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誰のことも否定せずに意見を言うって難しい!(多数決で常に負ける派・人の気持ちが分からない人間の気の持ちようとは……)
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仮に私が緑色が好きな緑派だとしても、「赤と違って緑が好き」と発信する必要はない。「黄色と違って緑は目に優しいから~」「紫は暗くて嫌だよね。やっぱり緑でないと」などの主張は「敵を作る物言い」だ。わざわざそんな言い方をすると、赤派や黄色派や紫派の人と仲良くなる可能性を消し去ってしまう。
誰をも否定しなければいい。簡単なことだ。でもそんな簡単なことが、なぜか出来ない。私は感情的になりがちで、文章を書いていると視野が狭くなりやすい。気づくと「白は眩しすぎて好かないんだ」みたいなニュアンスを含んだことを書いてしまう。
思えばいつも優しくしてくれたのは赤派や黄色派や紫派や白派の人だったのに。
このように色に例えるとまだ、「すべての色は世界に必要なんだよ。緑が一番とかあの色が嫌いとか言っているうちはまだまだだな」と冷静になれるのに、それが意見となるとなかなかどうして上手くいかない。
例えば私はスポーツが苦手だ。
そこで「私は運動が上手にできないけれど、スポーツが好きな人は世界にいっぱいいるんだよね! スポーツが上手い人ってカッコいいなぁ! おかげでオリンピックなどで世界と繋がったりもできるものね」と明るく爽やかに理解し受け入れれば良いものを、「スポーツ=嫌なもの」という感情的な記憶を握りしめてしまっている。
運動が苦手で、体を動かすのがあまり好きじゃなかった。体育の授業は憂鬱だった。対戦式のスポーツで上手く動けなかった。同じチームの人からイライラして「バカ」と悪口を言われた。ドッジボール好きな人が多かったため、お楽しみ会などの多数決では事ある毎にドッジボールが採用された。私の提案した「虫とり」とか「自由に遊ぶ」とかが採用されることはなかった。ドッジボールではみんな全力で球を投げ合っているのがすごく怖くて嫌だった。勝ち負けにこだわり始めるとみんな必死になって殺気立っているようで、体育やスポーツを強制されるのが嫌だった。ルールなど複雑なことを理解するのが苦手で、どうしてもスポーツのルールが覚えられなかった。
本来そこにあるのは「スポーツが得意な人も苦手な人もいる」というただそれだけの事実だ。勉強もコミュニケーションも、何でも同じ。
なのにひねくれると、「お楽しみ会がいつも楽しくない。嫌なドッジボールばかりさせられる。私のやりたいことは全部無視される。あの人たちのせいで」と、多数派に恨みの矛先が向いてしまうのだ。
正直、多数決で決める世の中にも問題はあると思う。
ただ、こちらの考え方にも問題がある。
どうも私はネガティブになりやすい。
たぶん、多数派は否定されることにそんなに慣れていないと思う。「否定されるのが嫌だから普通になりたい」という意見もどこかで聞いた気がする。なので多数派は普通に、常識のように、自分の正しさに安心し言い聞かせるように多数派の価値観を言う。それに対し私のようなネガティブな者は自分が否定されているように感じ、「ああいうヤツが多いせいで私は嫌なことばかり」と暗い気持ちを持つ。
これを避けるにはまずこちらが「誰も否定しない言い方」を身に付けることだと思う。水色派やオレンジ派やピンク派でも緑派に優しい人はいるかもしれない。でもこちらが先に「どうせ水色派やオレンジ派やピンク派は全員敵なんだ」と言ってしまったら、仲良くしてもらうチャンスを突っぱねてしまうのだ。
仮に茶色派の一人が真っ向からこちらを否定したり意見を押し付けてきたとしても、それがすべての茶色派の人に共通する態度なわけではない。
……と、このようなことを考えたのは、昨日投稿したエッセイ「恋愛や結婚や子育てを、してもしなくてもいい世界になってほしい。」を書いたときだ。
その他の意見については辛うじて「カラーの違いである」と思える私も、「恋愛・結婚・子育て」についてはそれが正義のように感じてしまい、それをしたいと思えない自分に対し劣等感を持っている。
でもやりたくないことを無理にやったって絶対ロクなことにならないのだ。そして多数派の人が自由に「恋愛観」を語るように、恋愛しない派も自由に「恋愛しない観」を語って良いのではないかと思っている。
ただ匙加減が難しい。ネガティブな私は、「歌でもドラマでもマンガでもなんでも恋愛・結婚・子育ての話ばっかりですごく居づらいよ。世界にはそれ以外の素敵なこともいっぱいあるのにさ」という思いを抱えている。けれど意見を言うのと歪んだ気持ちをぶつけるのは違う。
でも「否定せずに意見を言う」ってどうやって?
