ただΩというだけで。

何かのはじまり

2.

  子どもの姓は、津田と愛人関係にあると噂される常務と同じだ。特別珍しい苗字ではない。かといって、偶然の一致とは考えにくい。
  続柄の欄は、記入漏れか故意か、空欄のままだった。

  佐伯常務は定年間近の既婚者だ。めったに見かけることもないので顔もおぼろげだが、数年前に社内報で家族写真を見た覚えがある。津田とは親子ほども年が離れているし、佐伯のパートナーは女性だったはずだ。

（でも、ありえない話じゃ、ないか…… ）

  60代の会社役員が愛人を囲うのは決して珍しい話ではない。その愛人を愛着から、あるいは責任感から、自分の会社に置いておこうとする心理も分かる。

  その対象が若い女性ではなく壮年の男だから違和感を覚えるだけだ。
  しかも津田はΩだ。
  発情したΩのフェロモンにあてられれば、たとえ老年期の愛妻家でも、意に添わず男を孕ませてしまうこともあるだろう。

  乾は発情した身体で出勤してきた津田の姿を思い出した。
  抑制剤ピルで抑えられてはいても、αを誘うフェロモンが溢れ出ていた。不快なのでできるだけ見ないように、近づかないようにしていたが、津田の吐息や艶を帯びた小さなうめき声が、耳についてたまらなかった。

（いや、おかしいな…… ）

  乾はハッとした。
  つじつまが合わない。
  津田が佐伯の愛人なら、その子どもを産み育てているのなら、番つがいになっているはずだ。
  他の多くの企業同様、アクア製薬の役員は全員αだ。常務である佐伯がβや、ましてΩだという可能性はない。

（番を得たΩは、あんなふうに発情しない…… ）

  津田が誰の番にもなっていないことは明らかだ。無理に出勤してきた津田を乾が帰らせて以来、津田は定期的に3日程度の発情休暇を取っている。ピークを過ぎてから出勤してくるが、甘い匂いでまだ発情期が終わっていないことが分かる。