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青春イベント盛り合わせ(9月)

出発前日のこと

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 修学旅行の前日の朝、野球部は朝練を終えて整列してた。いつも通りに恭介と香山が前に並んで森監督と生徒で向かい合う。

「今日の放課後から2年が不在になる、その間のリーダーを赤松に務めてもらう。そして、ブルペンチームの方は弥栄やさか三輪みわを中心に練習をしてくれ。」

「はい!」
「はい!」
「は…い……?」

「それと松田。」
「はい。」
「日曜はご苦労。堂々としたピッチングだった。俺からはお前にこれ以上は何かを言えないが、これからの経験は必ずお前の今後の人生の大事な糧となるはずだ、多くを学び吸収して存分に発揮してこい。」
「はい!」
「以上だ。」

 ありがとうございましたー!


 森監督の背中が見えなくと、弥栄は早速智裕と香山に飛びついた。同じく戸惑う顔をしている1年生・三輪暎一エイイチは恭介に駆け寄った。

「キャプテン!俺がブルペンリーダーって…何でですか?」
「お前が第2捕手だから当たり前だろ。」
「でも俺…香山先輩やキャプテンみたいにリーダーシップとか取れないです…。」
「仕方ねーだろ、弥栄ポンコツがエースなんだから、お前にも一緒にやってもらわねーとブルペンが崩壊する。」

 ポンコツと指された弥栄は案の定、香山に抱きついて足蹴りを食らっていた。

「な?お前が支えてやってくれ。ダメそうだったら今中いまなか先輩に来てもらえばいいから、あの人暇そうだし。」
「はい……。」

 2人の哀れみの視線に気がついた香山と弥栄と智裕はバツがわるそうに2人から目をそらしてそそくさと部室に戻った。

(優勝出来んのか?俺ら。)


***


 みんなそれぞれ制服に着替えて次々と「お疲れー。」と出て行く。智裕もスポーツバッグにテキトーに衣類やスパイクを詰め終えて出て行こうとしたら、凄い勢いで腰から抱き寄せられた。

「うぉ⁉︎だ、誰⁉︎……赤松⁉︎」

 抱き寄せた犯人は直倫だった。直倫は俯いて負のオーラを放っている。しかしこの引き止め方は裕也恋人のそれと同じで、夏の大会の「智裕と直倫ホモップル疑惑」が再び智裕の頭をよぎる。

「赤松!やめろ!離せ!」
「あ、すいません……肩や腕は引っ張ってはいけないと思ったので…。」
「普通に呼び止めろよ!声出せ!」
「あ。」
「何で思いつかなかったんだよ!」

 やっと解放されて智裕は深くため息を吐きながら、直倫の方を振り向いた。

「で?何だよ。」
「修学旅行の間、裕也さんが変な男に襲われないか守ってて下さい。」
「そんな男、この世にお前しかいねぇから大丈夫だ安心しろ。」
「それと裕也さんの画像を逐一送って下さい。」
「残念、俺は今回あいつと違う班だよ。優里に頼め。」
「え、松田先輩と裕也さんがセットじゃないんですか?というか高梨先輩も違うんですか!」

 直倫の驚いた表情に智裕の方が驚いた。

「いつでも俺と大竹が一緒なわけねーだろ!」
「松田先輩って高梨先輩たち以外に友達いるんですか?」
「いい加減殴るぞ。」
「あれ?松田くんって宮西くんたちと誰だったっけ?」

 話を聞いてた野村が割って入ると、智裕は野村を見て答えた。

「井川だよ、美術部の。俺1年の時に教科委員一緒だったし割と話すぞ。」
「へー…松田くんが特定の女子と仲良いなんて珍しいね。平等に仲良しな感じなのに。」
「井川はうちのメスゴリラだらけのクラスで唯一の良心だからな。日曜もアイツらにボロカスに言われた時にさ…。」


***


 日曜日、選手もコーチも解散し、遠征組のバスを見送ったあとのことだった。


「智裕くん、お疲れさ」
「智裕くん、良く投げ切ったね。」


 拓海と同じタイミングで私服に着替えた由比コーチが智裕の元にやってきた。記者もいなくなったので気を抜いて制服のネクタイを外そうとしてた智裕は慌ててネクタイを締めて「お疲れ様です!」と直角にお辞儀をして挨拶をする。この時すぐ近くにいた拓海たちは智裕の眼中にはなかったのだろう。