慣れていないもので非常に難しい。
そもそもネガティブな私は「青が好きだな」と言われるだけで「この人は緑派じゃないんだな」と動揺してしまう。ということは、「私は恋愛も結婚も子育てもしない派なんです」などと言ったら読んでいる人はどう思うだろう? そもそもどういう反応を期待して、わざわざこんな意見を出すのか?
誰かを愛せるってすごいことだ。人は愛を見つけ、愛を表現するために生まれてきたといっても過言ではない。……気がする。
特に子育ては大変で、愛とか趣味とか興味とか好きなこととか、きっとそんな範囲で語れるものではない。責任重大でもある。そして全員「子育て」してもらったおかげでここにこうしていられるのであって、子育てはすべての人間に関わってくる基盤だ。子育てのおかげで人類は成り立っているのだ。
それを「恋愛・結婚・子育ては興味ないんだよね」で終わらせ、人の気持ちが分からない人間のままで良いのか? 人類を理解することを放棄しているのではないか? 「これもカラーの違いなんです~。私のも一つの意見ってことで良いでしょ」などとお気楽に主張して良いのか? 他の人が「恋愛・結婚・子育て」について語っていることをリスペクトし、こちらは発信を控えるべきではないか?
だって、私のような自分さえ良ければいい、誰も愛さないちゃらんぽらんのせいで少子高齢化が進んでいるのではないか。よく分からないけど人手不足は深刻なんじゃないか。
でも逆に、人類は他の生き物に対して割合的に増えすぎなんじゃないか、もう少し土地を他の生き物に譲るために人類を減らした方が良いんじゃないかとも思う。だから子どもを生みたい人は生み、生みたくない人は生まなくて良いんじゃないかと。それでバランスが取れる気がする。
正直私には恋愛感情も母性愛も何も分からない。「恋をしたい」「結婚したい」「子どもが欲しい」と言う人の意見を聞くと分からないなと思う。
独身の人を見かけて「仲間かな?」と思っても、「結婚したい」と言っておられるのを聞くと自分とは違うなーと思う。
分からないから迷う。どこまで言って良いんだろうと不安になる。自分がひどく未熟な人でなしに思える。
私が大口を叩いて「人類が……」などと言っても私には説得力というものがない。猫を飼っている人が猫について語る方が、猫を飼っていない人の言葉より説得力と深みと猫愛があるように……。人と関わる人の言葉は深い。人と関わろうとしない私の言葉など薄っぺらい。
でも分からないものを偽ってもしょうがないし、私だって思いを自由に表現したい。だから思ったことを書いて良いのだと、自分を正当化し、納得させ続ける。
もし人が本当に平等なら、そこを目指すなら、すべての立場の人の意見が尊重されるべきだ。こっちよりあっちの意見の方が大事とか、経験していない人には価値がないとか、そんなことないはずだ。
ただし言い方は慎重に。すべてのカラーに対するリスペクトを忘れず。
そういうことをあえて言うのも「当たり障りなく」という言葉くらい当たり障りのある表現なんじゃないかと不安になるけれど。
まだまだ今後も私は多数決で負け続けるだろう。正直悲しくなったり怒ってしまったり、ネガティブな反応をすることは多いと思う。「この世」とか「現実」とか「正論」に打ちのめされる日もある。
でも何をも全否定はしちゃいけない。時々……いやよく忘れるけれど。一応根底にその思いは留めているつもりだ。
……いつかすべてのカラーが平等に認められることを信じて。
誰をも否定しなければいい。簡単なことだ。でもそんな簡単なことが、なぜか出来ない。私は感情的になりがちで、文章を書いていると視野が狭くなりやすい。気づくと「白は眩しすぎて好かないんだ」みたいなニュアンスを含んだことを書いてしまう。
思えばいつも優しくしてくれたのは赤派や黄色派や紫派や白派の人だったのに。
