上 下
1 / 1

ちゃんと気をつければ、オリジナル創作はリスク以上に自由があるかも

しおりを挟む
 笛を吹いたり歌を歌ったり、ちょっと音楽遊びをしているけれど、音楽というのも創作物である以上、著作権が怖い。また、法に触れなくても、怖いことは色々あるようだ。

 さっき平原綾香さんについて調べていたら、「見境なくクラシックをアレンジしまくっていて嫌い」というような言葉が出てきてショックだった。ショックといっても、そういう意見があることは以前から確認済みなんだけど。

 この間も、「ゲームを原作としたアニメ」についてのコメントを見ていたら、「アニメ版しか見ていないヤツが偉そうに語るな」というコメントが出てきて、ヒョエッとなった。


「原作」があるものは、みんなそれぞれ原作への思い入れがあるらしい。著作権が切れていない作品を勝手に転載したり盗作したりしてはいけないが、著作権切れであっても、「その扱いは許せない」というポイントがあるようだ。
 ファンの作品に対する熱意は凄まじい。まるで作品を理解し守ることが使命であるかのよう。

 みんな「作品」「創作」「鑑賞」への本気度がすごい……。「息抜き」「暇つぶし」「なんとなく」程度の認識で作品に関わるのは危険かもしれない。
 その上で、批判されるとしても本気で挑む覚悟が必要なのかもしれない。趣味の二次創作とかであっても。

 となるとやはり、自分で完全オリジナルな創作をすることで得られる「自由」もある。新しい世界を創れる。「◯◯に似ていますね」「パクりっぽい」と言われたとしても、よほどのことをしていなければ「自分の作品」で通せるだろう。


 しかし創作を仕事にしようとすると、やはり……大変なのだろうなぁ。オリジナルにせよアレンジにせよ、「批判なんていくらでもカモ~ン」くらいの心境になれなければ、ストレスが増えていって挫折しそう。
「毎日働くのが辛い。そうだ、好きなことなら仕事にできそう」という程度で覚悟を決めていない私は、この先大打撃を受けっぱなしかもしれない。

 尖った表現をすれば賛否両論。ほんわか路線でも「つまらない」と言われたりすることだろう。上手い人、面白い人、私の好きな作品を書いた人でもAmazonレビューで「下手」「人真似」「気持ち悪い」とか言われていたり。あんなに面白いのに、分からない人もいるものだ。

 とりあえずあの荒波に少しでも慣れたい。「こんなコメント、屁でもないわ」くらいに思いたい。今は自分の好きな作品が批判されていたり、他の人同士が意見を言い合っているのを見たりする程度でビビっているが、矛先が自分に向いても平然としていられるくらいになりたい。


 普通に働くにせよ、好きなことをするにせよ、「生きたい」と決めたならどの道、それなりに日々を耐え抜いて生き残らねばならないのだ。逃げられる部分ではしっかり逃げ、吠えられるところではキャンキャン吠えつつ、逃げられない場面で耐えられるよう強くなりたい。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

ファンの心の自由

月澄狸
エッセイ・ノンフィクション
 とある作品を好きになりかけていたが、作品のファンからの心ないコメントを見かけて、若干退いてしまった。  大勢に向けて表現・発信したい場合、創作をするというのは一つのコミュニティを作ることなのかもしれない。私たちも一人一人性格の違う投稿者であり、そのコメント欄には投稿者や、投稿に集まる読者の個性が表れる。  もしも作者としての私が「私の作品を全部見てもいないくせに、私の作品について発言しないでほしい」などと言ったら、私の作品はそういう雰囲気のコミュニティになってしまう。「気が向いたらほんの少し覗いてくださるだけでも、すごく嬉しいです!」と言えば、読者様の間でもそういう空気になるであろう。  できればどこも、大らかな空気であってほしい。ただ……自分自身、書き手の視点で語るか、読み手の視点で語るかによって、言うことが矛盾しそうな気がする。  読み手視点であれば、「それぞれ自由に楽しめば良いじゃん。好きなところだけかじって、あとは自分であれこれ想像するのもOK」「海賊版サイトは批判されがちだけど、お金を払えない人は芸術を楽しめないなんておかしくない?」「作品は読者のものだ」と思うが、書き手視点だと、「欲を言えば全話読んでほしい。できれば順番通りに。各作品に共通のテーマや流れがあるんだ。作品同士の繋がりに気づいてほしい」「良いなと思ったらお金をいただきたい。食べ物を売って生きる人がいるように、芸術家も芸術を売ってお金を得ないと生きていけないんだよ。そのシステムを軽視しないでほしい」「作品は作者のものだ」と思う。  今回見た「心ない」コメントというのも、こちらの捉え方であり、視点によって印象は変わる。作者側の思いを本気で汲もうとする「ファン」は、生半可な気持ちで作品という聖域に入られたくないのだろう。「娯楽でくらい日常生活から解き放たれて、自由に楽しみたい」「作者の思いや方向性を汲むより、作品の世界観を借りて、読者であるこちらが想像を楽しみたい」という感覚の我々一般読者。相手からすればこちらの方が「心ない」のかもしれない。「ちゃんとお金を払い、作品や作者を隅々まで理解してからものを言えよ」と。 「本気で見てほしい」書き手。「自由に楽しみたい」読み手。書き手の思いを汲もうとする、本気のファン。誰も悪くはないのだが、「食っていかなきゃならない」「お金がないと生きられない」「好きなことに費やせる時間や金はない。結局時間や金銭を費やせる人だけが本気でいられるのだ」というこの世のシステム含め、人間ってめんどくさい。