「2回の3失点からの立ち直りはよくやったね。フォームも制球も悪くなかった。またすぐに強化合宿だから数日は体を少しだけ休めて、腕のケアも怠らないよう、いいね?」
「は、はい!」
「……智裕くん。」

 由比は柔らかく笑うと、智裕を抱き寄せた。そして第3者にわかるかわからないかくらいに、智裕の耳の裏あたりにキスを落とす。

「ひゃう⁉︎」
「……僕の気持ちは本気だからね。」
「…………あ、あの……その……。」
「頑張ろうね。」
「は……はい……。」


 拓海とクラスメートは何をされたのか大体察しがついた。拓海は目を潤ませてしまう。

 由比の姿が見えなくなっても智裕はキスをされたところを指でなぞり惚けてしまっていると、2年5組の女性陣が一斉に智裕に攻撃を開始した。


「しっっっっっんじらんない!」
「この浮気野郎が!」
「お前今すぐ去勢してやろうか!」
「松田まじサイテー。」
「なにを堂々と口説き落とされてんのよ!」
「土下座しろ土下座!」
「まじでありえない!普通に拒否しろよ!」

 智裕を怒ろうとしてた男子たちも女子たちの勢いに圧されて震えていた。


「み、みんな!落ち着いて!」


 そう大声を出して止めたのは意外なことに井川だった。いつも井川と話している女子が「何で?」と訊ねる。

「もしかしたらまだ……記者とかいるかもしれないから、バレたらまずいでしょ?」
「そうだ、井川さんの言う通りだ。まだこの辺には記者がウヨウヨしてる。地元に帰ってからタコ殴りにすればいいからここは一旦落ち着こう。こいつは週刊誌の格好の餌だからな。」

 井川の制止に一起が同調したことで一旦は収束した。智裕は女子たちにタコ殴りされることを恐れてしゃがみこんで震えていたので井川の冷静な判断と優しさに救われた。

「井川ぁ……本当に助かったぁ……。」
「あれは……松田くんも不意打ちだったんだし…し、仕方ないよ……石蕗先生も、落ち込まないでください、ね?」

 井川は智裕だけでなくショックをうけていた恋人の拓海にもフォローを入れてくれた。


***


「マジで井川が女神だと思ったんだよ。」
「まぁ……井川さんは優しいからね。それに……。」

(きっと松田くんのことが好きだからなんだろうけどね。)

 9月半ばからの修学旅行の話し合いなどで智裕と井川が一緒にいるところを度々見てきた野村は、何となく井川が智裕に好意を持っていることに気がついていた。またそれを当人である智裕は微塵も気付く気配がないことにも少々苛立ちを感じている。


「その井川さんって松田先輩のこと好きなんじゃないですか?」

 サラッと言うのはTHE 野球以外は空気を読めない男・直倫だった。

「あーないない。井川は俺だけじゃなくてみんなに優しいからなー。」

 それを見事に返球するのはTHE 自分への好意に超鈍感男・智裕だった。

(高梨さん……を長年受けてたんだよね…流石に同情するよ……。)


***


 その日、2年生は朝のHRから浮き足立っていた。明日からの修学旅行に向けての楽しみで胸がいっぱいだった。

 そんな中、智裕だけは憂鬱な顔をする。


「修学旅行中にさ、どっかで1発ヤれねーかな。」

 旅行のしおりにあるスケジュール表をだるそうに眺めながら智裕はそんな事を吐いた。それを聞いた里崎は嫌そうな顔をした。

「何をとは訊かないけど、とりあえず陽の高いうちから下ネタやめろ。」
「拓海さんって1人部屋なんだよなー、あーどっか抜け出してヤりてーよー…もう2週間もチューだけで我慢してる俺偉くね?」
「はいはい、そろそろ黙ろうか。つーか隣に乃亜ちゃんいるのによくそんな事を臆せず話せるわね。神経疑うわー。」
「よ、ヨーコちゃん…私なら平気だから。」