このように色に例えるとまだ、「すべての色は世界に必要なんだよ。緑が一番とかあの色が嫌いとか言っているうちはまだまだだな」と冷静になれるのに、それが意見となるとなかなかどうして上手くいかない。
例えば私はスポーツが苦手だ。
そこで「私は運動が上手にできないけれど、スポーツが好きな人は世界にいっぱいいるんだよね! スポーツが上手い人ってカッコいいなぁ! おかげでオリンピックなどで世界と繋がったりもできるものね」と明るく爽やかに理解し受け入れれば良いものを、「スポーツ=嫌なもの」という感情的な記憶を握りしめてしまっている。
運動が苦手で、体を動かすのがあまり好きじゃなかった。体育の授業は憂鬱だった。対戦式のスポーツで上手く動けなかった。同じチームの人からイライラして「バカ」と悪口を言われた。ドッジボール好きな人が多かったため、お楽しみ会などの多数決では事ある毎にドッジボールが採用された。私の提案した「虫とり」とか「自由に遊ぶ」とかが採用されることはなかった。ドッジボールではみんな全力で球を投げ合っているのがすごく怖くて嫌だった。勝ち負けにこだわり始めるとみんな必死になって殺気立っているようで、体育やスポーツを強制されるのが嫌だった。ルールなど複雑なことを理解するのが苦手で、どうしてもスポーツのルールが覚えられなかった。
本来そこにあるのは「スポーツが得意な人も苦手な人もいる」というただそれだけの事実だ。勉強もコミュニケーションも、何でも同じ。
なのにひねくれると、「お楽しみ会がいつも楽しくない。嫌なドッジボールばかりさせられる。私のやりたいことは全部無視される。あの人たちのせいで」と、多数派に恨みの矛先が向いてしまうのだ。
正直、多数決で決める世の中にも問題はあると思う。
ただ、こちらの考え方にも問題がある。
どうも私はネガティブになりやすい。
たぶん、多数派は否定されることにそんなに慣れていないと思う。「否定されるのが嫌だから普通になりたい」という意見もどこかで聞いた気がする。なので多数派は普通に、常識のように、自分の正しさに安心し言い聞かせるように多数派の価値観を言う。それに対し私のようなネガティブな者は自分が否定されているように感じ、「ああいうヤツが多いせいで私は嫌なことばかり」と暗い気持ちを持つ。
これを避けるにはまずこちらが「誰も否定しない言い方」を身に付けることだと思う。水色派やオレンジ派やピンク派でも緑派に優しい人はいるかもしれない。でもこちらが先に「どうせ水色派やオレンジ派やピンク派は全員敵なんだ」と言ってしまったら、仲良くしてもらうチャンスを突っぱねてしまうのだ。
仮に茶色派の一人が真っ向からこちらを否定したり意見を押し付けてきたとしても、それがすべての茶色派の人に共通する態度なわけではない。
……と、このようなことを考えたのは、昨日投稿したエッセイ「恋愛や結婚や子育てを、してもしなくてもいい世界になってほしい。」を書いたときだ。
その他の意見については辛うじて「カラーの違いである」と思える私も、「恋愛・結婚・子育て」についてはそれが正義のように感じてしまい、それをしたいと思えない自分に対し劣等感を持っている。
でもやりたくないことを無理にやったって絶対ロクなことにならないのだ。そして多数派の人が自由に「恋愛観」を語るように、恋愛しない派も自由に「恋愛しない観」を語って良いのではないかと思っている。
ただ匙加減が難しい。ネガティブな私は、「歌でもドラマでもマンガでもなんでも恋愛・結婚・子育ての話ばっかりですごく居づらいよ。世界にはそれ以外の素敵なこともいっぱいあるのにさ」という思いを抱えている。けれど意見を言うのと歪んだ気持ちをぶつけるのは違う。
でも「否定せずに意見を言う」ってどうやって?
