ただΩというだけで。

春の足音

6.

  学業の優秀さ以外、もともと自己評価の低い津田である。長年矜持を支えていた薬学の知識さえも時代遅れになりつつあると悟って以来、彼の自尊心は更にぐらぐらと揺らいでいるらしい。
  津田の美点を列挙するのは容易たやすいが。
  横目でチラリと見上げてきた彼に無性に触れたくなって、乾は津田を抱き寄せた。

「何を言っているのか分かりませんね」

  耳元でそう囁くと、津田は反駁のために息を吸い込み、それをそのまま白い吐息にして吐き出した。

  安普請のアパートの部屋は、閉め切っていてもなかなか暖まらない。互いにコートを着たままの身を寄せ合い、津田は照れたようにふふっと笑った。

「さっき…… 凛花のことかわいいって言ってくれて、ありがと。たぶん本人も、喜んでると思う」
「それは嬉しいですが…… 今のこの姿が見えてるんだとしたら、ちょっと恥ずかしいです」
「じゃあ写真、伏せとく？」

  冗談だと分かる声音で津田が嘯く。実際、彼はそう言っただけで、写真に手を伸ばそうとはしなかった。

  津田の軽口を聞けるようになったことが嬉しいと、涙ぐんでいた佐伯を思い出す。あの日、血の繋がらない義父子おやこでありながら間をつなぐ人を失っても切れなかった絆に、乾は感銘を受けた。そして、自分も律とそういう絆を結びたいと強く思った。

  別れた妻と共に暮らす二人の実子は、自分が死んでも悲しまないだろう。それは仕方のないことだと、乾は思う。それでも、本当は父親として必要とされたかったという欲求が自分の内にあったことに、律と過ごすうちに気づいたのだ。

  津田と一緒に彼の成長を見守りたい。そしていつか、この部屋にある二枚のように津田と自分の写真を並べて飾り、律と彼の新しい家族がときどきでも思い出してくれたら嬉しい。
  乾は自分がそんな未来のビジョンを持つことなど、半年前には考えもしなかった。