 智裕のどストレートな欲求不満に井川は顔を赤くして俯いた。

「で、京都のコースは清水寺に地主神社行って…嵐山とかはいいの?」
「行きたいけど今外国人ですごく混んでるから移動時間も厳しいかもだしねー…。」
「俺はヨーコさんと井川に任せるわー。全日本合宿のことで頭いっぱ……。」

 智裕はだるそうしていたが、自分の発言で日曜日に由比にされたことを思い出して勝手に赤面をした。
 里崎は「はあぁ…。」と深ーいため息を吐いて、宮西はニヤニヤとして、井川も苦笑いを浮かべながら顔を真っ赤にする。

「松田ぁ。」
「な、何だよ。」
「お前、帰って来る頃にはケツ穴処女も卒業してっかもな。」
「するかぁぁぁぁぁぁ!」

 宮西の下世話な一言に智裕が叫びツッコミを入れると、いつの間にか担任の裕紀に背後を取られて70%程の力のチョップを食らった。

「脳内下半身発情猿は黙れ。そして旅行中のわいせつ行為は禁止な。」
「ほっしゃーん…勘弁してー。俺月末まで会えなくなるんだからさー…拓海さんの誕生日だって当日いないんだしさー、どっかで1時間くらいセックスさせてくれよー。」
「だったら今日のうちに済ませとけ。」
「何そのトイレの休憩みたいな言い方…。」

 期待は出来ずにそのまま机に突っ伏して智裕は不貞腐れた。里崎と宮西は呆れて放置を決め込む中、井川は恐る恐るだが智裕の肩を優しく叩いた。

「松田くん、本当に石蕗先生が好きなんだね…。」

 井川は自分で発したその言葉に少しだけ傷付いていた。

「んー……ちょー好きー……だよ。」

 井川の方に顔だけ向けると智裕はだらしなく笑う。

「だから離れんのちょー寂しーし……それに……。」

 智裕は言葉を詰まらせた、というか呑んだ。井川はその違和感に気がついたが、ただ笑った。

「とにかく俺は1秒でもいいから修学旅行で拓海さんとイチャイチャしてぇんだよおおおお!」
「あー……泣かないでぇ……。」

 井川は智裕を慰めるように頭をそっと撫でた。その手が熱くなる。

「井川ってやっぱ菩薩級に優しいなぁ…うん、あんがと……ちょっと元気出た。」

 また智裕は無邪気に笑う。その笑顔は今の井川にとって残酷で、胸がツキンと痛んだ。


***


 昼休み、井川は吹奏楽部コンビの古川、南、それに腐女子コンビの高梨、増田と一緒に弁当を食べていた。

「どうしよー!今日やっちゃったよぉー!触っちゃったよぉ!」

 井川は午前中の自分の行動に今更羞恥心を自覚し、両手で顔を覆った。

「いやいや…あんなん触ったってヘタレが伝染うつるだけだから。」
「乃亜にしてよくやったわよぉん。」
「けど…あんなことして……気づかれたりしないかなぁ…。」

 消極的な井川にしては積極的なアプローチをしたことに皆賞賛を送るが、当の井川は不安だった。

「あのクソ鈍感男は言葉にするまでわかんない奴だから、てゆーか言葉にしてもわかんない奴だから、ね。」

 経験者は力強く語った。

「優里の言葉は重いわ…。」

 南は大きくため息を吐く高梨に感心する。

「何だっけ?小学校の修学旅行の時?意を決して告白してみたらオカン扱いされたんだっけ?」
「ヘタレのくせによくもそんなデリカシーないこと言えるわね。」
「はぁ…思い出したくもない!だからね、乃亜ちゃん…気持ちを伝えるだけでも大変よ。」
「加えて松田くんは常にモテたがってるしね。日本代表と合流し始めたくらいから人気を意識し出しちゃってるんだよね、部活中とか。」