慣れていないもので非常に難しい。
そもそもネガティブな私は「青が好きだな」と言われるだけで「この人は緑派じゃないんだな」と動揺してしまう。ということは、「私は恋愛も結婚も子育てもしない派なんです」などと言ったら読んでいる人はどう思うだろう? そもそもどういう反応を期待して、わざわざこんな意見を出すのか?
誰かを愛せるってすごいことだ。人は愛を見つけ、愛を表現するために生まれてきたといっても過言ではない。……気がする。
特に子育ては大変で、愛とか趣味とか興味とか好きなこととか、きっとそんな範囲で語れるものではない。責任重大でもある。そして全員「子育て」してもらったおかげでここにこうしていられるのであって、子育てはすべての人間に関わってくる基盤だ。子育てのおかげで人類は成り立っているのだ。
それを「恋愛・結婚・子育ては興味ないんだよね」で終わらせ、人の気持ちが分からない人間のままで良いのか? 人類を理解することを放棄しているのではないか? 「これもカラーの違いなんです~。私のも一つの意見ってことで良いでしょ」などとお気楽に主張して良いのか? 他の人が「恋愛・結婚・子育て」について語っていることをリスペクトし、こちらは発信を控えるべきではないか?
だって、私のような自分さえ良ければいい、誰も愛さないちゃらんぽらんのせいで少子高齢化が進んでいるのではないか。よく分からないけど人手不足は深刻なんじゃないか。
でも逆に、人類は他の生き物に対して割合的に増えすぎなんじゃないか、もう少し土地を他の生き物に譲るために人類を減らした方が良いんじゃないかとも思う。だから子どもを生みたい人は生み、生みたくない人は生まなくて良いんじゃないかと。それでバランスが取れる気がする。
正直私には恋愛感情も母性愛も何も分からない。「恋をしたい」「結婚したい」「子どもが欲しい」と言う人の意見を聞くと分からないなと思う。
独身の人を見かけて「仲間かな?」と思っても、「結婚したい」と言っておられるのを聞くと自分とは違うなーと思う。
分からないから迷う。どこまで言って良いんだろうと不安になる。自分がひどく未熟な人でなしに思える。
私が大口を叩いて「人類が……」などと言っても私には説得力というものがない。猫を飼っている人が猫について語る方が、猫を飼っていない人の言葉より説得力と深みと猫愛があるように……。人と関わる人の言葉は深い。人と関わろうとしない私の言葉など薄っぺらい。
でも分からないものを偽ってもしょうがないし、私だって思いを自由に表現したい。だから思ったことを書いて良いのだと、自分を正当化し、納得させ続ける。
もし人が本当に平等なら、そこを目指すなら、すべての立場の人の意見が尊重されるべきだ。こっちよりあっちの意見の方が大事とか、経験していない人には価値がないとか、そんなことないはずだ。
ただし言い方は慎重に。すべてのカラーに対するリスペクトを忘れず。
そういうことをあえて言うのも「当たり障りなく」という言葉くらい当たり障りのある表現なんじゃないかと不安になるけれど。
まだまだ今後も私は多数決で負け続けるだろう。正直悲しくなったり怒ってしまったり、ネガティブな反応をすることは多いと思う。「この世」とか「現実」とか「正論」に打ちのめされる日もある。
でも何をも全否定はしちゃいけない。時々……いやよく忘れるけれど。一応根底にその思いは留めているつもりだ。
……いつかすべてのカラーが平等に認められることを信じて。
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