ただΩというだけで。

失踪

4.

  スーツ姿の津田が出社した今朝、部署の誰もが彼を意識して、空気が揺れた。女性のみならず男性社員まで、目を奪われて言葉を失っていた。増井と飯野はちらちらと隣席に視線を飛ばし、まるで発情したΩのフェロモンにあてられているかのように、部署全体が浮き足立っていたのだ。

  乾自身、忙しく電話対応に追われながら、普段より襟の詰まった津田の横顔を幾度となく盗み見てしまった。
  その彼が退出したオフィスに、ようやくいつもどおりに息ができる雰囲気が漂っている。

  相手が女性であれば、服装について何らかのコメントをすればすぐにセクハラと言われてしまう時代だ。乾が管理者になるときに社外で受けさせられた研修でも、各種ハラスメントについてはしつこいくらいに学ばされた。

  たとえ対象が男性でも、相手が不快に感じればセクハラにあたるのだが、車中で津田のスーツ姿を褒めるくらいなら許されるだろうかと思っていたのに。
  乾は彼と車で移動する計画が頓挫したことを残念に感じながら、副主任に後を任せてエレベーターに乗り込んだ。


  時刻は正午を少し過ぎたところ。津田はもう電車を降りただろうか。乗り継ぎがスムーズにいけば、もう料亭に着いているかもしれない。
  乾は駅からの道を早足で歩きながら、行ったことのない料亭のしつらえを夢想した。
  河野は先に来ているだろうか。
  あの二人が個室で向かい合って座るところを想像すると、胸の奥がざらっとする。津田を一人で行かせることになるなんて、全く想定していなかった。

  妻からの呼び出しにも、応じるつもりなどなかったのだ。
  でも。

「取り返しのつかないことになったら、どうするんですか」

  そう、津田に言われては。
  実際に「取り返しのつかないこと」になって苦しんだ津田に言われてしまっては、それ以上もう何も言えなかった。