 井川以外の4人は智裕に呆れたような口ぶりだった。井川は智裕に触った右の掌を左手でさすりながら笑って話を聞く。



「江川っちぃぃぃぃぃぃ!んな御無体なぁああぁぁ!」


 少し離れたところから噂の主である智裕の泣きそうな声がしたので5人とも思わずそちらを見た。

「自分の力でやれ。そんでやってねーのは自業自得。」
「俺これ今日中に出さなきゃ留年させられるんだよおぉぉ!中間テストも打倒アメリケーノでいないんだよぉぉぉぉ!」
「そんなの夏休み前からわかってたことだろ!勉学を疎かにしたお前が悪い!」

 どうやら修学旅行前に出された特別課題が終わってないらしい智裕がいつものように一起に泣きついていた。その頼みの糸も無残に切られようとしているところだった。

「もういい!今の俺には江川っち以外の手があるんだもん!な、井川!」

 智裕は拗ねながらぐるりと井川を見つけてそちらを振り向く。そしてあっという間に井川の席までやってきてひざまづく。

「神様仏様井川様あああああ!鬼に見捨てられた哀れな小僧にご慈悲をぉぉぉ!」
「ちょ、っと……え、ま、松田くん⁉︎」

 井川は只々戸惑う、そして顔の温度が上がるのがわかる。

「おい松田どへタレ、あんた如きが乃亜に頼みごとをするならもっと頭下げな。」

 智裕にやたら厳しい南は智裕を盛大に見降ろして凄んだ表情をすると、智裕は条件反射のようにすぐに正座をした。

「井川ぁ!頼む!放課後付き合ってくれぇぇぇえ!」

 安定の土下座。そして南と高梨はそんなヘタレの頭に足を乗っけて踏んづける。智裕の頬は床と同化しそうになるほどめり込むが、ドMにはご褒美だった。

「乃亜ちゃん、悪いこと言わない。やめときな。」
「絶対ろくな事起こんないから。」
「南ぃ…俺は純粋に勉強を……あ、気持ちいい♡」
「キモい。」

 南が真顔で智裕の顔を蹴ると智裕はゴロンと横倒れになった。その姿はもはや日本のエースの片鱗さえ残っていない。あまりに哀れだったのか、井川は席を立って智裕に駆け寄ると、笑顔を向けた。

「いいよ、一緒に頑張ろう。」
「井川ぁ……神様仏様井川様あああああ!おい優里!これが女子だぞ!見習え!」

 起き上がった智裕は井川の背中をポンポンと叩きながら「じゃ、頼むな。」と笑い教室を出た。

「あーあ…乃亜ぁ…頑張りなさいよー。」

 井川は数秒経ってから事の重大さに気が付いて、その場にしゃがみこんだ。


***


 5限目は科学だったが、担当教諭が不在ということで自習になった。科学室にて出された課題プリントを教科書を見ながらワイワイ言いながら解いていく。

「あ……。」
「ん、どしたの、委員長。」
「消しゴム、新しいの教室に置きっぱだった。ちょっと取ってくる。」

 一起は忘れ物を取りに科学室を出て2年5組の教室に向かう。誰もいない廊下がやたら違和感で早足になる。
 もちろん、教室にも誰もいないと思って無遠慮に入ると、そこには人がいた。


「あ…。」
「ん?……あぁ、江川。」

 
 今の一起が1番嫌なシチュエーションだった。静寂な空間に、クラス担任と2人きり。

「今授業中だろ、珍しいな、お前がサボりなんてさ。」
「いや…忘れもの取りきただけです……。」

 なんとなく気まずくて、一起はあからさまに目を合わせずに教室に入ると自分の席に向かってさっさと用事を済ませる。

「…一起。」

 いつの間にか裕紀は一起の後ろに回っていて、一起は少しだけ強く抱きしめられた。

「何ですか。」
「んー…何となく。」
「ここ、学校ですよ。」
「誰もいねぇし、いいじゃん。」
「よくない!」

 いつもの冗談めいた怒鳴り声ではなかった。思い切り裕紀の逞しい腕から抜け出して、真っ赤になった顔を下に向ける。でもこれは逆効果だった。涙が、こぼれる。


「大阪行った日から…なんか、全然…違う……。」
「何が。」
「だって…あの前まで、ウザいくらいメッセージ送って家に呼び出したりさ、みんながいても俺に触ってきたりさ、そういうの…ウザかったけど、ちょっと…安心してたのに…。」