プロが作ったもの、売り物には何を言っても良いってのも思い込みだよね

月澄狸
エッセイ・ノンフィクション
フォロワー様や友達など、身内(?)に優しく、そうじゃない商品に対してはあまり、相手が人間であることを意識しませんね。

大して相手のことを考えてない人ほど気軽にアドバイスしてくる

月澄狸
エッセイ・ノンフィクション
 このタイトルでものすごく傷ついた人、すみません。喧嘩しようとか責めようとか、そういうつもりはまったくありません。「心の防御」について考えたいだけなんです!  私も、誰かにアドバイスしているつもりはまったくないのですが、無意識に「ああしたら?」「こうしたら?」と意見を押し付けまくっていると思います。そういう意見の押し付け、自分のは無自覚だから何とも思わないけど、されたときにどうするか。って話です。  ん? しっくりこなければテキトーに聞き流せばいいんじゃないかって?  もしかしたら私、「テキトーに聞き流す」とか「忘れる」とかいうことが、やや苦手なのかもしれないです。

敬語キャラには萌えるけど、現実の敬語はめんどくさい

月澄狸
エッセイ・ノンフィクション
敬語キャラは好きだ。根っから丁寧な性格だったり、丁寧なフリしてそうでもなかったり。そういった場合、キャラクターは好きで敬語を使っているのであり、誰かから強制されているわけではない(ことが多い)だろう。敬語は方言とかと同じ個性だ。……でも現実の敬語はめんどくさいな!

毎日がカルチャーショック

月澄狸
エッセイ・ノンフィクション
 違う星、違う時代に来たように、驚きの連続。それもきっとお互い様なのだ。

最初に目にする表現は特別

月澄狸
エッセイ・ノンフィクション
今見たら「ああ、よくある表現だな」と思うようなシーンでも、小さい頃見たものは、やけに心に残っていたりする。

批判されたい派なら自分もして良いだろういいけど……批判文をネットで見るのも苦手なくらいならしない方がいいよなぁ

月澄狸
エッセイ・ノンフィクション
撃っていいのは撃たれる覚悟があるヤツだけだ、みたいな。(←元ネタは知りませんごめんなさい。)

一人の時間が幸せ

月澄狸
エッセイ・ノンフィクション
 少し前に書いた文章。連載に入れようとしていた。  ボツにしようと思ったが、せっかく整えた文章だったので、とりあえず投稿。でも心苦しいというか何というか、迷い続けている。  一人がいいだの人と話すのが苦手だの言ってみても、私は結局、人一倍寂しがりなだけで、構ってもらいたいけれど自信がないから、創作で気を引こうとしているのかもしれない。そして寂しいと言っても、話さえできれば何でもいいわけではなく、「自分自身を見てもらいたい」というような恥ずかしい欲求が強いのかもしれない。  この世界の話題の多くは、自分たち以外から発せられたものだ。ゲームとか本とか仕事とか建造物とか芸能人とか政治とか。  私もそういう、どこかで話題になるような、世界の景色の一部でありたいのか。そもそも一部などでは満足できないのか。  本当にやりたいことは何か、どう時間を使いたいのか。優柔不断で決まらないままだ。いつまでそんなことを言っているのだろう。  何も成せないまま時間が過ぎてゆく……。それが私らしい人生ということなのかもしれない。残念ながら。

処理中です...