりたければ何が何でもやるはず。やる気のないことばかり書いてたら、ふっと立ち寄った読者様もどっか行ってしまうはず。
もう中身のないエッセイ書くのは一切やめて、全部小説書く時間に充てるぞ、くらいの覚悟ができたら良いんですけどね~。なかなか。時間の使い方がグダグダです。
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