 怖くてもちゃんと逃げずに伝えたくて、グッと引き締めて涙を流しながら裕紀に訴える。

「先生は、大人だし、結婚してるし、俺なんか遊び相手とか、からかうオモチャとか、そんな感覚かもしれないし、けど……けど俺は……俺はぁ……ちゃんと、好き、だから……わかんないよ…。」

 ギュッと目をつぶって、顔をしかめて。

「わかんねぇよ!」


 その叫びが何よりも裕紀の心に重く刺さった。


***


 放課後、拓海は職員室から保健室に戻る道中だった。生徒の昇降口を横切る時に、愛しい恋人の姿を見かけた。
 今日はまだ一度も会えてない。いつもなら放課後か昼休みにやって来て、拓海の希望を叶えてくれるのだが。
 拓海は「智裕くん」もしくは「松田くん」と声をかけようとした。


「いやぁ、マージで助かったわ。マジでサンキューすぎるわ、井川。」
「ううん、松田くんもちゃんとわかってたから。私は何も…。」
「そんなことないって!俺1人だとマジで明日ほっしゃんのゲンコツ食らってたし。」

 智裕の隣にいるのは、智裕とは30cmほど身長差のあるだろう二つ結びの女子生徒。2人の雰囲気は友人なのだろうが、なんだか高校生らしい爽やかな。それが拓海の胸をざわつかせる。

「京都の自由行動の時になんかおごるわ。今金欠、ごめん。」
「そんな、気遣わなくていいよ。松田くんだって大変なんだし、その、友達として当然のことしただけだよ。」
「そうやって俺を労ってくれるのはだよぉ。」

 そう言って眉を下げて井川の頭を撫でる智裕。井川は少し俯いて、本当に嬉しそうに笑う。


(智裕くん……。)


 心の中で泣き叫ぶ。グッとこらえて智裕たちに見つからないように立ち去った。


(井川さん…って、すごく良い子で…可愛い子で……本当なら、ああいう子が智裕くんの隣にいる方が…こうしてこそこそしたりせずに済むんだろうけど……。)

 そこでよぎるのは、神宮球場での兄の言葉。彼の言葉に当日は反抗したが、冷静に考えれば正しいことなのだろう、と。

(僕とこんな関係じゃなかったら、智裕くんは修学旅行は好きな女の子と楽しい思い出を作ることだって出来たかもしれないのに。僕は…僕は、智裕くんの邪魔しか出来てないのかな…。)


「ツワブキ先生!」


 拓海が、弱くて沈みかける、そんな時にいつも助けてくれるのは、悩みのタネの、愛しい人。

「ツワブキ先生、あのさ。」

 少しだけ息が上がっていた智裕は、キョロキョロと辺りを警戒しつつ、拓海の耳元に近く。


「明日、明後日、必ず会いに行くから。」


 そして気付かれないように、そっと拓海の髪にキスをする。された拓海は、泣きそうになった目を堪えて、笑顔を向ける。


「うん…俺も、会いたい。」
「へへ…じゃあな!今日はゆっくり休んで、ね。」

 ひらひらと手を振るその仕草も、全部輝いて見えた。


「大好き、だよ……。」


 きっと智裕には聞こえないだろうけど、呟かずにいられなかった。


***


 その日の夜、松田家はやはり騒がしかった。

「えーと…ユニフォーム、スーツは大阪で支給だから…あとジャージ……グローブの手入れ一式、スパイク…靴下、パンツ…。」
「だから何で前日のこんなギリギリになってるのよ!だから早くやれって言ったでしょ!」
「うるせぇよ!あーもう、どこまでやったか忘れたぁ!」

 母に怒られながら3週間以上の旅の準備に今更追われている。

「にーちゃん邪魔!」
「お前、ちょ、服踏むなよ!」
「別に元々汚ねぇじゃん。」
「んだとぉ⁉︎おい、表出ろや!」
「出てやるよヘタレ!」
「智裕ぉ!智之ぃ!こんな時間に喧嘩すんじゃないわよ!」

 母のゲンコツと怒号を食らって、智裕は明日から旅に出るのであった。

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